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2005年11月3日木曜日

許光俊:「オレのクラシック」

今更、許センセに教えを請わなくても良いような気もするのですが、HMVの解説はついつい読んでしまいますし、どんな面白い演奏が発売されているのか気にもなりますので、題名につられて買ってしまいました。

「オレ」のとわざわざ書いているように、許氏の好み全開であります。今までの本でさえ一般向けの大衆迎合的なところがあったのだそうです。また一般向けでない本を求める声も大きくこの際だから、クラシックに限らず、あれやこれや書いたのだそうです。本書の大半を占める「オレのCD」はHMVのサイトに掲載された文章がベースで目新しくはないのですが・・・

許氏の少し偽悪的な文章は非常にストレートであり、「まずいものは、まずい」的に感覚的です。「○○の演奏を聴くと、この曲が△△であったことが良く分かる」というような書き方も多く一読して成る程と納得してしまうところがあるのですが、事はそう単純ではないはずです。彼が「オレが認めない指揮者たち」として例に挙げるラトル、ヤコヴス、ヘレッヴェッヘ、ゲルギエフ、アバド、シャイー、マカールなどにも賛否ありましょう。

しかし、どうしてこういう「過激さ」や「分かりやすさ」や「単純さ」を評に求めてしまうのでしょう。この傾向は何かに似てはいないかとふと考えます。現実世界があまりに混沌としている故の逆説なのでしょうか。音楽界においては、商業主義のオブラートにまみれた愚にも付かない音楽評や、専門家しか分からない用語の羅列による解説(このごろ余り見ない)のため、ホントウのところが見えなくなっているということなのか。こういう本が求められる背景こそが音楽界の問題なのかも知れないとは思うものの、所詮「音楽」のことですから深入りは止めます。

付記するならば、この本で気になったのは、実は「クラシックの未来」と題された一文です。許氏はオレはクラシックはもう滅びたと思っていると断言します。普遍性、真実、真理、理念、理想・・・・・・そういったクラシックを支えていた概念いまやウソっぽいものとなった、あるいは現代では、そもそも、ウソをつかなくても生きていけるようになったため、近代の生み出したクラシックは、突然、古くなってしまったと説明しています。

かなりの論理的飛躍で結論だけ書いていますが、もしそうだとするならば、クラシック音楽のみならず、(許氏が前提とする)近代的な概念が崩壊しつつあることを示唆しいます。あらゆるものが変質していることになり、こと「オレ」のだとか閉鎖的なことを書いている場合ではない、と一瞬思ったのですが、

それら(普遍性とか真実とか、真理とか理念とか)はウソとまでは言わないにしても、一部の人にとってしか、正しくないことがはっきりした。別の人間は別の真実や理念を持っている可能性も明確に意識されるようになった。これはやっぱり、進歩と言って言いすぎなら、次の段階に進んだというべきではないのか?

ということは、あからさまな「オレ様主義」の台頭であるということです。時代の変化を、仮にも大学教授がこんなにサラリ書いてしまっていいものかと思うと同時に、ホントウにそうなのかという疑念も生じるのでした。

許氏のその他のCD評については、特にどうということもなし、いくつかは(是非)購入したいなとは思っていますが。

2004年4月18日日曜日

【本棚】許光俊:「生きていくためのクラシック」

以前『世界最高のクラシック』という本を紹介しましたが、これはその続編です。タイトルも『世界最高のクラシック 第Ⅱ章』とされています。それにしても、『世界最高』だの『生きていくための』とは、何とも大げさです。

許氏は『最初に』で『なぜ、私は「世界最高」にこだわるのか』と自問し、それに対し以下のように自答しています。

私の生は、もう十分に退屈で、つまらないからである。平凡で、卑俗だからである。
生が何が何でも生きるに値するものとは、どうしても考えられないからである。

だから「世界最高」にこだわるのだと、『生きるための自己弁護』が必要で、生きるに足る人生であることを確信するために例えば最高の音楽が必要なんだと。

許氏は1965年生まれで私よりも年下ですが、なぜそのような諦念を持っているのか全く理解に苦しみますし、彼の諦観につきあうほど私は情緒的人間ではありません。それでも許氏独特の観点からセレクトされた演奏がどういうものであるかは、暇な休日や苦痛でしかない夜の通勤電車の中での慰みにはなります。

この本で紹介しているのは、あるテーマを定めて(例えば第4章「岩のブルックナーと絹のブルックナー」というように)いくつかの演奏を対比して解説しています。彼が「生きていくための」と自信を持って主張するだけあって、掲載されている演奏はベタ褒めです。文章を読んでいるだけでいたたまれなくなり、すぐにでもCD店で求めたくなってしまうような書きぶりでして、聴かずに死ねるかという気にさせてくれます。(ただ、それが延々と続くので閉口するのですが)

一方で以下のような辛らつな文章も彼ならではでしょうか。

(ベルティーニは何故)世界的に見れば幼児レベルでしかない日本のオーケストラを指揮しているのか。また、虚名ばかりのろくでもない指揮者たちがクズのようなCDを作り続けている一方、ベルティーニの録音が著しく少ないのはなぜなのか。

ごめんなさい、私は「幼児レベル」の日本のオケにも、「クズのような」商業主義の演奏にも感動してしまいます。許氏のような選別耳も知識もありません。

ということで、彼が「生きてゆくため」に必要とした指揮者は以下です。(『世界最高のクラシック』で紹介している識者は、ほぼ避けられています)

リヒター、パイヤール、クリスティ、ジュリーニ、コルボ、ショルティ、スヴェトラーノフ、マタチッチ、レーグナー、マルティノン、ベルティーニ、クーベリック、ムラヴィンスキー、アーノンクール、ケーゲル、ザンデルリンク、セル、パティス、パーンスタイン、ベーム。

2003年5月4日日曜日

許光俊の「世界最高のクラシック」


許光俊氏という音楽評論家を好きか嫌いかは別として、非常に哀しい本だ。何故哀しいか。彼の悟りが哀しいのだ。

それは「あとがき」に書かれていた彼の、クラシックに対する姿勢だ。『あえて「世界最高」という言葉を冠したこの本を書こうと思った本当に大きな理由は、クラシック音楽がすでに博物館入りしたと私は認識しているからだ』(P.244)と彼は書く。自らそれを『寂しい考え』と認めてはいるのだが、許氏にしてかと思ってしまうのである。

考えてみると、許氏は過激な文章で知られてはいるが、宇野氏のような耽溺型ではなく、クラシックとある距離を保っているところがなきにしもあらずだ。許氏は彼自身言うように「音楽ならば何でも良い」というタイプではなく『「まあまあ」が我慢できず、「最高」だけを欲しがるようなわがままな人間』(P.5)なのである

彼がこのように考えるのが、クラシック音楽が過去のものであるが故に、これからいくらでも「最高」のものが手に入るような、同時代のものではないということの査証だとするならば、私の焦燥感は募る。「博物館入り」したものであっても、過去の演奏には玉石混合、膨大な録音の山が存在しており、その中から自分にとって好ましいと思える演奏に邂逅するのは至難の技でもあるわけだ。

許氏が「最高」と認める指揮者や演奏がどのようなものなのかは、おおよそ許氏の著作に通じている方なら想像がつくだろうが、この本では指揮者を5つのタイプに分類して語っているところが面白い。すなわち

「ナイーブ時代の大指揮者たち、または古典主義的幸福」
「現代にあってなお幸福な指揮者たち、または擬古典主義の平和」
「普遍化を目指した指揮者たち、または20世紀が夢見た美」
「エキゾチックな指揮者たち、またはコスモポリタンの喜び」
「懐疑に沈む指揮者たち、またはマニエリスムの廃退と人工美」

それぞれの分類に、どの指揮者が入っているのか、読む前に想像するのも楽しいものではある。さあ、許氏の文章を読んで、彼の示す「最高の演奏」に耽溺しようではないか(^^) クラシック初級者のワタシは、彼の示す盤のほとんどが未聴という、幸福な状態であったことだけは付記しておこう。