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2021年4月25日日曜日

渡辺省亭展 欧米を魅了した花鳥画 東京藝術大学美術館


4月25日から、東京は緊急事態宣言になるため、都内の美術館は軒並み閉館が決まりました。

昨日は駆け込みで、東京藝術大学美術館で開催中の渡辺省亭展に行ってきました。本来なら4月25日までが本展覧会の前期で、26日から作品を入れ替えて後期日程が始まるはずでした。



大変、充実の展覧会であり内容のとても濃いものでした。

青い日記帳のTakさんが書かれているように万人がいい絵だなと思える内容です。みなさん、絵を見ながら幸せな気持ちになっているのが分かります。

平凡で慎ましやかな生活こそが大事だと悟った今、まさに時代に求められるかの如く万人が好む渡辺省亭に注目が集まるのは自然な流れなのかもしれません。


2008年7月6日日曜日

バウハウス・デッサウ展

上野の東京藝術大学美術館で開催されている「バウハウス・デッサウ展」に行ってきました。大学時代に建築を学び、懐かしさもあってのことだったのですが、結果としては、今の自分の好みとは全く相通ずるところのない感性に「あてられて」いささか気分を悪くさえしてしまいました。

バウハウスという運動は、ひとつの時代の帰結としては避けて通れないものであったのだろうとは思いますが、ある時代の「実験的芸術」は今を生きる時代にあっては学究的価値はあっても一般的な鑑賞には耐えられない、貧相なものは貧相、神経を逆撫でされてしまいました。

バウハウスの授業での実習作品なども展示されており、デザインを勉強する若い人たちには興味深く写るのでしょう、しきりにメモを走らせている美学生が目に付きます。しかし私には、学生時代の経験とオーバーラップし、息苦しさと不器用さ以上ものを感じることができません。ましてバウハウス校舎などは「監獄」にしか見えません。グロピウスが設計した「デッサウ校舎の校長室」も、機能主義のシンプルさと表現はできますが、ちょっと好みではない。


とまあ、珍しく否定的です。しかし、美術館を後にして思ったのですが、私の感じた息苦しさは、もしかすると、ひとつの時代とか様式を打破して新たなものを打ちたてようとしていた、若い芸術家達の、すさまじいまでの探究心と熱意、内的な情動を表現するには自らの手の動き(ペン、模型、筆などのアナログな手段)しかないということに対する無意識の苛立ちのようなものを、展示作品から感じてしまったからかもしれません。彼らの手仕事から生み出される作品や工業製品は、彼らの時代の技術の先を確かに羨望しています。


現在は彼らが生きた時代とは比べ物にならないくらいに、表現技術は発達しました。しかし、そこからは、彼らが感じていたかもしれない、芸術と技術の限界を巡るような「苛立ち」は感じられません、技術の進歩のスピードが余りにも速いからでしょうか、あるいはあまりに豊かだからでしょうか。


開催は7月21日までです。

2004年10月24日日曜日

展覧会:「興福寺国宝展」

東京藝術大学 大学美術館で開催されている「興福寺国宝展」を観てきました。

阿修羅像で有名な興福寺は古都の奈良県を代表するお寺で、創建依頼、平安末期の戦火や落雷により幾たびも灰燼に帰してきました。鎌倉時代から復興がはじまり、堂宇の再建や造像がなされており、この復興の中で運慶をはじめとする「慶派」の優れた仏師が造像を担当しました。興福寺は平成22年(2010)に創建1300年を迎えるに当たって様々な事業が計画されており、今回の展覧会もその一環とのこと。
まあ、そういう面倒なことはさておき、パンフレットにある金剛力士像や無著菩薩像にお目にかかれるというので、楽しみにしておった次第です。

展示は大きく二つに分かれているのですが、何と言っても圧巻は3階の諸仏たちに尽きます。入って迎えてくれるのが、上に示している運慶の手になる国宝 無著菩薩立像(右)と世親菩提立像(左)です。


無著は五世紀頃に北インドで活躍した僧で世親とは兄弟。穏やかななかにすくとした威厳と敬虔さ、そして静寂さ、それでいて信仰心に裏付けられたゆるぎなさと力強さ。どこにも隙の見当たらない立像を目にしますと、思わず溜息がもれてしまいます。顔の表情といい、法衣の流れといい、全く持って木彫技術の素晴らしさには目をみはります。

完成当時はおそらく彩色がされており、現在私達が目にする像とは全く違ったものであったとは思うのですが、時代を超えて伝わる力には改めて感服いたします。

これ以外にも康慶作とされる円陣を組むように拝されて展示されている四天王立像にも、その迫力に圧倒されます。踏み潰された邪鬼たちの表情はノートルダムの悪魔を彷彿とさせます。こちらも当時は極彩色であったろうことが伺われ、当時の姿を思い浮かべながら憤怒の表情に魅入ってしまいます。

運慶の三男である康弁作の国宝 龍燈鬼立像(左)は、これまた珍しい像。四天王に踏み潰されてた邪鬼が立ちあがり、灯明を頭に支えているというもの。首の周りには蛇をまとっています。情けなさの中に愛嬌のある表情で、諸仏の中でもひときわ観覧者に人気を博しているようでした。筋骨隆々の小柄な体にフンドシ姿が何ともユーモラス、踏みつけられた邪鬼の矜持を感じます

パンフレットに示されている国宝 金剛力士像 阿形も圧巻の一言。正面から、側面から、背面から、さまざまな角度から眺めましたが、まるでロダンかミケランジェロかと思うような筋骨隆々の造形美。腰にまとった布に描かれた装飾も見事。

という具合に、仏像が好きな方には、けっこうたまらない企画ではないかと思います。そのほか地味ではありますが、紺地に金文字で書かれた経典(名前は失念)や春日版板木など、経典ファンも充分満足できる品揃えです。あまりに有名な阿修羅像が展示されていないのは残念でしたが「鎌倉復興期のみほとけ」というテーマですから、いたし方ありませんか。

それにしても、こんな展覧会でも結構込んでいました。NHKが宣伝したというせいもあるのでしょうが、老いも若きも仏像好きな方というのは多いのですね。

2004年4月19日月曜日

展覧会:東京藝術大学美術館:再考 近代日本の絵画

この展覧会は東京藝術大学大学美術館、東京都現代美術館、セゾン現代美術館が共同して企画したもので、19世紀末から100年にわたる日本の近代・現代の絵画を通して展示することで、日本の近代化のプロセスを再考し再構築し、日本の未来にあらたなひとつの展望を開くことを期待して開催されているものです。

朝日新聞でも紹介されていましたので、知っている方も多いと思いますが、私のお目当ては一重に狩野芳崖(1828-88)の「悲母観音」を観る事でした。

この観音像は、芳崖が死の直前まで描き続けたもので、かのフェノロサも絶賛した作品として知られています。教科書で観た事のある人も多いと思います。

絵画も音楽もそうですが、複製と実物というのは似て非なるものであるのですが、この絵画もまさにそういうものでした。絵画というのも一期一会みたいなところがありますから、観られたことを素直に僥倖であると思わないわけにはいきません。

この絵は結構大きなサイズなのですが、その慈愛に満ちた光と輝きは、宗教心が無い者であっても捕らえて放さない魅力に満ちています。

観音様というのは、中性または男性として描かれますので、顔には聖徳太子のようなヒゲがあるのが、違和感を感じますが、悲母観音の足元から泡のように誕生した赤子の笑い顔が愛らしく独特の雰囲気を醸し出しています。慈悲に満ちた観音の表情と、非常に細やかな描写が見事です。色使いも下側の青色から上へ向かって金色色に変化してゆく様など(左の絵では到底伝わりきらないのですが)気高ささえ感じます。

芳崖も素晴らしかったのですが、展示室に入ったとたん圧倒するように聳え立っていた竹内久一(1857-1916)の「伎芸天」、これも凄かったですね。

この作品は、シカゴ・コロンブス世界博覧会(明治26年)で日本の伝統的木彫芸術を世界に見せるために作成されたものでしたが、損傷が激しかったため長く展示できず、最近修復されて、ようやく日の眼を見るようになった作品です。(すごく大きいです)

日本の伝統的な木彫の流麗さ、華麗さ、そして力強さ、いやどこを取っても、前から見ても、横から見ても、そして後ろから眺めても、すくと立ったその威容は感嘆するばかりで声を失ってしまいました。修復された色彩も実に落ち着いた派手さで惚れ惚れします。

これらの作品は、東京藝術大学が所有している作品で、まさに芸大は「お宝の山」なのでしょうね。
その他には、いくつかの日本画や、黒田清輝、岸田隆盛、和田三造、佐伯裕三などなど、中学時代の教科書で観たような「名画」、西洋絵画の亜流のような絵画などが多く展示されていました(図録を買っていないので詳述できず)。

こうして眺めさせてもらいますと、いかに近代日本が貪欲に西洋の文化や技巧を取り入れてきたがが如実に分かるような気がします。憧れと驚きに満ちながら、新たな世界を開拓してゆく様は、果敢にして勇敢であるといえますが、やはり一方で、その変化があまりに性急であり、消化しないまま表面的にだけ次々と西洋文化を吸収したフリをしていただけではなかったうかと、思わずにはいられませんでした。