「十七歳の硫黄島」(秋草鶴次著、文春新書)
硫黄島で海軍志願兵として戦い、強靭な精神力で奇跡的に生き残った秋草さんが綴る渾身の書。米軍の硫黄島上陸前から、硫黄島玉砕の報の後2ヶ月も戦地を彷徨い、最期は意識不明となって米軍捕虜として生き残るまでを書いています。硫黄島でのことは、どんなに文章にしても本当のところは伝わらない(伝えることができない)と思いながらも、「玉砕」の一言で語られてしまうことに「耐えられない」という言葉は、ひたすらに重いものです。
どの頁を読んでも凄惨という言葉を通り越しています。自ら「人間の耐久性試験」と言うほどの有様は、現在の平和な世界に生きる私には想像だにできません。これを読むと、イーストウッドが描いた戦場は、あれであっても「綺麗すぎる」と思えてしまいます。市丸少将が「あたかも害虫駆除」と称した米軍による塹壕の掃討作戦。すなわち毒ガスと水、ガソリンと手榴弾による火攻めの阿鼻叫喚。苦痛に叫ぶ兵士を、敵に見つかるから黙れと怒鳴る上官。「お国のために黙ってやる」といって放たれる銃声。塹壕に響く「お母さん」「バカヤロー」の叫びと手榴弾による散華。この世に地獄があるならば、まさにそのままです。
生きて帰るとの意志のもと、左指を吹き飛ばされ、大腿部を貫通するほどの傷を負いながらも生還したこと。まだ生きることができた多くの若者たちが、死ななくてはならなかったということ。戦争の悲惨さでは片付けられない事実です。
米国はブルトーザとダンプで地下壕の上をまっ平らにし(地下には日本人が生き埋めにされたまま)、投光器が煌々と照らす砲撃の後など痕跡もない広場に大量の物資を運び込んでいったという記述は、戦争の一面を如実に伝えています。
擂鉢山の星条旗の欺瞞を描いたのが「父親たちの星条旗」でしたが、そこに日章旗が二度もはためいたということは驚くべき事実です。
「週刊文春 06年12月14日 コラム~本音を申せば」(小林信彦)
そういえば小林氏が「父親たちの星条旗」を絶賛していた同コラムを読んで、私はあの映画を観る気になったのでした。そして今回の「硫黄島からの手紙」に関するコラムを読んで再び成る程と思いました。小林氏は
この映画の実質的な主人公は<基本的に戦わないスタンスの男=西郷>だと思うとし、
西郷は兎みたいな奴で、それが戦争を経験してどうなっていくかを書きたかったとのイーストウッドの言葉を紹介しています。
西郷=二ノ宮和也の顔について蛇足的なことを書きましたが、実はいい演技しているんです、彼は。
歴史街道 1月号(12月6日発売)~硫黄島と栗林忠道
もうお決まりのような特集です。栗原中将が息子に宛てた絵手紙に、ほのぼのとすると同時に涙を禁じえません。それにしても、彼の描く絵、決して上手くはないけれど、素人のそれではありません。
アメリカに渡り、アメリカの国力を知悉していた栗林。日本陸軍にあって、珍しく合理的な精神を持ちえていた人物であったことは、ここでも伺えます。脅威を感じつつも惹かれていたアメリカに対し、銃剣を向けなくてはならなかったときの矛盾と葛藤はいかほどであったか。玉砕、総攻撃を禁じた彼でしたが、最後は「一人百殺」と言って総攻撃に討って出ます。自らが敵の雨霰と降る銃弾の中に先陣を切って突入した、その決意と悲愴。彼の意志は決して米国に勝つことではなく、一日でも米軍の本土空襲を遅らせて、日本人が疎開などをする時間を稼いだということ。まさに映画のように一人の兵も無駄にはできなかったのです。
キネマ旬報 12月号
イロイロな人が映画評を書いていました。映画評などほとんど読みませんから、誰のものか忘れました。印象的なことを拾っておきます。
イーストウッドは「正常な人間の理想や自分が正しいと思うものが崩れていったとき、人間はどうなるのか(ふるまうのか)」あるいは「どこか毀れた人間が、どのように再生するのか」ということに一貫して興味があるらしいです。彼は栗林中将と、ロサンゼルス・オリンピックの馬術で金メダルを取った西竹一中尉に「アメリカを見た」のだと。そういう合理主義精神を持っていた栗原中将が、何故にこのような闘いに殉じたのか。
この点は私も映画の中で、栗原氏の精神的な分断として違和感を持ったところです。イーストウッドは日本兵が自決したことが理解できなかったと言います。栗原の最期の闘いは、いわゆる玉砕覚悟のバンザイ突撃ではなく、ゲリラ戦のようなものだったとの記述もどこかで読みました。映画はで残念ながら、そう描いていません。もしかするとイーストウッドの中では、栗原中将の矛盾は解決していない問題なのかもしれません。もっとも、何でもが合理的に説明が付くとは思っていませんが。
「玉砕」「無駄死に」と言うには悲惨すぎる、「無謀で無意味な闘い」というのでは浮かばれない。人は愛国心のために殉じているわけでもありません。映画の中で「いつか君たちのような若者が居たことを、後世の人が思い出して称えてくれる」という言葉は、決して戦争の肯定に繋がるものではなく、当たり前のことであると思う次第です。