2003年5月4日日曜日

許光俊の「世界最高のクラシック」


許光俊氏という音楽評論家を好きか嫌いかは別として、非常に哀しい本だ。何故哀しいか。彼の悟りが哀しいのだ。

それは「あとがき」に書かれていた彼の、クラシックに対する姿勢だ。『あえて「世界最高」という言葉を冠したこの本を書こうと思った本当に大きな理由は、クラシック音楽がすでに博物館入りしたと私は認識しているからだ』(P.244)と彼は書く。自らそれを『寂しい考え』と認めてはいるのだが、許氏にしてかと思ってしまうのである。

考えてみると、許氏は過激な文章で知られてはいるが、宇野氏のような耽溺型ではなく、クラシックとある距離を保っているところがなきにしもあらずだ。許氏は彼自身言うように「音楽ならば何でも良い」というタイプではなく『「まあまあ」が我慢できず、「最高」だけを欲しがるようなわがままな人間』(P.5)なのである

彼がこのように考えるのが、クラシック音楽が過去のものであるが故に、これからいくらでも「最高」のものが手に入るような、同時代のものではないということの査証だとするならば、私の焦燥感は募る。「博物館入り」したものであっても、過去の演奏には玉石混合、膨大な録音の山が存在しており、その中から自分にとって好ましいと思える演奏に邂逅するのは至難の技でもあるわけだ。

許氏が「最高」と認める指揮者や演奏がどのようなものなのかは、おおよそ許氏の著作に通じている方なら想像がつくだろうが、この本では指揮者を5つのタイプに分類して語っているところが面白い。すなわち

「ナイーブ時代の大指揮者たち、または古典主義的幸福」
「現代にあってなお幸福な指揮者たち、または擬古典主義の平和」
「普遍化を目指した指揮者たち、または20世紀が夢見た美」
「エキゾチックな指揮者たち、またはコスモポリタンの喜び」
「懐疑に沈む指揮者たち、またはマニエリスムの廃退と人工美」

それぞれの分類に、どの指揮者が入っているのか、読む前に想像するのも楽しいものではある。さあ、許氏の文章を読んで、彼の示す「最高の演奏」に耽溺しようではないか(^^) クラシック初級者のワタシは、彼の示す盤のほとんどが未聴という、幸福な状態であったことだけは付記しておこう。