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2004年11月28日日曜日

【音盤】C・クライバー/ビゼー:歌劇「カルメン」


ビゼー:歌劇「カルメン」

カルメン:エレーナ・オブラスツォワ
ドン・ホセ:プラシド・ドミンゴ
エスカミーリョ:ユーリ・マズロク
ミカエラ:イソベル・ブキャナン
フラスキータ:チェリル・カンフシュ
メルセデス:アクセル・ガル
スニーガ:クルト・リドル
モラレス:ハンス・ヘルム
レメンダード:ハインツ・ツェドニク
ダンカイロ:パウル・ヴォルフルム
ウィーン少年合唱団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ノルベルト・バラチュ(合唱指揮)
ウィーン国立歌劇場管弦楽団

カルロス・クライバー(指揮)
演出・装置・衣装:フランコ・ゼッフィレッリ
収録:1978年12月9日、ウィーン国立歌劇場(カラー&ステレオ)

季節の変わり目で風邪がはやっておりますが、いかがお過ごしでしょうか。当方は絶不調が続いており、元気付けにという意味も込めて、クライバーの、《カルメン》(78年)をゲット、快晴の土曜日、西日が燦々と入り込む部屋で、DVD視聴をいたしました。

驚いてはいけません、《カルメン》でさえ私にとっては、これが初聴であります・・・


C・クライバーの《カルメン》はファン待望の正規映像とのこと。フランコ・ゼッフィレッリの舞台・衣装演出、37歳の絶頂期のプラシド・ドミンゴによるドン・ホセ、エレーナ・オブラスツォワのカルメン役です。クライバーファンには有名な演奏であるだけではなく、《カルメン》の演奏の中でも評価の高いものだといいます。

オペラ無学な私は、この有名すぎる《カルメン》のストーリさえ熟知しておらなかったのですが、ライバーの映像で、ようやく初体験を果たしたことになりました。
さて、感想はといえば、聴いてびっくり、観てびっくり。改めてどこの断片をとっても名曲のオンパレードであると感心すると同時に、ドミンゴやオブラスツォワもさることながら、やっぱりクライバーの指揮は何て魅力的なんだろうということに最初は尽きてしまいました。

オープニングの入り方からして凄い。拍手が鳴り止まぬ内にオーケストラをかき鳴らし始めます。颯爽として優雅で、しかも熱く、なんてカッコいいんだろうと溜息が出てしまいます。前奏曲での渾身の力を込めた指揮ぶりなども見ごたえがあります。

5分ほどの「通俗名曲」とさえ呼ばれるような聴きなれた音楽を、これほど優雅に、そしてワクワクと聴かせてくれることには心底驚きます。クライバーの音楽を聴いていると、安定した位置にある気持ちの重心を、不安定な位置にまで吊り上げられ、さらに揺さぶられているように感じるときがあります。微熱を帯びた高揚とでも称しましょうか、それが、この《カルメン》では冒頭から感じられるのです。期待は嫌でも高まるというものです。

圧巻は、第2幕のジプシーの唄ですね。猛烈なアッチェレランドとクレッシェンド、オケも歌手達も崩壊寸前にまで煽られながら、ギュンギュンと舞い上がってゆくかのように壮大なる熱狂を作ってゆく様は、衝撃的という言葉以外では表せません。カルメン演ずるオブラスツォワが、歌と踊りが結びついて、はじめはゆっくりと、でもだんだんと速く激しくと歌うそのままの演出が、舞台でひしめき合う男女や、フラメンコを踊る男女の熱狂が渾然一体となる様は悪魔的でさえあり、ここを以って《カルメン》のハイライトと言う意見もあることには納得してしまいます。

カルメンはホセから本当に心変わりしたのか

さて《カルメン》を観ていて疑問に感じたことがあります。それはカルメンのホセに対する気持ちです。

第4幕からラストに向けての展開を単純化しますと『心変わりしてしまったカルメンのもとにストーカーと成り下がったホセが押しかけ、カルメンの冷たい態度に、ホセが遂には逆上してカルメンを殺してしまう』ということになります。

しかし、カルメンは本当に心変わりしていたのか、ということが気になります。カルメンは仲間にホセが来ているから気をつけろと忠告され、更にホセが自分を殺そうとしている、ということを知りながら、敢えてホセに会っているのです。しかも、ホセに対し会話の中で何度も「私を殺して」という態度さえ取るのです。

最初に見たときは、ホセに対して自殺幇助を求めたようにさえ見えたこの場面。何度か観て確認しますと、カルメン演ずるオブラスツォワが実に複雑な表情で、揺れ動いている女心を演じていることが分かります。ホセをいとおしく思いながらも、彼女とホセは生きる世界が違っていることを知り、更には少しは闘牛士のエスカミーリョにも心が動いてはいたでしょう。そういう突き放した態度と、諦めきれない気持ちが、移り変わる場面で実によく演じられています。

鎖、指輪(愛)、自由と死

ラストのクライマックスでは、ホセが贈った指輪を放り投げたカルメンに逆上し、単純なホセはナイフを取り出します。そして「悲劇」です。ここでの演出は、カルメン自らがナイフを構えたホセに抱き寄るようにして刺されています。彼女から死に向かったという解釈のようです。

ホセからとっくに心が離れていたなら、最後まで指輪をしてたことは理解できません。おそらく彼女は、このような形でホセと「決着」することを、ずうっと待っていたのでしょう。ホセを愛するということは、第3幕でのカード占いの結果では「死」を暗示するものでした。誰にも縛られず、自由であることを願っていた彼女が、強い運命には抗えないことを知っていたとしたら。彼女が闘牛場の外でホセと会ったときに感じたであろう喜びと哀しみと諦め。自らの運命を自らの意思で断ち切ろうとした彼女を思うと、カルメンがホセを冷たくあしらう様は涙をそそります。

彼女は本当に自由を心から望んでいたのでしょうか。第一幕のカルメンの歌う有名なハバネラ《恋は野の鳥》の後、言い寄る男達をあしらいながら、カルメンは自分を無視しているホセに気が付きます。カルメンは彼に近づき何をしているのか?と問い、ホセは「鎖をつくっている」と答えます。「鎖? 心をつなぐ鎖」とカルメンは一瞬呆然としてつぶやき、ホセに(最初は戯れかもしれませんが)運命の花を投げつけるのです。

この点からも彼女の心情を憶測することはできそうです。いずれにしても《カルメン》には初めて接したばかり、参考文献にも全く接していないので思い違いかもしれません。ただ、カルメンの心情をどのように解釈するかで演出も感想も180度変わったものとなるでしょう。

それにしてもオペラの男性はガキばかり

最初は、カルメン演ずるオブラスツォワのアクが強すぎること、ドミンゴも37歳ですから直情で純朴な田舎の兵隊という雰囲気ではなくて、オペラの配役と実年齢のギャップやら、イメージのギャップに困惑してはいたのですが、第4幕での心理劇を理解しますと(勝手な解釈ですが)、それぞれの人物が急に際立ってきます。

特にカルメン役のオブラスツォワは、(もっと当たり役のカルメンもいるでしょうが)これはこれで納得です。ミカエラの清純さも捨てがたいのですが、劇に占める役どころは小さいですね。ワーグナーならさぞ献身的にして母性的な救済役として配するところでしょうか。

しかしオペラの男性役というのは、どれもこれもどうしてこう子供じみて単純なんでしょう。「愛した惚れた」で一直線で破滅に向かってくれます。《カルメン》はストーリー的にはむしろ、ホセの破滅の物語と解釈した方が良いと言われているようですが、この演出ではカルメン役のほうが光っているように思えます。

ドミンゴの歌唱力はそれはそれは素晴らしいでのですが、役にあまり深みがありません、ドミンゴを責めてはなりません。あと、ネット上の解説を斜め読みすると、ホセを「ストーカー」と評する文に多く出くわします。ホセは確かにしつこいし、殺意さえ持っていましたが、それを「ストーカー」と片付けるところに、現在の単純さと酷薄さのひとつが表出されているように思えます。あと、カルメンの心情に言及した文章はほとんどないのが不思議です。

このように観れば観るほど興味の尽きない《カルメン》です。クライバーの音楽も相まって「空前絶後」と評される演奏です。決して《ジプシーの歌》や《花の歌》だけがハイライトではない演奏であるというのが、本日の結論。

2004年9月6日月曜日

【音盤】ヴェルディ:歌劇「トロヴァトーレ」DVD

ヴェルディ:歌劇《トロヴァトーレ》全曲
ルーナ伯爵:シェリル・ミルンズ
レオノーラ:エヴァ・マルトン
アズチェーナ:ドーラ・ツァイーイック
マンリーコ:ルチアーノ・パヴァロッティ
演奏:メトロポリタン歌劇場管弦楽団、メトロポリタン歌劇場合唱団
指揮:ジェイムズ・レヴァイン
演出:ファブリッツィオ・フレジェリオ
録音:1988年10月 メトロポリタン歌劇場におけるライヴ
DVD DG UCBG-9010

今日は昨日からの雨が朝から降り続いています。休日に雨が降るなんて久しぶりです。気分転換に掃除などしながら、そういえば買ったまま開封していないDVDでもと思い立ち覚悟を決めて1)、ヴェルディの《トロヴァトーレ》を聴くこととしました。

それにしても、CD店に行くとCDやDVDをカゴいっぱいに買っていく人2)をよく見かけますが、ああいう方々は、一体いつお聴きになっているのでしょう・・・

ということはさておき、感想です。自分のメモのために書いていますので、長いだけで内容がありませんのであしからず。

ヴェルディ中期の作品として有名な歌劇ですが、本作品に接するのもこの盤が初めてです。ヴェルディの歌劇は、DVDで《リゴレット》《アイーダ》《椿姫》と聴いてきましたが、この作品もヴェルディ節が満開でありますね。

全くの予備知識なしに観たものですから、結末の悲惨さにまず慄然としてしまい、しばし言葉を失ってしまいましたが、こういう衝撃は初見でなくては(かつストーリー展開の読みに鈍くなければ)決して得られないものです。私はどちらも当てはまっていたため、一生に一度だけの幸運を体験できたというわけです。

全く救いのない結末といい怨念に近い復讐劇といい、「呪い」というテーマはヴェルディの好きなテーマなのでしょうか、《リゴレット》のラストを彷彿とさせます。「復讐」を、ジプシーのアズチェーナは母親から、一方ルーナ伯爵は父親から受け継いだものであるという点から、まさに血を伝わった「呪い」であると言えましょう、何か業のようなものさえ感じます。

ヴェルディは悲惨な物語であることを、表面的には感じさせないほどに全編華麗かつコテコテな音楽に仕上げています。そして、主要人物の4名がほぼ同格の扱いで歌劇の全編において重要な役割を果たしているということが、同時期に作曲された《椿姫》とは徹底的に性格を異にしているように思えます。それゆえでしょうか、聴いていて正直少し疲れました。これは私に馴染みのアリアなどがほとんど無いせいもあるのですが。

4名の人物が同格とは書きましたが、聴いていてもそれぞれの役割が技巧的にも並大抵で歌えるものではないのだろうなと思います。

まず何と言ってもマンリーコ役のパヴァロッティ、この演奏は彼が53歳頃のものですが(役のマンリーコは16才程度の青年です)、舞台に出るだけで拍手が沸き、一声発するだけで歌劇場に色香が漂います。まさに華のある歌手なんですね、全く素晴らしい。三大テノールのひとりとして名声を欲しいままにしたわけが分かります。顔だって決してハンサムというわけではないのですが(失礼)、あの歌声で熱唱されるとグラグラと来てしまいます。絶頂期を過ぎているのでしょうが第3幕ラストでのアリアは見事。

次に特筆すべきはアズチェーナ役のドローラ・ツァーイックですね。第2幕で昔の物語を語るシーンの迫力と歌唱力にまずびっくりしました。劇においても存在感抜群です。演出上はジプシーの老婆という、妖しいく暗い情念を秘めた役柄ですが、マンリーコが16歳であることを考ると、本来はそんなに年老いていないはずです。というか物語人物と配役の人物年齢に関しては、他の2名とも破綻していますがね。レオノーラに至っては14~15才くらいでしょう。もっとも、それではオペラを演じられませんから、これは眼をつぶる問題なのでしょう。

ドローラ・ツァーイックですが、どこかで観た事があると思ったら、DGのDVD《アイーダ》(レヴァイン/メト歌劇)で、アムネリス役として出ていたのですね。こちらは1989年の演奏です。アムネリスは嫉妬とプライドに揺れるエジプトの王の娘を演じていましたが、こちら《トロヴァトーレ》のアズチェーナ役の方がぴったり来ますね、それくらいはまり役に思えます。

先の《アイーダ》といえば、アモナズロ役として登場していたシェリル・ミルンズが、こちらではルーナ伯爵を演じています。アモナズロは脇役でしたが、こちらは立派な主役の一人。最後まで生き残る天蓋孤独の若き伯爵です。彼はひたすらにレオノーラへの愛を渇望します、戦争も部下もそっちのけで、レオノーラ一筋です、ミルンズの実年齢にだまされてはいけません、おそらく彼とて10代後半のハズ。ここまで愛に飢えていながらも、最後は裏切られるという何ともやりきれない役どころです。彼が居ることで劇が締まっています。

最後は、マンリーコとルーナ伯爵ふたりから熱烈なる愛を求められるレオノーラです。彼女も観た事があると思ったら、1987年のDG《トゥーランドット》(レヴァイン/メト歌劇)での氷のようなトゥーランドット姫を演じたエヴァ・マルトンでした。ふたりの男性に熱愛される女性なのですから、劇としても最重要の役だと思うのですが、彼女だけが今ひとつ私にはピンときません。歌声は申し分ないのですが、それでもちょっと強すぎるかなという印象を受けてしまいます。トゥーランドット姫は抜群だったのですがね、というかこちらの印象が強すぎましたかな。

それにしても、ヴェルディは何故にこのような悲劇的で救いのない歌劇を書いたのか、一体「復讐」は成就したといえるのか、誰かが救われたのか。ストーリーそのものは知ってしまえば単純で、2時間ちょっとの短い間に感情表現などを盛り込むため、人物像も時間軸も単純化されてはいるのですが、それぞれに与えられた役どころを考えると、そうそうテーマではないようにも思うのですが、手元に資料も何もないのでこれにて今回はおしまいです。


  1. マーラーだとかブルックナー、それにオペラもそうであるが、真面目に聞こうとするとそれなりに覚悟をしなくてはならない。聴き終えるのに、ゆうに2時間以上はかかるし、貴重な休日を独りで、ヲタクのようにテレビの前で過ごす事が果たして正しい休日の使い方なのかと考え始めると、煩悶として、それだけでまた15分くらいは費やしてしまうものである。それでも未聴CDやDVDは少なからず溜まっているので何とかせねばという変な焦燥感だけは生まれている。やれば終わるのに、やらないで残しているプライオリティーの低い仕事の脅迫に似ていないこともない。もっとも、仕事と同様で、それをやらかったところで、何事も変わりはしないのだが。つまり、こういうバランスが崩れなくては次の行動に移れないものなのである。マーラーやブルックナー、それに始めて観る歌劇もそうだが、何かをしながら聴くということが私はできない。聴いていて、重要な点を聴き逃してしまうのもシャクである。聴くからにはデンと座って、ライナーとメモを片手に、グレープフルーツジュースとスナックをもう片手に、覚悟を決めるわけである。そういうわけだから、天気の悪い、そして何も予定のない休日に遂にDVDに手を出すというのは、実のところ、最初から決まりきったそれしかない的な結論であったりするのである。
  2. 社会人になってから再びクラシックを聴きはじめた頃、タワー・レコードなどに行くと入り口近くに、スーパーに置いてあるような黄色い買い物籠があるのが不思議でならなかった。私のクラシック初体験は中学生の頃であったから、なけなしのこずかいで廉価版を買うか、たまに奮発してドイツ・グラモフォンの分厚く重いLPジャケットを、それこそ宝物のように購入するのがせいぜいであった。従って、レコードとはじっくり吟味して買うものだという思い込みが私を支配していたので、カゴに放り込むようにCDを入れていく人種を発見したときは、月星人を見つけたのと同じくらいに驚いたものだ。そして、タワー・レコードに行くたびに、そのような人種が決して少ないわけではないことを知り、更に驚きを新たにしたものである。そもそも、そんなに大量に購入する方というのは、きっと商売をしている人に違いないと、当時の私は無邪気に思っていたのだが、ちょっと考えてみれば、ブルックナーなどがBGMに流れているブティックやレストランに喫茶店(あるいはバーであってもいいが)など知りもしないし、おそらく今も存在もしないだろうから、それは的外れな推測であったのである。そのうち、年間数百枚のCDを買うという知人も現れ、「カゴ買い」人種というものが、実社会の表には決して現れないところで密かにしかも逞しく生息していることを知ったのである。次に沸いた疑問は「彼らは一体それらをいつ聴くんだ」というものだが、私のかなり確度の高い推測では、彼らは開封した音盤をレーザーを通すことなく、「○△式速聴法」とかなんとかいう技法を身に付けていて、キラキラした虹色のディスク面から妙なる音楽を瞬時のうちに聴き取っているのだということである。私は今もって到底彼らの境地には及びもつかない。

ニコルソン・ベイカー「中二階」風注釈でしたが、オモシロクなくてすみません。そのうちホンモノの感想でも書きます。

2004年7月23日金曜日

【音盤】ヴェルディ:歌劇「椿姫」

「椿姫」(DVD)を聴きました。随分前に買って一度通して聴いていたのですが、あまりにも感動してしまったので、後でゆっくり感想でも書こうと思っていたのです。今回、改めて聴きなおしながら感想を綴ってみました。ちなみに「椿姫」初体験です。以下非常に長文になってしまいました。










  • ヴォイレッタ:アンジェラ・ゲオルギュー
  • アルフレード:フランク・ロバード
  • ジョルジョ:レオ・ヌッチ
  • フローラ:リー=マリアン・ジョーンズ
  • アンニーナ:ジリアン・ナイト
  • 指揮:サー・ゲオルグ・ショルティ
  • コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団、合唱団
  • 演出:リチャード・エア
さてこのDVDは、ショルティ指揮、コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス歌劇団による1994年のライブ映像なのですが、何と言っても素晴らしいのは、ヴィオレッタ演じるソプラノのアンジェラ・ゲオルギューでしょうかね。この薄幸の美女を演じきるには、あまりにも適役というのでしょうか、とにかくソプラノ歌手でありながら素晴らしい美しい容姿と歌声なのです。

第1幕

前奏曲が終わってヴィオレッタの客間での宴会からオペラは始まりますが、ここで登場するヴィオレッタときたら、肩まで露にしたドレスを身にまとい、あの細いウェストのどこから、あんなに高いコロラトゥーラ・ソプラノが出てくるのかと不思議になるほど。歌と映像に溜息の連続です。

なにせ私は他を知らないので比較もできないのですが、ヴィオレッタ役というのは、揺れ動く激しい女心を短い時間の間で表現しなくてはならない、かなり難しい役どころなのではないかと思うのですが、アンジェラは実に見事に演じきっているように思えます。そして、どこを聴いても名アリア集を聴いているような「椿姫」ですが、全体あっての部分であることを改めて思い知らせてくれます。

第1幕では、「ああそは彼の人か」から「花から花へ」と歌い継がれる場面など、ぞっとするほどに美しく仕上がっています。ヴィオレッタがアルフレードに傾ける心を歌いながら、結い上げた黒髪をほどいてゆく演技をしながら歌うのですが、今までの頑なな自分の心を解放してゆくことを暗示しているようでもあります。ふと我に返って「花から花へ」を歌うところの心の迷いと狂乱振りは、背筋に寒気さえ走るような演技をみせてくれています。



ヴィオレッタが自分の薄幸の身を嘆き、アルフレードの愛に身を任せることをためらう独り言の後に歌われる「花から花へ」ですが、"Sempre libera degg'io Folleggiare di gioia in gioia"(いつも自由で、歓びから歓びへと舞い狂わねばならないの)とはじまるところは、ほとんど声が割れているような歌いっぷりなのですが、それがヴィオレッタの自暴自棄さを表現しているようで、何度観ても涙をそそります。

ヴィオレッタのアリアに、アルフレードの「愛の主題」"Misterioso altero, Croce a delizia al cor"(神秘的で誇り高く、心は苦悩となり、歓喜となる)が、被さるように歌われるのですが、ここはいかにもヴェルディ的であるなあと思いました。

というのも「リゴレット」第3幕の最後でリゴレットが復讐を遂げたと喜びに震えているその裏で、マントヴァ公爵の「風に踊る羽のように」という有名なカンツォーネ「女心の歌」が歌われますが、あの残酷なまでに劇的な場面を思い出したからです。

第一幕は不摂生を続けるヴィオレッタがアルフレードの純真な愛に目覚めるまでなので、ヴィオレッタのことばかり書いてしまいましたが、最初の宴の場面で歌われる、これまた有名すぎる「乾杯の歌」も実においしく、第一幕を聴いただけで、今日はおなかいっぱいというところです。

作品について

ちょっと付け加えると、ご存知のように「椿姫」とはアレクサンドル・デュマ・フィスの小説に基づいて作られたものです。「椿姫」はヴェルディによって「La Traviata」と改題されましたが、それは「道を踏み外した女、堕落した女」という意味です。原作でヴィオレッタは高級娼婦マルグリットとして表現されています。アルフレードは娼婦に純粋無垢な愛情を注ぐ青年アルマンです。

ヴェルディの「椿姫」においては、ヴィオレッタが貴族を相手にした高級娼婦であるとは、リチャード・エアの演出からは感じ取ることができませんが、彼女の苦悩や「友人も家族もなく独りパリに捨てられた」薄幸の身の上や、愛を捨てた過去については、説明がなければ納得がいかないと感じたものです。だからといって高級娼婦という役割を与えるのも酷すぎる気もしますが、いずれにしても貴族の財力を当てにしたパトロンなしには生きていけない女性ではあるのかもしれません。

作品の背景

椿姫について、ネットで調べていたら、これ以上短い紹介はないというくらいの名文に出会いました。OperaGlassというサイトの「椿姫」のページですが、そこには以下のようにあります。

Setting: Paris and environs, around 1700.
Plot Summary
Act I
Violetta, a consumptive courtesan, falls in love with Alfredo.
Act II
Scene 1: Alfredo's father convinces Violetta that she must leave him for the honor of the family.
Scene 2: Alfredo publicly insults Violetta at a party. The guests are shocked.
Act III
Violetta dies.
これによると、ヴィオレッタは「消耗的な売春婦」ですか。売春婦と息子がデキてしまったのですから、父親としても「家の名誉」のために躍起になるのは当然ですね。そして第3幕は「ヴィオレッタ死す」ですか。いやはや、正しいけれど実も蓋もありませんね、これでは(笑)

作品の時代ですが、ヴェルディの原譜には時代指定がなかったそうです。その後、初版の楽譜がリコルディから出版された時に「1700年頃」と指定を書き換えたそうです。一方、デュマ・フィスの原作も、リチャード・エア演出の本上演も時代は1840年頃パリとなっています。現在の上映においてはデュマ・フィスの小説と同じ19世紀中葉とすることが多いようで、1964年版のリコルディ社のピアノ総譜でも「1850年頃」とされているのだそうです(DVD解説より)。



さきに紹介したサイトには歌劇のPicture Cardsも紹介されております。上は第1幕のものですが、コメント(英語しか読めず)によると、この絵の設定は1700年頃、それは20世紀初期までのイタリア舞台における一般的な選択であったのですとか。それにしても、文学も音痴な上に世間知らずなのでよく分からないのですが、パリの高級娼婦というのは、こういう生活環境だったのですか。

あと、オペラの概略を知る上では欠かせないのが、音楽よもやま話というサイトですが、椿姫についても詳しくMIDI音源付きで説明してくれていて助かります。興味のある方はそちらをご覧になられるのがよろしいかと。

第2幕 第1場

さて、この場面はアルフレードの父親ジェルモンがヴィオレッタに息子と別れることを懇願する場面です。ここも名曲のオンパレードの様相を呈していますが、レオ・ヌッチの演じるジェルモンが良いですね。ジェルモンの"Piangi, o misera, piangi!"(お泣きなさい、不幸な人、お泣きなさい)と繰り返すフレーズがアタマに付いて離れてくれません。自分で泣かせておいて「お泣きなさい」もないものだとか、息子と別れろとは"E Dio che ispira, o giovine, Tai detti a un genitor."(神様のおぼしめしです、若いお方よ、ひとりの父親にこんな言葉を言わせるは)なんて、白々しくもよく言うよとか思うのですが、まあ感動的な場面です。



ジェルモンのアリアは「天使のように清らかな娘」とか「プロヴァンスの海と陸」とか、聴き所が多いのですが、私は"Un di, quanto le veneri, Il tempo avra fugate, Fia presto il tedio a sorgere..."(いつの日か、時が魅力を失わせ、すぐにあきがきたら・・・)と、老獪さを露にヴィオレッタを説得するアリアが好きですね。また、ここでのヌッチの表情がいかにも「お若い娘さんよ、よくお聞きなさい」的で抜群です。しかも、独特のフシ回しで歌うところが、ワーグナーの「マイスタージンガー」に出てくるヴェックメッサーの嫌らしさを彷彿とさせるのですよね。こういう歌い方は何というのでしょう。

このように第2幕 第1場は一見すると第1幕ほど華やかではないのですが、観れば観るほど惹かれる場面です。一番好きなのは、アルフレードとヴィオレッタの別れのシーンです。ヴィオレッタが次のように歌う場面は、何度見ても涙が出ます。

Lo vedi? Ti sorrido...(わかるわね?・・・笑っているでしょ・・・)
Saro la, tra quei fior,(ここにいるわ、あの花と一緒に、)
Presso a te sempre.(いつまでもあなたのそばに)
Amami, Alfredo,(私を愛してね、アルフレード)
Amami quant'io t'amo!(私があなたを愛しているとおなじだけ!)
Addio!(さようなら)

高級娼婦 クルティザンヌ

昨日、無知無学にも「パリの高級娼婦というのは、こういう生活環境だったのですか」などと書きましたが、高級娼婦というのはどういうものなのか、格好の本がありましたので立ち読みをしてきました。(「椿姫とは誰か―オペラでたどる高級娼婦の文化史」)

これによると高級娼婦クルティザンヌ(courtesan)は、一般的な売春婦とは一線を画した存在であったそうです。当時のパリは経済的に豊かになり、貴族階級が快楽的な生活を求めることと、キリスト教に根を持つ性的なタブーから解放されたことなどが重なり、クルティザンヌという存在を生んだのだと説明しています。

「椿姫」のヒロインのヴィオレッタも、アルフレードとの純愛物語と捉えると、まったくその背景や本質を見失うことになってしまいそうです。ヴィオレッタがパリにおいて「友人も家族もなく孤独である」身の上でありながら、貴族たちに対し朝までの宴会を供したり、若い純真なアルフレードを「囲う」ほどの財力を持っていたことなども、当時のクルティザンヌの生活や財力の一端なのでしょう。アルフレードは南フランスはプロヴァンス出身ですから、パリから見たら「田舎の貧乏な若者」という存在だったのかもしれません。

また、彼女が第一幕で、どうしてあれほどに自暴自棄に快楽の世界を求めるのか、そしてアルフレードの愛を何故受け入れようとしなかったのかも、クルティザンヌの持つ苦悩とあわせて考えなくては理解できないものとなります。第ニ幕でヴィオレッタがアルフレードのために全財産を投げ打つことで、過去の罪を清算しようとする気持ちも、彼女がクルティザンヌでなければ理解できないわけです。

しかし驚くべきはクルティザンヌという存在です。下はリアーヌ・ド・プージィという高級娼婦だそうです。この本は行きつけの書店にありませんでしたので内容を確認できませんでしたが、本の紹介には以下のようにあります。


ベル・エポック最高の美女。プルースト、コレット、コクトーが競ってモデルとした社交界の女王にして、パリ・レスボス界の女神。
  • 高級娼婦リアーヌ・ド・プージィ ジャン・シャロン (著), 小早川 捷子

 表紙の写真を見るだけで、日本人の私がイメージする娼婦とは全然趣が異なっていてびっくりです。日本にも吉原の遊女がおったそうですが、身分などは全然違うものでしょう。実際、当時のパリにおいてはクルティザンヌは蔑視されていたわけでは全くなく、人気のクルティザンヌのブロマイドやイラストなどに人気が集まっていたのだそうです。そしてクルティザンヌはそれこそ貴族婦人とほとんど変わらない生活をしていたのだそうです。

当時のパリは貧富の差が激しかったようですから、無教養な若い女性を社交界でも通用するような教養や身だしなみをつけさせて育てるようなことも、貴族の中では甲斐性みたいなものだったのでしょうか。

だから、クルティザンヌであるヴィオレッタは、単なる娼婦のようにお金を出せば売買春ができると言うような存在ではなく、アルフレードが「一年以上も前から慕っていた」という、ほとんど高嶺の花であったことが分かります。ここらあたりを理解しなければ、アルフレードの父ジェルモンの態度も、その後のアルフレードの屈辱も理解できないものだと思い知りました。

しかし、こういうことはDVDの福原信夫氏の解説からは全く読み取ることができず、例えばデュマ・フィスの「椿姫」の主人公であるマリー・デュプレシスについても『七人もの百万長者をパトロンとしている女』という紹介だけに留めています。まあ私が無知なだけで、世界三大オペラ?のひとつなのですから、そんなこと周知の事実なのでしょう。

ということで、第2幕 第2場を観てみることとしましょう。

第2幕 第2場

第2場はフローラ邸での華やかな夜会です。ここで挿入されるジプシーや闘牛士の合唱は、全体のストーリーからすると、観るたびに違和感を感じないわけではありません。



貴族達の宴会の豪華さを語る意味合いや、スペインなどの文化をも飲み込んでいた時代性を表しているのでしょうか。1800年代のフランスといえばナポレオンがヨーロッパ各地に遠征した後の時代、1850年頃であればナポレオン三世の統治下、パリにオペラ座ができたのも1862年ですからまさに文化の爛熟期と言えるかもしれません。

ヴェルディは1813年北イタリアの生まれですが、アルプスの北では同じ年に偉大なる(笑)ワーグナーが生まれいます。ドイツ国民に深く共感を感じさせるワーグナーの楽劇は、フランスを舞台としたヴェルディの歌劇に比べると、設定に洗練さはなく、むしろ田舎くささを感じますが、そういう意味からもフランスはヨーロッパ文化の中心だったのかなと思ったりします。(ここらへんは歴史にも詳しくないので何とも言えませんが)
ジブシー占いが「過去の過ぎ去ったことは忘れ、未来にこそご用心」と歌うことに、「椿姫」のもつ悲劇性を暗示させているとも取ることができます。本当に用心しなくてはいけないのは、フローラではなくアルフレードだったのにね。もっとも裏読みするよりは、「アイーダ」でもそうでしたが、凱旋の行進の後に異国情緒溢れるバレエのシーンがありますが、ああいった軽い余興的な意味合いであると考えても良いのかもしれません。

20分程の短い場ですが、ここでジェルモンはヴィオレッタを辱めるという、若さならではの直情的な行動に出てしまいます。どうも私は気になって仕方がないのですが、ワーグナーのオペラにしてもヴェルディの他の作品にしても、男性が女性に比べると「子供じみて」見えるのは何故でしょうか。

男性も愛を語るのですが、何か白々しいというか、若さだけで突っ走るような脆さや青さを感じてしまいます。それに対し、ヴィオレッタの愛は献身的でありそして自己犠牲的で感動的です。男性など、女性の包容力の前では赤子も同然のような存在です。女性の献身的な愛など全く理解できないのですからね。

従って、この場面でもやはりヴィオレッタが光ってしまいます。良くも悪くも、プリマ・ドンナ・オペラなのです。アルフレードが賭けでドゥフォール男爵から巻上げたチップをヴィオレッタ投げつけた後に歌われる、"Alfredo, di questo core, Non puoi comprendere tutto l'amore"(アルフレード、この心の愛のすべてをわかっては下さらないのね)というアリアは、美しくも心を打ちます。

にしても、3ヶ月にも渡る愛の生活の原資にさえ思い至らず、甘い生活を続けていたのですから、アルフレードは田舎のお坊ちゃんといえるわけで、到底、海千の喜びも哀しみも経験したクルティザンヌであるヴィオレッタのお相手ではなかったのでしょうか。
というわけで、いよいよ怒涛の悲劇のクライマックスである第三幕に突入します。

第3幕

第三幕は第一幕の冒頭で聴かれた前奏曲から幕は始まりますが、もはや音楽にも舞台にも華やかさはどこにもありません。というか、前奏曲が第三幕の暗示なんですよね。
ヴィオレッタも病人姿ですから、かつての艶やかだった髪も下ろし、唇の色も青ざめ、眼は落ち窪み、なかなかに凄みのあるメイクです。舞台映像を観ながら、色彩感覚的にはムンクの「病める子」の絵を思い浮かべてしまいました。

ひしひしと迫る死に向かい、大きな悲劇を歌うのですが、それでもやはり、オペラ名曲のオンパレードといったところで、聴いていて飽きません。ヴィオレッタが手紙を読むシーンから「さようなら、過ぎ去った日々よ」のアリアなども涙なしには聴けません。アルフレードが現れてからの彼女の歓びと、そして遅すぎた時に対する無念さのを"Gran Dio! morir si giovine, Io che penato ho tanto!"(神様!こんなに若いのに死ななければならないの、これほど苦しみぬいた私は!)と歌うところは、血を吐くような壮絶さです。

それに対し、アルフレードの方は、ヴィオレッタの心を理解し病の床に遅ればせながら駆けつけてから、愛の二重唱を歌うのですが、イタリアのテノールアリアは悲しみを誘いませんね、非常に健康的にしか聴こえないのですが・・・偏見かもしれませんが(笑)

アルフレードには「パリを離れて」という美しいアリアもあるのですが(ここは本当に上手いですね)、それでもこのオペラは全編通してヴィオレッタが主人公で、それ以外は全て刺身のツマなんだと思います。2時間以上に渡ってヴィオレタを演じきるというのは、なかなか至難の業なのではないかと思います。これだけ人気があって有名なオペラではあるものの、歌唱力はもちろん、心理表現から演技まで並大抵の技量ではつとまるものではありません。



ラストでヴィオレッタが、"E strano! Cessarono Gli spasimi del dolore!"(不思議だわ!苦しみのけいれんが なくなりましたわ!)と歌って、息絶えるシーンも鬼気迫る演技です。バックはヴァオイリンによる、ジェルモンからの手紙を読んだシーンの旋律です。この、観るものの一瞬の期待を裏切る劇的にして残酷なラストを初めて観たときはもはや声になりませんでした。

あきらめのオペラと下行の音楽

フーベルト・シュトゥップナーは、『《椿姫》は本質においてあきらめのオペラである』と書いています。そして『彼女(ヴィオレッタ)を特徴づけているのは下行の法則である』として、ヴィオレッタの「受動性」を指摘し、さらにヴィオレッタのいくつかの主要モティーフもすべて力なく下行していることを指摘しています。これを読んだときには成る程なと思ったものです。
確かにアリアの音型なども高音域から低音域に下降するものが多いようです。また、華やかな社交界(ドゥミ・モンド)から田舎暮らし、そして病気による死と人生においても下降線を歩みます。これをワーグナーの《トリスタン》と比較して次のように書いている部分は注目に値します。
《トリスタン》では力づくで作為的に興奮させられた激昂の幻影であり、自然力を死の中に放置するかわりにふるいたたせ興奮させる享楽と生命の原則にしたがって、飽くことを知らずに半音階的上昇を続けていく。屍姦的傾向を備えた《トリスタン》の神秘性に比べると、《椿姫》の死の音楽はむしろ生への憧れが強く感じられる。(名作オペラブックス2「椿姫」P.269)
『屍姦的傾向を備えた《トリスタン》』という表現は爆笑ものですが、確かに半音階的上昇と全音階的下降では後者の方が健康的には聴こえますね。
下行音楽という点では、Classic Airというオペラ紹介個人サイトで見つけた井形ちづる氏(東京藝術大学大学院オペラ科教員)の文章も参考になりますので引用しておきましょう。第三幕の前奏曲に関する考察です。
3幕での前奏曲はヴィオレッタの死を象徴する崇高で哀しいほどに透き通った高音の弦の響きが印象的で、(中略)『椿姫』が諦めのオペラとも呼ばれる要因にもなる常に現れる下降音型がここでも支配的である。井形ちづる氏はこれを「這い上がるように音が上がっても、それはずるずると下降してしまう。アルフレードからの手紙、そして彼が戻ってくるのをひたすら待ち続けるヴィオレッタ。アルフレードに会いたい。そのためには生きていなければ。どんなに生きたいと願ったであろう。(後略)」とヴィオレッタの必死の這い上がる姿とこの死を意味する残酷な下降音型の関係を述べ、「前奏曲の最後の6小節は、息も絶え絶えになるヴィオレッタを描写し、最後の3小節にわたる長いトリルの後 の最終音はまさにヴィオレッタの事切れる瞬間」と指摘している(《ラ・トラヴィアータ》の2つの前奏曲)。
なるほど、こういう文に出会うと聴くたびに(まだ聴いてるのかよ)感興が変わってきますね。

もっとも、ヴォイレッタは指摘のとおり死に向かって下行するものであるかもしれませんが、精神的にはクルティザンヌという立場から、自己犠牲と病気による受動的な死へと至るわけで、見方によっては果てしなき高みに上ってゆく物語でもありように思えます。彼女もアルフレードへの無抵抗にして献身的な愛を捧げることで逆に救われているのでしょうか。彼女のクルティザンヌとしての暗い過去は最後の彼女に与えられたつかの間にして偽りの回復と死によってつぐなわれたと私は考えます。

女性の自己犠牲といえばワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のイゾルデとか「タンホイザー」のエリーザベトを思い浮かべてしまいます。どちらの女性も最後には聖変化とも言える様な気高さを感じてしまうのですが、エリーザベトもイゾルデも非常に能動的な死の衝動に駆られての自己犠牲である点を思い出したとき、先のシュトゥップナーの言葉とあわせてヴィオレッタを考えれば、非常に対照的であることに気付かされます。ヴィオレッタは、あくまでも最後まで生に拘っていたのですから。

それにしても、最後まで分からないのは、いったいぜんたい、アルフレードのどこにヴィオレッタは惚れてしまったのでしょう。ドゥミ・モンドで初めて会ったアルフレード、彼女は表向きには「享楽の世界」を歌いながらも、そんな世界に空しさを感じていたからこそ、純粋無垢なアルフレードの言葉に救いを求めたのでしょうか。彼女は「普通の女性」からみればクルティザンヌという立場で「堕落した女」でありましたが、逆にクルティザンヌでありながら「恋に生きる女性」を求めたという意味においても、明らかに「道を踏み外した女」であったのだなと思ったのでした。

演奏について

この演奏は、1994年、ショルティ82歳のときの公演で、かの巨匠にとって「椿姫」初録音であったそうです。指揮ぶりや最後のカーテンコールの姿を見ていると、その3年後に亡くなってしまうとは到底思えない若々しさです。

とにかく他の演奏を聴いたことがないので、ショルティの演奏が良いとか、リチャード・エアの演出がどうだとかを書くことはできません。しかし、初めて「椿姫」に接すると言う意味では、全く正統的な演出であり、歌手人を含めて申し分ないと思います。こうして延べ数日に渡って繰り返し聴き続けても、一向に飽きることがありませんでしたからね。

 

2004年1月28日水曜日

【音盤】ヴェルディ:歌劇「アイーダ」

ジェイムズ・レヴァイン(指)メトロポリタン歌劇場po.

こちらのDVDは指揮がジェイムズ・レヴァイン、演奏はメトロポリタン歌劇場管弦楽団。録画も1989年10月のメトロポリタン歌劇場でのライヴ映像です。エジプトの騎兵隊長を務めるラダメス役にはプラシド・ドミンゴが起用されています。

あまりにも有名なこの歌劇ですが、映像を伴って鑑賞したのは初めてです。

先の「リゴレット」がロケを行った映画仕立てであったのに対し、こちらは舞台映像ですが、メトロポリタンの舞台の豪華さと華やかさは、もはや言葉を失うほどです。オペラが高価なのも頷けるというものです。舞台セットの神殿は何でできているのでしょう、ここまでするか、という驚きもないでもありませんが。何しろ凱旋シーンでは本物の馬にひかれてラダメスは登場しますし、第4幕の神殿の前では篝火が炊かれます。日本の舞台なら消防法でNGでしょうね。

ドミンゴの歌うラダメスはまったくもって素晴らしく、アイーダ役のアプリーレ・ミッロの歌声も惚れ惚れします。悪役ということになっているアイーダの恋敵アムネリスを演ずるドローラ・ツァーイックは、いかにも憎まれ役的な好演で惚れ惚れします。あまりの演技にアイーダよりもアムネリスの方に感情移入してしまいます。

「アイーダ」といえば第2幕の凱旋更新のシーンが有名ですが、確かにあの場面は壮麗で「絵になる」とは思いますが、劇としては第3幕移行がやはり面白いですね。ラダメス、アイーダ、アムネリスの感情の振幅が深い味わいを出しています。

あまりの音楽と映像の素晴らしさに、私は観ながら何度も涙してしまいましたよ。

More...(いつか書きます)

2004年1月27日火曜日

【音盤】ヴェルディ:歌劇「リゴレット」


  • リッカルド・シャイー(指)ウィーンpo.

ヴェルディの代表的なオペラ「リゴレット」のDVDですが、指揮はリッカルド・シャイー、演奏はウィーン・フィル。好色なマントヴァ公爵にはパヴァロッティ、ジルダにはグルベローバ、リゴレットにはヴィクセル、演出はジャン=ピエール・ポネルと名前を聞いただけで涎が出てきそうです。さらにこのDVDが特徴的なのは、映像が劇場の生録画ではなく舞台をマントヴァに現存するパラッツォ・ドゥカーレなどを用いた映画仕立てとなっていることです。

劇が始まった当初から、数々の名曲のオンパレードで圧倒されてしまいます。まるでオペラのオムニバス版を聴いているような錯覚さえ覚えます。

またセットの豪華さにも目を見張るばかりです。爛熟した貴族社会の饗宴シーンは、私のような善良な小市民には少し過剰であり、若干の嫌悪を覚えなかったわけでもありません。しかし、何度も見るうちに耐性が出来てくるものです。

すると、もうヴェルディの芸術世界にどっぷりとはまってしまい、頭の中はパバロッティの歌うカンツォーネが高らかに鳴り響いてしまいまうのです。もう完全に突き抜けた歌声は快感の粋に達してしまいます。

それにしても「どの女も私にとっては同じ」(第1幕第1場)とは…、モーツアルトの「コシ・ファン・トゥッテ」もそうですが、この時代には、女心に対する根深い不信感があるのでしょうかね。

More...(そのうち書きます)

2001年7月1日日曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮 ヴェルディのレクイエム



ヴェルディ/レクイエム 
  • 指揮:ワレリー・ゲルギエフ 
  • 演奏:サンクトペテルブルク・キーロフ歌劇場管弦楽団と合唱団 
  • ソプラノ:ルネ、フレミング 
  • メゾ・ソプラノ:オリガ・ボロディナ 
  • テノール:アンドレア・ボチェッリ 
  • バス:イルデブランド・ダルカンジェロ 
  • 録音:7/2000 PHILIPS UCCP-1026/7 (国内版) 
ヴェルディのオペラ名曲集を聴いたり、ボチェッリのテノールを聴いたからというわけではなく、ゲルギエフ&キーロフだからという理由で買った盤である。これがヴェルディのレクイエムの決定版かはさておき、豪華キャスト(らしいが、私はボチェッリしか知らない)を配した演奏で、かつパッケージも凝っていて楽しめるCDに仕上がっている。
ゲルギエフといえばエネルギッシュにして濃い演奏を期待するとことで定評がある。この演奏も音響的な迫力は十分であり、ことに繰り返されるディエス・レイ(怒りの日)のテーマの恐ろしさは格別だ。しかし、いわゆる「ゲルギエフ的な濃さ」という点では今一つであるように思える。彼のファンの中には、この演奏を不満を感じる人もいるかもしれない。近々「春の祭典」が発売されるらしいが、こちらも楽しみである。
ボチェッリはビールか何かのCFでの曲でも歌っているらしく、CDショップに行くと彼のコーナーが出来ているほど。人気があるのかな? この中では、唯一声を知っている歌手であるが、ちょっと異質な声に聴こえるのは気のせいだろうか。

2001年6月22日金曜日

【音盤】ヴェルディにの一端に触れる

ヴェルディ オペラ名場面集 
  1. ナブッコ:シノーポリ&ベルリン・ドイツ・オペラ管 
  2. 椿姫:クライバー&バイエルン国立管 
  3. リゴレット:クーベリック&ミラノ・スカラ座管 
  4. 運命の力:シノーポリ&フィルハーモニア管 
  5. トロヴァトーレ:セラフィン&ミラノ・スカラ座管 
  6. アイーダ:アバド&ミラノ・スカラ座管 

北海道は梅雨がないとは言うものの、このごろは余り天気もすぐれず、肌寒い日々が続いている。なんだかジメジメして気分が晴れないので、以前買い置きしておいたオペラの名曲集を引っ張り出した。
クラシック音楽のダイジェスト版とか、「アダージョ・カラヤン」などに代表されるようなものは、邪道のような気がして触手は全く伸びない。オペラは全く聴かないため、素人の状態、恥ずかしい話、椿姫の「ああ、そはかの人か」さえ知らないほどである。最初は「名曲集」みたいのは抵抗があったのだが、割り切ってしまえば、こんなにオイシイ盤はないかもしれないと思う。
CD2枚組で、ヴェルディの名曲が名演奏で、それこそいいところだけ納められている。歌手もドミンゴとかカレーラスとか、超有名どころが歌っており、ヴェルディの明るい世界が堪能できる。これが2000円というのだから、お買い得であった。
オペラを聴かないとは言っても、アイーダやらリゴレットのフレーズは、どこかで聴いたことのあるものだし、何と言ってもヴェルディの曲は、スコーンと抜けた感じがして気持ちがいい。やっぱりイタリア人なんだなあと思う。
梅雨で気分のすぐれないときは、能天気な(?)イタリアものが似合うかもしれない


 

アンドレア・ボチェッリ/ヴェルディ・アリア集 
ドロヴァトーレ、リゴレット、仮面舞踏会、アイーダ 椿姫、十字軍のロンバルディア人、エルナーニ ドン・カルロ、ルイザ・ミラー、運命の力 
  • メータ 指揮  
  • イスラエル・フィルハーモニー管 
  • PHILIPS UCCP-1003(国内版)

もう一つ、ヴェルディを聴いてみた。人気のテノール歌手アンドレア・ボチェッリの第6段目のリリースのものらしい。人気のと言われても、オペラ音痴の私には「オペラ歌手てのはやっぱりヒゲ面の人が多いのかな」くらいのものしか分からない。
聴いてみるとなんとも伸びやかにして気持ちがいい。体の中から全ての細胞が陽性に入れ替わってしまうかのようで、何だか分からないが、これぞイタリア!これぞヴェルディ!という気持ちになってくる。こういう風に前向きに生きなきゃダメだなとさえ思う。
いても立ってもいられなくなって、両手を広げて大きな声で歌いたくなる。ヴェルディというのは、こぶしの使い方といい、「クラシック道場入門」で玉木正之さんが書いていたが、まさに「演歌師」だと思う。♪ブンチャカチャッチャ、ブンチャカチャッチャ♪だものなあ~~(笑)