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2009年3月30日月曜日

【本棚】下村治:日本は悪くない 悪いのはアメリカだ


神谷氏が自ウェブや『強欲資本主義・ウォール街の自爆』(→レビュ)で紹介していた下村治氏の著書が復刊されておりましたので読んでみました。初版は1987年です。サブプライム危機後の現在にもそのまま当てはまる予言と批判となっており、書評やネット上では下村氏の慧眼を評価する声を一部で見ることができます。

しかし、よく考えると経済というか日本が、バブル時期の20年前と何も変わっていないこと、あるいは、新自由主義が崩壊した世界においても、相変わらずの対米追従であり、自国の論理を構築できないままの未熟国であることが露呈されたたに過ぎないのかもしれません。ドルの崩落の危険性について下村氏も指摘していますが、今でも同じ論調の本はあちこちに山積です。

下村氏は全8章で同じ理論を繰り返しています。下村氏は、とにかく「アメリカの言いがかりと詭弁」に怒っています。高名な経済学者でありながら語り口も平易ですから、読み物としてもあっという間に読めますし、イロイロな意味で深い感銘を受けます。

骨子はこうです。アメリカ国見一丸となって借金をしてまでの消費狂いのせいで双子の赤字が生じている、それを他国(=日本)のせいにして日本国内消費を増やせだの、輸出を減らせだの文句を言うことはオカシイ。キサマラこそ借金を止めて消費を縮小せよ。日本は輸出が減るから生産は減るけど、他国の消費に頼ってバブルを謳歌していることこそ間違い。生産を縮小して身の丈にあった経済に戻りなさい、というもの。

下村氏は、多国籍企業やグローバル経済にも異を唱えているようです。自由貿易やグローバル企業は進出先の産業を弱体化させ食い物にするというような植民地時代の考え方が今でも生きていると主張します。競争力の弱い自国の産業は保護が必要であると。

20年経った今でも、アメリカの消費はいよいよもって狂気の域に達し破裂しました。今回の経済不調の原因が市場主義にあったわけでもない。確かにサブプライム・ローンとかCDSなどの金融派生商品を生み出した金融業者と、それに信用を付与し続けた格付機関には大きな責任があります。そして、そんなワケの分からない商品を買いまくった銀行とか保険会社にも責任の一端はあります。

サブプライムで痛い思いをした日本経済は、「新自由主義」とか「市場主義」の悪弊を言い募り「資本主義」のパラダイムが変換しつつあると主張し、「縮小均衡」や「保護主義」に向かうべきという主張が目に付きます。20年前の下村氏も同じことを主張します。アメリカが本気で経済を立て直す(赤字を解消する)気なら、GNP縮小を覚悟の上で「歳出削減」と「増税」しか道はない、日本も多少の痛みを覚悟の上で(数年前のレベルに戻るだけのことと氏は言う)縮小均衡に向かえと。

自国を見直し、大切なものは育てるという認識は正しいと思います。ただし、ここまでグローバル化した世界において、グローバル化そのものの流れを止めることはもはやできません。保護主義(バイアメリカン条項などもそうでしょうか)も一時的には効果があるかもしれませんが長期的戦略ではない。そんなことをしていたら、更に経済は硬直化し新陳代謝をすることなく縮小してしまう。経済が一時的にオカシクなったものですから、「内向き」こそが是、「節約こそが是」という風潮も、ゆり戻しの範囲であれば受け入れるべき点はありましょう。

怒りまくっている氏の最後の結びは以下のような文言です。

(現在の異常な経済運営を改めるなかで)ただし、その際、忘れてならない基本的問題は、日本の一億二千万人の生活をどうするか、よりよい就業の機会を与えるにはどうすべきか、という点なのである。

これは自由貿易よりも完全雇用、経済活動はその国の国民が生きていくためにある、という氏の一貫した理念は明確で力を与えてくれます。

2006年12月10日日曜日

映画:硫黄島からの手紙


本日に封切られたばかりの「硫黄島からの手紙」を観てきました。クリント・イーストウッド監督、スティーブン・スピルバーグ製作の硫黄島2部作のうち、こちらは、日本から見た硫黄島の戦争を描いたものです。「父親たちの星条旗」を観て、是非こちらも観なくてはと思っていましたが、期待以上の出来に心底ビックリです。

映画は渡辺謙が演じる栗林中将と二ノ宮和也が演じる一兵卒の西郷。この二つの軸を中心に、硫黄島で何が起きたのかを淡々と描いていきます。人物像と背景の描き方に過度の感情移入を廃している点、日本映画だと、もしかすると、残された家族への愛惜やそれを逆転した愛国心、あるいは無残に死んだ兵士の姿を過度に表現しがちですが、この映画はかなり抑制的な表現です。

戦場における日本の指揮官たちの愚昧さも、日本兵の自決シーンも、批判的に描いているというよりは、「そこで起きた事実とはこうだった」というような客観的視点があるように思えます。戦闘シーンは「父親達の星条旗」ほどには激烈ではありません。さらに日本兵の実態は、米軍との圧倒的な物量の違いとか、水や食料のなさなど、実際はもっともっと悲惨で酷かったであろうとは思うため、随分と甘い描写であるとは思います。しかし、それでも戦争の泡立つような恐怖と理不尽さに、私は映画の終わりまで身動きすることさえできませんでした。

一方で「手紙」ということから連想する、日本に残された家族や恋人たちのシーンは意外な程に少ない。というか「手紙」を受け取る家族の姿は、一度も出てきません。手紙を書くのはもっぱら硫黄島の兵士ばかりです。

戦場での彼らは「手紙」という抽象的な、あるかないか分からないばかりの繋がりのみを頼りとして自己を守りぬます。自分が自分であることを「手紙」により確認し、本国に残った者には想像だにできない戦場の狂気に身を置いていたということが伝わってきます。

「自らが正義と思える行動を取るように」というアメリカ兵捕虜への母親からの手紙に共感する元憲兵の日本人。彼らが守ったものは、もしかすると家族でも国家でもなく、絶対に譲れない自己であったのかもしれません。命令に背く部下を罰する上官も、もはやこれまでと自決した兵士も、逃走した兵士も、皆な同等な存在と思えてきます。そういう意味からは、非常に内的な映画であるとも感じました。

映画では合理的精神の象徴として栗林忠道中将を描いています。玉砕を禁じ、優秀な指揮官振りを示した人物であることは事実の通りのようです。最期は「予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ」の言葉を残し突撃戦を敢行。映画では、この戦闘で傷を負い、そして苦渋を秘めて自決します。このシーンは全編の中で最も重く感情的に描かれています。冷静とシニカルさを保っていた西郷が、遂に自己を抑制できなくなったのは、残された家族を思ってでも、戦友の死でも、自己の死の予感でもありませんでした。イーストウッドは、彼らの心情をアメリカ人的に理解したかったのではないでしょうか。

蛇足ですが、二ノ宮和也のような「顔」の日本人が当時いたわけがない、という一部の感想には同感です。イーストウッドが共感した日本人兵士の合理的精神も、所詮はアメリカの視点であることは忘れてはならいでしょう。

それにしても、おそらく多くの人が感じると思いますが、こういう映画をアメリカ人に作られてしまうとは、ほとほと、トホホです。

2005年9月17日土曜日

【本棚】関岡英之:「拒否できない日本」


関岡秀之氏は1961年生まれ、大学を卒業後、東京銀行(現・東京三菱銀行)に入稿し証券投資部門ほかを経た後に退職、1999年に早稲田大学大学院理工学研究室に入学しているという一風変わった経歴の方。早稲田大学ではある建築家の研究室に所属し、それがきっかけとなって参加した北京での国際建築家連の世界大会に参加します。そこで感じた一抹の不可解さから、彼は建築界をも超える壮大なテーマに挑むことになってしまいます。

それは一言で言えば本書副題の「アメリカの日本改造が進んでいる」ということです。アメリカの対日圧力要望書である「年次改革用要望書」の存在と、十数年の日本の歴史を振り返ると、まさにその要望書が描くように「改革」が進められてきた実態が明らかになり、アングロ・サクソン(米英)系の個人主義的価値観により日本を塗り替えようとする(ほとんど理解不能の)野望について知ることになります。



本書の内容は、建築、金融、司法、商法などあらゆる分野に「年次改革要望書」の影響が読み取れることを指摘しております。それは日本の国際化とか自由化、国際標準への準拠とか消費者、国民のためと表面的にはされているものの、結果的には米英を中心としたごく一部の勝者が日本で「自由」に動けるようにするための周到な施策と圧力であると看破します。

フリードマン(経済学者、市場原理主義の教祖的存在、1976年ノーベル経済学賞受賞)的な自由主義とは、万人の自由というよりは、投資家や企業経営者たちの自由、つまり平たく言えば金持ちがさらなる金儲けに狂奔する自由を説くものにほかならない (P.204 5.キョーソーという名の民族宗教)



ロナルド・ドーア(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)特別研究員)は『日本型資本主義と市場主義の衝突 日独対アングロサクソン』のなかで、こんにちの「自由化」と言われているものは実は「英米化」にほかならず、それが求めているのは貧富の差を拡大すること、無慈悲な競争を強いること、社会の連帯意識を支えている強調のパターンを破壊することであり、その先に約束されているのは生活の質の劣化である、と述べている。(P.220)


上記の主張や引用のように、関岡氏が現在の「構造改革」の行く末に疑問と警鐘をならしています。

私事になりますが、私自身日々の「無慈悲な競争」の前線で、従来の談合も強調も崩れたゼロサムゲームに似たビジネスを強いられていますが、結果的には「貧者」から「富者」へ単に「所得移転」する役割を担わされてるだけのように感じることがあります(正直、自分達の身銭まで削って真の「勝者」に「貢いで」いる状況)。「富者」はもはや絶対的な「強者」になっており、スタンダードは「強者」が牛耳っています。契約の条件は最初から「片務」です。

関岡氏は「米英」系のやり方について、「法」に対する考え方の違いにまで言及していますが、ここで塩野七生氏の「ローマは一日にしてならず」の一文を思い出しました。

政治体制とは、単なる政治上の問題ではない。どのような政体を選ぶかは、どのような生き方を選ぶかにつながるのである。(P.168 第二章 共和制ローマ 「ローマは一日にしてならず(上)」文庫版)



改革とは、かくも怖ろしいものなのである。失敗すれば、その民族の命取りになるのは当然だが、成功しても、その民族の性格を決し、それによってその民族の将来まで方向づけてしまうからである。軽率に考えてよいたぐいのものではない。(P.172 第二章 共和制ローマ 同上)

蓋し同感。








2004年11月17日水曜日

パウエルの辞任

パウエル国務長官の辞任ニュースが世界を駆け巡っています。イロイロな憶測は乱れ飛んでいますが、ブッシュ新政権がパウエルなきあとでも中道派(ハト派、穏健派ではない)勢力へと舵取りができるようになった、という見方には不安と疑問を感じます。

パウエル辞任は世界情勢を左右しますが、日本的にはアーミテージ副長官や農務長官アン・ベネマンの辞任の方が影響が大きいかもしれません。

私的には「ライスの顔も、そのうち描かなくちゃならないのか」というぐらいの影響しか当面は考えられませんが。(パウエルだって、イラク開戦の頃描いたものです。あまり書くことがないので、「埋め草」でした・・・)

2004年10月14日木曜日

米大統領選の行方と防衛構想

アメリカでは来月の大統領選挙に向けてブッシュとケリー候補がTV討論などで熱弁をふるっています。海外のWeb Newsを見出しだけでも見るとはなしに見ていても、毎日彼らの話題で持ちきりなことが分ります。

今回の選挙は「戦争最中の選挙」であることから、「イラク戦争」を含め今後の防衛についてどう考えているのか、今後4年間で何を実現させるのかを占う点でも、日本にとっても無関係の話題ではありません。

しかしどうなんでしょう、防衛に関して言えば、日本はアメリカ追随の姿勢から、武器輸出三原則の見直し、憲法改正、独自の防衛力構想をも含め、何か議論がかみ合っていないような気がしています。「テロとの戦い」というのを最大限許容したとしても、ハード面でもソフト面でも冷戦時代をひきづっていないかと。その最たるものがMD(Missile Defence)だったりします。

これについて、10月9日付けのJMMは「アメリカの選択、日本の選択」と題しこの問題は日本の産業競争力を損なう危険があり、計画に参加すべきではないし、また武器輸出三原則の緩和も日本経済を繁栄させるという観点から見て、下策だと書いており、納得させられました。

「産業競争力を損なう」という主張は、防衛産業という国家機密に類する産業は国際競争力が働かないためであるとし、以下のように書いています。

戦車や軍用機、そしてハイテクの塊のようなMDなどに至っては、「軍事機密」という隠れ蓑の向こう側で、一体何が妥当な価格なのか、社会的なチェックは不可能です。こうした環境は日本経済の不得手とするところです。MDプロジェクトにおいて、アメリカから強く誘われるまでになった日本の技術力は、民需の過酷な価格と性能の競争によって養われたことを思うと、政治と軍事の影に隠れた世界では、コストと性能という板挟みの中で戦う緊張感を維持することはできないと思います。

MDによる均衡の崩れとか、MDの実質的な効果とか、対テロにMDが必要かとか、果てしない軍拡競争というかつての冷戦時代にもあった技術的問題も被さってきます。北朝鮮の脅威を最大限に考えたとしても、得策かどうかは分りません。

10月12日Washington PostのOP-EDでもDavid Brooks氏は、大統領選挙における候補者の主張「赤字の削減」と「軍事費の拡大」の矛盾を鋭く突いており、MDについても以下のように述べています。

A starting point for defense budget skeptics is national missile defense. The Bush administration plans to spend $10.7 billion this year in a rush to deploy a system that even some of its own experts say isn't ready. That spending could be cut in half, to allow the testing for a system that would eventually work against potential adversaries such as North Korea or Iran.

David Brooks氏はMDのほかにも冷戦時代を踏襲したような無駄な軍備について指摘していますが、日本がアメリカの軍事費までをも肩代わりをするようなことに、みすみすなってしまうことは避けてもらいたいものです。

2004年8月22日日曜日

映画:華氏911

今日の東京は暑さもひと段落、昨日からマイケル・ムーアの話題作「華氏911」が公開されていますので、早速観てきました。下の画像はオフィシャルサイトからの無断引用です。公演が終わればサイトもなくなるので画像転載は多めに見てくださいな。

さて、観た感想といえば、前評判は知っておりましたが、なかなかに観ごたえのある、そして重いテーマを持った映画でありました。

「華氏911」が第57回カンヌ国際映画祭でドキュメント映画としてパムドール賞を受賞したこと、アメリカで配給禁止の目にあったことなど、日本でも放映前から話題も豊富でした。内容はといいますと、M・ムーアの主張である強烈なブッシュ批判に満ち満ちた、かなり主観的な映画に仕上がっているように思えました。もはやドキュメンタリーではないですね。

ドキュメンタリーとは何かなどと難しいことは分かりませんし、ドキュメンタリーと言えども作成者の主観は加わるものだという意見もあります。それは確かにそうですし、どんな映像であっても主観なしのフラットなものなどないかも知れません。しかし、ドキュメンタリーとは、そこで写された映像が全てで、それをどう解釈するかは見るものに委ねられるものであるべきです。

そういう観点からは「華氏911」は、恣意的な政治プロパガンダ映画であり、ブッシュと共和党批判の宣伝映画であると批判されるのも最もであると思われます。この映画を観て、ブッシュと共和党を好きになる人は、よほど米国政治について精通しているか、熱狂的な共和党支持者でなければ、ありえないと思えるほどです。

また、M・ムーアの出身地であるミシガン州フリントの貧しさを題材として、貧困者を対象とした軍のスカウトや就職斡旋の現状などに切り込む様も、軍隊への志願者は貧困者だけではないと批判する人もいるでしょう。あるいは、ブッシュとビン・ラディン家の関係、ブッシュとアラブとの繋がり、政府高官たちとカーライル社やハリバートン社など軍産複合体への批判もありますが、これも一面的かもしれません。アラブには言及してもイスラエルにつては一言もありませんし、ネオコンの存在についても言及がありませんから。

では、この映画は民主党プロパガンダの偏向した映画なのでしょうか、答えはNoです。M・ムーアの映画もある意味からは一面的ですが、彼の映画を批判する声も一面的に思えるのです。

ただ唯一、政治色がない声として言えることは、イラク戦争が一体何のための戦争であり、何のためにフリントの若者も、そうではない者たちも、そしてイラクでの民間人や子供も、手足を、普通の生活を、そして命を失わなくてはならないのかという素朴な疑問と憤りと怒りと悲しみです。
クリスマス・イブの夜、メリークリスマスの歌に乗って、アメリカ軍がイラク人嫌疑者の自宅を強制捜査するシーンは、グロテスク以外の何ものでもありませんでした。アメリカの若い兵士が、ヘルメットの中にヘッドフォンを仕込み、ハードロックの強烈なビートを聴きながらイラクとイラク人(敵)を攻撃していると語るシーンは、「地獄の黙示録」の何倍もリアリティがあります。

しかし、その彼や彼女らにしても、アメリカ本国には、おそらくは身の上を案じる家族が心配しながら帰還を待っているのです。そこには数字やデータではない、生身の一人一人の人生があることを改めて突きつけます。

ハードロックを聴きながらイラク人(なぜ敵なのでしょう)を殺す彼らを、不道徳と責めることができるでしょうか、殺人者として罰することができるでしょうか。そうして正常な精神を麻痺させなくては、自分の魂を殺さなくては相手を殺せないところまで、追い詰めてまで行う行為は、一体何のためなのでしょう。一瞬、昨日レビュを書いた「朗読者」を思い出しました。

アメリカ人は、他国のことにほとんど関心がないとよく言われます。今、日本で盛り上がっているオリンピックにしても、米国ではさっぱりだそうです。だからイラク戦争など、近親が戦地に赴くかしない限りは、火星での出来事よりも遠い事件なのかもしれません。そうであるならば、アメリカ人がこの映画を観たことは、大きな意味を持つと思います。

そして映画の底には、あまりにも歪んだ世界が、現出しています。ブッシュがどこかのパーティーで演説しているシーンがありました。「(会場の紳士淑女たちに向かい)持てるものと、さらに持てる皆さん方の(会場から笑い)支援を受けて・・・」みたいな演説です。ブッシュはバカですから、すぐに突付かれますが、彼あるいは彼女らは、決っして表に出てバカなことはしでかさないでしょう、ここにこそ、M・ムーアの突撃が本当は欲しかったと思うのでありました。

2004年7月5日月曜日

【本棚】岸田秀:「日本がアメリカを赦す日」

岸田秀氏の「ものぐさ精神分析」という本によって彼の唱える「史的唯幻論」に触れたのは、かれこれ20年以上も前、まだ大学生の多感で無知な時期でした。


「人間は本能の壊れた動物」という考え方、国家や集団の行動原理を個人のように扱い、精神分析的手法から解明してゆくさまに、文字通り眼から鱗が落ちるような驚きを覚えたものです。

その後いくつか氏の著作を読みましたが、「ものぐさ精神分析」で得たほどの驚きはなかったものの、氏の揺るぎのない論理的な考え方には感銘を受けました。


さて、そんな彼が、満を持してとでもいうのでしょうか、「アメリカ」について書いたのが本書です。この本は、再び私にとって眼から鱗どころではなく、何か積年の瘡蓋が剥げ落ちるかのような思いを抱かせてくれる本となりました。




私はサイト上で、私の聴いたCDやら本の感想をダラダラと無意味に掲載し続けていますが、自分がどんなに感動したものであっても、あまり人に薦めることはしていません。自分は自分、人は人、無知な私が推薦なんておこがましくも、おせっかいであると思うからです。しかし、この本は違います。すべからく、日本人もアメリカ人も読んで、深く内省し、そして次の行動原理を考えるべきであると思うのです。(>おお、究極のおせっかい)


明治に開国を迫られて依頼、日本は自我の分裂した国家であるという説は、いまさら驚くには値しませんし、その自我を外的自我と内的自我とに分けて説明することにも、初めて触れたわけではありません。岸田氏に馴染んでいない方もいらっしゃると思いますので、近代日本の自我に関する主張を引用しておきましょう。


近代日本は、自国を貶め、外国(アメリカを初めとする欧米諸国)を崇拝し、外国のようになろうとする卑屈な外的自我と、外国を憎悪し軽蔑し排除しようとする誇り高い誇大妄想的な内的自我とに分裂した精神病患者のようなものである(第三章 ストックホルム症候群 P.61-62)


氏が言う「自己欺瞞」ということも含め、こういう説に改めて驚いたわけではないのですが、通読しますと、いままでもやもやとしていた部分が、何かあまりにもあっけなく、ストンと落ち着くところに落ち着いたという感慨なのです。

しかし、そんなに簡単に、たった一冊の本で納得してしまうわけにもいきません。しばらくは、岸田氏の主張と自分の中で折り合いをつける作業が必要なようです。例えば、氏の憲法に関する以下のような主張についてもです。


��日本国憲法について)内容が正しいのであれば、押し付けられたものだっていいではないかという議論がありますが、これは誇りを失った卑屈なものの議論です。(正しい)正しい目的は不正な手段を正当化するのではなく、不正な手段は正しい目的を腐らせるのです。(第三章 ストックホルム症候群 P.71-72)


ここだけ読むと、最近主流になってきたナショナリストと同様の主張に読めますが、彼らの主張とは大きく異なっています。すなわち、アメリカと日本の関係を論ずることなく、世界における日本の立場を考えることなくは出発できないと強く主張する点、ここが、今の日本にすべからく欠けている論調であり、私がここのところずうっと拘り続けている点なのです。


国家の分析に個人に当てはまる精神分析の手法を用いるのはおかしいと考える方もあると思います。私もそう思いました。しかし氏は丁寧にも「補論 個人の分析と集団の分析」という一文を文庫本の最後に掲載してくれています。ここにおいて個人の超自我、自我、エスからなる精神構造と国家における皇帝、政府、民衆という役割が同じとする説は瞠目に値します。また記憶というものが、『過去の映像の持続あるいは再生ではなく、現在においてその都度、再構成されるもの』とする説にも説得力があります。そこが氏の史的唯幻論の元になっているのでしょうが。


氏の「ものぐさ精神分析」は今は手元にないのですが、改めて再読も必要かもしれません。いずれにしても、簡単に紹介をし終えることが出来る本ではないようです。都度、私はこの本に書かれたことを反芻してゆくことになるかもしれません。

2004年7月2日金曜日

自衛隊発足五十周年に(駄文)

昨日7月1日は、自衛隊発足五十周年であったそうです。つらつらとキーボードの赴くままテキストを打ちましたが、タイトルの通り結論なしの駄文です。読んでも甲斐ないと思いますので、ご注意ください。


小泉政権になってからの自衛隊に関する「周辺事態」が急速に変貌しているため、自衛隊に関する議論がマスコミやブログ上で盛んです。私のようなノンポリ派でも、自衛隊の在り方について疑問はあるものの「自衛隊廃止」という極論には及び腰になってしまいます。これは天皇問題も同様です。




��月30日の朝日新聞社説は『自衛隊50年――「軍隊でない」を誇りに』と題して、


かつてのソ連のように、日本に直接侵攻してくるかも知れない仮想敵は見あたらない。代わって、大量破壊兵器の拡散や国際テロリズムという新しい脅威にどう立ち向かうかが、国境を越えた自衛隊の課題とされるようになった。



集団的自衛権の行使を禁じた憲法を見直し、海外での武力行使を認めようという声高な改憲論も永田町にはある。


 こうした転換の根底にあるのは、本土の防衛が差し迫った問題ではなくなったいま、自衛隊に様々な新しい任務を与え、活用しようという意図だ。

という具合に、世界情勢が変化している中での自衛隊問題を考えるという視点で以下のように結んでいます。


国の安全は自衛隊だけでは成り立たない。近隣諸国との多国間外交、テロの根をつぶすための途上国支援、大量破壊兵器の拡散防止のための貢献など、まだまだ足りないことだらけである。


 自衛隊は他国で戦争をしない。それが日本にとって国益の源泉であり、誇りでもあることをあらためて刻みたい。

一方、同日の産経新聞社説は『【主張】自衛隊 逆風によく耐えた五十年』と題し、


海外での武力行使を禁じるとする憲法第九条の解釈が制約要因になっている。同条の「戦力不保持」規定も軍隊としての地位や権限を自衛隊に与えてこなかった。そんな逆風の中、他国軍に比しても高い志を維持してきた自衛隊はもっと評価されていい。


 テロや北朝鮮など多様な脅威に的確に対応できる自衛隊像が求められている。自衛隊を一刻も早く憲法上、明確に位置付け、国民の財産として活用することが日本の課題である。

と書いています。テロの脅威という点では同様の認識かもしれませんが、「仮想敵国」という観点からは大きな隔たりがあります。他にも、同日の読売新聞も『[自衛隊50年]「『集団的自衛権』解釈変更を急げ」 』という社説が載りましたが神学論争みたいなものなので紹介は控えます。

さて、7月2日の産経抄では再び自衛隊五十周年に触れています。産経は社説でもそうですが、心情に訴えるウェットな論調が大好きなようです。

世界の国々はどこも「軍隊は国民の財産だ」と考えている。だから人びとはみな軍隊という戦闘集団を大事にし、その功績には最大限の名誉で報いている。それが世界の常識だが、にもかかわらずこの国では…。(中略)▼思えば自衛隊員とその家族にとって、この五十年は“風雪と苦難”の半世紀だったろう。学校で「自衛隊は税金泥棒」と教える教師がいたという。隊員の子らにはどんな耐えがたいトラウマ(精神的外傷)が残ったことか。(中略)▼いま国民の信頼は、災害出動からカンボジアや東ティモールの国際貢献まで。来日したイラクの宗教者は「自衛隊の撤退じゃなく、増派を頼む」と要請して帰国した。ここに至るまでの隊員の歯を食いしばった奮闘と、それを支えた家族の苦労を心の底からねぎらいたい。

長々と引用しましたが、後になるとネット上で読めなくなってしまいますので、「肝い」部分だけを抽出しておきました。


さて、両者の間に深い溝があることは疑い様もありません。それは国家とか国防に関する問題であり、国際関係の中での外交問題でもあります。欧州の列強諸国は、日本が島国内でチャンバラ派遣争いをやっていたときから、ダイナミックな領土拡大、文化侵略活動、植民地主義を貫いてきたわけです。島国の中だけでの争いとは規模も歴史も違いますから、防衛に関しても筋金入りなのだと思います。民族としてのプライドということも強く意識されていますし、日本では想像できないほどの同胞意識、自立意識に驚いたりします。映画「トロイ」を見ていて、そういう意味からはほとほと疲れました。


一方アメリカは、もともといた原住民を皆殺しにして領土を確保しました。それ以来は、豊富な資源に恵まれ大国としての地位を築き、世界各国に共産主義勢力の拡大阻止だとか、独裁政権からの解放だとかいらぬ介入をしてきているわけです。元来、人種差別とジェノサイドがお好きなのです。


日本は、日米不平等条約を結んで依頼、米国の属国としての地位から脱却できないでいまま、アメリカの言われるままに国防を備えてきたのですから、国際貢献だとか外交だとか国防などと言っても、子供がやっとオトナ語を話せるようになったという程度に過ぎないのではないかと思うことがあります。


自衛隊合憲を積極的に唱える人たちは「普通の国」になることを主張しますが、「普通の国」とはしっかりとした主権を有する国であるわけですから、アメリカとの関係を論ずることなく「普通の国」になどなれるとは思えません。日米安保は維持して「普通の国」なんて、考えただけでオバカな話しのような気がします。


安保を維持したまま自衛隊を格上げするということは、子分には今までは護身用のスミス&ウェッソンしか与えていなかったのを、今回はマグナム弾を撃てる銃をあげるよということではないのでしょうか、お前も物分りがよくなってきたから、しっかりやれよと。(ちょっと違うかもしれないが) あくまでも、米国の対日関係が変化しないことが前提です。


仮想敵だか現実敵だかテロだか知りません、まして、それが現実なのかデッチ上げなのかさえ分りませんが、とにかく「ならずもの」がいる以上(尖閣諸島に乗り込む輩も、日本近海に出没する不審船も「ならずもの」ですかね)武力も外交の一手段とするという現実的な選択は間違っていないのでしょう。
しかしそれ以前に、武力がない状態での「外交」がお粗末なまま棚上にしておいて、推進派は武力を有したら毅然とした外交ができるようになるとでも言うのでしょうかね。

それにしても個別論議だけで日本の将来的な方向性が全く見えないという状況は、どうなんでしょう、国としてのビジョンが徹底的に欠けているのではないかと思わざるを得ません。政府も官僚もダメになってしまい、形だけが先行して時代の先(あるいは後)に行くというのは、私には歯止めもタガも外れた状態にしか写りません。閉塞状態の中でプチナショナリズムが育ち、ゆるやかに右傾化してゆくことにも危機感を感じます。


かくして自衛隊問題は私の中で再び曖昧模糊としたままに取り残されることになるのでありました。(ね、読んでも甲斐なかったでしょう・・・)

2004年6月25日金曜日

検証が可能であるということ

「CVID」「完全に、検証可能なやり方で、再生不能なかたちで破壊する(Complete, Verifiable, Irreversible Dismantlement)」とは北朝鮮の核開発プロジェクトに対するアメリカの主張です。これは北朝鮮に対するアメリカの強硬姿勢の現れとも取ることが出来るのですが、一方でイラクの大量破壊兵器に関してもそうであったように、北朝鮮やイラクが近隣諸国の武力が近隣諸国に対し脅威足りうるのかどうか、そこのところをアメリカ側の主張だけをもとにして信用してよいものか、疑問を感じもします。




政府の主張するイラク自衛隊派遣から多国籍軍への参加につながる判断についても、北朝鮮の脅威を前提とした上での国益を護るためと主張しているのですから、盲信・盲従でないことを願いたいところです。


日本国にはアメリカに匹敵する諜報機関も諜報能力も有していないのですから、アメリカの調査結果を正面切って否定することができないわけです。そういう意味からは、情報が著しく「非対称」であると言えます。検証などできないですし、アメリカの主張を疑問視する国との協調関係は全く築けていないように思えます。


相手に対し「完全に、検証可能なやり方で」と主張するからには、自身の調査結果についても本来はそうでなくてはならないわけですから、つまりは最近話題にした「外部監査」という機能が必要なのではないかと思うわけです。イラクの大量破壊兵器に対するパウエル国務長官の政略と詭弁に満ちた発現についても、世界各国は国益にかけてアメリカの妥当性を検証せねばならなかったはずです。


同じ話しは日本国内での年金問題や税金問題についても同様で、政府の示すバランスシートに対しての正当性を評価するようなことがあってこそ、新たな議論が始まるのではないかと、つらつら思うのでした。そういう意味では木村剛氏の活動に期待はしているのですが・・・ちょっと話しがバラバラでしたね。

2004年6月18日金曜日

アメリカの国旗が持つ意味

NHKスペシャルで「21世紀の潮流 アメリカとイスラム」という2回シリーズが放映されています。第1回はイラク人虐待のモデルともいわれるキューバのグアンタナモ収容所とイラクとアフガンに挟まれながら反米姿勢を崩さないイラン革命25年目の素顔に迫るものでした。

グアンタナモ空軍基地にある収容所は悪名高い収容所で、アメリカの国内法も国際法も及ばない場所です。ラムズフェルド国防長官も「彼らを法のもとに裁こうと思っていない、テロを未然に防ぐために疑わしき者を収容しているのだ」と言って憚りません。

番組では、ある日突然失踪した息子が、実はグアンタナモに収容されていることを知ったレバノン人の父親が取材されていました。父親が一枚の写真を取り出して語ります。写真はテロ被疑者がアメリカ軍に捉えられ、グアンタナモに輸送される飛行機内で撮られたものでした。被疑者数十名は覆面をされ、手足を縛られ、ロープのようなもので壁に固定された状態で、軍用機の冷たい鉄板の上に座らされていました。彼らの脇にはアメリカ人が立ち、背後には機内の天井から星条旗が垂れ下がっていました。

父親はその星条旗を指し「アメリカ国旗には私も誇りに感じたこともあった。アメリカ国旗は民主主義と自由の象徴であった。それが、こんな使われ方をするとは」と憤りにうち震え、そして息子の安否を気遣っていました。

E.W.サイードは「わたしたちの民主主義を返せ」という一文で、次のように語っています。

途方もなく犯罪的だと思われるのは、民主主義や自由といった重要な言葉がハイジャックされ、略奪行為や領土侵略や怨恨を晴らすための隠れ蓑に使われていることだ。 アラブ世界についての合衆国の計画はイスラエルのものと同じなってしまった。 シリアと並んで、イラクはかつてイスラエルにとって唯一の重大な軍事的脅威だった。だからこそ、壊滅させねばならなかったのだ。

サイードはアメリカの中東政策がイスラエルを擁護するシオニスト一派の戦略に支配されていることを前提にしていますし、それであっても、彼がアメリカに民主主義と自由の理想を重ねていたことが分ります。ここでアメリカの国旗や愛国心についてのサイードの見方にも触れておく必要があるかもしれません。「もうひとつのアメリカ」という「戦争とプロパガンダ4」にも納められている一文からの引用です。

国旗を振ることに、これほど重要な図象学的な役割を持たせている国は他に知らない。 タクシーにも、男物ジャケットのラベルにも、住宅の前窓や屋根の上にも、そこらじゅうに旗が翻っている。 それは国民イメージの具現化であり、英雄的な耐性と、価値なき敵との戦いに悩まされているという感覚を表している。

これは、アメリカという国に対する荒いスケッチの断片です。アメリカのアイデンティティの根源に国旗と、国旗が象徴する民主主義や自由という精神が込められていたとするならば(レバノン人の父親の言を思い出すまでもなく)現在のアメリカがその精神を冒涜し踏みにじったという主張は、単なる理想論的な悲憤という以上の意味を伴っているようにも思えます。

アメリカの民主主義が絶対であるという価値観に拘泥するものではありませんが、アメリカの世界における位置付けや意味付け、そしてウェイトが変化してしまったことを示唆しているのかもしれません。アメリカ政権内部でのシオニスト、ネオコンなどの保守派と中道派の局地的な主導権争いが繰り返されるなかで、アメリカ全体が大きく舵をとり始めているのではないかという認識ですが。

そういう認識からアメリカ対日本という関係を考える必要がやはりあるのであろうとは思うのです。

2004年6月14日月曜日

アメリカの民主主義

6月5日に、元アメリカ大統領のレーガンがアルツハイマー病の合併症で亡くなりました、享年93歳の大往生でした。日本のマスコミ各社もレーガンの功績を高らかに称えていましたが、アメリカの論調も同じであったらしく、これは現職のブッシュのあまりのダメさ加減のため、あてつけのようにレーガン賛美をしていたのだそうです。




翌日の6月6日は「Dデー」すなわち、第2次世界大戦で連合国軍が攻勢に転じるきっかけとなったノルマンディー上陸作戦の記念日で今年は60周年でした。ブッシュ米大統領は、


この地で尊い目的のため戦ったすべての解放者を尊敬する。米国は友人のため再び同じことをする

という事を述べたようです。かのレーガンはDデー40周年の式典で、


この地に倒れた人々よ。民主主義はあなたがたの犠牲に耐えうるものなのか。答えはイエスだ。何故ならば、あなた方には信念があり、確信があり、愛があったから・・・

と高らかに演説したのだとか。

昨日、サイードの本を紹介いたしましたが、アメリカの「民主主義」は20年前は(今よりは)健在だったのでしょうか、あるいはレーガンが政治家として少しだけ優れていただけなのでしょうか。

「信念」と「確信」と「愛」というオブラートをまとってアメリカの国益に殉じた者たちや、剥き出しのエゴイズムとしての国益のために爆破され吹き飛ばされた人たちは、どう弔われるのでしょうかね・・・

【本棚】E.W.サイード:「裏切られた民主主義」


この本は、「戦争とプロパガンダ」シリーズの第4部であり、アメリカのイラク侵攻が濃厚になりつつあった2002年11月からバグダット陥落直後の2003年4月までに発表されたものを集めたものです。彼の視座からは大国の不遜と欺瞞があぶりだされてきます。

●ヨーロッパ対アメリカ●イラクについての誤情報●緊急課題●ゆるしがたい無力●偽善の金字塔●責任者は誰だ?●もう一つのアメリカ●ラガドのアカデミー
●E.W.サイード 裏切られた民主主義 戦争とプロパガンダ4
●中野真紀子訳●みすす書房

エドワード・ウィリアム・サイード、エルサレム生まれの文学研究者であり文学批評家であり、西洋文明の中心に帝国主義を据えたことで特筆すべき功績を残しています。またパレスチナ問題に関する率直な発言者でもある彼は、昨今のアメリカのイラク侵攻に対しても鋭い批判をしていましたが、2003年9月25日享年67歳で白血病の合併症で亡くなりました。

ここでは偉大なるサイード氏に関する感想を述べるより、彼の論点をいくつか引用するに留めます。

何ゆえ、このような沈黙、このような驚くべき無力におちいっているのだろう。
史上最強の国家が、アラブの一主権国家に今にも戦争をしかけようとして、ひっきりなしにその意図を再確認している。現在のそのアラブ国家を支配している政権はおぞましいものであるが、明らかにこの戦争の目的は(中略)中東全体の設計を完全に変えてしまうことにある。(中略)それにもかかわらず、アラブ世界からは、長い沈黙が続いた後に、やんわりと意義をとなえる少数の声がぼんやり聴こえてくるだけだ。(中略)このような人種差別的なあざけりをわたしたちが受けいれるいわれがあるだろうか。(「ゆるしがたい無力」P.41)

このように、着々と進む戦争に対し、アメリカにおいてもアラブにおいても無力な状態を悲痛な思いでつづっています。

ブッシュ政権が戦争に向かって一方的に、容赦なく突き進んでいるのはさまざまな理由から憂慮すべきことである。だが、ことアメリカ市民に関するかぎり、このグロテスクな見世物は民主主義のとんでもない破綻を意味している。おそらく裕福で強力な共和国が、ほんの一握りの人間たちの秘密結社によってハイジャックされ、(彼らはみな選挙で選ばれたわけではなく、したがって民衆の圧力には感応しない)、あっさりと転覆されてしまったのだ。(「責任者は誰だ?」P.56)

中傷され、裏切られた民主主義。賞賛されながら、実際には面目を損なわれ、踏みにじられた民主主義。一握りの男たちが、この共和国の運営を掌握するようになったからだ。まるで-まるでアラブの一国と同じだというかのように。(「責任者は誰だ?」P.63)

「裏切られた民主主義」とは、この本のタイトルともなっていますが、アメリカにおいて民主主義が既に破綻していることを指摘しているのは彼だけではありません。一握りの男たちとはシオニスト・ロビー、右派キリスト教団体、軍産複合体などに属する三つの少数派集団のことであることは言わずもがなです。サイード氏はメディアも戦争体制の一翼を担うものでしかないと厳しく批判しています。

メディアが、戦争の口実としてイラクが十七の国連決議を無視していることにふれるときも、イスラエルが(合衆国の支持を受けて)無視している六四の国連決議のことは決して語られない。(中略)嫌われ者のサダムが何をしてきたにせよ、まったく同様のことをイスラエルのシャロンもアメリカの支持のもと行ってきたのであるが、後者については誰も何も言わず、ただ前者を声高に非難するばかりだ。
(中略)
そういうわけで、アメリカの国民は意図的に嘘を告げられており、彼らの利害はシニカルに偽って代弁され、偽って伝えられ、ブッシュ二世とフンターの私的な戦争のほんとうの目的やねらいは、徹底した傲慢さで隠蔽されている。(「責任者は誰だ?」P.61)

そのとき日本の報道が何を伝えていたか、小泉首相をはじめアメリカの侵攻に協力する人たちは、どこまで情勢をつかんだ上で判断していた(あるいはいる)のでしょうか。

「国際政治に正しいとか悪いはない、あるのは国益だけだ」と言ってのけたは親米保守派の筆頭である岡崎久彦氏ですが(6月13日 テレビ朝日「サンデープロジェクト」)、シャロンが何をしようとサダムが何をしようと、こんなアメリカに追従していればよいというわけですか。

(気が向けば、つづく)

2004年4月7日水曜日

【本棚】田中宇:イラクとパレスチナ アメリカの戦略


以前、「アメリカ以降」(2004年2月20日 第1版)、「イラク」(2003年3月20日 第1版)と田中氏の本を紹介しました。いずれもアメリカのイラク侵攻以前に書かれた本でしたが、本書は2003年1月20日 第1版発行ですから、これらの本の中では一番古いものになります。

私がどうして中東問題とか、国際関係に少なからず興味があるのかといえば、アメリカに反旗を翻したいわけでも、イラク国民を憂えているわけでもありません。強いて言うならば、今まであまりにも国際関係の常識に無知であったこと、知り始めると非常にスリリングであること、ひいては、将来の日本の方向性についての知見を与えてくれることなどが理由でしょうか。

本書では、アメリカをはじめとしてイギリスなどの列強諸国が、中東に対してどのような世界戦略を描き統治してきたかの概略を説明してゆくことで、現代にまで続く中東問題の根本原因に言及しています。中東に少し詳しい方ならば、ほとんどが常識問題であるかもしれません。

田中氏は、イギリスやアメリカの中東戦略について「分割統治」と「均衡戦略」という観点から説明しています。これは、一国だけ(欧米に敵対するような)強大な国を作るのではなく、互いのパワーバランスにより消耗させあい、ひいいては西欧中心の世界を安定させようとさせる戦略のことです。

イスラエルの存在やサダム・フセイン政権を今回のイラク侵攻まで温存させたのも「均衡戦略」から説明しています。

西欧の為政者が本当にこのような壮大なる世界戦略を描いているのだとしたら、日本の外交などは子供だましもいいところですし、北朝鮮問題を初めとして、日本はあたかもアメリカの手の上で遊ぶ孫悟空のような存在だと比喩されても、否定することはできない気がします。

田中氏が中東問題に拘る理由については、エピローグに述べられいます。

私がアメリカの戦略の裏側を読み解こうとし続けるのは、アメリカが今後もずっと超大国であるかどうか、疑問があるからだ。

また、アメリカが911テロを利用して軍国主義に走った理由については、

アメリカがもはや経済的に世界を支配できず、経済が弱体化した結果、軍事で世界を支配しなければならなくなっているから

と説明しています。これは『アメリカ以降』で田中氏が展開することになる考えです。今後アメリカが衰退してゆくとしたら、日本の盲目的な対米追従は危険であり、それを回避させるためにも『アメリカに対する十分な分析が必要』であるとし、

アメリカの世界戦略の本質が最もよく分かるのは、中東情勢であると私には思われる

と書いています(P.260~261)。田中氏の書くことを100%鵜呑みにしたり、盲信するつもりはありませんが、田中氏の視点はかなりニュートラルであるため多くの本質を突いているのではないかと私には思えています。

2004年3月30日火曜日

【本棚】田中宇:アメリカ以降


田中宇(さかい)氏はインターネットで国際ニュース記事を配信している方で、時々サイトをチェックして拙い国際関係に関する知識を修正しているのですが、この本はまさにこの頃私が考えていたこと、すなわち「アメリカ以降~取り残される日本」に対する示唆を与えてくれるものでした。

本日29日のテレビ朝日の「たけしのTVタックル」でも安保を離れて日本が成立するか否かでムチャクチャな激論が闘わされていました。安保ありき安保の是非ということではなく、安保の相手であるアメリカについて「よーく考えよう」という内容になっています。

田中宇(さかい)氏はインターネットで国際ニュース記事を配信している方で、時々サイトをチェックして拙い国際関係に関する知識を修正しているのですが、この本はまさにこの頃私が考えていたこと、すなわち「アメリカ以降~取り残される日本」に対する示唆を与えてくれるものでした。

本の帯には本文から引用した以下の文が掲示されています。

われわれはアメリカが弱体化し、自己崩壊していった場合の「その後の世界」を考えてみる必要性が出てきている。日本人のほとんどは「アメリカが没落した後の世界」について、想像もしたことがない。アメリカが衰退する可能性が少しずつ増しているのに、アメリカが衰退するはずがないという前提で日本の将来を考えているのは、非常に危険なことである。

田中氏はアメリカ衰退の兆候を幾つかかの事例で説明しています。例えばアメリカ産業の象徴であった航空機産業や自動車産業の衰退、世界のドル離れ、そしてブッシュ大統領のアメリカにとってプラスとはいえない経済政策などなど。

私は氏のサイトで「ネオコン」という存在について知識を深めましたが、氏自身も「ネオコン」に対する考え方を模索しながら修正していることも、この本を読むと良く分かります。日本のマスコミは「ネオコン」という言葉さえも一面的にしか報道していませんが、そこに氏とのスタンスの違いがあると思うのです。逆にニュースや週刊誌での国際解説などは、田中氏のサイトや著作に接していると多くは既知のことでしかなくなります。

そういう田中氏なのですが、この本では大胆な仮説を打っています。それはアメリカ経済が衰退してゆく政策を「故意に失策をやっている可能性がある」としているのです。(P.25) そんな馬鹿なと思うのですが、田中氏はそれをタカ派と中道派の戦略の違いから分析し、最近のイラク戦争の現状も踏まえながら説明してゆきます。

また911テロが生じたとき、ハンチントン教授の「文明の衝突」が現実になったとマスコミは解説していましたが、これについて田中氏は、

��・11はアメリカかわの政治的な理由で誘発された可能性があることを考えると、ハンチントンの論文は「予測」ではなく「企画書」だったのだと感じられる。(P.175)

と書いています。田中氏は別著で911テロをホワイトハウスはわざと防がなかったフシがあることを早くから掴んでいて、アメリカの陰謀説に近い疑いを提示していました。それの真偽は私には判断がつきませんが、アメリカはタカ派と中道派がそれぞれ、壮大な世界戦略を持ちながら国家運営を行っているのであることは気付かされます。

田中氏はアメリカの(世界で一番良い社会システムだと教育されてきた)民主主義も既に歪められていることを指摘しています。「すでにアメリカは、かなりの「警察国家になっている」」(P.120)という指摘には驚かされます。

アメリカの民主主義や人権など、為政者の一方的な都合で歪められていることは、たとえば911テロの容疑者をキューバのグアンタナモ空軍基地に収容していることをとっても明らかであるかもしれません。(本書P.19や「世界2004年4月号」岩波書店p.203 グアンタナモの「暗闇」の中で~蹂躙される人権:ル・モンド・ディプロマティックより などを参照)

翻って日本の現状を考えると、アメリカ批判もなく思考停止に近い「対米追従」です。日本の指導者だってそんなに馬鹿であるはずがありませんから、もしかすると、これこそ思考停止のフリをした最も狡猾な小判鮫的外交戦略であるのかもしれません。そうであったとしても、くっついている魚が死に体になりつつあるのであれば、新たな方向性を模索しなくては資源のない日本の未来は暗いと思いますし、くっついている相手についても判断可能な情報が欲しいと思うのです。

いずれにしても、馬立誠氏の「日本はもう中国に謝罪しなくていい」でも指摘していましたが、日本が急にアメリカに反旗を翻すのは得策ではないことは確かです。それだからこそ日本はアジアを含め新たな外交戦略が必要な時期に来ており、経済・安保を含め日本の将来を真剣に問うべき時に来ていることだけは確かなのではないかと思うのでした。

2004年3月19日金曜日

スペインのテロについて2

昨日「Whose turn is it next?」というエントリーで、「スペインがテロに屈した、テロリストの思う壺にはまった、という見方」があると書きました。また16日のエントリーでは「16日付の大手新聞は今回の政権誕生が投票日の3日前に起きた200人もの死者を出したマドリードでのテロの影響であろうと書いています」と書きました。


それに対して強烈なカウンターが仏ルモンド社説(「スペイン国民をバカにする珍説が流布されている」)に掲載されていることを、Letter from Yochomachi というサイトで紹介しています。興味のある方は是非読んでください。




情報がいかに一辺倒であるか、日本のマスコミが一面の論理からしか物事を捉えていないかが、如実に分る一文であると思います。日本のマスコミとて米国の受け売り部分が多いですから。次の部分は強調してし過ぎることがないと思います。


スペイン国民はテロと戦うに当たって現政権のアメリカ一辺倒の戦略がはたして適当なものか問い直しているのであり、それは全く正当なものだということだ。これは臆病とか卑怯というものではなく、アスナールのやり方では非効率で限界があると云うことを有権者は表明したのである。


アメリカが真に正しいのか、かつても正しかったか、アメリカ政権が正常な論理で意思決定されているのか(いたのか)、疑う点は山のようにあるのではないでしょうか。スペイン人の意思と、こういう社説を掲載するルモンド誌に敬意を払います。

2004年1月26日月曜日

パウエルさん、認めたのですね


パウエルが "open question"としながらも、大量破破壊兵器がなかったかも知れないと認める発言をしていますね。


ちょっとしばらく時事から遠ざかっていましたが、新鮮な驚きです。どうやって落とし前をつけるのでしょう。


Secretary of State Colin Powell said on Saturday it was an "open question" whether stocks of weapons of mass destruction would be found in Iraq and conceded it was possible Saddam Hussein had none.(REUTERS)


朝日新聞の本日の社説にも本件について言及されていますね。


米英首脳がなぜ誤った情報や分析に踊らされたのか。湾岸戦争以来の宿願であるフセイン政権の打倒が先にありきで、WMD問題はそのための方便だったのではないか。米英両政府は真相を調べあげ、包み隠さず国際社会に説明する責任がある。(朝日新聞)


と書いていますが、そんなこと最初から分っていたことですよね。でどういうストーリが展開するのですか。日本の立場(どこまでも対米追従ですが)は、どう動くのでしょうか。


こんなバカなことがあっても、政権は転覆しないのですね。

2003年3月2日日曜日

【風見鶏】「アメリカがイラクを攻撃する本当の理由」 ~②キリスト教原理主義者の政治力~

サンデープロジェクト
2003.3.2 Sun

田原総一郎のサンデープロジェクトで、ブッシュ政権がイラク攻撃を実行しようとする背景の一つとしてキリスト教原理主義者の存在があると紹介していた。

キリスト教原理主義とは聖書を文字通りに厳格に解釈した考えをもった勢力であり、思想はかなり保守的にして過激である。勢力は主にアメリカ中西部、南部にあるらしく原理主義者は3千万人とも言われているらしい。キリスト教原理主義と共和党は密接に結びついており、大統領選挙においては彼らの票が大きく当落を左右すると言うわけだ。信者のほとんどが白人であることから「白人主義」とも言われているらしい。中絶の反対、同性愛の反対、銃規制への反対・・・あれ、なんだか思い出さないか?

そう最近読んだ「アホでマヌケなアメリカ白人」(マイケル・ムーア著)のことだ。あの本には「キリスト教原理主義」のことは言及されていなかった。しかしブッシュがキリスト教原理主義者への褒美として司法長官に任命した(とサンデープロジェクトは説明する)ジョン・アシュクロフトの解説を同書から引用してみよう。

「強姦や近親相姦の場合を含め、あらゆる中絶に反対」
「同性愛者に対する職業差別からの保護にも反対」
「死刑囚の上訴を制限することに賛成(それによって7件の死刑を執行させた)」
「極めて過酷な麻薬取締法の支持者」
「全米ライフル協会の味方」
  ~以上 P.48

私は「アホで~」を読んでも、どうして為政者が上のようなことを反対するのか全く理解できなかった。中絶反対はピルなどの医薬品業界からの圧力かなどと要らぬことまで考えてしまった。しかし、これらがキリスト教原理主義者=白人主義者の糸引きであるとするならば、理屈抜きで理解できてしまう。

彼らキリスト教原理主義者の最終的な目標が「中東での最終戦争→キリスト千年王国の復活」というのだから恐れ入るばかりだ・・・

HIYORIみどり 「またしても余りにも無知だったわ~」
KAZAみどり 「余り日本では報道されていないものね」

2002年12月4日水曜日

【風見鶏】「映像公開、イラクが兵器隠匿と非難 米国防総省」

12.04
産経新聞(共同通信)

ラムズフェルド国防長官とマイヤーズ統合参謀本部議長は、イラク軍が早期警戒レーダーを民間の建物に隠そうとしているところを撮影したとするビデオ映像を公開したらしい。

はなからアメリカはイラクを信じていない。潔白を証明するのはアメリカではなくイラク自身だという論理だ。しかし、公開された情報さえアメリカは信じない、自分たちの調査と異なるとして。結果として・・・



HIYORIみどり 「いよいよ " Sunday deadline" が近づいてきたわね」

KAZAみどり 「12月8日というのも意味ありげだわ。アメリカは " Remember WTC " と言いつづけてきたのかしらね」

HIYORIみどり 「ところでYUKIみどりちゃんは、日本の話題は気にならないのかしら」

KAZAみどり 「道路改革と民主党の泥仕合でしょう。ああいう報道のされ方では、外野から内紛を楽しむというスタンスに終始してしまって、政治的議論には発展しにくいわ。」

2002年11月11日月曜日

【風見鶏】「米大統領が25万人動員の対イラク戦承認と米紙」

「米大統領が25万人動員の対イラク戦承認と米紙」 11.11 日本経済新聞
 「War Plan in Iraq Sees Large Force and Quick Strikes」 November 10,2002 New York Times 

先週の8日、国連安保理はイラクの大量破壊兵器の全面査察を受け入れるように迫る決議案を、全会一致で採択した。今までスタンスの異なっていた仏ロもアメリカ側に立つことで、ついにアメリカは全西側諸国の同意のもとに強硬路線を取ることが可能な状況になった。
それを受けて、イラクが査察を拒否した場合にアメリカは大規模な軍事作戦を展開する準備を整えたと言うわけだ。パウエル国務長官は10日から12日にかけてソウルを訪問し、北朝鮮問題についての協議をすることになっていたが、安保理の決議を受けて訪韓を中止している。
ついにここまで来たかという感じである。昨年の9.11テロを大きな契機とし、アメリカはテロとの対立を明確にし、国民感情も民主党さえ見方につけ、さらに諸外国の同意も得た上で、イラク攻撃に向けての準備を完了させたわけだ。その周到さには、ほとほと舌を巻く。これから何が起き、アメリカに対しどういう覇権と国益がもたらされることになるのか、見守るしかないというのか。
ちなみに、イラクは国連決議を受諾する方向で動き始めたようだ。

HIYORIみどり 「ほとんど戦争が始まっているような印象を受けるけど」
KAZAみどり 「そうね、報道されない部分での諜報活動は盛んでしょうし。ただ、またしてもアメリカ本土や関連施設は傷つかない戦争ということにはなりそうね。」
HIYORIみどり 「何のための戦争なの、アメリカの中東における原油支配という説が一般的だけど」
KAZAみどり 「そう単純なハナシばかりでもなさそうね。ロシアも西側諸国の仲間入りを果したことになっているし、世界情勢は冷戦終結後、大きな山場を迎えていると考えていいかもしれないわ。世界の勢力地図は大きく変わるかもしれないわ。アメリカは北朝鮮とコトを構えるより、イラクをやはり重視したということね」
HIYORIみどり 「北朝鮮問題は日本にまかせると?」
KAZAみどり 「パウエル国務長官は北朝鮮問題について "All of those nations should have a greater concern about this than we do. They are within range" と言っているわ。those nations は、北朝鮮の近隣諸国(日本、韓国、中国)で、this は当然北朝鮮問題、そして、within range は"射程距離内"という意味よ。日本にそういう危機意識があるかしら。ノドンはアラスカには届いても米国本土には届かないわ。ただし、沖縄などの米軍基地には届くけどね」
HIYORIみどり 「イラクのスカッドミサイルも米国本土には届かないけど?」
KAZAみどり 「そうよ、そして同じように米軍基地にも届かないのよ。」
HIYORIみどり 「ん~、ワカラナイわ~」>YUKIみどり「同じく!」

2001年10月18日木曜日

戦争や残虐行為の背景について

あるBBSに書いたことなのですが、改めてここにまとめておきます。テーマは人間は何故残虐行為を繰り返すことができるのか、といったものです。

戦争では相手を殺すことはもちろんですが、ときに過剰なまでの残虐行為を伴うことがあります。この、残虐行為というのは、相手を同じ人間と見ていないのではないかと思うことがあります。民族・人種的な偏見もあるでしょう。外見的な姿形が少しだけ違うだけ、あるいは、生活の程度や文化のあり方が少しだけ異なるだけなのに、どうしてそれほど残虐になれるのか。あるいは、残虐行為は慣れるものなのか。人間としての不思議を見る思いです。

私は、画家の中でスペインの生んだ偉大なる画家ゴヤに独特の感情を抱いているのですが、銅版画で戦争の愚かしさを描いたものをご存知でしょうか?ありとあらゆる残虐行為が行われたことを、しっかりと記録しています。

あるいは、本多勝一の「殺す側の論理」だったか「殺される側の論理」だったか忘失しましたが、その中でアメリカ兵が、機関銃で撃ち殺し胸から下が吹き飛んでしまったベトナムの子供を、まるで汚い雑巾でも持つかのようにつ持ち上げている写真が掲載されており、物凄いショックを受けたものです。あれは、どう見ても、同じ人間を哀れむ眼ではなかったように思います。

おそらく、この手のハナシは戦争について言及してゆくと枚挙にいとまがないでしょう。

残虐さとは、相手を認めないという気持があれば、どこにでも生ずるものではないでしょうか。イジメ問題にしても根はそこです。日本では異質なものを極端に排除する傾向があると思います。均質さと同質さを求めるような雰囲気が。ルーズがはやれば皆ルーズみたいな。仲間からはずれるのって怖くないですか?  同質化した世界しか認めないという偏狭な考えは、ときに残虐さの温床になるように思えてなりません。

もうひとつ。残虐行為というのは時代や思想が生む概念だと思うのです。

例えば私たちが親しんでいる時代劇や大河ドラマ。真剣で相手を叩き切ります。今の世の中では正気の沙汰ではありません。しかし、当時はどこの世界でも刃物を用いている文化では、当然の行為であり、刃物を使う人間をことさら残虐とは考えていなかったと思います。

人間性が確保されたから、刃物で人を殺傷する行為は野蛮でありかつ残虐な行為となりました。大きな違いは、個人としての他者を尊重したという西欧的な民主主義の影響でしょうか?

さて、ここで今回のテロと報復です。

アメリカ陣営とそれ以外などという、単純かつ危険な二極論を振り回す米国の大統領の知性レベルにはあきれ返りますが、他者を他者として認めるという行為が、アメリカ人はなかなかできないということなのでしょうか。

よく、アメリカは、どこの国に行ってもそこに「アメリカそのもの」を作ってしまうと言われますよね。米軍基地まわりにしてもそうなんだと思います。他者と交わって赤くなるというような発想、他者を取り込んで協調しようという発想。他者をおなじ対等と考える発想。むずかしいでしょうね。

最後にひとつ、誤解を招くといけないので補足しますが、「アメリカ人は・・・」とか「和を尊ぶのは日本の文化だ」という発想には同意しません。アメリカ人と人くくりにして論ずるのは分かりやすいものですが、そんなに単純なものではないでしょう。