角川武蔵野ミュージアムに行ってきました。昨年11月から二度目の訪問。
隈研吾氏がデザイン監修、圧倒的な石の塊の建築です。
今日、行ってみると、外壁になんと、鴻池朋子さんの作品が掲示されていました。「武蔵野皮トンビ」という題名で、武蔵野文化振興財団主催の《コロナ時代のアマビエ》プロジェクト第2弾作品だそうです。
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
角川武蔵野ミュージアムに行ってきました。昨年11月から二度目の訪問。
隈研吾氏がデザイン監修、圧倒的な石の塊の建築です。
今日、行ってみると、外壁になんと、鴻池朋子さんの作品が掲示されていました。「武蔵野皮トンビ」という題名で、武蔵野文化振興財団主催の《コロナ時代のアマビエ》プロジェクト第2弾作品だそうです。
★以下は個人的なメモです。作家さんを敬称なしでの表記はお許し下さい。
今まで何度か見た絵も多い。
特に初期の三越とか六本木の絵など
練馬美術館で見ているものも多い
銀座画廊でやった、東京俯瞰図は今でも描き込みが増えているのだろうか?
付り澱エンナーレの展示は上野の美術館で見て以来だが
彼が、いちおうは現代美術作家であることを思い出させてくれた
今回の圧巻は、ドナルド・キーン氏の本の挿絵だろうか
こういうチマチマ感とマンガはうまい
親鸞はイマイチな印象
こういうイラストを五木寛之氏が許していたか
総じて、会田誠と比べても仕方ないが
彼の絵にはユーモアを通じた若干の批判精神はあるが
毒ではなく
強烈な会田の個性と才能とは対極にあるような
会田も確かに絵がうまいと感じたが
山口の前ではうまさが彼の技量として確立できていないというか
彼の実態を表すのは現れた画にあるのではなく、
いかようにも変化自在な
(いちおう技術に裏付けられた)表現のパフォーマンスであるということ
会田の実態は絵がすべてみたいな
すごいことになりそう。RT“@mizumaart: 待ちに待った朗報の発表。私の目の黒いうちは実現しないと思っていた会田誠の美術館での個展がついに決定。先の話しですが、(2012年11月17日〜2013年3月31日) 会場は森美術館‼
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) October 31, 2011
日本の恥部や暗部に突き刺さり、批評精神と毒の
ブログ「弐代目・青い日記帳」で紹介のあった、MIZUMA ART GALLERYで開催されていたグループ展『ORDER RECEIVED』に行ってきました。会田誠、池田学、鴻池朋子、天明屋尚、山口晃の5名の作品が、上目黒の画廊にひっそりと展示されていました。(MIZUMA ART GALLERYーやグループ展の概要はTakさんが詳しくレビュしています)
平日の17時頃に行ったためか(当然、仕事を早々に切り上げてです)、観覧者はほとんどおらず、それゆえにマジマジと食い入るように、山口さんや池田さんの作品を眺めることができました(ああ、幸せ)。
私の場合、目当てはやはり山口晃氏です。今回は昨年の練馬区美術館でも展示されていた「成田空港」を初めとして5点ほどが出品されていました。間近で見ると、絵の緻密さと構成力に改めて驚くばかり。本当によくもまあ、チマチマと、あんなに描けるものです。人物がわずか2.5cmくらで表現されているのです、1/70スケールといったところ。凝った仕掛けもあちこちにありますから、近づいたり拡大したりして観なくては面白さが半減するんですよね。深い精神性とか、いやらしい批評性は感じられず、ただひたすらに「細かい」「メカメカ」「チマチマ」に徹しているところがすばらしいです。
チマチマ描くといえば、池田学さんもしかり。動植物や人物を、細密なペンで描くその手腕は職人的と言えます。そして、そこには絵でしか表すことの出来ない対象の再現と再構築があります。
会田さんの作品(写真)も奥の部屋に展示されていましたが、相変わらず毒の強いこと・・・。しかし会田氏とて、彼の世界観を構築するために、チマチマとした作業を組み立てているのだなあと思うと、作品としての毒とか逸脱とか攻撃性も、製作行為という偏執的執念とクソ真面目さの産物であり、そこまでして表現せざるを得ない作家の内実に、見ていて息が詰まるような思いになることも否定できないのでした。
こうしてみると、画家とかアーティストってのは、常人には及びもつかないような想像力と根気を武器とし自分の好きな世界を造っていくという、自己中心的にして単純(?)な快楽原理に支配されている生き物であるなあと、つくづく思い、またしても軽い羨望と疲労感にも似たため息を吐いてギャラリーを後にするのでした。
上野の森美術館で開催中の「アートで候 会田誠・山口晃展」を観てきました。名前を聞いても分からないかもしれませんが、どちらの作品も、観れば「ああ、あの」と思える作家です。お馴染みの弐代目・青い日記帳とはろるど・わーどに展覧会レビュがありますので、興味ある方はそちらからどうぞ。
私はどちらかというと、常識的な人間ですから、山口晃氏のファンでありまして、彼の作品を目当てに行ったのですが、行ってみれば果たして、会田氏の毒気にすっかりやられてしまいました。
会田氏の「毒」は結構危険です。良識的な見地からすれば、「エロ・グロ」とか「猟奇的」であり、とても「良い子」にはお薦めできないシロモノです。しかし、かつては「芸術」と呼ばれたこの領域は、もともと「毒」を含んだものであり、時代への擦り寄りと反発という相反する中から、新たな表現を生み出していた筈ではあります。
会田氏の作品からは、「ふざけた輩だ」という思いと、それでも作家としての自我に非常に従順で真摯な姿を感じます。彼の残虐にして美しい作品は、それを観る人の眉間に皺を寄せさせつつも、鑑賞者の中の何かを確認させ、そして崩壊さる力を持っています。まさに時代と自分が透けて見え、「この世から背広を着たサラリーマンを抹殺したい」という凶暴なる欲求さえ隠そうとしない、ナイーブな会田氏の目線が、観る者の奥深いところを突き刺すのです。会田氏の作品を「好き」とは言えないまでも理解を示したならば、自らがいびつな現代に生きる個であることに抗えないことの表明であり、後ろめたい快感と、その反面として自責と、そして開き直りさえ覚えるかもしれません。かように良識人は会田作品を前に振幅を大きくし、作品を認めはしても、条件付で全面肯定を留保し、そして分かる人にだけ語りかけゆくのではないかと思うのです。ですから、会田氏を熱く語る人の言葉は、かなりベタにして捩れているのではないかと予想します。
一方、山口氏の作品には、そういった危険な毒はありません。なんたって、天下の都営地下鉄や三越が採用したがる画家なんですから、良い子も大人もオバチャマも、みんな山口氏の絵が大好きです。大画面の細密画の前に立ち止まり、作品の細部を指差し語り合い、微笑みます。そして、これまた「チマチマしたものが好き!」「トーマスを探したい!」という、抑え切れない衝動を解放させます。日本画的鳥瞰視線から、東京という都市と現代の日本と歴史を再構築させ、その違和と同質に驚きと快感を感じます。山口氏の徹底したディテールは、絵を観る楽しみ、再発見する喜び、眼の享楽を素直に与えてくれます。
��階の展示場だけでなく、2階の「山愚痴屋澱エンナーレ 2007」も圧倒的に面白くて、例えば標識シリーズなど笑いをこらえるのが困難な程だったりします。今回の展覧会の為に描いた山口作品の中で最大規模の「渡海菩薩」もありますので、見ごたえ充分な展覧会です。
それにしても、日本の美術界も変わったものです。会田氏は1965年、山口氏は1969年の生まれ、マンガやアニメで育った世代です。私は、極めて絵の上手い少年マンガ家や少女マンガ家と、イラストやアートの違いというのは一体どこにあるのだろうと、マンガを読みふけっていた頃は随分と悩んだ*1)ものです。例えば少女マンガならば70~80年代の「りぼん」で活躍した内田善美。美少女を描かせたらナンバーワンの江口寿史。あるいは、圧倒的な絵でマンガ表現の常識さえ変えた大友克洋。水墨画を思わせる驚くべき技巧の鄭問。これ程の筆致*2)がマンガでしかないこと、なぜ、現代を切り取る先鋭的なアートにならないのかと。
そんな疑問を、やすやすと、この二人は越えています。まあ、しりあがり寿だってアート*3)になる世の中ですから、美少女を描くのが好きな会田氏や、チマチマした都市風俗を書くのが好きな山口氏が受容されるのも時代なのかなと思ったりします。
あと、山口氏を好きな人と若冲を好きな人って、かぶるような気がしていますが、takさん、どうなんでしょう?
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