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2021年4月15日木曜日

【音盤】コパチンスカヤとクルレンツィスのチャイコフスキー

クルレンツィスのベト7を聴くために、改めてこの盤を聴いたのですが、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲の今までの常識、風景をまったく見事に覆してくれる演奏=録音だったので、簡単に記しておきます。


2019年4月25日木曜日

【音盤】ペトレンコのチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」

 

2011年3月4日金曜日

Dudamel & SBYO チャイコフスキー 交響曲第5番

ドゥダメルのチャイコフスキーの動画がYouTubeにありましたので貼っておきます。

なかなかの熱演です。


YouTube 動画を高く評価しました -- Dudamel & SBYO - Tchaikovsky Symphony No.5... youtu.be/asmz473I0Xo?a

posted at 20:26:05

YouTube 動画を高く評価しました -- Dudamel & SBYO - Tchaikovsky Symphony No.5... youtu.be/iaMpeM3gmzM?a

posted at 20:30:53

2009年2月22日日曜日

ドゥダメルのチャイコフスキー交響曲第5番(DG 1week)


ドゥダメルとSBYOによる、チャイコフスキー交響曲第5番を聴いてみました。HMVレビュにあるように確かに音質(録音?)が悪い。モコモコとしていて音像がハッキリしません。湿気の多い大気を通して景色を眺めている感があります。しかしながら、その欠点を差し置いたとしても本演奏は素晴らしいものであると思います。

来日も果たしているドゥダメルについて私が知りえ、聴いたことがあるのは録音された演奏のみ。その前提で書くとしても、ドゥダメルは他の演奏と同様、単なる熱演、爆演系指揮者ではないことが分かります。しっかと計算された緻密な棒のもとに、非常に訓練されたスキルの高い演奏者が、情に流されることなく音楽を表現しているという印象です。音楽からは喜びや音楽への愛が伝わってきます。

演奏にはわざとらしいクセや恣意的なアクはなく、従ってチャイコフスキーにありがちな土砂降りの感情の吐露や自己憐憫のような湿っぽい感情も感じません。

演奏者の育った原風景が、演奏表現に与える影響は否定できないのでしょうか、あるいは私の先入観でしょうか。私は今までとは違ったチャイコフスキー像をこの曲から感じました。印象的感想を許容するとするならば、例えば第二楽章。この曲を聴くと私はたいてい、煌々とした月夜を想像します、老人の過去への憧憬とともに。しかし彼らの演奏からは、むしろ大きな大地の息吹と、沈み行く太陽と明日への希望のようなものを感じます。

終楽章の冒頭主題が終わった後、ティンパニの連打に先導される部分からの圧倒的な疾走にも驚かされます。ここに至るまでの演奏が堂々としたもので、テンポもゆったりしていただけに、この変化には目を見張る効果があります。湧き上がりうねりまくる若きエネルギーが爆発しており、まことに爽快です。冒頭の陰鬱にして湿った重たい表現から、最後の爆発まで、色彩のパレットを駆使した音楽の描き分は見事です。

『フランチェスカ・ダ・リミニ』はあまり親しんでいる曲ではないものの、この演奏を聴いてたまげました。凄まじき演奏にして音楽であります。激烈さと激しさは聴くものを翻弄するほどのパワーがあります。ラストの興奮にみちたアプローズにも納得です。

2008年7月4日金曜日

[演奏会]コバケン&新日フィル:ベト7+チャイ5


本日は、とある企業が主催する公開録音に招かれ、すみだトリフォニー・ホールにてコバケンと新日本フィルハーモニー交響楽団による、ベト7とチャイ5を聴いてきました。自分でお金出したわけではなく「ご招待」なので、偉そうに感想を書くのは憚られます。サラリと述べるに留めましょう。


��月以来、音楽活動も非常にプアーな状況でしたので、久々の生オケは充分に堪能できました。曲も曲でしたし。ベト7は、少しもったりと重いかなという印象でしたが、チャイ5ではコバケン節炸裂ですね。パワフルな曲を続けてですから、オケの皆さんを始めコバケンもお疲れのことでしょう。


昔はチャイ5命みたいなところありましたが、このごろはほとんど聴きません。久しぶりに聴くと、あまりのストレートさに気恥ずかしくなるほどですが、それなりに「スッキリ」感は得られ、まずまずといったところでしょうか。


しかし、これを期に音楽活動が活発になることは、ちょっとなさそうですね・・・。


2005年12月24日土曜日

チャイコフスキー:交響曲第5番/ムラヴィンスキー&レニングラード

ムラヴィンスキー チャイコフスキー交響曲第5番
  1. Andante-Allegro con anima 13:44
  2. Andante cantabile,con alcuna licenza 11:51
  3. Valse.Allegro moderato 5:34
  4. Finale.Andante maestoso-Allegro vivce 11:39
  • ムラヴィンスキー(指揮) レニングラードpo.
  • 1977年10月19日 NHKホール LIVE
  • ATL052

許光俊が「オレのクラシック」で絶賛しているものだからつい購入。彼はこのチャイコフスキー以上の音質の録音は、ムラヴィンスキーには存在しない(同 P.123)と書いていまが、これに対しHMVのユーザーレビューでは多くの反発が書かれています。確かに音は「遠い」と感じますし「テープヒスノイズ」も気になるのですが、このチャイコフスキーのしなやかな炸裂はどうでしょう。聴き進むに連れ、そんなことはどうでも良くなります。

��G版など他とは比較して聴いていないので分かりませんが、随所に凄まじさを秘めた演奏であると思います。静かな部分からfffにいたる音楽の流れなど黒ヒョウが華麗なジャンプをみせたかのような鮮やかさです。解説は平林直哉さんほかが書かれていますが、おそらく実演で接していたら、このCD以上の感興であったのでしょう。今時CD1枚にチャイ5しか入っていない盤ですが、チャイ5好きには価値があるかと。

それにしても強奏部の表現は許氏も指摘するように、どこか違うような気がします。炸裂するような音響でありながら「暴力的」であったり「粗雑」ではない、オーケストラ全体がシャキッっと立ち上がるとでも言うのか。第2楽章の冒頭の入り方の丁寧さも、これ以上ないというくらいに素晴らしい。しかし続くホルンの音が少しくぐもって聴こえたり途中音がちょっと危うくなったりするのは残念なところ。同楽章の中間部の強奏部も凄い、思わずビックリ、背筋が伸びる。ここらあたりの表現の鮮やかさと鋭さが、ムラヴィンスキーの音楽を「冷たい」と感じる人がいる所以なのかもしれません。一切の妥協がありませんから。

圧巻はやはり終楽章にありました。圧倒的かつ怒涛の推進力でありながら、微塵も美しさを失わない。良く整備されたスケートリンクの上を一気に滑り、エッジを利かせて華麗にジャンプするかのような絶妙のスピード感と運動性能、削られた氷の破片が頬をピシリと打つかのような爆発。オーケストラは金管も木管も打楽器も弦楽器も、全てが一体となってフィナーレを演じている。

心底、久々に聴くチャイ5はええなあ~(;_;)

参考

チャイコフスキーの交響曲を聴く

2005年4月1日金曜日

ゲルギエフ&ウィーン/チャイコフスキー:交響曲第4番

4月になってしまいましたね。今年は昨年よりも寒いせいか、桜はまだのようです。来週半ばが見ごろでしょうか。そうは言っても、固い蕾も少しずつ開いてきましたから、今日はアタマを少し開く意味で、ゲルギエフのチャイ4などを聴いてみました。

それにしても、今時チャイ4だけでCD1枚作るなんて・・・不経済ですわな。


  • ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 ウィーンpo
  • 2002年10月 ウィーン ムジークフェラインザール Live PHILIPS 475 6316(輸入版)

随分前に発売されていた、ウィーン・フィルとのライブ録音です。以前はゲルギエフといえば日本盤が出たらすぐに飛びつくように買っていたのですが、この頃はまあ輸入盤が出てからでもよいか、という程度になってしまいました。ゲルギエフが嫌いになったというわけではないのですが、余りに人気が出過ぎましたから、そんなに熱くなるのも大人気ないかな、といったところです。

それでも通して聴いてみますと、流石といいますか、ゲルギエフの奏でるチャイコフスキーはよく統制されていて、なかなかに上手いなあと感じます。

チャイコフスキーの4番というのは、ある意味で身も蓋もないような音楽です。こんなにあからさまに感情を表出してしまって、恥ずかしくないのだろうか、と思うところがないわけでもありません。そんなこの曲を、ゲルギエフは、感情を全開にしてグイグイとひっぱていくような野暮なことは、実はしていません。

この演奏に荒々しさや猛々しさ、ロシア的土臭さを求め、ある意味で莫迦騒ぎのようなカタストロフを期待するならば、おそらく聴く人は肩透かしをくらうのではないでしょうか。確かに冒頭のホルンやトロンボーンの強奏を聴くと、ただごとならぬ爆演を期待してしまいますし、どこまでも底の知れないウィーンpoのメンバーが、ゴリゴリと音を出しているのを聴くと、凄いなあとは思うのですが、チャイコフスキーの詩情とか叙情も上手く表現していて、音楽的には振幅のゆったりと大きな、悠然とした演奏になっているように思えます。

音楽全体を支配する、大きな波というか、うねりが感じられ、そこにストーリー性を見出すような感じに仕上がっているようです。また、今回の白眉は3楽章でしょうかね。弦のピチカートは大地さえ粒立つかのような重々しさと強さが溢れており、その強さのままに木管までもがシンクロし、第4楽章の狂騒を予兆するかのような演奏は、なかなかです。また、中間部のメロディーはチャイコフスキーがバレエ音楽作家であったことを思い出させてくれます。そのまま踊れそうな楽しさを味わえます、ここもマリインスキーを率いて長いゲルギエフならではでしょうか。

第4楽章は「狂騒」と書きましたが、これも脳天気なお祭り騒ぎにはなってはいません。下品にもならず、過激にもならず、ウィーン的優雅ささえも湛えながら、この「身も蓋もない」音楽を語ってくれます。今回のゲルギエフに落胆する人は、ここをもっとガンガンやって欲しかったのでしょうか。テンポは結構速めですし、ラストに向けての煽り方も結構凄いですし、オケ全体が強奏した後のムジクフェラインが数十センチほど振動してたのではないかと思わせるほどの音塊も聴くことができるのですがね。

私は、久しぶりにゲルギエフとチャイコフスキーの音楽を楽しむことができましたが、評価は分かれる音楽かもしれませんし、ある種類の方には全く興味の沸かない音楽かもしれません。

2005年2月8日火曜日

チャイコフスキーの幻の交響曲


本日の日経新聞朝刊に『チャイコフスキー 幻の交響曲110年ぶり完成へ』という記事が。

チャイコフスキーが未完のまま残した交響曲「人生」がチャイコフスキー財団などで補作され完成することになったとのこと。秋には西本智美氏 指揮、ロシア交響楽団で演奏が予定されているらしいです。


第3番と同様に、珍しく長調(変ホ長調 )で書かれているこの曲、第一楽章はオーケストラ全体の完成された譜面が、第二、第三楽章はスケッチしかないため、ロシアの作曲家や音楽研究家らが徹底的に研究し補完作業をしたのだそうです。


チャイコは嫌いではないですが、補完版てのはねエ、どうなんでしょう。一度は聴いてみたいと思いますが。これとは別物になったんでしょうか。



2004年11月30日火曜日

ムター/チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ウィーン・フィルハーモニー(チャイコフスキー)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ロンドン交響楽団(コルンゴルド)
GRAMMOPHONE UCCG-1206

ムターの15年振りの再録となるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみました。

私が「思わずジャケ買いしてしまうヲジサン」であるかはさておき、HMVで少しばかり視聴したのですが、「ひょえっ!なんぢゃこれ」というくらいに個性的な演奏で、そのまま聴きつづけるのがつらかったのでフラフラとゲットしてしまいました。

An die Musikの伊東さんは、本盤のレヴュでこれは好き・嫌いがはっきり分かれるだろう。と書いておられましたが、聴いてみればまさに個性的な演奏。出だしからこれでもかと言わんばかりの濃厚な表現が聴かれます。チャイコフスキーがこんなにも色香のある音楽だったかしらと戸惑ってしまいます。

「妖艶」「むせかえるような」などの形容詞を冠したくなる演奏で、それがムターの個性なのだといわれれば、そういうものかとも思いますが、果たしてこれが「美しい」演奏であるかは疑問です。(美しいの定義も問題ですが)

ムターのヴァイオリンは、ノンヴィブラートの音から、艶やかさと豊穣さを乗せまくったヴィヴラート音まで、あるいはポルタメントの多様やあざといまでのアゴーギグなど、表現の巾は変化自在であり極めて広いといえます。演奏スタイルは下品とか演歌的というのではないのですが、非常に濃いものです。目的のためには手段を選ばないといいますか、娘にもなれば熟女にも老婆にも化けるといったような・・・

コテコテの演奏がキライなわけではないのですが、ムターのこの演奏には、どこかついていけないものを感じます。聴いていて顔をしかめてしまうような部位がいくつもあります。例えば、第二楽章冒頭のノンヴィヴラートの音色など。もっとも、これはこれでびっくりするような音です。暗くかすれたむせび泣きであり、この楽章は全般的にヴァイオリン協奏曲というより、オペラの悲劇のヒロイン歌う哀しいアリアにさえ聴こえます。でも何となくムタれ気味になった耳に、オケのフルートの音色が新鮮に聴こえ、救われる思いだったりします。

夫であるプレヴィンとの共演というだけあってアンサンブルは悪くありません。ムターに十分にかつ自在に歌わせているように感じます。オケはバックで闊達すぎるムターを外側から優しく抱擁しているようでさえあります。

見事といえば見事なのですが、改めて伊東さんと同じように好きか・嫌いかと問われれば「好きとは言いたくない、が抗えない力も感じる」というのが結論ですな。

2004年4月24日土曜日

ロジェストヴェンスキー/チャイコフスキー交響曲第4番

  • 指揮:ロジェストヴェンスキー
  • 演奏:レニングラード・フィル
  • 録音:1971年9月、Royal Albert Hall, Live

1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音で長く廃盤となっていた録音の復活盤です。

池袋HMVでバロックものでもと物色していましたら、とてつもない音楽が店内に鳴り響いています、下品とかなんとかを通り越して騒音に近い音楽です。仰天してカウンターに行って何が鳴っているのかと確認したら、この演奏でした。手に取ったシャルパンティエのCDを思わず棚に戻してしまいました(笑)

1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音で長く廃盤となっていた録音の復活盤です。

池袋HMVでバロックものでもと物色していましたら、とてつもない音楽が店内に鳴り響いています、下品とかなんとかを通り越して騒音に近い音楽です。仰天してカウンターに行って何が鳴っているのかと確認したら、この演奏でした。手に取ったシャルパンティエのCDを思わず棚に戻してしまいました(笑)

ほとんど「バカじゃないのか」と思うほどの演奏です、凄まじきは第四楽章。フィナーレの音が未だ鳴っているのに、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの観衆は歓喜と怒号を抑えることができないでいます。

もともとチャイ4の第4楽章は明るさとお祭り騒ぎの曲なのですが、ホールの底が抜けてしまうのではないかという強烈な音響から始まる演奏は、CDという固定された媒体を通しても「ブッ飛び」具合が伝わってきます。第四楽章中間部(5分40秒)で大打撃と休止が繰り返されるとこなどは、シンバルとティンパニとチェロの背板で脳天をぶん殴られたような迫力です。

金管も打楽器も弦楽器も、こんなに粗々しくも強烈な音を出せるものなのかという、一つの限界にまで達してしまっている演奏と言えるかもしれません。トロンボーンなど音が割れる寸前です(というか既に割れているかもしれない)。粗々しいだけならばそれほど感心しないのですが、憂愁を込めて歌うところも、重厚な音響に支えられていてなかなか聴かせてくれます。

落ち着いて聴き返してみれば、一楽章の悲愴さと暗さと重さも凄まじい、鬼気迫るものを感じます。もはや個人の苦悩などというものよりも、抗うことのできない狂暴性や残酷さまでも感じます。しかしここでも決して演奏が雑なわけではなく、木管が優しげにテーマを歌うところの裏の歌わせ方やピアニッシモの表現など、なかなかです。

��Dの解説では"The Times"に掲載されたAlan Blythのレビュを紹介していまして、最初の三つの楽章についてのレビュは以下のようなものでした。

Rozhdestvensky seemed determined to divest the work of its usually rhetorical and melodramatic connotations and give us the music for its own sake. The results were like the spring-cleaning of a picture:all the detail came up fresh and clear so that the preconceptions engendered by the venner of generations could be dismised from the mind."

それにしてもやっぱりこの演奏は第四楽章に尽きることは否定できず、録音の質がそれほどよくはありませんが、現代では決して望むことのできそうもない異常なハイテンション演奏(HMV評)を楽しみたいという方には(たぶん)お薦めできます。

同時収録は、ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番(60年)ですが、こちらは未聴ですのでレビュはいつかまた。

HMV レコメンド HMVの評価 9

ロジェストヴェンスキー&レニングラード/チャイコフスキー第4番 1971年9月9日のステレオ・ライヴ録音。以前にBBC RADIO CLASSICSレーベルから発売、廃盤となって久しかった異常なハイテンション演奏が嬉しい復活。

 時、世界的にも最強の精鋭集団だった「鉄壁の」レニングラード・フィルが冷徹なボス、ムラヴィンスキーの手をはなれ、いつもの演奏会とはまったく異なるロジェヴェンの派手な芸風を得て、旅公演で燃えに燃えまくった貴重きわまりない記録です。

 第1楽章冒頭から濃厚ヴィブラートで咆えるブラスに仰天、広大に設定されたダイナミクスによって極限まで拡大された情感が、緩急自在に振幅するさまには絶句です。

 第4楽章はもう滅茶苦茶にモノ凄く、作曲者自身もこの楽章を「鳴り物入り」と評していたそうですが、そのことをここまであからさまに示した演奏もまたとないでしょう。

 この興奮に、聴衆も最後の和音が鳴っている間から雄叫びのような喝采をあげ始めるは、会場中に口笛は飛びかうは、もう大変な騒ぎです。

 併録のショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番は、以前同じレーベルから限定発売されていたものと同一で、こちらも嬉しい復活。1960年のモノラル・ライヴながら良好な音質で、ロストロポーヴィチ壮年期の凄演を味わうに何ら不足ありません。

2004年2月28日土曜日

チャイコスキー:交響曲 第5番/ガッティ

  1. チャイコフスキー:交響曲第5番ホ単調
  2. チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』
  • ダニエル・ガッティ指揮、ロイヤルpo.
  • 2003/8/31-9/1 Abbey Road Studios,London

ガッティの新作であるチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いてみました。チャイコフスキーの第5番は私の非常に好きな曲です。

ダニエル・ガッティといえば数年前に発売された、マーラー交響曲第5番が思い出されます。衝撃のマーラーみたいな売り出し方で、私も乗せられて聴いてみましたが、確かに素晴らしい熱演で、特に終楽章の終わり方など凄まじいものがありました。しかしその後の演奏はあまり話題に上らず、私もあの1枚で忘れ去っていたというのが本当のところです。そういうガッティが今回 harmonia mundi に録音したのがチャイコフスキーの第5番と知り、HMVが宣伝しなくても気になっていました。

さて二度ほど聴いてみた印象としては、熱く押しまくる激情型の演奏とは若干違うもののように感じました。激しくないというのでは、全くないのですが、それでも情よりも知の方が勝っているのではないかと感じるのです。

激しくないわけではないと書いたように、始終テンションは高い演奏です。ガッティは緩急を織り交ぜ、自在にテンポを操りながら演奏を進めてゆきます。表現も豊かで、激流とその裏腹のよどみのような柔らかな表現を交錯させるさまは見事です。こういう明暗の描き方はあざといほどで、躁と鬱を複雑に移り変わる感情を表しているようでもあります。ロミオとジュリエットでもそうですが、音楽の造詣は彫が深く秀逸な録音のせいもあるのか情報量が豊富な盤だといえます。こういう演奏を「キレの良い演奏」と言うのでしょうかね。

私はチャイコフスキーのこの曲は昔から非常に好きな曲でありまして、この曲のレビュを書くために「チャイコフスキーの交響曲を聴く」というシリーズを数年前に立ち上げたほどです。この曲はベートーベンと同様に「運命」がテーマとされているように言われますが、私はむしろ特徴的に現れる上昇音型と下降音型に示されるように、引き裂かれた自我の二面性を感じるのです。第二楽章の圧倒的な静謐と美しさも、喪失した美しさや、訪れるであろう(または訪れた)哀しみと虚無を感じます。終楽章もそういうコンテクストで聴くと、自らを鼓舞する駄目押しの祝祭のように思えます。

ガッティの演奏は、激しさと緩やかさの色彩変化が鮮やかで、チャイコフスキーの泣き笑いが透けて見えるようです。演奏は熱演のようでありながら計算と抑制が効いており、単なるお祭り騒ぎに終わらせていないように思えます。テンポの変化も情に訴えるというよりも、聴きなれたこの曲に新たなエネルギーと息吹を与えるような効果であるように思ったのですが、いかがでしょうか。(何度も聴いていたらわけが分からなくなってきたのでここらへんで止めます)

2003年4月25日金曜日

ゲルギエフ/チャイコフスキー「くるみ割人形」(全曲)


チャイコフスキー/くるみ割り人形(全曲)
 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
 録音:Festspielhaus, Baden-Baden, Germany, 8/1989
 PHILIPS 462 114-2(輸入盤)

ずいぶん以前から発売されていることは知っていたのだが、見つけられずにいたCDだった。池袋HMVに行ってみたらロープライスコーナーで販売されていたのでゲット。ゲルギエフファンならば話題のショスタコ7番を買うべきなのだろうが、タコは重い。聴くのに覚悟が必要であるので今回はパス。(そのうちこっそり聴くことにしようとは思っている・・・)

さて、このCDは『くるみ割人形』全曲(81分)がなんと1枚におさめられている。チャイコフスキーやゲルギエフファンならずとも嬉しい構成である。それにしても、どこを切っても有名で耳馴染みのある曲を通しで聴くのは、もしかしたら始めてかもしれないなあと、聴きながらにして思った。

ゲルギエフはバレエ音楽であるこの曲を、どう料理しているか。さすがにこの曲は「戦争もの」ではない。だから、彼お得意のマチョさで、ゴリゴリ押しまくっているというような演奏ではない。それでも、非常にメリハリとダイナミックさに富んだヴィヴィッドな演奏になっていると思う。

彼の音楽の場合『シェヘラザード』でも『アレクサンドル・ネフスキー』でもそうであったが、激しい部分と弦を中心とした歌の部分の表現の対比には、いつも驚かされるのだが、この演奏でもそれを存分に味わうことができる。シンバルは高らかに鳴り、ティンパニは地響きのように叩かれる、そこに天から差し込むがごときハープの音色・・・ああ、これって『くるみ割り人形』なの・・って(^^)。

この演奏から聴き取れるのは、まさに生き生きとした躍動感だ。本来バレエ音楽であるためか、体の底から沸いてくるようなリズムは、時に野蛮なまでの野生を目覚めさせるかのよう。一方で彼の音楽は官能的でもあるのだと思う。本能に近い部分に作用してしまうので、ある種の音楽ファンには「効く」のだろう。リズムのぶれも粗さも、そういう種のファンにはどうでもよくなる。このような点を、あざとらしいとして疎んじる人もいるかもしれない。

それにしてもゲルギエフの統率するキーロフの演奏ときたら。本当によく彼に反応していると思う。これを聴くと、最近発売された彼の演奏のエッセンスが全てぎっしり詰まっているように聴こえる。コントラバスのかすれるような低音の響きもそのままだ。ああ、ゲルギエフとロシアの息吹が流れ込んでくる(^^)

「Trepak」を聴くと、札幌公演のことが思い出される。本当は、クラクCDなんて聴いている場合ぢゃあないですがね。



2002年12月29日日曜日

ゲルギエフ/チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲


ペーター・チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 二長調 作品35
ヴァイオリン:ワディム・レーピン 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団 指揮:ワレリー・ゲルギエフ録音:2002年7月2-4日 フィンランド、マルッティ・ラルヴェラ・ホール(ミッケリ音楽祭でのライブ)
ゲルギエフが手兵キーロフを率いヴァイオリンにはレーピンを迎えて録音した、チャイコフスキーとミヤスコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみた。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は私の好きな曲のひとつであるが、あまりにも有名でありすぎるために普段改めて聴こうという気に、なかなかならない曲でもある。今更チャイコンかよ・・・というカンジなのである。それでもゲルギエフがどのように料理するのかという点に興味があった。レーピンは聴くのが初めてであるし。
しかしながら、何度か聴いてみたがのだが、ゲルギエフの芸風よりも、レーピンのヴァイオリンに大きく心を動かされた。レーピンがどのようなヴァイオリニストとして評されているのか分からないが、録音からは野太くがっしりとした骨格をもった、ダイナミックな音楽が深く心に染み渡るように感じだ。アクとかクセとか節のようなものは比較的少ないかもしれない。どこかズドーンとした印象のストレートな音楽だ。ただし素直で世間を知らないストレートさというのではない、色々なことをやり尽くしてきた末にたどり着くストレートさみたいな感じ、だとすると、これが若干30歳の若者の音楽なのかと一瞬考え込んでしまう。1楽章の奔流の後には思わず拍手してしまう、見事見事と。
この盤で聴く限り、レーピンの音はゲルギエフ&キーロフのスタイルに合っているようにも思える。ゲルギエフの時に野獣のような攻め方(ここではそういう野蛮さは少ないが)に対し、それをしっかりと受け止めるだけの太さと、よい意味での粗さを感じることができる。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲には優雅さや優美さよりも、疾走する力強さと生命力を感じることに異論はなかろう。レーピンのヴァイオリンには、それが見事に表現されているように思える。この曲が作曲された時期はチャイコフスキーにとってあまり幸福なときとは言えないはずだが、曲に秘められた強いエネルギーの発露にはいつも聴くたびに感歎させられる。自在に駆け回るレーピンのヴァイオリンは、チャイコフスキーの音楽をきっちりとトレースしているように思える。
いつもなら、このままチャイコ節に乗ったまま快活な気分で曲を聴き終えるのだが、少しひっかかったことがある。一聴してダイナミックさとヴィルトオーゾを駆使した曲に仕立てられているように思えるのだが、この演奏からは明るさの裏側に、何かにせかされているかのような、あるいは追い立てられているかのような姿さえ感じるのだ。本当はそんな気分ではないのに、無理に快活に明るく振舞っているかのような、そういう感じだ。
このような受け取り方が作品および演奏解釈上正しいかは分からない。おそらく、私だけの感じ方だろうとも思う。それでも、レーピンのヴァイオリンからは、第3楽章のお祭り騒ぎにも似たクライマックにおいても、切迫したただならぬ緊張感を感じる。それに環をかけゲルギエフ&キーロフが攻め立てているのだ、まったくもって分厚く凄いチャイコンに仕上がった。
もっとも、それでもというか、この盤の評にある「ロシア的」ということが何を指しているのかは、私には分からないの、ロシア的とは何か誰か教えてくれないだろうか。
不満もないわけではない。ミキシングのせいなのだろうか、オケよりもヴァイオリンが全面に浮き出たような録音になっている。実際のホールではこんなにヴァイオリンは大きく聴こえないはずだ。従って、実際の演奏とはかなり印象が異なるのではないかと思う。それに、全般に録音の立体感が乏しくどことなく雑な音に聴こえてしまう、ライブのせいだからだろうか。



2002年2月25日月曜日

カラヤンのチャイコフスキー5番と6番



 音楽の掲示板にも書いたが、「クラシック招き猫」でカラヤン&BPOのチャイコフスキー交響曲第5,6番(71年イエスキリスト教会 EMI録音)のリマスター盤が静かな話題になっていた。
(不思議とMusikvereinでは話題になっていないようだが>いかがマラドーナ?)

 掲示板や紹介されているサイトの書きこみを読むほどに「これは入手せねば」と思い、市内のCDショップを当たってみた。するとHMVの企画であるため店頭には並ばないことが判明。そこで、オンラインショップで注文することとした。>早くHMV札幌に進出しないかね。

 実は、これだけパソコンやネットを使っているようなフリをしていながら、オンラインショッピングするのは始めて。HMVなのでセキュリティなどの心配はないと思うが、若干の不安を感じないわけではない。

せっかく買うのだからCD1パッケージだけではもったいないので、ヴァント&BPOのブルックナー交響曲第8番(RCA 2001.1.19~22)も購入してみた。注文から3日後には配送されてきたが、これは便利だなと思う。

ところで、届いてカラヤンのパッケージをあけてみてびっくりした。ライナーがないどころか録音データもないのだ。これでは予備知識が無い状態で店頭に並んでいたとしたら、購入していたかは疑問だと思った。ネットショップと店頭買いというのは、そのあり方が微妙に異なるようだ。

 とりあえず話題の「悲愴」を聴いてみる。圧倒的な音量と推進力には脱帽だ。しかし、ヴァントのブルックナーを聴けるのはいつになるだろうか。

2001年3月19日月曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 バーンスタイン指揮 ニーヨーク・フィルによる交響曲第6番

チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」 
指揮:レナード・バーンスタイン 
演奏:ニューヨーク・フィルハーモニック 録音:Aug 1986 DG UCCG-9028(国内版)

このバーンスタイン86年の演奏は、とにかく遅いことで知られている。バーンスタインは通常45分程度のこの曲を約1時間かけて演奏している。特に第4楽章は17分と通常の倍近い遅さである。その点だけをとっても、好き嫌いの分かれる演奏だと思う。
CDの解説によると、「レニーはチャイコフスキーの《悲愴》交響曲を指揮するとき、彼と一緒にオーケストラのメンバーの半数と、聴衆の半分が泣かなければ満足しませんでした」(ニューヨーク・フィル首席コントラバス奏者、ジョン・ディーク、バーンスタインの死後に行われたインタビューから)とある。バーンスタインがチャイコフスキーにこれ以上ないと思えるまでに感情移入し、交響曲もつ「情」の面を強調した演奏であり、曲への深い思い入れを十全に表現しきったという意味からは、比類のない名演であると言える。しかし、バーンスタインが表現した世界は、チャイコフスキーの提示した世界を凌駕しているとさえ言えるものであり、純粋にチャイコフスキー的なものを求めると、過剰表現と感じるかもしれない。
遅いことで有名な演奏ではあるものの、全体を通して良くこの演奏を聴いてみと不思議なことに数値ほどの遅さは感じないものだ。それは説得力をもったテンポであるために、聴くものを掴んで放さない力がある。もっとも、彼の描き出した世界を素直に受け入れれてしまうからそう感じるのであって、逆にいえば、この世界を受け付けなければ、「死ぬほどトロイ、ただ眠くなる」という感想も生じることも否めないだろう。
第一楽章はやはりこの交響曲の聴きどころのひとつだ。何度聴いても新たな発見に満ちている。第一主題は最初遅いテンポで奏されるが、次第に普通のテンポに近くなっている。第2主題も朗々と、(これでもかとばかりに)情感たっぷりに歌われている。この数分間で既にバーンスタインの魔力から離れることはできなくなってしまう。展開部の圧倒的な迫力は、何もかも押し潰すかのような重みを持って迫ってくる。あたかも煉獄の響きのようで、その向こうに神々しい存在まで感じてしまう。もはや畏敬の念に打ち震えてしまうようだ。再現部に入る前のティンパニの強打は運命の扉あるいは裁きの決心の槌音であろうか。再現部自体は、神の前の裁きに対するチャイコフスキー自らの弁明や告解にさえ聴こえてくる。最後のコーダでは不思議な光に包まれた至福の世界が、やはり見えてくる。
第二楽章のワルツも、遅いといえば遅いが気になるほどのものではない。非常に優しく歌っている。第二主題にしても、思ったほど情感たっぷりには歌っていない。 第三楽章は、この楽章のもつ躍動感やエネルギーは失ってはいないため、もどかしさは感じない。もともと、この楽章の存在意義がどの演奏を聴いても首を傾げざるを得ないのだが、ことさら戦闘的ではない演奏の方がしっくりするように思える。
第四楽章のテンポは、深い慟哭と魂への慰めが延々と奏されているように聴こえてくる。バーンスタインの演奏を聴いてしまうと、1~3楽章は終楽章のために存在していると思えてくる。1楽章はもちろん、2楽章の華やかなワルツや3楽章の勝利も、今までの人生の縮図を垣間見せているかのようで、4楽章で提示される深き悲しみの前では幻世のごとき儚さで回顧されるのだ。演奏が暗く遅ければ遅いほど魂は慰められ地上の煉獄から逃れることができるかのようである。最後に鳴らされるタムタム(銅鑼)は、この世との静かなる決別だろうか、何たるネガティブなアダージョであろう。
チャイコフスキーが最後に到達した世界がこの第四楽章であるとするならば、今まで誰も示さなかったような無情なるアダージョへの最大限の敬意がバーンスタインの演奏からは感じられる。
ここまで指揮者の主観や情感を打ち出した演奏を、名演と解釈してよいのかという問いも発せられるかもしれない。「バーンスタインが指揮すると、何でもマーラーのようになってしまう」との揶揄ともとれる評も目にしたことがある。でも、個人的にはそれ是とする立場である。

2001年3月18日日曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団による交響曲第6番


交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」 
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ 
演奏:サンクトペテルブルク・キーロフ歌劇場管弦楽団 
録音:July 1997 PHILPS PHCP-11174(国内版)
 
はっきり言って、私はゲルギエフが好きである。どこが好きかというのを事細かにアナリーゼする能力は残念ながら持ち合わせていないので、凝りもせず根拠レスで感情的な感想を書いてしまうことを承知で読んでもらいたい。
 この悲愴からは、体の奥底から震えとともに湧き出してくるような、深く野太い慟哭を感じずにはいられない。重心は極めて低い。堂々とゆったりとしたテンポ設定は、荘厳な雰囲気で曲を支配している。ゲルギエフの持つ圧倒的エネルギーは、陰性の爆発を待つかのような凄みと緊張感がある。解説に「大地の底から湧き上がる重低音、炸裂する金管群が描き出す’人生の縮図’」とあるが、これは決してオーバーではない。
低弦の弦楽器の音は分厚く、肌を粗いタワシで逆さになでるかのような、ざわついた皮膚感覚を感じ、それが不安感や諦めの感情を良く表現している。フォルテに至ったときの、堰を切ったかのような響きは表現する言葉を失わしめる。トロンボーン荒々しくも強烈な咆哮、ティンパニの怒涛のロール、閃光が炸裂し一瞬目の前に無数の火花が散ったかのようなシンバルの響き。とにかく圧倒的である。激しさは鬼神か突風のごとくであり、雷鳴を伴い天地が裂けんばかりの迫力である。迫りくる暗雲の禍々しさと全てを飲み込む圧倒的な力に翻弄されるのみだ。(第一楽章の印象)
ゲルギエフの表現した運命はなんと強大なことか、あたかも、孤高の高みから人間たちを屈服させるごとき神の声だ。展開部の後に続く再現部は諭すかのような雰囲気を感じる。チャイコフスキーはそこに神の光をみたのだろうか。第一楽章最後のコーダは、この曲の中で神聖なる至福を感じる部分で、涙なしでは聴けない。
第二楽章は、ゲルギエフの盤で聴くと非常にパワフルだが、反面はかなさや優雅さは感じない。中間で現れるティンパニをバックとした第二主題の不安な翳さえも実像を伴うかのごとく擬人化されている、ちょっとやり過ぎという気もする。でも許す、ゲルギエフだもの。
第三楽章は戦闘的な楽章、完璧な戦闘配置と前線への行軍、重戦車と地対空砲撃弾を準備し、合図を待つ兵士たち、高まる緊張、上空を飛ぶ戦闘機の爆音、そして戦闘への火蓋は切られ・・・・最後は木っ端微塵に敵を蹴散らしての圧倒的勝利だ、赤き旗印のもと凱旋行軍が続く。なんだ、なんだ、これは戦争交響曲か? でも、これでもいいよ、ゲルギエフだもの(^^;;;
やはり、この曲の真価は第四楽章だ。この楽章は、彼の演奏からは以下のようなイメージが浮かんだ。
 降りしきる冷たい雨、霙まじりになるになるかのような重く垂れこめた空  過去を振り返っても残るは深い悲しみと後悔  あたかも自らの葬送行進をゆっくり歩むがごとし  自らの魂を深き地中に封印する  せめても哀愁を帯びた美しき唄をうたえよ  雨は降り止まないが、魂は昇華してゆく  運命を受け入れすべてを諦めよう  深き嘆きも、もうむなしい、嘆くことさえむなしいのだ  かつて心を動かしたものたちも、永遠に我とともに眠れ
 雨は霙から雪に変わった、棺の上には雪が積もってゆくだろう  風が舞い雪を散らす、生きるものを眠らせる北から吹く冷たい風だ  雪よ、全てを埋め尽くせ  風よ、我の残滓すべてを撒き散らせ
 永遠に静かに眠るであろう、激しくも栄華と憔悴に満ちた人生への鎮魂歌たれ
こういうイメージを、ゲルギエフの演奏だから感じたのか、あるいは何度もこの曲を聴くことにより自分の中でイメージが膨らんだからかなのかは分からない。でも、彼の演奏はなぜか非常にイメージ豊かなんだと思う。私の語る言葉はへたくそでちっともイメージ豊ではないのが悲しい。

2001年3月12日月曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】交響曲第6番 ロ短調 作品76「悲愴」  マゼール指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第6番


交響曲第6番 ロ短調 作品76「悲愴」 
指揮:ロリン・マゼール 演奏:ウィーンフィル 
録音:1963 London 430 787-2(輸入版) 
チャイコフスキーは「情」を表に出した作曲家であるということは論を待たないだろう。悲愴交響曲が、チャイコフスキー自らの遺書とかレクイエムであるとの解釈も、先のカラヤン盤を聴く限りにおいては納得のできるものではあった。しかしチャイコフスキー自身としては、特定の人物や事件を想定したような「標題性」までは、この曲に付与してはいないのかも知れない。
マゼールのチャイコフスキーをここまで聴いてきて感じるのだが、全てにおいて非常に新鮮な切り口を見せてくれたように思う。悲愴においてもマゼール演奏を聴くことで、何度もはっとさせられる思いがした。
マゼール・ウィーン版で特筆すべきは、弦楽器群の美しさもさることながら、旋律と対旋律やバックの動きが非常に明確であり、曲の持つ構成美を見事に表出してくれていることだ。耳を良く澄ますと、色々な動きが聴こえてきてチャイコフスキーの言わんとすることがストレートに伝わってくるかのようだ。また、「若々しさ」とか「荒々しさ」、キビキビしたスピード感などという表現も何度も使ってきた。この演奏においても、切り口が鋭く鮮やかさであり、演奏に今までにない凄みを与えている。重心が低くない演奏であり、それ故、鋭い刃物で切りつけ、あたかも鮮血がほとばしるかのような想いを受ける。このような演奏を聴くと、粗さまで計算ずくの指揮のもと、ウィーン・フィルがそれに答えているように思えてくる。
例えば1楽章の9分ころから始まるクライマックス。激しさの中に、とてつもない運命の前への服従や諦めが見事に表現されており胸を打つ。しかも、激しさを持ちながらも、マゼールは冷静に、この曲の「情」に入り込みすぎないよう距離をおいた解釈をしていると思わる。それが逆にこの交響曲の持つ性格を見事に抽出している。1楽章の最後に見せるコーダはテーマは光に包まれた、微笑みさえ感じ2楽章へのつながりを感じさせる。
��楽章のワルツは、非常に流麗な演奏で、5/4拍子という不安定な拍子が表す揺れる不安な心がうまく伝わってくる。規則的にたたかれるティンパニは迫り来る運命の鼓動だろうか、さらりと早いものの、テンポの揺らしなども結構あり、新たな発見に満ちた演奏である。
��楽章は良く聴いてみると、行進曲風の力強いテーマの裏に、チャイコフスキー好みの繊細な動きが見え隠れし、ざわめきとして聴こえてくる。何か走馬灯のように今までの過去を振り返りながらの凱歌に聴こえてくる。華やかなこの楽章からして、過去を鎮魂するレクイエムなのかと思わせる。
��楽章は切り込むような鋭さで開始されるものの、感情過多にはなっていない。その解釈が普遍的な、悲しみの深さや諦念を見事に表現しきっていると言えようか。途中のクライマックスの悲劇的な部分も見事であり、激しくも静かな美しさに満ちている。
概して、マゼールの演奏は「情」の音楽であるチャイコフスキーの交響曲に対して、知的にして清冽なアプローチを試みた演奏であると思わせる。私は悲愴交響曲をチャイコフスキーという実像抜きに聴くことは出来ないと考えているが、マゼールはある意味、そういうものから脱皮し美しき普遍性へと昇華させた音楽を目指したと思えるのであった。マゼール盤は、純粋なチャイコフスキー党からは、好まれないタイプの演奏かもしれない。しかし、私はマゼール盤を聴かなければおそらく、チャイコフスキーの交響曲の真髄の一端に触れることはできなかったと断言できる。でも、色々なサイトで「悲愴」の名盤を読んだが、マゼール盤を推している人は・・・少ないなあ・・・
��実際マゼールが何を目指したのかは、解説には一言も書かれていないので、分からないのだが・・・、ぜーんぜん的外れかも知れないよ。)

2001年3月7日水曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第6番


交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」 
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン 
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 
録音:1975 DG POCG-3870/1(国内版)
曲について
「悲愴」はチャイコフスキーの交響曲としての到達点であると思う。第4番交響曲から追求し始めた「運命のテーマ」が、ここでは「悲愴」という標題に象徴されるように、大いなるかなしみと諦念と陶酔的な死の陰で彩られている。彼はこの曲のわずか数週間後に命を落とす。彼の死はコレラとも、自殺とも、または同性愛であるがゆえに、当局から自殺を迫られたとの説まである。耳タコな曲だが、カラヤン・ベルリン盤でまずは曲をたどってみたい。
��楽章は憂鬱なオーボエの旋律で始まる。寄せては返すさざなみのようで、静かな夜の逝ってしまった世界(彼岸の彼方)を感じる。4分半前後から始まるバイオリンのテーマは、昔日に想いをはせ過ぎさりし幸せな日々を懐かしむような感じで胸が締め付けられる。この感情がたかまり更に心はざわめき乱れるが、全てはもう遅く万感の思いに満ちている。8分50秒くらいから始まるオーボエのテーマは、再び静かに椅子にもたれかかる老人をイメージさせる。(この手のイメージは数回書いてしまったな、ネタ切れか?)。
��分40秒に始まる突然の嵐のような激しさ、これもチャイコフスキーの交響曲によく見られる手法だ。心は千路に乱れ激しく疾走するが、解決をみないままに徐々に小さくなってゆく。しかし、不安の影は消えることはない。
��2分ごろ、再び激しく葛藤するかのような感情の渦に巻き込まれるが、ここに至っては大きな宿命の前で圧倒的屈服感と諦めの念に打ちひしがれてしまう。バイオリンのテーマが再び奏でられ慰めを求めるかのようだが、切迫感が伴い深い嘆きが聴こえる。16分ごろに先のオーボエのテーマが再び奏でられ、続くピチカートの伴奏に伴い歩むか夢見るかのような平安な旋律のもと、この楽章は締めくくられる。
��楽章はお得意のワルツである。非常に優雅な楽調ではあるものの、途中からは水をさすかのようにティンパニのリズムによる暗い影が投げ付けられる。忍び寄る運命への諦めの気持ちが支配してくる。この暗いテーマの音形がそのまま最初のワルツのテーマへと変わるさまは、幸福と避けられない宿命が表裏一体である、ということを示していると感じてしまう。もっとも、これとて、チャイコフスキーが今までの交響曲で表現してきたテーマであるのだが。解説によると、チャイコフスキー指揮者のアルトゥ-ル・ニキシュはこのワルツを、「涙を通じてのほほえみ」と称したとある。そうして聴いてみると、確かにと思わせるものがある。
��楽章はスケルツォだが、第4番、第5番の4楽章で見せたような、圧倒的な開放感と目くるめくような弦の動きにより、眩暈さえ覚えるのうな音楽となっている。打楽器の力強いリズムと弦の強振により行進曲風の堂々とした盛り上がりを見せる。運命に対する勝利感あるいは、最後の力を振り絞った抵抗と考えられなくもない。自らを鼓舞しているかのごとくであるが、この交響曲の性格を考えると異質であり、何故これほどの盛り上が必要なのか?と疑問を感じてしまう。
��楽章は、「ばか騒ぎ」とさえ思えた前章とは一転した楽章である。弦による哀しみのうたである。3楽章のでの喧騒の後だけに、一層さびしさが際立ち、一気に何歳も年を取ったかのような気を味わう。3楽章も昔日の自分の姿を表しているのだろうか、一度は宿命の力に打ち勝ったと錯覚した自分を。あるいは、この寂寥感を味わわせるために3楽章は存在しているのか。
��分30秒あたりで、ゆったりとした旋律がホルンなどをバックに流れるが、これはチャイコフスキーの到達した美の極致といっても良いかもしれない。ほとんど陶酔的と称してもよい。(カラヤン盤だからか?)
次第にクレッシェンドしてゆき、4分10秒に至って破れられる。寄せては返す哀しみの波と感情の高ぶりに、人生に対する侮恨と嘆きが聞こえる。もはや跳ね返すべき力はどこにも残されてはいない。弦楽器による半音階の上昇音形は何たる深い悲しみを表現していることか。チャイコフスキーが力なく漏らすため息や、泣き崩れている姿がだぶる。何故にここまで絶望しているのか。7分前後でティンパニーのロールのもと冒頭のテーマに戻るものの、最後は新たな悲しみを提示し、「人生は暗く厳しい」的な諦念をあらわにし、深いため息を漏らしながら、消え入るように終わる。
カラヤン盤について
この、哀しみの美学とも言うべき曲を、カラヤン・ベルリンのコンビは哀愁たっぷりに、そしてオーケストラが到達しうる最高の美しさで表現しているといっても過言ではないと思う。弦楽器を中心としたきめの細かさがすばらしく、どの断面を切り取っても深い感情が溢れ出してくる。哀愁は弦がほとんど、すすり泣いているかのごとく、明るい場面ではあくまでもきらびやかで、激しいところは怒涛を伴う鬼神のごとく、そして、ワルツはたとえ様もなく優雅である。  
ときに「耽美的」とも称されるカラヤンの演奏であるが、多くの感情や幾多のときを詰め込んだ、この偉大なる交響曲の演奏をするに当たり、逆にやり過ぎとさえ思えるほど美しく奏でられるが故に、人生のかなしみを表現するのにふさわしかったように思える。
久しぶりにこの演奏を聴いて、私は再び深く心を動かされた(だからって、毎回毎回涙はしないけどね)。感傷的過ぎる演奏という向きもあるかもしれない。しかし、曲が曲なのである。もうチャイコフスキーは諦めちゃって、どうしようもないのである。このような、特上の美しさで慰めを与えたって良いじゃないか、これはチャイコフスキーの遺書であり、また、自らに捧げる鎮魂の曲であると考えてしまうのも無理からぬことである。(しかし、こんなにストレートに悲しんでしまっていいの?て気もするんだけどね)

2001年3月3日土曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 スヴェトラーノフ指揮 NHK交響楽団による第5番交響曲

NHK交響楽団 第1328回 定期公演

日時:1997年9月5日
場所:NHKホール
曲目:オールチャイコフスキー プログラム

スラブ行進曲
ピアノ協奏曲 第1番
交響曲 第5番

指揮:エフゲニー・スヴェトラーノフ
ピアノ:中村 紘子
演奏:NHK交響楽団

スヴェトラーノフ・N響のコンビによる5番を、かなり以前だが聴いたことがある。Nifty クラコンか何かに書いたログを、当日の雰囲気を伝える意味で全文掲載しておきたい。

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上京する機会があり、N響定期公演に行ってきました。N響は、初体験です。FCLAの皆さんは、N響に対する評価が非常に厳しいのですが、私には新鮮にして驚きの演奏会でした。プログラムはオールチャイコフスキー。席は1階L03列09番(舞台の左側)です。演奏は休憩をはさんで2時間20分。定期としては長い演奏会だったと思います。

まず、NHKホール自体が始めてだったのですが、その大きさに圧倒されました。4000人近く入るホールというのは、ちょっと大きすぎると思っていましたが、それが満席状態。札幌とは客層が違いますね。中村さんのファンなのか、女性が目に付きました。

スヴェトラーノフは、指揮棒を持たないタイプ。おなかがとても大きいです。

まず、スラブ行進曲。非常にゆったりしたテンポで始まりましたが、けれん味がなく素直に聴ける演奏でした。それほど大きく揺らすわけでもないのですが、ラストに向かって、心地よいリズムとなり、納得のできるものでした。

さて、次は中村紘子のコンチェルトです。これについては、ちょっとコメントを差し控えたいです。ただ一つ言えることは、私の好みではなかったこと。スヴェトラーノフとN響が表現している音楽と、中村さんが表現しているものが異質であったと感じられました。オケの弦の響き、木管のやさしさや、かなしい響きが、彼女にはどう伝わっていたのでしょう?でも帰り際に、「ピアノ凄かったねえ」と言い合っている女性も何人かいましたので、繰り返しますが私の好みであると断っておきます。

チャイ5は、非常に好きな曲にランクされますが、期待を裏切らない演奏でした。細やかなアナリーゼはできませんが、1楽章、スラブ行進曲のときのような遅めの店舗で始まります。でも、その遅さが聞き進むにつれて、納得の出来るもので違和感なく心に入ってくるのです。弦の響きも木管や管の鳴らし方も、やりすぎのような嫌らしさが全くなく、非常に素直な表現と相まって、曲が浮き彫りにされてくるような印象です。

��楽章のホルンは素晴らしいの一言。今まで私の心象に現れる風景と、違った風景を見せてくれました。4楽章は、この楽章の持ち味の疾走感がうまく伝わってきました。盛り上げ方も自然で、思わず「これはいい」と拍手をしながらつぶやいてしまいました。

私は、札幌で札響を中心にオケの演奏会を最近聴き始めましたが、N響は素晴らしいですね。特に金管の音色、チェロ、コントラバスの低弦の支えなど素晴らしいと感じました。

(1997.9.6)

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ずいぶん昔の感想を引っ張り出してきたが、今読み返してもあのときの感動がよみがえる。

この演奏は、「やる気のない」とか「ヘロヘロの金管」とか、一部の心無いマニアの間で酷評されていたN響が久々に素晴らしい演奏をした、との感想が多かったようだ。(しかし、ファンなのか何なのか分かりませんが、聴衆というのは勝手で残酷なものだ。)

��楽章と2楽章の合間に、スベトラーノフが客席に向かって、「この第2楽章(アンダンテ)をプリンセス・ダイアナに捧げます」て言ったらしい。終演後、ホルンの松崎さんも指揮台に上がるように言われるなど、熱演だったのだと思う。何だか、思い出して書いていると、ずいぶん時間がたったんだなあ、としみじみしてしまうなあ・・・。

演奏会の後、フルーティストの小出信也さんと、Nifty のパティオの方と一緒させてもらったのも思い出に残る。あのときの写真はどこに行ってしまったのだろう・・・・

(2001.3.2)