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2005年5月4日水曜日

JR西日本の事故とpunctuality

JR西日本の事故に関してNorimitsu Onishi氏(ネット界ではちょっと有名な記者ですが)のN.Y.Timesの記事を紹介しながら、下記のように書く擬藤岡屋日記のFlamandさんの意見に頷く点はあるものの、
我々および社会のpunctualityに対する信仰に近いdemandがある限り残念ながら今後もこのような悲劇を避けることは難しい
とするならば、解決の糸口は果たしてあるのかと暗澹たる気分に襲われることも否めません。

秒単位の巧緻なシステムを作り上げていた旧国鉄時代からのダイヤは、日本の一面を象徴していたはずです。punctualityを導くような勤勉さとか真面目さ、システムに対する厳格さが日本の文化的特質であり、ひいてはこれが近代日本を作り上げて来た力であると信じてきたところがありますが、実はそれは、多大なる犠牲と無理の上に成立した幻想でしかなかったのか、あるいは社会がいつの間にか変質してしまったのか、いや、そもそも、そんなところにまで事故の遠因を求めるべきなのか。それでは亡くなった方々はとてもでないが浮かばれまい。ということで、拙い思考は出口を失います。

事故当日のボーリング大会と事故車に同乗していた運転士の行動に対する批判についてもちょっと考えています。彼らを糾弾するマスコミや一部世論の嘘寒さは別としても、改めて「共同体における当事者意識」のスコープについて考えさせられる結果となったことは確かです。どこまでを「他人事」であると判断するかは、事の重大さのとの天秤において判断されましょうが、その判断基準とて個人の属する共同体の規律や個人を形成してきた文化的なものに左右されるのではないかと思うのです。

今回の事件は人命がかかっているため、最優先しなければならない事件であったと思われますし、JR西日本には弁解の余地は余りないようには思えるものの、それでも事故の責務とその場の責務を考えた場合、取るべき行動を冷静に判断するのは極めて困難ではなかったかと思うのです。逆にその場の状況を見て咄嗟に自分が出来ることを行おうすることが、意識無意識のうちに何ものかに阻害さていたのだとするならば、個の責務を免責するわけではないものの、社会に何かが欠損していると考えるべきなのでしょう。

先のpunctualityに象徴されるシステムへの無条件な迎合や厳格さが、上記の要因の一つであるならば、やはり暗澹たる気分は深まります。陳腐な日本文化論みたいになってしまいましたが、事故の原因もJR西日本社員の当事者意識の薄さも、確かに深いところの根は同じなのかもしれず、事故が見せ付けた日本社会の断章は、またしても生じた集団的袋叩きと連帯責任を問う声も含め、あまりにもグロテスクであると言えます。でも、残念ながらk-tanakaさんの書かれるこういう主体性のなさをみると日本人って前近代的な民族だなあと思うし、これこそ天皇制が生きながらえている理由なのだろう。という達観にまでは到達できない。

事故にあわれた方におかれましては、ご冥福を心よりお祈り申するとしか書きようがございません。

2003年7月10日木曜日

長崎の幼児投げ捨て事件などに思う

またしても信じ難いと世間を言わせるような事件が起きた。幼児を全裸にし悪戯をしようとし、騒いだのでとっさに駐車場から20m下に突き落としてしまった犯人が、12歳の中学1年生であったという事実。

この事件を聞いて、かつての神戸市での事件を思い出す人も多いだろう。少年法の改正を主張する人も出てくるかもしれない。しかし、そうではない、おかしくて、間違っているのは、自分たち大人の世界なのではないかと自問することはないのか。

少し前に起きた、早稲田大学でのレイプ事件もしかりだ。一部の大学生が学生であることを放棄して久しい。それをもはや誰も奇異なこととは感じない、そうして学生であることを放棄した者も、この不況下ではあるものの、ある時期になれば社会に旅立つ。

ことは12歳の少年や大学生の話ではない、欲望を制御できないままの子供のような大人たち、その大人たちを見て育つ子供たち。親が厳しく教育すればよいと言うものでもない。社会からの情報を遮断して、隠匿生活でもしていれば別だろうが、いやおうなく、様々な刺激情報が流れてくる。刺激を再生産し消費するように仕向けているのは、はからずも大人たちだ。

早稲田の事件や長崎の事件について糾弾したり背景を書く週刊誌が、その自らの頁で、ほとんどポルノまがいの記事も載せているという矛盾と破廉恥さ無節操さ。

自分で自分の脚を食う蛸のように、自らの方向性を食いつづけているツケが、ある時期に噴出してくる・・・そんなやりきれなさを味わう。12歳の少年にしても、学生たちにしても、どこで何が狂ってしまったのか、考え始めると事件の根は深いと思わざるを得ない。



2002年10月28日月曜日

【風見鶏】 「Health Official Says Gas Killed 115 Hostages in Moscow」

10.28
The New York Times
By BEUTERS
Filed at Oct.27 2002 4:10 p.m. ET
Filed at Oct.27 2002 6:48 p.m. ET
朝日新聞 10.28朝刊

モスクワでのチェチェンゲリラによる劇場占拠事件は、ゲリラが要求貫徹のために人質を殺し始めた直後に、特殊部隊(Alfa Troops)が強行突入し解決されたが、115名もの人質の命が失われるという悲劇的な結果となった。これが「解決」と言えるのかは疑問だ。テロリストに対する容赦のない強行手段は、新たな悲劇のトリガーのようにさえ思える。

ところで、作戦の決め手となった催涙ガスについてであるが、それは無能力化剤の一種で(Anaesthetic)、外科的処置に使う麻酔のようなもらしい。しかし使用量をふやすと、意識の喪失、身体機能の不能、血流異常などを引き起こすものであるとらしい。ロンドンの、security expert Michael Yardley は、アメリカ軍がベトナム戦争において最初に使った'BZ'(3-キヌクロジニルベンジラート)ではないかと NY Times は指摘している。

また同誌は、ロシアは今のところ、使用したガスについて言及を避けているが、特別に禁止されてはいないものの、所有していないはずのものであり、グレーゾーンにあるものだとしている。イギリス王立大学の麻酔専門家 Dr.Peter Huttonは「he knew of no medical anaesthetic gas that could have been used in the way tha gas was used in Moscow.」とし、「"It's almost certainly something that's developed, owned, and used only by the military"」と述べている。

ロンドンを拠点の防衛コンサルタント Paul Beaver は、ミリタリーガスには必ず解毒剤があるものなので、軍が必要な措置を準備しないで突入したのは明らかな計画の不備だと指摘している。

朝日新聞はガスはジアゼパムであった可能性も指摘している。ガスのことばかり引用してしまったが、いずれにしても、かなり強硬な解決であった。チェチェン問題そのもののロシアの対応、および今回のテロ対策のありかたなど内外から厳しい追及を受けることは必至かもしれない。

HIYORIみどり 「人質をゲリラが殺し始めたから突入したっていうけど、テロリストが殺す以上に政府側が殺してしまうことになったような気がしないでもないわ・・・痛ましくて記事を読めないわ」
KAZAみどり 「ゲリラは爆弾を腰に巻いていいていつでも導火線に火を付けられるようにしていたわ。人質の救出のためには一刻の猶予もできなかったという状況だったようね。劇場ごと吹き飛ばされた場合を考えたら、最悪の事態は回避できたと考えることもできるかもしれない。」
HIYORIみどり 「他に方法はなかったのね」

KAZAみどり 「説得には応じなかったし、プーチンもチェチェン政策を変えるつもりはなかった。歩み寄るところは最初からなかったわけよ。でも毒ガスのようなものを使ったことを含め、作戦のあり方は人道的にも問題がありそうね。」
HIYORIみどり 「逃げるゲリラを後ろから撃ったという目撃談も語られ始めたらしいわ。人質の方々の精神的なショックも考えると、キメ細かいサポートがいるわね。」

2002年10月17日木曜日

北朝鮮拉致被害者の帰国 2

拉致された方々について、次々に情報が流されている。一挙一動が全国民の目に晒されるような感さえある。マスコミは彼女あるいは彼らが何を食べ、何を話したか全て知りたがっている。

何かあれば家族会が記者会見にて話す。郷里に戻っても歓迎会と記者会見が用意されている。こういう状況は異常ではないのだろうか。

たとえば15日の帰国の日の各社のTVニュース。彼女あるいは彼らから得られる情報が微々たる物であったため、各局は再び今まで何度も何度も目にした、被害に遭ったときの場所や状況を、壊れたレコードのように繰り返し垂れ流した。ある番組は、彼女あるいは彼らの24年前と今の写真を拡大して並べ、番組の間中見せてくれるという親切さだ。24年間の時の重みを感じさせたいのだろうが、そんなことを、貴方ならして欲しいだろうか。貴方が今、幸福な状況にあるとしてもだ。帰国以前あるいは生死がわからない間は、24年前の写真は「記号」でしかなかった。しかし生身の人間が現在したその瞬間、それは「記号」なんかではなくなる。

こういう報道姿勢に違和感を感じないだだろうか。

ここで新潟の少女監禁事件(*)を思い出す。小学4年生だった少女を9年間に渡って監禁していたという異常な事件だ。あの事件では、被害者の人格と今後の社会復帰を考えて、報道は彼女に対してある程度の距離を置いた報道をしていたと思う。

その事件と、同じだとは言わない。でも、と感じるのは私だけだろうか?

結論から言うと、しばらくはそっとしておいてあげたいということだ。彼女あるいは彼らから、我々は感動をもらわなくても十分である。私たちは彼女や彼らに比べれば、はるかに安全で幸福な環境で、さまざまな刺激を受容しながら生きてきている。だから、彼女や彼らに悲劇の主人公のような役回りまで果させたくはないと思う。北朝鮮でも日本でも良い、彼女あるいは彼らが望む方法で、好きな場所で、普通に生活してくれればそれでいい、その結果を私は積極的に知りたいとは思わない。ましてや、日本と北朝鮮関係を変えて行くための役割を果すということは、本人の意志があれば別だが、酷すぎはしないだろうか。

ただ、北朝鮮問題、戦後の問題など、私には多くのことがわかってはいないのだが・・・

(*)2000年1月、9年前に失踪した当時小学校4年生の少女が9年2カ月ぶりに柏崎市で発見された。事件が起きた同県三条市から、わずか数十キロ離れたところである。少女は、誘拐したSex Offenderの男の家でずっと監禁生活を強いられていたのだった。男と少女は2階に住み、他人を一歩も入れず、階下には男の母親が召使同然の状態で住んでいた。少女は19歳になり、男は37歳になった。少女は直ちに親元に帰されたが、足掛け10年に及ぶ軟禁生活が彼女の今後の人生にどう影響していくのか。さらに、なぜこの男が警察の捜査網から漏れていたのか。野放しのSex Offenderの現状とともに、二重の意味で国民は大きな衝撃を受けた。


2002年10月10日木曜日

悪意を前提に生きるということ

ネットでの書き込みを読んでいると、ネットで嫌な思いをしている人が意外に多いようだ。インターネットをやめてしまった人もいれば、自分の文章を利用されてしまっている人もいる。不特定多数を相手に公開している以上、HPの悪用という懸念はつきまとうし、迷惑メールも覚悟しなくてはならないし、ウィルスやハッキングも日常茶飯事だ。「ネットに存在する悪意」を前提にネット生活を送るということは、もはや常識であろう。

これはネット生活ばかりではなく、実生活においても同様の状況なのだと思う。以前は考えてもみなかった「悪意」を意識するということは、特に今までそういう意識のなかった私達には少しばかり気の重い作業である。特に性善説の立場を取る人には「悪意」を意識することには罪の意識さえ伴う。事故防御として当然と言われればそれまでなのだが。

最近の事件から感じることは、「悪意」の質が変わってきたように思えることだ。例えば少し前に起きた札幌西友元町店での偽装客問題。偽装肉を販売したと言うこと自体、販売行為における「悪意」であるが、その悪意を犯している者たちが、客に対しては「善意」を期待していたというのは皮肉な話しである。(売っていたのは皮肉ではなく牛肉だが)

犯罪者とて自分達の罪を棚に上げ、客の性善説を信じていたわけだ。そのようなバランスがもはや崩壊していること、更には自分達の悪意を、悪意とは感じていない倫理観の崩壊ということもこの事件は露呈しているように思えた。

ブッシュのイラクへの強行姿勢も、北朝鮮拉致問題にしても、相手国の「悪意」を前提にした政策が前面に打ち出されている。攻撃される前に撃つというのは鉄則ではあるにしても、別の方法がないものかと思わざるをえない。特にイラクへの強行姿勢にはブッシュと石油メジャーのつながりもちらほら見えるため、さらに気分が悪いのだが・・・

モラルハザードとも呼ばれるこれの意識の変容が、経済や教育と深い関わりがあるのだとしたら、暗澹たる気分は、さらに晴れることはない。

2002年5月26日日曜日

中国領事館亡命事件で考える

福田官房長官と小泉首相が、野党民主党の中国領事館亡命事件の調査結果を「自虐的過ぎる」と称した。真実を追求する報道、調査が何故に自虐的なのだろう。この発言を聞いたときに、もはや小泉=福田内閣はファッショではないかと耳を疑った。「自虐的」という言葉で思い浮かべるのは、「新しい歴史教科書をつくる会」だが、「自虐的」とは一方的過ぎる見解に思えた。

中国にODAとして莫大な額を投入しながら、中国に実は蔑視されていることここそ自虐的だと指摘する週刊誌もある。今回の事件は、TVカメラがなければ闇の中だった。主権だの領事館の独立性だの言う前に、日本の外交力のなさを露呈させたことになる。恥ずべきなのはどちらだろうか。

しかし、今回の事件は少し感情的過ぎると思ったことも確かだ。23日の朝日新聞「記者は考える(百瀬和元 編集長)」によれば、今回の一件は主権侵害とまではいかず、『外交施設の「不可侵権」を「国家主権」に置き換えて論ずるのは乱暴すぎる』と書いている。領事館に「治外法権」は存在していないのだ。改めて指摘されてはっとした。

更に、『国際法では在外公館が駆け込んだ亡命申請者を保護する権利(外交庇護権)は確立されていない』と、ペルーの「アヤ・デラ・トーレ事件」の名前を引用し、『外交施設による保護は人道的な配慮から「不可侵権」を盾にして成り立っている』と説明している。

今回の事件で繰り返し報道される、他国の領事館に集団で駆け込み、亡命に成功して歓喜している外国人の姿を見るにつけ、違和感と不思議な思いを抱いた人も多いだろう。彼らにとっては人権と生存をかけた行為なのだろうが、何か滑稽なゲームを見ているような違和感だ。

その問題はさておき、中国領事館の事件は亡命問題に冷淡な日本政府の態度も浮彫りにしたことになる。日本も難民や亡命者を受け入れているのだろうが(細かい数字は調べていません)、国境を接している欧州諸国などとは実情が異なると思う。

大量の外国人労働者が流入したドイツでは多くの社会問題が発生した。26日のNHK日曜討論(9時から)でも、難民を受け入れるなら相当の覚悟が必要だと主張している議員がいた。たしかにそうだ、しかし、それらを受け入れた上で自国の難民政策について考えることが大人の外交で、国際社会の一員としてのあり方ではなかろうか。日本は「異質」なものとの接点があまりに少なすぎ、今でも鎖国をしているのかと思うときもある。有事法制のあり方も、国際社会の中での日本を考えるよりどころになってはいるが、欧米よりの政策だけが正ではなかろう。

「甘い」とか「理想論」と言う人もいるだろう。「では具体案を出せ」とも反論するかもしれない。しかし、私は政治家ではない(急に開き直る)。そういう世界観を示す指導力を持った政治家はいないのだろうか。


2002年5月15日水曜日

「政治家秘書的なるもの」~鈴木宗男の側近逮捕

鈴木宗男の側近と言われた外務官僚である佐藤優・前国際情報局主任分析官ら外務官僚2人が背任容疑で逮捕された。 鈴木宗男の疑惑解明に向けて、更に外堀が埋まってきたという感を受けるが、一方で何故に「佐藤優的なるもの」が生まれたかとを考えざるを得ない。(佐藤優に限らず、いわゆる「政治家の秘書的なるもの」ということだが)
彼は鈴木という権力の元に自分の能力を発揮し、成果を得る中で彼自身も各方面への影響力を拡大させていった。彼の影響力の根源がどこにあるのかといえば、利益誘導型の政治家本人に行きつくことは間違いない。 5月15日の日本経済新聞社説で、
鈴木議員の威光を笠(かさ)に着て外務省内で権力を振るい、その意向を実現するため奔走したのが、逮捕された佐藤前主任分析官らである。幹部職員も、その行動を放任し、かえって鈴木議員の意に添うよう部下に指示していた実態が外務省調査で浮き彫りになっている。
と説明している。ここの斜体部分を替えて読んでみると、全ての不祥事に当てはまるように思えてしまう。政治家のみならず一企業内においても、自らがいつ「佐藤優的なるもの」になってしまわないとも限らないのだ。
おそらく、自分がそのような存在になってしまっていることは、「組織を俯瞰する外部からの眼」を持たない限り気づくことはないのだろう。それが組織風土というもののやっかいさだ。
蛇足だが、今回こそは外務省は鈴木宗男問題に切りを付けたいのだろうが、「外務省の調査で浮彫り」って、内部調査では浮彫りににはならないんですよね。

2002年3月8日金曜日

食品業界の不正に関連して

食品の信頼性と安全性がこのところ音を立てて崩れ去ってしまった。雪印食品の牛肉ラベル改竄事件にはじまり、最近の全農チキンフーズの事件まで、あれよあれよと言う間に多くの不正が消費者である我々の目にさらされることとなった。

監督官庁である行政の責任も問われなくてはならないし、食品の信頼性を保証するシステム上の欠陥も問題にしなくてはならないだろう。食品においてもトレーサビリティの確保などが、今より厳密に求められてゆくものだろう。

しかし、システム欠陥が明らかにり、形として是正されたとしても、それを運用する企業と人のモラルが欠陥していては、絵に描いた餅以外の何物でもない。

今日本が直面している最大の問題は、モラルハザードということなのだ。ではなぜ「勤勉」という「幻想」のもとにまとまってきた「日本人」がかくも堕落してしまったのだろうか。その原因を突き詰めることは、日本の将来を占う上で最も重要な問題だと思う。何も、食品業界だけの問題ではないはずなのだ。

モラルハザードの背景としては、競争力の弱くなった国内産業という問題もあるだろう。高コスト体質から脱却できず、中国、韓国の追い上げなどに追われている姿もだぶる。はたまた、デフレの中での消費者の低価格志向や、消費の二極化という構造にも考えるべき点があるのかもしれない。

企業は不況化にあっても社員や株主のために収益を上げなくてはならない。去年と同じものを今年は更に数%売値を下げて販売しなくてはならない。しかし品質に対する要求は、逆に高くなる・・・・かつては、工業製品においては、そのことが技術開発と技術革新により「安く良いもの」という循環により日本の技術力や信頼性を高めた。おそらく、農業にしても同じような循環があったのではないかと推察する。今は、逆にこれが悪循環となっているのだろうか。モラルハザードの背景がこればかりではなかろうが、企業人として考える点は多い。

2002年2月14日木曜日

 「高層マンション条例、国立市に4億円支払い命令」に思う

気になるニュースが日経新聞HPに掲載されていた。それは、明和地所が、景観を理由に高層マンション建設を妨害され利益を侵害されたとして、東京都国立市を相手に起訴していた件である。東京地裁の判決は「「景観保持の必要性を過大視し、利益を違法に侵害した」と述べ、市に請求通り4億円の支払いを命じた。」というものだ。

このニュースには少なからず驚きを覚えた。行政側がこの種の判決で敗訴するということも異例のことであるかもしれない。もっとも、この記事以外に背景は知らないので、報道されない以上の事柄があるのだろう。

札幌市においても、円山公園周辺の景観を阻害するとして、いくつかのマンション建設が留保されたり、高さを見直し建設が進められたということは記憶に新しい。最終的には、デべ、行政、地域住民の三者の間で妥協点を見出しての建設ではあるが、デベロッパーとしては想定していた利益を得ることができなかったという不満は残っているだろう。

日本においては、都市景観に関する規制はあってないに等しい状況である。西欧のように古い街並みを維持しようという考えは、なかなか根付かない。それは文化や国民性にまで波及する問題かもしれないため、いまはそこまで踏み込まない。

しかし、我々の生活する環境や景観として何が一番よいのか、守らなくてはならないものが何なのかを論議することは難しい。景観論も時代により変遷を辿ってきている。今回の判決も、正しいとか間違っているとかいう感覚よりも、いまの我々が何に重きを置いて生活しているのかということの現れのように思えるのだ。


先に東京都国立市の高層マンションの地裁判決について書いた。2月14日の朝日新聞(夕刊=首都圏では朝刊か?)には、もう少し詳細な事情が紙面に述べられていた。

それによると国立市は、同建築物を「違法建築」と呼び、今まで何の規制も無かった地区に、突然高さ制限条例を設けたものらしい。それにより、地価やイメージが下落したとのことである。

これだけを読むと、確かに行政としては慎重さに欠き性急な判断であったと言わざるを得ないかもしれない。付近にどの程度高い建物が存在するのかは、当地を知らないので判断できない。判決では、地域住民を含めて利害関係を明確にしないままの条例ということにも言及しているようだ。

それでも思う。健全なる環境や行政主導ということに関してである。今はこれ以上はコメントができないが・・・

というのも、この問題は非常に複雑なようで、昨年12月、東京地裁の別の部では住民訴訟に対して「違法建築物と認定」する判決を出しており、その点において、今回の判決とぶつかるものである。更に、明和地所の条例の無効確認の訴えは却下しているのだ。

実は、この明和地所問題に関しては建設反対派によるHPが立ちあがっている。少し巡回してからまた考えるとしよう。


この問題に関し更に、河北新聞社のサイトを読んでいると、市長の以下のようなコメントが掲載されていた。

「歴史的に積み上げた景観は守らねばならない。地域づくりに貢献しない企業は淘汰(とうた)される」

一見正しい意見である。しかし、利害関係、行政方針、文化歴史観など多くの要素を考えると複雑な思いでコメントを読まざるを得ない。「景観論」「都市論」というのは、私の学生時代のひとつのテーマでもあった。今は学生時代のように甘いユートピアを叫ぶことはできないものの、どこか歯車の食い違いに違和感を覚えるのだ。


2002年1月30日水曜日

失望多きことかな

このごろ失望することばかりだ。子供たちに今の政治状況をどのように説明すればよいのか。小学生の息子は、完全に馬鹿にしきっている。

そこで大橋議員の議員辞職だ。詳細は分からない。今回のNGO騒ぎでの小泉首相の対応の責任のなさ、民主党の小泉支持に対する路線転換に関する説明のなさ、党としてのふがいなさに嫌気がさしたから、というのが表向きの理由という。そのことには同意するものの、「それでも」と思う。彼の政治理念は何だったのか、民主党に何を期待していたのか、そもそも議員に立候補する前に、冷静なる政党や政策分析があったのだろうかと疑問を感じる。41万票の政治責任を何と考えるのだろう。

結局、彼はただの野次馬的に好きなことを評論するだけの輩であったということか。彼の今後の政治姿勢次第では、私は彼を信用することがもはやできなくなるだろう(議員を辞職したのだから政治姿勢も何もないのだが)

断っておくが、詳しい本当の事情はわからない。しかし政治家には、明確なる説明責任がある。それを支持者に納得する形で示せないならば、政治家としての資質はない。(今の日本の政治化にはほとんどその資質がないようにも思えるが)私は新聞報道だけでは彼の真意を理解することはできなかった。このままでは議員になったのも金持ちの気まぐれとしか思えない。

ここ数日の政治状況の混乱や大企業の不始末(雪印食品のラベル張替え事件)を、いまの子供たちはどういう目で眺めているのかと不安になる。冒頭に述べたが小学生の息子でもうんざりしている。ばかばかしさと無責任、これが大人社会であるとしたら、冷淡で無関心な層が増えることは、大人たち自らが撒いた種でしかない。悪い土壌には良い作物が育つのが難しい。同じ箱にひとつ腐ったりんごがあると他のものにも影響する。こういう社会で、まっとうに正しく生きることの意味と力、未来への希望や政治への信頼、安全の重要さをどうやって教えるといいというのか。

ましてや海外の識者が日本を見た場合、日本売りが加速するのもむべなるかなである。

2001年10月19日金曜日

狂牛病と安全宣言

狂牛病に対する安全宣言が出された。「世界一厳しい基準」と自負しているらしいが、果たしてこれを信じることができるかと問われれば、首を傾げざるを得ない。

そもそも、狂牛病を日本に発生させてしまった行政責任、急場しのぎ的な対策など、どれをとっても消費者である私たちが心の底から「安心」できるようなものではない。「全数検査」というが、今までは行っていなかったのに、どうやって人まで含めてこれだけ期間に体制を整えることができたのか。検査方法は完璧かも知れないが、それを実施する人の教育は十分なのか、今の食肉解体方法や肉骨粉の餌の問題も解決されたのか、はなはだ疑問が多い。

安全という言葉と、わけの分からない牛肉食べようキャンペーンを見せられた日には、私たちが何を不安に思っているのか彼らは気付いていないのだろう、と思わざるを得ない。

最近の小泉首相の自衛隊派遣に対する答弁を聞いていても思う。はぐらかしと論理の飛躍、何かばかにされているような気になって、情けなくなる。結局私たちは信用のおけない政府のもとにいて、いったい誰に守られているのだろうか。



2001年9月25日火曜日

狂牛病とテロ

公私忙しく、ニュースをじっくりと熟読している時間がない。

思ったことをメモる程度に今回は留めるが、狂牛病である。いままでは遠く、ヨーロッパの話であるという認識しかなかった。日本は安全なのだと、過信していた。

しかし、今回の狂牛病の発覚により、世界の中で日本だけが特別ではないことを知らされた。

これは、アメリカへのテロ問題についても同様の認識を持たねばならないことを示唆している。ニュースキャスターも指摘するように、米国がテロ社会に報復をすると、日本へのテロが発生しないとは言い切れないのだ。テロ対策としての政府の対応はどうであろうか。

数日前の朝日新聞に、民主党議員が、テロの翌朝の永田町ののんびりと珈琲をすすりながらテロについて話す風景に、危機意識の薄さを嘆いた一文がよせられていた。テロの後、国民への呼びかけや、迅速な対応が日本にあっただろうか。

テロも、狂牛病も、イスラム問題も、すべて自国のこととして考える主体性が必要なのだ。米国に付いていきます、自衛隊を新法つくって派遣します、ということで、国際的地位の回復を図ろうとすることは、本来の方向からずれたものだと私には思えてしまう。米国は、決して日本を対等などとは見なしていないだろうし。

日本政府や官僚は、日本国民を守るというという意識が、抜け落ちているのではなかろうか。

2001年9月9日日曜日

税金返せ

今日の朝日新聞の「声」のところで、40代の主婦の意見が寄せられていた。外務省の税金詐取事件に心底怒った声だ。

いわく、自分たちは少しでも安い商品を買うために、安売りの情報を仕入れ苦労しているというのに何たることか、消費税分をレシートをもって税務署に押しかけて返してもらわないと気がすまない、という内容だ。

先に私は、外務省の詐欺事件を日本人に蔓延している公私の境界のあいまいさという観点から書いたが、この投書を読んで、いかに企業的な観点にアタマが毒されているかということに気付かされた。

そうだよな、冷静に考えれば「税金返せ」といって暴動起こしたっていいくらいだよな。

2001年9月7日金曜日

外務省の詐欺容疑事件に思う・・・日本の体質

外務省のホテル代水増し請求事件(外務省の元課長補佐が詐欺容疑で逮捕された事件)に、皆さんはどのような思いで接しておられるだろう。地位を利用して詐欺まがいの着服をして本当にけしからん、というの感想が多いと思う。金額といい、外務省の体質といい、われわれの感覚とはかけ離れたものを感じて、憤りを感じるのだと思う。
 
しかし、思うのですよ。官僚に限らず企業においても、公私の別がつきにくい体質というのは、日本全国に蔓延しているのではないかと。
 
例えば、会社では接待費というのは経費でおとせることになっている。しかし、接待しているのか自分で自分を接待しているのか分からないような状態は現実にはあると思うし、部課内の同僚と飲み食いしたものまでも、接待したとの名目で領収書を差し出すこともないわけではなかろう。コンプライアンスや経費節減がうたわれるご時世、何の理由もなく社員が飲み食いしたものに金を払うところはなくなってきているが。
 
うちの会社のハナシをして恐縮だが、接待には事前承認が必要で、一人いくらまでという上限がある。また去年まで存在した、部署長なら持てたタクシー券も遂に廃止になった。しかし実態としては、そのような社内規定が有名無実化している部署もある。(だから、古い体質の会社なんだよな)
 
このような意識が生まれる背景には、サービス残業のあり方や、会社への拘束度というものが大きく影響しているように思える。自分だって「タダ働きしている」のだから「少しくらい経費を使ってもいい」という感覚だ。言い換えれば、企業は経費の横領を半ば黙認しつつ、個人を安いサラリーで雇っているわけで、労使暗黙のいわば飴とムチのようなやり方といえない事もない。
 
これは、日本の企業精神風土として公私の別がないことを表す一つの例といえまいか。欧米式にビジネスライフと個人の生活を厳然と分けるような生き方とは、根本的に異なる気がする。欧米にも残業しまくるトップビジネスマンはいる。しかし、彼らは企業に縛られているのではなく、自分の地位向上の為に企業を利用しているようなイメージだ。
 
日本のビジネスマンは、会社に住宅ローンまで借りてしまい、褌(ふんどし)のヒモをつかまれたまま公私の別なく働かされているという気がする。夜は夜で、接待という名の際限のない飲食、土日も客や関係会社との親睦という名のゴルフという例もあろう(さすがにバブルはじけて、客足は遠のいていると思うが)。
 
いったい個人の自由な時間、家族のための時間がどこにあるというのだろうか。
私は、このように考えた場合、元課長補佐の罪は消えないまでも、日本社会の代表として逮捕されたという気がして仕方がないのだ。そして、こと外務省だけの問題ではないため、問題の根は一向に改善されないと暗澹たる気分になるのであった。
 
構造回復や景気回復のことで、何度も書いているが、結局行き着く日本人の「幸福論」。これは、案外、個人の個としての自立と家族重視の考え方ということから始めないといけないのかもしれない。日本の病理の全ては、ここらあたりに根があるのではなかろうか。
個人の自立意識により企業体質が変るのか、その逆かは分からないが。おそらく外資系企業やIT系企業は(知らないけど)かなりドライだと思う。
 
まあしかし、大上段に書いているけど、私だって経費で飲み食いしちゃうし、同じ穴のムジナなんですよ。哀しいですね。

2001年7月17日火曜日

外務省のタクシー券 水増請求

外務省の信用を地に落とすかのような(マスコミの書き方)事件がまた起きた。タクシー券を水増し請求して(それも2000万円!)、着服していたという言語道断とも言うべき破廉恥さである。

新聞報道を読んで、怒りに震える人も多いだろう。

しかしなのだよ、狭い会社や官僚などの組織において、常識・当たり前のこと・皆がやっていること、という感覚で罪悪感が麻痺していたんじゃないか、と思うのだ。

あなたの常識は世間の非常識

ということはあらゆる場面で自省しなくてはならない格言だ。突然に悪は生まれない、生むための土壌は存在しているのだ。

外務官僚のモラルの低さに怒りを発する以前に、自分の常識の正しさを自問せざるを得ないのであった・・・・それは、公的保護や既得権益など、今構造改革の槍玉に上がっていることにも普及する事項であるのだ。

唾を吐くのは天に向かって吐くのと同義、いつかは自分にも降りかかってくるのだ。

2001年6月21日木曜日

札幌の犬の虐待事件

札幌で、犬を虐待して殺している事件が続いているらしい。

犬の脚を縛って、足首から先を切断したり、腹を切り裂いたりなど残虐極まりない手口らしい。事件現場には「生犬が好き」とかの書置きもあるらしく、完全に殺犬を楽しんでいる様子。

神戸の事件の時もそうだが、危険で陰湿な事件に発展しないことを祈るばかりだ。(そもそも、犬を散歩に連れて行って、店の前につないだままなんかには出来ないな)

2001年6月13日水曜日

大阪の小学校 殺傷事件で思う(2)

大阪の小学校殺傷事件のことを思わずにはいられない。「治療処分」「保安処分」などの是非が議論されてゆくだろう。

今日の朝日新聞は、安易な保安処分に進むことを諌め、「病院に長く閉じこめるのは、人権侵害であるうえ治りを遅くする」という基本発想のもと「不起訴などになった後の処置が、医療側の判断だけに任される」ことに触れ、「治療・社会復帰の過程に、何らかの形で司法がかかわる、という方向での論議は欠かせない」と結んでいる。

一方、産経新聞は、治療処分を「先進国では当たり前の制度である」といい、「精神障害者の犯罪は九割が不起訴になっている」現実に言及し「専門施設で充実した医療を受けさせる方が、加害者の人権を尊重する道ではないか」としている。

朝日は人権重視の前提で司法のありかたや精神治療のありかたを、産経は治療処分を前提とし治療しくみの改革などを訴えている。一方が治療処分反対、一方が賛成というような単純な図式ではない。やはり根本的に、刑法39条を含め、一般の我々が安心できるシステムが確立されていないのだ。

昨日の感想で、人権以前に極刑をという極論が生じやすいことを書いた。犯罪というものが何故発生したのか=人の心の闇がどうして生じたのかを、犯罪者を通して研究することは必要だ。もし今回、アメリカのように犯人が即刻、散弾銃で殺されていたとしたら真相はそれこそ闇の中だ。

一時的に心身喪失状態であったとしても、人間としての心や人格までもが全て消滅していない限り人権を有することは認めよう。しかしなのだ、殺されたものたちの人権は、何によって償われるのだろう。犯人が「真人間」になって社会に復帰することなのだろうか? 今回のような犯罪が起きないような社会に変ることだろうか?

一時はやったサイコスリラーものでの快楽殺人犯とは少々異なるが、彼らを調べてゆくと必ず幼児期に虐待を受けているというのを読んだことがある。幼児虐待を受けたから必ず殺人犯になるものでもない。人間の心に潜む闇に向かうには何が必要なんだろうか。

この問題を考えると、ますます混乱してしまう。

2001年6月12日火曜日

大阪の小学校 殺傷事件で思う

大阪の小学校襲撃事件のような事件が起こるたびに「精神鑑定」とか「心神喪失」「刑事責任能力」などの問題が持ち上がってくる。心情的には、「人を殺傷せしめた者に人権などあるか、殺された者の人権をないがしろにするような犯人の人権やら責任能力を議論するのは片腹痛い」という極論に傾く気持がないわけではない。(一時的に)判断能力が欠如していたとしても、何の罪も無い8人の子供を殺した犯人に弁護士が付き、税金を使って事件の真相を何ヶ月以上もかけて追究する必要があるのか、彼を更生させることが社会的に意味あることなのかと疑問を感じないわけではない。

しかしだ、ちょっと冷静にならなくてはならない。こういう考え方は危険な極論なのだと思う。もしそのような社会であったとしたら、つまり、情状酌量の余地のない犯罪を犯したら、即刻極刑に処せられる社会だとしたら、我々は恐ろしくて生きてはいけないのではなかろうか。そもそも、前提条件の「情状酌量の余地のない犯罪」というのは誰が客観的に証明するのか。はたまた、冤罪である可能性はないのかなど。

それだけに、重大事件が起きたときの対応については、深い議論が必要だろう。個人の命ばかりか、その周りの人たちの生活や夢を全てこなごなに砕いた責任をどう負わせ償わせるのか。犯人の死だけが償いになるとは思えない。

今回の事件は、① 精神鑑定の結果、心身喪失状態で責任を問えないとされた犯人の処遇 ② 措置入院させた場合の患者のフォロー体制 という点を考えさせるきっかけになるのかもしれない。学校の安全確保ということや、宅間容疑者のような人間を生み出さない社会の実現(鳩山代表)ということも議論されねばならないだろう。後者の議論は、倫理面と制度面の両者で考える必要があろう。倫理面での追求をするためには、犯人を詳しく調べる必要が、あると思う。

また、責任を問えないとした刑法(第39条)に問題があると思うのだが、そもそも精神鑑定の客観性などにも問題があるのかもしれない。

ただ、これらの議論が「犯罪を起こすおそれのある者を隔離する」という制度に行き着くことには、不安と恐怖を覚えないわけでもない。それを誰がどうやって判断するのか、中世の「魔女狩り」を彷彿とさせる情景がよぎるのは考えすぎかもしれないが。

少年犯罪と少年法の問題も含め、日本の社会はかつてなかったような、凶悪犯罪の増加を経験しつつある。大昔に作られた法律では現在の犯罪状況に対応できにくくなってきていることだけは確実なようだ。この問題になると、私はどちらの立場を取ってよいのか分からず混乱するばかりだ。

それにしても、何度もニュースに接するたびに、やりきれなさと凶悪犯罪に対する無力感に言葉を失ってしまう。