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2006年1月7日土曜日

【音盤】ラフマニノフ:交響曲第2番/スヴェトラーノフ&USSR State so.


  1. Largo-Allegro moderato 18:01
  2. Allegro molto 07:05
  3. Adagio 15:07
  4. Allegro vivace 10:26
  • スヴェトラーノフ(指揮) ソヴィエト国立so.
  • 85年1月25日(ラフマニノフ)
  • SCRIBENDUM/SC 033

本盤も許光俊が「オレのクラシック」で芸能人にたとえるなら、まさに叶姉妹と絶賛しているものだからつい購入。しかし聴く前から例えるにしても「叶姉妹」は酷すぎると思っていたのですが、聴き終えてみた感想で言えば、その比喩はヒドイ以上に本質をはずしているなと。文章が面白ければ良いというものでもなかろうに。

では、この曲のそして演奏の本質が分かるのか、と聴かれると答えに窮するので、そこには触れません。(逆に叶姉妹ってどうなんだ、と聞かれても分からない。何しろTVを通して「動いている」叶姉妹に接した時間の合計は10分以下であろうと思うので) ハナシは叶姉妹ではない、スヴェトラーノフのラフマニノフの演奏です。確かに凄い。特に誰もが指摘するティンパニの打撃音の凄まじさは、まさに「落雷」。それは何も1楽章の10分過ぎに現れる強烈な打撃だけではなく、そこかしこで鉄槌のように打ち下ろされます、しかも決然と!金管と打楽器の競演による暴発、これを怒涛と呼ばずして他に何と呼べましょう。この激情はどこから発するのかと。

暴力的とは言えない、この激しさは間違っても音楽の暴力ではない。耐え切れない激情と甘美さが両立した演奏です。しかし何たる両極端さ、振幅の激しさ。この両極端さこそロシアの大地なのでしょうか、彼らの身体に染み込んだ厳しさと優しさなのでしょうか。人をも殺すほどの自然の脅威と対極にある全てを癒す包容力なのでしょうか。 弦を使った部分は甘美な歌を歌いますが、「叶姉妹」のような見せかけの人工美や色気(>あれが美で色気か?豊満か過剰か?)などでは決してない。もっと底の深い強さと荒さを秘めた美しさです。

第2楽章あたりから、ハマってしまうと、誰かのフレーズではありませんが「魂ごと引き抜かれ」たかのような気持ちになってしまいます。それが「尻の穴」か「頭のてっぺん」かは別として・・・(>何のこっちゃ)

第3楽章は、甘すぎる演奏だと「映画音楽」のように聴こえてしまいます(例えばプレトニェフのそれとか)。しかしスヴェトラーノフの演奏は、決してそんな安易な評価を与えません。入魂の演奏、堂々たる美しさ、憧憬と悦び、更には祈りにも似た畏敬さえ感じてしまう楽章です。

後半は溢れそうになる激情を必死に抑えた、これまた鬼気迫る演奏になっています。安っぽさやお手軽さは微塵もありません。許氏の楽器のを増やしながらのクレッシェンドは猥褻なほどに悩ましげなポーズを見せるとの評を読むと、一体同じ演奏を聴いているのか?という気になります。

当然終楽章も素晴らしい、ラスト近くに至っては凄すぎて書く言葉がない(;_;)ラフマニノフにとって交響曲第2番とは、またスヴェトラーノフにとってラフマニノフとは何だったのか、と思わずにはいられません。同時収録のフランチェスカ・ダ・リミニを聴く気力は全く残っていません(>このテンションに「ハマ」ればのハナシなのですがね ^_-)。

2005年11月20日日曜日

オー・マイ・ガッ!ダブり買いどころか

昨日書いたスヴェトラーノフの「ローマの祭り」の感想。どうもジャケットに見覚えがあるし変だなあと思っていたのですが、何と既に購入済であり、しかもその感想をHPに書いていた盤であったことが判明。

というのも、トップページのメニューバーに「自サイト内検索」機能(ブログ以外の文書も検索)(*)を復活させ、試しに「スヴェトラーノフ」で検索してみたら、2003年3月のエントリが見つかったという次第。やっぱりサイト内検索は便利だなあと思う反面、あまりの我が身の記憶力の無さに腹を立てると同時に、感想の文章が全く変わっていないことにも愕然・・・。この2年半の間に自己に進歩はなかったということかっ!

ついでだから書いておこう。あのエントリで私は、

有無を言わさない、そして頑固にしてゆるぎない確信に満ちた暴虐さは、同じような芸風と思われがちのゲルギエフに劣らない(というか・・・ちょっと次元が違う)ような気がする。

と書いた。一方、許氏はゲルギエフが嫌いらしく次の様に書いている

これに比べれば、チェクナボリアンやゲルギエフなど、しょせんお子ちゃまが暴れているだけ、プロとアマくらいの差がある。(「オレのクラシック」(P.108))

改めてスヴェトラーノフを聴いて分かりました。許氏、貴方はある意味で正しい。ただ別のものを比較してプロとアマだ大人だお子ちゃまだというのは意味がない。おそらくは二人の「暴虐」は指揮者としての根底の部分が違っているし、従って指揮者として目指す音楽のベクトルが全然異なっていると感じた。それを言葉にする能力は私にはないのですが。

ただ個人的には私もトシをとったのか、クラシックに「野蛮性」を求める気持ちは少なくなってきましたので、引き続き二人の「暴虐の限りの差」について書くことはないでしょう。ついでに書くなら許氏的な「オーケストラ演奏を語る資格」は、かろうじて有していたようです(笑)

(*)サイト内検索機能はトップページにしか設置していません

【音盤】スヴェトラーノフ/レスピーギ:ローマ三部作

スヴェトラーノフ&ソ連国立響 ローマ三部作
  1. ローマの噴水
  2. ローマの松
  3. ローマの祭
  • スヴェトラーノフ(指揮) USSR State so.
  • Live at the Great Hall of the Moscow State 1980.2.30 Scribendum SC021

許光俊が「オレのクラシック」で残酷と野蛮と官能の恐るべき『ローマの祭り』としてベタ褒めの盤であります。

残酷と野蛮と官能の限りを尽くした音の酒池肉林と言うしかないこの演奏は、クラシック史上に残る名作である。これを聴かないでスヴェトラーノフを、いやオーケストラ演奏を語ることができないのは間違いないところだ。

とまで書いています。そうか、私は今までオーケストラ演奏を語る資格さえなかったのかとフカク反省し聴いてみたのですが、爆演であることは認めるものの許氏のような手放しの絶賛を与えることができません。

というのも、この演奏はチンケな再生装置で聴いてはダメですね。再生装置の処理限界を超えるのでしょうか、音の塊はダンゴ状態となって耳にぶち当たって砕けるだけ。金管の音(特にペットとかも)もどこか貧相に聴こえてしまう・・・。やはりホールでこの爆発的な音塊を全身で受け止めなくては、おそらくはこの演奏の真価を語ることはできないのだろうと、再びフカク悟ってしまいました。(>どんな演奏でもそうなのでしょうが)

それでもとりあえず気付いた事をメモしてきますしょう。「ローマの噴水」は爆演という点からはイマひとつ、繰り返して聴くほどの演奏とは思えず。しかし「ローマの松」の「カタコンブ付近の松」は低弦の支えの分厚さは凄く壮大な音楽を聴かせてくれます。金管は限界近くまで咆哮します。一方「ジャニコロの松」のような静かなところになると、ソロのまずさが耳に付く。抒情という点でもあまりイタリア的感傷は感じない。「アッピア街道の松」はさすがに凄まじいカタストロフを演出している。最初の出だしの重さと暗さは尋常ではない。ロシア陸軍が凍土を黙々と行進しているよう。しかし最後はモスクワかどこかに凱旋しているような歓喜の爆発。オーボエとかのソロはやっぱりちょっと粗削りでイマイチだが打楽器の迫力は聴きモノ。全体のバランスとしては粗さを怒涛の迫力が飲み込んでいる、ラストの終わり方も凄い。ハマれば思考停止になることは間違いない演奏。

ローマの祭り」は、一体全体どうしたらこんな演奏が可能なのか。「チルチェンセス」は暴君ネロの祭り。この暴虐の限り、殉教者の祈りを全て斬り裂くかのような音楽には驚く限り。スヴェトラーノフはオケの多少の(多少か?)破綻は無視し、ホール全体に(おそらく)鮮血の霧を撒き散らしているかのよう。底抜けに明るいハズのナヴォナ広場の「主顕祭」も力瘤入りまくりの鉄のダンス。グロテスクさと諧謔性、え、あれ、こんな曲だったっけ。ラストに至っては空いた口がふさがらない。許氏の耳にどうしてこれが「官能」と聴こえるのか、私の感性とは違うという他ないが(>再生装置が違うんだってば)、ひとつの極地の演奏であることは認める。

褒めているんだかケナしているんだか分からない感想になってしまったが、ストレス解消になる演奏でもあるので、「アッピア街道の松」と「主顕祭」はi-Podに入れておくか(笑)

と、ここまで書いて、以前にもレビュウしていることに気づいた、何てこった!

2003年8月23日土曜日

【音盤】スヴェトラーノフのシェヘラザードと法悦の詩



Nikolai Rimsky-Korsakov
 Mlada:Procession of the Nobles
 Scheherazade, Op.35
 London Symphony Orchestra
Alexander Scriabin
 Le Poeme de l'extase, Op.54
 USSR State Symphony Orchestra

Evgeny Svetlanov
Recording:
Royal Festival Hall,London, 21 February 1978
Royal Albert Hall,London, 22 August 1968


今年の夏は記録的な冷夏だとかで、夏休みも気温が上がらずに全く冴えなかった。北海道から来た身には涼しいに越したことはないのだが、都会のうだるような酷暑を心の底で期待していた私には、肩透かしな思いであったことも否定はできない。気温が上がって欲しいときに思ったような結果が得られないと、気分まで萎えてしまい、日の当たらないモヤシのような気分になっていた。

しかし、今週半ばから、思い出したかのように暑さがもどってきた。休日の今日などは軽く30度を越える暑さで息をするのも苦しいほどであった。こうなると気分は単純に盛りあがり、「ガーッ!!」とした音楽を能天気に聴いてみたくなるものである。

そういう訳で登場するのが、スヴェトラーノフの「シェヘラザード」と「法悦の詩」である。スヴェトラーノフの演奏であるから、ここは細かいことを考えないで音響の洪水に浸りたい。

「シェヘラザード」の爆演としてはゲルギエフ版が記憶に新しいが、こちらも負けずとエネルギー全開の演奏になっている。弦はうなる、シンバルははじける、打楽器は轟然とロールする、ハープは手から血が出るのではと思うような音を奏でる。それでいて音楽には破綻を来さない。もっとも少し力任せのように聴こえる部分もある。例えば、第三楽章の"The Young Prince and the Young Princess"でバイオリンが甘いメロディを奏でる部分などは、もう少し絡みつくような熱情やロマンが欲しいと感じる部分がなきにしもあらずではある。にしても演奏はLSOであり決して性能は悪くない。特に第四楽章のスネアドラムの硬質な刻みと弦の凄まじいばかりの強奏、麻薬でもやっているのではと思うようなクラリネットの節回し、血管がブチ切れそうなトランペットのタンギングなど軽い眩暈さえ覚える。クライマックスの大音量はもはや底を抜けている。冷静に聴けば結構粗いところも気付くのだろうが、全てはラストの静けさに入る前の一撃で吹っ飛んでしまう。

「法悦の詩」もゲルギエフ版があるが、私はこの曲になかなか馴染めないでいる。男女の営みを音楽的に表現したものだと言われるが、経験が浅いせいか(^^;;どうもその気になれない。スヴェトラーノフ版を聴いてみたが、もしこれが「男女の営み」だとするならばあんまりであるとは思った。音楽は相変わらずストレートに押し寄せる音の洪水を聴かせてくれているし、スヴェトラーノフファンならば垂涎の演奏とはなっていると思う。それに、クライマックスのモノ凄さときたら、もはやバーバリアンなエクスタシーに満ち溢れ、更には超新星爆発を起こし宇宙と一体になったかのような感覚さえ覚える。要するにブッ飛び演奏ということだ。たぶんこれが「行為」だとしたら全てのエネルギーを発散し尽くして死んでるな。そうは思ってみても「法悦~」に、乗りきれない自分を感じる。演奏そのものよりも、演奏終了後の聴衆の気が狂ったような絶叫と拍手に驚いてしまう。紳士然としたロンドンの人の秘めたる情熱か?

それでも、狂おしいほどの暑き夏の夜には、これ以上ない濃い音楽ではあった、嗚呼汗だくだよ。

2003年3月6日木曜日

スヴェトラーノフ指揮 レスピーギ / ローマ三部作


この盤はHMVのサイトでも紹介されていた、スヴェトラーノフ指揮ソ連国立交響楽団の1980年ライブステレオ録音である。スヴェトラーノフといえば、いわゆる金管バリバリの爆演系の指揮者というイメージがある。ホールを大音量でかき鳴らすその演奏に虜になった人は多い。

で、この演奏だが、たしかに《アッピア街道の松》も凄まじいのだが、《ローマの祭》もすっごい音響で野蛮なまでの響きを聴かせてくれている。HMVの「お客様レビュ」も「凄い」というコトバ以外見当たらない。そんなに脳死状態になって良いのかと不安の念にも駆られるのだが、実は私も あいた口がふさがらない 状態に陥ってしまった(^^;;

先に紹介した「エフゲニー・スヴェトラーノフのページ」の はやしひろしさん のレビュでは "「世紀の珍盤」!!"という評価が与えられている(^^;;; 有無を言わさない、そして頑固にしてゆるぎない確信に満ちた暴虐さは、同じような芸風と思われがちのゲルギエフに劣らない(というか・・・ちょっと次元が違う)ような気がする。

録音はARTリマスターということであるが、音質はザラザラとしていてそれほど良くはない。それでもスヴェトラーノフの迫力は存分に味わうことができると思う。

2001年3月3日土曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 スヴェトラーノフ指揮 NHK交響楽団による第5番交響曲

NHK交響楽団 第1328回 定期公演

日時:1997年9月5日
場所:NHKホール
曲目:オールチャイコフスキー プログラム

スラブ行進曲
ピアノ協奏曲 第1番
交響曲 第5番

指揮:エフゲニー・スヴェトラーノフ
ピアノ:中村 紘子
演奏:NHK交響楽団

スヴェトラーノフ・N響のコンビによる5番を、かなり以前だが聴いたことがある。Nifty クラコンか何かに書いたログを、当日の雰囲気を伝える意味で全文掲載しておきたい。

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上京する機会があり、N響定期公演に行ってきました。N響は、初体験です。FCLAの皆さんは、N響に対する評価が非常に厳しいのですが、私には新鮮にして驚きの演奏会でした。プログラムはオールチャイコフスキー。席は1階L03列09番(舞台の左側)です。演奏は休憩をはさんで2時間20分。定期としては長い演奏会だったと思います。

まず、NHKホール自体が始めてだったのですが、その大きさに圧倒されました。4000人近く入るホールというのは、ちょっと大きすぎると思っていましたが、それが満席状態。札幌とは客層が違いますね。中村さんのファンなのか、女性が目に付きました。

スヴェトラーノフは、指揮棒を持たないタイプ。おなかがとても大きいです。

まず、スラブ行進曲。非常にゆったりしたテンポで始まりましたが、けれん味がなく素直に聴ける演奏でした。それほど大きく揺らすわけでもないのですが、ラストに向かって、心地よいリズムとなり、納得のできるものでした。

さて、次は中村紘子のコンチェルトです。これについては、ちょっとコメントを差し控えたいです。ただ一つ言えることは、私の好みではなかったこと。スヴェトラーノフとN響が表現している音楽と、中村さんが表現しているものが異質であったと感じられました。オケの弦の響き、木管のやさしさや、かなしい響きが、彼女にはどう伝わっていたのでしょう?でも帰り際に、「ピアノ凄かったねえ」と言い合っている女性も何人かいましたので、繰り返しますが私の好みであると断っておきます。

チャイ5は、非常に好きな曲にランクされますが、期待を裏切らない演奏でした。細やかなアナリーゼはできませんが、1楽章、スラブ行進曲のときのような遅めの店舗で始まります。でも、その遅さが聞き進むにつれて、納得の出来るもので違和感なく心に入ってくるのです。弦の響きも木管や管の鳴らし方も、やりすぎのような嫌らしさが全くなく、非常に素直な表現と相まって、曲が浮き彫りにされてくるような印象です。

��楽章のホルンは素晴らしいの一言。今まで私の心象に現れる風景と、違った風景を見せてくれました。4楽章は、この楽章の持ち味の疾走感がうまく伝わってきました。盛り上げ方も自然で、思わず「これはいい」と拍手をしながらつぶやいてしまいました。

私は、札幌で札響を中心にオケの演奏会を最近聴き始めましたが、N響は素晴らしいですね。特に金管の音色、チェロ、コントラバスの低弦の支えなど素晴らしいと感じました。

(1997.9.6)

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ずいぶん昔の感想を引っ張り出してきたが、今読み返してもあのときの感動がよみがえる。

この演奏は、「やる気のない」とか「ヘロヘロの金管」とか、一部の心無いマニアの間で酷評されていたN響が久々に素晴らしい演奏をした、との感想が多かったようだ。(しかし、ファンなのか何なのか分かりませんが、聴衆というのは勝手で残酷なものだ。)

��楽章と2楽章の合間に、スベトラーノフが客席に向かって、「この第2楽章(アンダンテ)をプリンセス・ダイアナに捧げます」て言ったらしい。終演後、ホルンの松崎さんも指揮台に上がるように言われるなど、熱演だったのだと思う。何だか、思い出して書いていると、ずいぶん時間がたったんだなあ、としみじみしてしまうなあ・・・。

演奏会の後、フルーティストの小出信也さんと、Nifty のパティオの方と一緒させてもらったのも思い出に残る。あのときの写真はどこに行ってしまったのだろう・・・・

(2001.3.2)

2001年2月1日木曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 交響曲第3番 「ポーランド」/スヴェトラーノフ ロシア国立響


交響曲 第3番 ニ長調 作品29 「ポーランド」 指揮:スヴェトラーノフ 演奏:ロシア国立交響楽団 録音:11,12 Jun.1993 CANYON Classics PCCL-00512
この第3番交響曲のみ、5楽章形式で構成されている。
1楽章は静かな暗い序奏で始まる。フルートほの暗い中にアクセントを与える。解説によると「葬送行進曲のテンポで」と指示されているらしい。
しかし、この葬送のテーマ(約4分)のあと、Allegro に入り一気に盛り上がりを見せる。まるで躁鬱質の鬱から躁に変わったかのよう。弦楽器の強い響きとオーボエやフルートなどの木管の絡みがすごい。この部分もよく聴くと、なんだか輪になって民族舞踊を舞っているように思えないでもない、あるいは躍動感と流麗感の対比によるバレエのような・・・。最初の葬送のテーマはどこにやらと言った印象で、音楽は進行する。
非常に多くの要素を詰め込んだ楽章である。まるでこの楽章で完結せんばかりの勢いで、演奏会場でこの演奏を聴いていたら、楽章の終わりには「つられ拍手」をしてしまいそうである。スヴェトラーノフもここぞとばかりにオケをドライブさせ楽章を終えている。思わず含み笑いがこぼれてしまう。
��楽章も舞曲である。ミステリアスな異国風の踊りが踊られるよう。非常に浮いた感じのとらえどころのない、センチメンタリックな、ときにとぼけたような味があり、そこがまたチャイコフスキー的な楽章である。ガンガン鳴らす楽章も良いけれど、こういう楽章の組立てはチャイコフスキーはうまいと思う。
��楽章も少し暗めで始まったあとに、弦による非常にゆったりとしたロマンチックな旋律が奏でられる。例えが適切かはさておき、マーラー5番の4楽章のような雰囲気(あくまでも、雰囲気ね。あんなに切なく甘美じゃないし、目指しているものも全然ちがうから)。
��楽章はスケルツオが挿入されている。細かな動きが繊細さを感じさせる感情を抑え目の楽章。何かを予感させるような印象を与え短く終わる。
��楽章は前楽章とは対照的に、ふっきったかのような断定的なリズムで堂々と開始される。序奏から始まるテーマが終わったあとに、民謡風なテーマもあらわれるが、楽章を統一するのは最初で提示されたテーマ。これが発展(そんなに発展はしないんだが)しつつ繰り返される。 テーマのそのまんまの再現と繰り返しみたいなのは、チャイコフスキーの初期の交響曲に共通のように感じる。(厳密に音楽的にどうか、ということは詳しい方の解説を期待したい)
中間部にフーガ調の部分があるが、第1番交響曲でも使われた手法かな。後半に向かってはまた、例のごとく壮大に盛り上がってゆくのだが、ロシア国立管もそれに答えるように、金管は吼えるし弦は切れんとばかりにに鳴き、ティンパニはもう叩くたたく。
ラストへ向けて徐々に徐々に盛り上がってゆくところは、非常にカタルシスが発散できる部分だ。その到達した先の、トランペットのテーマの部分ではもう、頭がどっかに吹っ飛んでしまうかのよう。ここらへんからは、手を抜かずにいくぞいくぞ、みたいなエネルギーを感じる。
ただし、チャイコフスキーの第1、2番交響曲と比べてみると、叙情性みたいなものは一番少ないかなとも思う。
しかし、チャイコの交響曲って・・・・・・いい意味でも悪いいみでもチャイコフスキーにしか書けなかった世界だなと思うね。その特異性という点からも、もっと評価されてもいいかなと思う。
 
 カップリングはスラヴ行進曲。この曲は、何も考えずに、許される限りの音量で(近隣や家族から苦情のこない、ウォークマンなら電車の中で変な奴と思われない範囲で)聴くのが正しいかなと(^^) スヴェトラーノフ、ここではかなり速いテンポで一気に駆け抜けている。あんまりオケを鳴かせるような演奏ではなく、さらりと驀進する。これはこれで、ブラボーかなと。

2001年1月22日月曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 交響曲第2番/スヴェトラーノフ ロシア国立交響楽団

  • 指揮:スヴェトラーノフ
  • 演奏:ロシア国立交響楽団
  • 録音:9,10 Jun.1993
  • CANYON Classics PCCL-00511

今回は、交響曲第二番を同じくスヴェトラーノフの93年の全集から聴いてみた。

この交響曲は「小ロシア」あるいは「ウクライナ」という愛称で親しまれており、曲名があらわすとおり、ロシア民謡からの引用がふんだんに使われていると解説にある。もっとも、ロシア民謡の旋律を特定することは解説を読まない限りできないし、またその原曲の歌詞も分からないのだが、それでも聴き終わってみると、ロシア的というかスラブ的なにおいが感じられる曲だと思う。

ハ短調という調性ではあるものの、全体に明るく力強い、雄大なロシアの大地を思わせる。歌のつなぎ合わせと繰り返しの妙、チャイコフスキー独特のオーケストレーションの面白さを満喫してみたい。

1楽章、ホルンの寂しいテーマをオーボエが受け、次第に展開してゆく。ロシア民謡からの引用らしい。それが一転、クラリネットと弦の刻みで躍動的な部分に突入する。スヴェトラーノフ率いるオケの重戦車のような低弦の鳴りはすざまじい。再び序奏の主題が現れる部分では、ロシアの大地の広がりのような迫力と詩情を感じる。

2楽章、テンパニと木管によるかわいらしい行進曲風の曲で始まる。全体に易しい風が吹く感じで、この演奏からは豊きな大地を刈入れしている農民の姿が思い浮かぶ。中間部からはメランコリーと多少のユーモラスさをたたえた、これまた詩情豊かな部分であり、ふわりと眠気を誘われるような、そんな快感がある。こんな部分でも、スヴェトラーノフは豊かな音を聴かせてくれている。

3楽章、スケルツォ楽章。非常にチャイコフスキー的だと感じる。躍動感と生命力にあふれた楽章で、そのままバレエが踊れそうである。森の中で小さな妖精たちと自然の精たちが戯れ踊るような・・・そんな印象を受ける。弦の刻みは力強く(多少下品という人もいようが)、木管はきっちりと自己を主張する音で心地よい。

4楽章、華やかで壮大雰囲気で始まり、その後にバイオリンがテーマを提示する。リズミカルな口ずさみたくなるようなテーマ、これがひたすらひたすら、展開される。だからと言って退屈な楽章ではない。収穫祭の後に、村中で踊りを踊っているような、そんな喜びに満ちた楽章であり、聴いているうちに体の内から躍動感が沸いてきて、自然とリズムをとってしまうような、曲に身をまかせることの心地よさを感じさせてくれる。途中でバイオリンが歌う旋律は対比的に優雅で美しい。最後は、重戦車爆裂てな感じで締めくくられる快感!(オケを鳴らせばいいってもんでもないけど・・・・)

このように聴いてみると、非常に民族色にあふれた曲であり、ロシア国民学派5人組みを喜ばせたのもむべなるかなと思わせる曲だと思う。

2001年1月17日水曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】交響曲第1番/スヴェトラーノフ ロシア国立交響楽団

  1. Allegro tranquillo
  2. Adagio cantabile ma non tanto
  3. Scherzo,Allegro scherzando giocoso
  4. Final,Andante lugubre-Allogro maestoso
  • 指揮:エフゲニー・スヴェトラーノフ
  • 演奏:ロシア国立交響楽団
  • 録音:8 Jun.1993 モスクワ放送局大ホール
  • CANYON CLASSICS PCCL-00510(国内版)
交響曲 第1番をスヴェトラーノフ指揮、ロシア国立交響楽団の93年の録音から聴いてみた。

この交響曲には「冬の日の幻想」という標題が付けられているが、2番や3番などと違いこれはチャイコフスキー自らが付けたらしい。曲を聴くに当たっては、あまり標題にはこだわらないほうが良いと主張する人もいるが、曲を理解する手がかりにはなると思う。

第一楽章、弦の上にフルートとファゴットによる旋律が流れるが、非常に美しい出だしである。弱々しい冬の光が、凍てついた大地の上を転がるようなさまが思い浮かばれる。このテーマがひたすら展開されてゆく。ほとんどテーマだけでできているという印象さえ受けるが(^^;;、すがすがしい楽章である。

第二楽章は弦の美しいアダージョではじまる。オーボエが旋律を奏で、弦楽器やホルンへと受け継がれるが、非常に泣かせる旋律。最初のオーボエとフルートの掛け合いは、本当に美しい。いわゆる日本人好みの曲かなと思う。チャイコフスキーは演歌だと言い切る人もいるが、それはさておき、私もこの楽章は非常に好きである。交響曲 第6番を彷彿とさせる部分や、最後はなんだか白鳥の湖のような盛り上がりを見せる部分もあり、チャイコ節が楽しめる楽章だと思う。 

第三楽章は軽快なワルツ風の楽章でこれもチャイコフスキー好みに仕上がっている。ちょっと不安げな楽章である。

第四楽章は暗い出しながらも徐々にフーガ風(?)に色々曲想を変えながら、金管の咆哮する壮大なライマックスへとつながってゆく。「うるさい、単純すぎる、『冬の日の幻想』が何でこういう解決になるのだ」と訝る方ももしかしたら居るかもしれない(実は私がそう思った)。しかし、こういうドンチャカはクラシックを聴く醍醐味だと思う。ファイナルは素直にスピーカーに向かって(^^;;;「ブラボー!!」と叫べる曲である。

曲全体としては、ロシア民謡なのか旋律線が印象的である。テーマも深刻だったり力瘤の塊りのような感じもない。交響曲としてはあまり複雑な形態をとっていないせいか、演奏時間は50分弱であるものの気軽に聴ける曲に仕上がっていると感じる。

スヴェトラーノフはこの交響曲を同じロシア国立交響楽団と1990年5月にも録音しているようである(CANYON PCCL-00096)。この盤はそれよりも新しいもの。90年の演奏は聴いていないが、録音状況も良く、非常に満足のできる演奏が展開されている。

低弦や打楽器群の音量が強く重厚な演奏とえいる。テンポも比較的ゆったりしているが、ベタ遅という感じでもなく、また適度にテンポが振られている点も、聴く側にとっては適度にスリリングであり、聴いた後の満足感は高い。しかし、3年をおいて再び録音したということは、以前の演奏が気に入らなかったのであろうか・・・

同時カップリングは1812年だが、これについては機会を改めたい。