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2009年3月21日土曜日

【本棚】津村記久子:ポトスライムの舟?第140回芥川賞受賞作

友人と話していると、私は世間に対する認識がひどく甘いらしく、特に派遣とか非正規雇用とか、または最低年収に対する常識が現実とズレていると厳しく批判されます。森永卓郎が「年収300万円で生きる」みたいな本を書きましたが、今や年収300万円ももらえればいい方なのであると。そう言われてしまう私は、弱者に対する思いやりや視点が欠けているのだろうとなと思わざるを得ません。彼ら彼女らの生き方や痛みも分からないのだろうなと。

だから、本書を読んだ第一印象も、この小説に描かれるような生活とか境遇の人に対してのシンパシーが生まれてこない。何なのこの小説、ごく狭い世界の個人的なことが、ダラダラと綴られている、大人になりきれないオトナたちの生活が描かれているだけで、一言で言えば「退屈」。これが最近の芥川賞の内実?などと思ってしまう。大して小説なんて読んだことがないくせに、偉そうにです。

でも、読み終えて読み捨てたハズの作品ではあったのに、ずっとアタマの片隅に何かが残り続けている。あたかもポトスの根が、水鉢の中でグルグルと根を張るかのように、何かがひっかかる。そんなに無視していい作品なのかと、自分の欠落に目を閉じていていいのかと。いや、やはり「芥川賞」ということに、何がしかの「意味」を見出そうとしていたのかもしれません。

さして長い作品ではありませんから、再読してみました。すると、主人公ナガセが何をもがいていたのか、やっと見えてきました。

ナガセは年収の低さとか、派遣という立場とか、30歳になっても独身であることとか、そういう分かりやすい不安定さだけが問題なのではない。以前の職場ではパワハラと気違いじみたパワーゲームに傷ついた。そもそもが、働くとか生きるということに対する意味が希薄になっていること、ムリにでも自由な時間を潰し何かしていなくては不安で仕方がないという精神状態こそがモンダイなのです。

自分の時間や人生を切り売りしているその代償として、働く動機や確実な成果が欲しい。働くためのモチベーションを得るために『今がいちばんの働き盛り』と腕に刺青を彫ろうとします。あまりにリスキーな行動ですから思いとどまり、次に年収全部をためて世界一周クルージングをするということを目標にします。たまたま目に留まった職場のポスターで思いついた程度のものであったとしても、とにかくすがらなくてはならない。自分に対する報償、ささやかだけど大切な失地回復運動。

ナガセは小説後半でヒドイ風邪で職場を休むことになります。そして、彼女の中で何かが変化していきます。休んでいる間にたまたま会社がボーナスをくれて、はからずも世界一周のお金が溜まっということもありましょう。休んだら、自分が根本から変ってしまうのではないかとまで思いつめ、それでもそこまでして維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが、生活を維持して。と考えていた彼女。病気で床に伏したことが、彼女の周りは何も変化していないのに、彼女には何がしかの意味を付与したことは、前半と後半の小説風景をがらりと一変させるほどのものがあります。

私は小説のラストに向けてさらにナガセに不幸や挫折が訪れやしないかと不安だったのですが、作者はそんな意地の悪いことはしませんでした。誰もが「小説」や「映画」の主人公のように強くはありませんからね。葛藤に対する克服とかも用意しません。村上龍氏の選評であるコントロールできそうにないものを何とかコントロールしようという意志でもありません。そんなテーマからは遠い地平に作者(たち)はいる、そういう「マッチョ性」から最も遠いことを描いているのですから。作者はもっと現実的なものを提示したのです。

それとて、本当にささやかなもので、大きなドラマでも事件でも何でもありません、解決でさえありません。しかし日常のそういうものをいとおしく思う気持ちがなければ、このつまらない人生(=作品世界)などに本当に意味などないのかもしれないと思ったことも確か。これはハケンとかだけの物語ではなく、働くとか生きる人全てに対する、ごくごく控え目なメッセージなんですね。

ととらえました。浅いかな・・・、まあ・・・文春もそろそろ「芥川賞」なんて止めたらとは思いますけどね。

2006年4月16日日曜日

町田康:きれぎれ、人生の聖

彼のエッセイだけ読んで評するのも何なので、2000年度の芥川賞受賞作ほかを納めた本書を読んでみました。何故この作品が芥川賞なのか私には理解できませんが、バブル崩壊後の時代の雰囲気を感じた評者が推したのでしょうか。反逆児でパンクロッカーであった町田氏が純文学において最高の名誉とされる賞を受賞してしまったことを、どのように感じているのかは興味深いところです。

芥川賞の意味はさておくにしても、作品としては極めて面白い。本作品もくんくんと一気に読んでしまいました。

作品の内容を細かく書くのは、本当に野暮なことですから、それはやめるにしても、「きれぎれ」の主人公が資産家の息子でありながら、いい年になっても定職もつかずに、ブラブラと親の金を使って遊んでいるという様は、彼のほかの作品である「へらへらぼっちゃん」(読んでない)という人物スタイルと通底するものがあるのだろうなと。

そうなんですね、町田氏自らが資産家の息子であったのかは分かりませんが、作品からは資産家故のボンボンとした感じ、切羽つまったころのなさを感じます。それが物語から悲惨さを剥ぎ取り純度を高めながら全く違った方向へ進ませます。世間から一歩立ち位置を離れたところで、社会も人間も自分さえも客観視するという態度、その他者性こそが町田文学の諧謔性のルーツかなと。ここらあたりは、さすがに関西のノリです。

しかも町田氏独特の世間とのズレ(不適応)はここでも健在で、その態度は根が反逆者あるいは没落者ゆえなのか。現実と折り合いをつけられないことを、徹底した諧謔と自虐に紛らわせ、どこまでも堕ちてゆく。だけども最後は何だか透明な存在となって救われるみたいな。笑いに包まれているけれど人間洞察は鋭い。

ストーリーは不条理(>よく分からないって)の連続。「ママンが死んだ」なんて書いている当たりカミュの「異邦人」かよって思ったり、そういえば脳内に甲虫だものなと(>毒虫はカフカだって)。あるいは、太宰治や坂口安吾を彷彿とすると思う人もいるみたいですが、私にはどちらかというと筒井康隆的諧謔を感じたり、なかったり。(こうして羅列すると「新潮社の100冊」みたいだな)

そういうわけで「読後感として何も残らない」という感想は当たらず。この不快感と爽快さの絶妙なるバランス。人生と社会における不条理性と諦念と自虐と救い(か?)、悪夢と現実。やけっぱちなテロル。ちっぽけな悪意に満ちた快感。読書をすることの愉悦とひきつり。

2006年2月14日火曜日

【本棚】絲山秋子:沖で待つ~第134回芥川賞受賞作

第134回芥川賞を受賞した絲山秋子氏の「沖で待つ」が文藝春秋3月号に掲載されているので読んでみました。読んだ感想としては、これが現代の純文学賞のレベルなのかと疑問符を持つものでありました。

作品そのものは、懐かしくて、いとおしいくらいに切ないテーマーを扱っている点で秀逸だと思いますが、一方でこのくらいのテーマと内容であればコミックの世界を探せば類似の作品は幾らでもあるのではないかと思ったりします。

瑞々しさや優しい気持ちには満たされるのですが、なんだか、私が文学に求めるものとは違っているなと。純文学とはなどと論ずる気は毛頭ありませんが(論じる土台もないし)、あまりにもフツー過ぎて拍子抜けといいますか・・・。純文学はやっとマンガの世界に追いついたってことなんでしょうか。(具体的にどのマンガ作品に似ているかと言われても困りますが)

賞の選考者の多くが本作の「新しさ」や(河野多恵子氏)、総合職同期入社の男女という関係性(黒井千次氏)、あるいは友人以上恋人以下の関係(山田詠美、高樹のぶ子、池澤夏樹氏)を描ききったことに評価を与えていますが、石原慎太郎氏のように「本質的主題の喪失」とまでは思わないものの、作品と評者の座標軸のズレを感じないわけではありません。村上龍氏が選評で本作に全く触れないのは彼らしいか。

補足しますが「芥川賞」と考えなければ良い小説です。「芥川賞」とか純文学とかに、とっくに意味などなくなっているということなんでしょう。「○○賞」とは、賞の権威で雑誌やら本を買ってしまう、浅はかな私のようなヲヤジのためのキャッチコピーでしかなかったか。

2003年10月1日水曜日

【本棚】平野啓一郎:日蝕


(素人のネガティブな感想なので、読まれる方はご注意ください)

小説を読む愉しみという点で考えるならば、平野氏の「日蝕」は私に何を提示してくれたか。史上最年少での芥川賞受賞、三島由紀夫の再来というキャッチ、それなりに期待して読んだのだが私には芥川賞を取るほどの力がどこに隠されているのか、ついぞ分らなかった。

物語は15世紀フランス、一人称形式の追憶のかたちで書かれる若きドミニコ派修道士の不思議な体験が骨子。主人公は、基督教と異端哲学を融合させたいという野望を持って旅を始めるが、師の勧めもあり錬金術師と出会う。更には両性具有者までもが登場し、両性具有者は当時流行した厄疫の汚名のもと異端審問の果てに焚刑に処せられる。そのときに霊的な奇跡(?)が生じ主人公にとって究極の至福と統一感をもたらす体験となるというもの。

しかしながら、四方田犬彦氏が文庫本解説で「通過儀礼」と称する程には個人としての軋みが感じられず、傍観的で受動的な印象しか受けないところは大いに不満。平野氏は1頁以上の空白頁を挿入することで、体験の全きさを表現したかったのかもしれないが、私には主人公への感情移入もできなかったため、頁のごとく白々しい気持ちが残るのみ。

「日蝕」というタイトル、基督教と異端哲学の融合、錬金術、両性具有者という素材からは、陽と陰の融合あるいは統合という、主人公が求めたテーマが見え隠れするのだが、当の平野氏は陽と陰の融合を希求しているわけでは全くなく、従ってそれを感覚的にのみ表現しようとしているところに弱さを感じる。

そもそも三島との共通点が一体どこにあるというのか。耽美というにはどこか即物的であり、身を恥じ入るような背徳も読み取れない(三島を耽美と背徳という言葉に単純化することに意義はあろうが)。平野氏に特徴的な古典的な文体(鴎外の文体を模したらしいが)は確かにひとつの世界を作ってはいるものの、物語内容や描写、詳細に読めば文体さえ、(当たり前のことではあろうが)若く現代日本的的な感性の横溢を感じる。それ故、古典的な文体はわざとらしく、逆に何かを隠蔽しているのではないかとさえ思えてしまう。

中世の基督教の神学論争などを舞台としている点は、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」を彷彿とさせるが、内容世界において比肩するべきものはない。洞窟の場面と焚刑の場面などは、話題性の点からも読み応えはあるかも知れないが、私には村や洞窟に至る森の描写の方が見事に感じる。

畢竟彼の小説は細部と描写美によって成立しているだけのようにも思え、一読した限りにおいては芥川賞受賞という作品価値を見出すことが私にはできなかった。

ただ、難解といわれる文体が読みにくかったかといえば全くそういうことはなく、始めの数頁で彼の漢字使いに慣れてしまえば、薄い本でもあるしファンタジー小説を読むのと何の変わりもない。

・・・・・ううむ、ケチョンケチョンだな・・・・・平野さん、ごめんなさい。この小説を高く評価する方、すみません、自分にはこの作品は合いませんでした。

2001年3月16日金曜日

【本棚】柳美里:家族シネマ

「家族シネマ」は1997年の第116回芥川賞受賞作である。家族というものの虚構と実像を書いたとか、
おそらくその手の書評は、数多く書かれているのだと思う。

 私は柳の小説を「命」「魂」しか読んだことがなく、この代表作の内容に関する事前知識もほとんどない状況でこの小説に接した。私はこの小説からは、彼女が書いた「家族の虚構」というものよりも「柳
美里」の等身大が浮き出てくるようで、切実なる思いを感じながらページを繰った。

 三つの短編、中篇が納められた文庫だが、自らの体にみみずばれに似た傷を付けるかのような自傷行為、あるいは鈍い刃物で皮膚を切り裂き、そこに生々しい肉の色が見えているような、そんな小説である。小説として語られる文体や言葉が、ぎりぎりの線で軋むかのような音を立てており、付け入る隙や、わけ知り顔で評論するような輩を冷たい視線で追い返すかのような凄みがある。

とにかく文章がすごい。解説は鈴木光司が書いているが、小説家は解説も的確だ、引用しよう。

柳美里さんが描写する風景は不思議だ。ガラス細工のように刺々しく、触れれば肌には傷が走って血が滲み出そうなほど、まさにいきりたっているように感じられる。

そう、彼女の書く風景に限らず、いろいろなものが、落ち着きおさまるところがないまま、浮遊し傷を負っている。「家族シネマ」の中で、「母はいつも百円ライターを握りしめ崖っ縁で生きている」という記述があるが、まさに主人公たちにもあてはまるかのような言葉だ。傷ついた過去や他人に絶対に理解されないような何かを持ったものたちが、現実と折り合いが付けにくく、なんとか生きあがくそのさまは、読んでいて痛々しい。

家族の虚構や再生ということで感じたことは、真摯に生きる姿を演じている自分を、自らの目では確認できず、他人からの視線(あるいはカメラ)を通してのみ現実として理解できるかのような、現代に生きるものたちのリアリティの喪失なのだが、これは多分この小説のテーマではないだろう。

文庫裏表紙に家族が価値あるものかを現代に問う名作とあるが、私にはそんな問題提起をこの小説からは感じない。そもそも、この小説で語られる家族は最初から壊れたものとして存在している。そして誰も再生させようなんて考えていない。この家族を見ていると、「家族の幸せ」なんて幻想でしかない、と暗澹たる気持ちになる。壊れた家族を持った、ある種の喪失をもったものたちの生きるさまが、柳独特の文体で迫ってくるのみだ。ただ、柳の投影たる主人公たちだけは、どこかに辿り付きたく、なにかにすがり付こうとしているかのようだ。単純な幸せ探しではない、でも、ある意味では彼女自身の再生への願いを込めた自傷行為とも言える小説であるように思えてくる。