クルレンツィス2017年の録音です。以前も聴いていたのですが、改めて聴いてみました。
https://music.apple.com/jp/album/tchaikovsky-symphony-no-6/1289858974
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
クルレンツィス2017年の録音です。以前も聴いていたのですが、改めて聴いてみました。
https://music.apple.com/jp/album/tchaikovsky-symphony-no-6/1289858974
#ペトレンコ の悲愴、やっと聴いてみる。いくら45分の録音だからとて、30度超えるとか言ってる初夏みたいな日中に聴く音楽としては相応しくなかったね。 https://t.co/GA1l8FmXc4
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) May 24, 2019
ドゥダメルのチャイコフスキーの動画がYouTubeにありましたので貼っておきます。
なかなかの熱演です。
YouTube 動画を高く評価しました -- Dudamel & SBYO - Tchaikovsky Symphony No.5... youtu.be/asmz473I0Xo?a
posted at 20:26:05
YouTube 動画を高く評価しました -- Dudamel & SBYO - Tchaikovsky Symphony No.5... youtu.be/iaMpeM3gmzM?a
posted at 20:30:53
許光俊が「オレのクラシック」で絶賛しているものだからつい購入。彼はこのチャイコフスキー以上の音質の録音は、ムラヴィンスキーには存在しない(同 P.123)
と書いていまが、これに対しHMVのユーザーレビューでは多くの反発が書かれています。確かに音は「遠い」と感じますし「テープヒスノイズ」も気になるのですが、このチャイコフスキーのしなやかな炸裂はどうでしょう。聴き進むに連れ、そんなことはどうでも良くなります。
��G版など他とは比較して聴いていないので分かりませんが、随所に凄まじさを秘めた演奏であると思います。静かな部分からfffにいたる音楽の流れなど黒ヒョウが華麗なジャンプをみせたかのような鮮やかさです。解説は平林直哉さんほかが書かれていますが、おそらく実演で接していたら、このCD以上の感興であったのでしょう。今時CD1枚にチャイ5しか入っていない盤ですが、チャイ5好きには価値があるかと。
それにしても強奏部の表現は許氏も指摘するように、どこか違うような気がします。炸裂するような音響でありながら「暴力的」であったり「粗雑」ではない、オーケストラ全体がシャキッっと立ち上がるとでも言うのか。第2楽章の冒頭の入り方の丁寧さも、これ以上ないというくらいに素晴らしい。しかし続くホルンの音が少しくぐもって聴こえたり途中音がちょっと危うくなったりするのは残念なところ。同楽章の中間部の強奏部も凄い、思わずビックリ、背筋が伸びる。ここらあたりの表現の鮮やかさと鋭さが、ムラヴィンスキーの音楽を「冷たい」と感じる人がいる所以なのかもしれません。一切の妥協がありませんから。
圧巻はやはり終楽章にありました。圧倒的かつ怒涛の推進力でありながら、微塵も美しさを失わない。良く整備されたスケートリンクの上を一気に滑り、エッジを利かせて華麗にジャンプするかのような絶妙のスピード感と運動性能、削られた氷の破片が頬をピシリと打つかのような爆発。オーケストラは金管も木管も打楽器も弦楽器も、全てが一体となってフィナーレを演じている。
心底、久々に聴くチャイ5はええなあ~(;_;)
参考
4月になってしまいましたね。今年は昨年よりも寒いせいか、桜はまだのようです。来週半ばが見ごろでしょうか。そうは言っても、固い蕾も少しずつ開いてきましたから、今日はアタマを少し開く意味で、ゲルギエフのチャイ4などを聴いてみました。
それにしても、今時チャイ4だけでCD1枚作るなんて・・・不経済ですわな。
随分前に発売されていた、ウィーン・フィルとのライブ録音です。以前はゲルギエフといえば日本盤が出たらすぐに飛びつくように買っていたのですが、この頃はまあ輸入盤が出てからでもよいか、という程度になってしまいました。ゲルギエフが嫌いになったというわけではないのですが、余りに人気が出過ぎましたから、そんなに熱くなるのも大人気ないかな、といったところです。
それでも通して聴いてみますと、流石といいますか、ゲルギエフの奏でるチャイコフスキーはよく統制されていて、なかなかに上手いなあと感じます。
チャイコフスキーの4番というのは、ある意味で身も蓋もないような音楽です。こんなにあからさまに感情を表出してしまって、恥ずかしくないのだろうか、と思うところがないわけでもありません。そんなこの曲を、ゲルギエフは、感情を全開にしてグイグイとひっぱていくような野暮なことは、実はしていません。
この演奏に荒々しさや猛々しさ、ロシア的土臭さを求め、ある意味で莫迦騒ぎのようなカタストロフを期待するならば、おそらく聴く人は肩透かしをくらうのではないでしょうか。確かに冒頭のホルンやトロンボーンの強奏を聴くと、ただごとならぬ爆演を期待してしまいますし、どこまでも底の知れないウィーンpoのメンバーが、ゴリゴリと音を出しているのを聴くと、凄いなあとは思うのですが、チャイコフスキーの詩情とか叙情も上手く表現していて、音楽的には振幅のゆったりと大きな、悠然とした演奏になっているように思えます。
音楽全体を支配する、大きな波というか、うねりが感じられ、そこにストーリー性を見出すような感じに仕上がっているようです。また、今回の白眉は3楽章でしょうかね。弦のピチカートは大地さえ粒立つかのような重々しさと強さが溢れており、その強さのままに木管までもがシンクロし、第4楽章の狂騒を予兆するかのような演奏は、なかなかです。また、中間部のメロディーはチャイコフスキーがバレエ音楽作家であったことを思い出させてくれます。そのまま踊れそうな楽しさを味わえます、ここもマリインスキーを率いて長いゲルギエフならではでしょうか。
第4楽章は「狂騒」と書きましたが、これも脳天気なお祭り騒ぎにはなってはいません。下品にもならず、過激にもならず、ウィーン的優雅ささえも湛えながら、この「身も蓋もない」音楽を語ってくれます。今回のゲルギエフに落胆する人は、ここをもっとガンガンやって欲しかったのでしょうか。テンポは結構速めですし、ラストに向けての煽り方も結構凄いですし、オケ全体が強奏した後のムジクフェラインが数十センチほど振動してたのではないかと思わせるほどの音塊も聴くことができるのですがね。
私は、久しぶりにゲルギエフとチャイコフスキーの音楽を楽しむことができましたが、評価は分かれる音楽かもしれませんし、ある種類の方には全く興味の沸かない音楽かもしれません。
本日の日経新聞朝刊に『チャイコフスキー 幻の交響曲110年ぶり完成へ』という記事が。
チャイコフスキーが未完のまま残した交響曲「人生」がチャイコフスキー財団などで補作され完成することになったとのこと。秋には西本智美氏 指揮、ロシア交響楽団で演奏が予定されているらしいです。
第3番と同様に、珍しく長調(変ホ長調 )で書かれているこの曲、第一楽章はオーケストラ全体の完成された譜面が、第二、第三楽章はスケッチしかないため、ロシアの作曲家や音楽研究家らが徹底的に研究し補完作業をしたのだそうです。
チャイコは嫌いではないですが、補完版てのはねエ、どうなんでしょう。一度は聴いてみたいと思いますが。これとは別物になったんでしょうか。
私が「思わずジャケ買いしてしまうヲジサン」であるかはさておき、HMVで少しばかり視聴したのですが、「ひょえっ!なんぢゃこれ」というくらいに個性的な演奏で、そのまま聴きつづけるのがつらかったのでフラフラとゲットしてしまいました。
An die Musikの伊東さんは、本盤のレヴュでこれは好き・嫌いがはっきり分かれるだろう。と書いておられましたが、聴いてみればまさに個性的な演奏。出だしからこれでもかと言わんばかりの濃厚な表現が聴かれます。チャイコフスキーがこんなにも色香のある音楽だったかしらと戸惑ってしまいます。
「妖艶」「むせかえるような」などの形容詞を冠したくなる演奏で、それがムターの個性なのだといわれれば、そういうものかとも思いますが、果たしてこれが「美しい」演奏であるかは疑問です。(美しいの定義も問題ですが)
ムターのヴァイオリンは、ノンヴィブラートの音から、艶やかさと豊穣さを乗せまくったヴィヴラート音まで、あるいはポルタメントの多様やあざといまでのアゴーギグなど、表現の巾は変化自在であり極めて広いといえます。演奏スタイルは下品とか演歌的というのではないのですが、非常に濃いものです。目的のためには手段を選ばないといいますか、娘にもなれば熟女にも老婆にも化けるといったような・・・
コテコテの演奏がキライなわけではないのですが、ムターのこの演奏には、どこかついていけないものを感じます。聴いていて顔をしかめてしまうような部位がいくつもあります。例えば、第二楽章冒頭のノンヴィヴラートの音色など。もっとも、これはこれでびっくりするような音です。暗くかすれたむせび泣きであり、この楽章は全般的にヴァイオリン協奏曲というより、オペラの悲劇のヒロイン歌う哀しいアリアにさえ聴こえます。でも何となくムタれ気味になった耳に、オケのフルートの音色が新鮮に聴こえ、救われる思いだったりします。
夫であるプレヴィンとの共演というだけあってアンサンブルは悪くありません。ムターに十分にかつ自在に歌わせているように感じます。オケはバックで闊達すぎるムターを外側から優しく抱擁しているようでさえあります。
見事といえば見事なのですが、改めて伊東さんと同じように好きか・嫌いかと問われれば「好きとは言いたくない、が抗えない力も感じる」というのが結論ですな。
池袋HMVでバロックものでもと物色していましたら、とてつもない音楽が店内に鳴り響いています、下品とかなんとかを通り越して騒音に近い音楽です。仰天してカウンターに行って何が鳴っているのかと確認したら、この演奏でした。手に取ったシャルパンティエのCDを思わず棚に戻してしまいました(笑)
1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音で長く廃盤となっていた録音の復活盤です。
池袋HMVでバロックものでもと物色していましたら、とてつもない音楽が店内に鳴り響いています、下品とかなんとかを通り越して騒音に近い音楽です。仰天してカウンターに行って何が鳴っているのかと確認したら、この演奏でした。手に取ったシャルパンティエのCDを思わず棚に戻してしまいました(笑)
ほとんど「バカじゃないのか」と思うほどの演奏です、凄まじきは第四楽章。フィナーレの音が未だ鳴っているのに、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの観衆は歓喜と怒号を抑えることができないでいます。
もともとチャイ4の第4楽章は明るさとお祭り騒ぎの曲なのですが、ホールの底が抜けてしまうのではないかという強烈な音響から始まる演奏は、CDという固定された媒体を通しても「ブッ飛び」具合が伝わってきます。第四楽章中間部(5分40秒)で大打撃と休止が繰り返されるとこなどは、シンバルとティンパニとチェロの背板で脳天をぶん殴られたような迫力です。
金管も打楽器も弦楽器も、こんなに粗々しくも強烈な音を出せるものなのかという、一つの限界にまで達してしまっている演奏と言えるかもしれません。トロンボーンなど音が割れる寸前です(というか既に割れているかもしれない)。粗々しいだけならばそれほど感心しないのですが、憂愁を込めて歌うところも、重厚な音響に支えられていてなかなか聴かせてくれます。
落ち着いて聴き返してみれば、一楽章の悲愴さと暗さと重さも凄まじい、鬼気迫るものを感じます。もはや個人の苦悩などというものよりも、抗うことのできない狂暴性や残酷さまでも感じます。しかしここでも決して演奏が雑なわけではなく、木管が優しげにテーマを歌うところの裏の歌わせ方やピアニッシモの表現など、なかなかです。
��Dの解説では"The Times"に掲載されたAlan Blythのレビュを紹介していまして、最初の三つの楽章についてのレビュは以下のようなものでした。
Rozhdestvensky seemed determined to divest the work of its usually rhetorical and melodramatic connotations and give us the music for its own sake. The results were like the spring-cleaning of a picture:all the detail came up fresh and clear so that the preconceptions engendered by the venner of generations could be dismised from the mind."
それにしてもやっぱりこの演奏は第四楽章に尽きることは否定できず、録音の質がそれほどよくはありませんが、現代では決して望むことのできそうもない異常なハイテンション演奏
(HMV評)を楽しみたいという方には(たぶん)お薦めできます。
同時収録は、ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番(60年)ですが、こちらは未聴ですのでレビュはいつかまた。
HMV レコメンド HMVの評価 9ロジェストヴェンスキー&レニングラード/チャイコフスキー第4番 1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音。以前にBBC RADIO CLASSICSレーベルから発売、廃盤となって久しかった異常なハイテンション演奏が嬉しい復活。
時、世界的にも最強の精鋭集団だった「鉄壁の」レニングラード・フィルが冷徹なボス、ムラヴィンスキーの手をはなれ、いつもの演奏会とはまったく異なるロジェヴェンの派手な芸風を得て、旅公演で燃えに燃えまくった貴重きわまりない記録です。
第1楽章冒頭から濃厚ヴィブラートで咆えるブラスに仰天、広大に設定されたダイナミクスによって極限まで拡大された情感が、緩急自在に振幅するさまには絶句です。
第4楽章はもう滅茶苦茶にモノ凄く、作曲者自身もこの楽章を「鳴り物入り」と評していたそうですが、そのことをここまであからさまに示した演奏もまたとないでしょう。
この興奮に、聴衆も最後の和音が鳴っている間から雄叫びのような喝采をあげ始めるは、会場中に口笛は飛びかうは、もう大変な騒ぎです。
併録のショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番は、以前同じレーベルから限定発売されていたものと同一で、こちらも嬉しい復活。1960年のモノラル・ライヴながら良好な音質で、ロストロポーヴィチ壮年期の凄演を味わうに何ら不足ありません。
ガッティの新作であるチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いてみました。チャイコフスキーの第5番は私の非常に好きな曲です。
ダニエル・ガッティといえば数年前に発売された、マーラー交響曲第5番が思い出されます。衝撃のマーラーみたいな売り出し方で、私も乗せられて聴いてみましたが、確かに素晴らしい熱演で、特に終楽章の終わり方など凄まじいものがありました。しかしその後の演奏はあまり話題に上らず、私もあの1枚で忘れ去っていたというのが本当のところです。そういうガッティが今回 harmonia mundi に録音したのがチャイコフスキーの第5番と知り、HMVが宣伝しなくても気になっていました。
さて二度ほど聴いてみた印象としては、熱く押しまくる激情型の演奏とは若干違うもののように感じました。激しくないというのでは、全くないのですが、それでも情よりも知の方が勝っているのではないかと感じるのです。
激しくないわけではないと書いたように、始終テンションは高い演奏です。ガッティは緩急を織り交ぜ、自在にテンポを操りながら演奏を進めてゆきます。表現も豊かで、激流とその裏腹のよどみのような柔らかな表現を交錯させるさまは見事です。こういう明暗の描き方はあざといほどで、躁と鬱を複雑に移り変わる感情を表しているようでもあります。ロミオとジュリエットでもそうですが、音楽の造詣は彫が深く秀逸な録音のせいもあるのか情報量が豊富な盤だといえます。こういう演奏を「キレの良い演奏」と言うのでしょうかね。
私はチャイコフスキーのこの曲は昔から非常に好きな曲でありまして、この曲のレビュを書くために「チャイコフスキーの交響曲を聴く」というシリーズを数年前に立ち上げたほどです。この曲はベートーベンと同様に「運命」がテーマとされているように言われますが、私はむしろ特徴的に現れる上昇音型と下降音型に示されるように、引き裂かれた自我の二面性を感じるのです。第二楽章の圧倒的な静謐と美しさも、喪失した美しさや、訪れるであろう(または訪れた)哀しみと虚無を感じます。終楽章もそういうコンテクストで聴くと、自らを鼓舞する駄目押しの祝祭のように思えます。
ガッティの演奏は、激しさと緩やかさの色彩変化が鮮やかで、チャイコフスキーの泣き笑いが透けて見えるようです。演奏は熱演のようでありながら計算と抑制が効いており、単なるお祭り騒ぎに終わらせていないように思えます。テンポの変化も情に訴えるというよりも、聴きなれたこの曲に新たなエネルギーと息吹を与えるような効果であるように思ったのですが、いかがでしょうか。(何度も聴いていたらわけが分からなくなってきたのでここらへんで止めます)