ピアニストのセバスティアン・クナウアーが、作曲家アラシュ・サフィアンのバッハのテーマをもとにした5つの協奏曲を録音したもの。それなりにヒットしたらしいのですが、自分的には、もはやこれはバッハではないなあという思いで聴きました。
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
2021年7月18日日曜日
2021年7月15日木曜日
セバスティアン・クナウアーの「THIS IS (NOT) BEETHOVEN」
ピアニストのセバスティアン・クナウナーが作曲家のアラシュ・サフィアンと組んでの、ベートーベンのテーマによるリコンポーズ盤。
最近はポストクラシカル界隈でも、純クラシカル界隈でも「リコンポーズ」というのは、一つのテーマになっているようです。
https://music.apple.com/jp/album/una-fantasia/1513963291?i=1513963292
2021年2月8日月曜日
Ensemble K & Simone Menezes
Ensemble K Simone Menezes の新譜ACCENTSを聴いています。
2020年4月8日水曜日
【音盤】レ・シエクルの展覧会の絵
初演の響きが蘇る!ロト&レ・シエクルの“展覧会の絵”(ラヴェル編)登場!! - TOWER RECORDS ONLINE https://t.co/pUpcjlMwd0
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) April 7, 2020
2020年2月1日土曜日
レ・シエクルの牧神の午後への前奏曲
ロト&レ・シエクル《牧神の午後への前奏曲》他 https://t.co/PYcraKukgA
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) February 1, 2020
2013年6月22日土曜日
【演奏会】文化センター ヴェルディ生誕200周年記念 三ツ橋敬子+東京交響楽団 ヴェルディ「レクイエム」
今日も合唱が弱いママさん合唱の限界ソプラノがお水系オケが入らないところでズレまくってカルテットが狂ったままそこにオケがかぶさるみたいな感じでホールも市民会館レベル音が硬く疲れる、響く
久しぶりにディープなクラシックファンとの演奏会であったので、多少複雑な思いで会場を後にした。
2006年6月12日月曜日
【演奏会】金聖響指揮:読売日響 第79回東京芸術劇場マチネシリーズ
東京芸術劇場で読売日響のマチネシリーズを聴いてきました。
- モーツァルト:ピアノ協奏曲第26番ニ長調 K.537 《戴冠式》
- R・シュトラウス:交響詩《英雄の生涯》
- 6月10日(土)14:00 東京芸術劇場
- 指揮:金聖響 読売日本交響楽団
- ピアノ:コルネリア・ヘルマン
- コンサートマスター:デヴィッド・ノーラン
以下のレビュはネガティブなものになってしまいましたが、考えてみれば、贅沢にして傲慢な感想です。ハイレベルな音楽をいつでも聴ける環境に居ることに、改めて気付き感謝すべきかもしれません。
1曲目のモーツァルトK.537。ピアノは日本でもたびたび演奏しているコルネリア・ヘルマンさん。彼女は写真で見る限り非常に美しい方で追っかけも多いのだそうです。母親が日本人であることもあってか、親しみやすい顔立ちです。
今日もドレスは、彼女のトレードマークなのか深い赤です。金氏のモーツァルトは、オケの人数も多くオーソドックスなモーツァルト演奏のように感じました。鮮烈なことはしない。それは彼女のピアノも同様です。
モーツァルトの突き抜けた長調の明るいこの曲に対し、彼女のピアノは少しくぐもった柔らかな音色に聴こえる。ガンガン攻めるピアノではない決してない。指先からの変化は、ときにはっとするほどの微妙な色彩を聴かせてくれます。でも、それが金氏やオケと、いやこの曲の雰囲気と合っていたか。
というのも、彼女はモーツァルトを得意としているとのことですが、今日のピアニズムからは、むしろシューマン的な香りを感じ取りました。彼女の演奏は、天真爛漫でいながら計算づくのモーツァルトの天才による至福とは違った、もっと端正なモーツァルトでした。
続く《英雄の生涯》ですが、この空疎とも云える曲を金氏がどのように料理するかにも、大きな興味がありました。しかしこの曲に期待する浪漫という点からは、今ひとつであったなあ、というのが正直な感想。「戦場の英雄」あたりの音量は凄まじいものがありましたが、粗さも否定できない。圧倒的な暴力の氾濫という雰囲気は出ていましたが。コンマスのノーランさんの奏でるテーマも、あまり心に入ってこなかった・・・。
《英雄の生涯》というのはR・シュトラウスが音楽で描いたわざとらしい戯曲だと思っています。金さんの指揮からは統率力と抜群の制御能力の高さを感じます、どちらかというと理知的といえましょうか。これを演奏するならば、阿呆くさいくらい成り切って演奏しなくては中途半端なものとなってしまうような気もします。生意気で勝手な感想で恐縮です。もっとも私の聴き方が、過去の名演奏家のイメージにひきずられ過ぎているという気がしないでもありません。
読売日響の音は良いですね。ドイツもの、特にマーラーやワーグナーなどをこのオケで聴くと格別だと思います。
ヘルマンさんのピアノは、できれば小さなホールのソロで、シューマンとかブラームス、あるいはモーツァルトのソナタなどで聴いてみたいものです。おそらくはコンチェルトとは違った魅力を聴けると確信します。今回は金聖響さんのブログを読んで、是非とも聴いてみたいという気になって駆けつけました。金聖響さんの演奏は、やっぱりベートーベンあたりを聴いてみたいですね。
2006年1月8日日曜日
【音盤】ベートーベン:「エグモント」序曲/ザンデルリンク ライプツィヒ放送so.
- ベートーヴェン:『エグモント』序曲 1969.1 スタジオ収録
- ヘンデル:合奏協奏曲 op.6-3 1972.9. ライヴ収録
- R.シュトラウス:交響詩『英雄の生涯』 1972.2. ライヴ収録
- ザンデルリンク(指揮) ライプツィヒ放送so.
- Weitblick SSS0055-2
テンシュテットの「エグモント」も凄かったのですが、ザンデルリンクの演奏も凄い。何が凄いって、これまたsyuzoさんではないのですがティンパニしょうか。
HMVの許光俊氏の評を引用してみましょう。
ドイツのオーケストラらしい重厚な響きを誇りつつ、鈍くさくない。雄渾なのに粗さがない。心地よい緊張感が張りつめ、音楽は痛快なまでにグングンと前に進んでいく。背筋がピンと伸びたような姿勢のよさ、凛とした気品がある。
テンシュテット&キールpo.でも感じましたが、こういう重厚さがドイツのオケなのでしょうか。しかし、当然のことながらテンシュテットのアプローチとは明らかに異なます。音楽は粛々と歩みを進め、一歩づつ運命の時に向って進みます。音楽の推進力は、テンシュテットのように坂を転がり落ちるような勢いをもったものではなく、不可逆な運命を確信しているかのような響きがあります。それを表す小刻みな弦の刻み、不安感を誘う木管や弦の響き、全く堂々としたものです、素晴らしい。
テンシュテットが熱狂さえ超えたかのように表現した勝利の解放感はザンデルリンクにはありません。あくまでも最後まで堂々と、ティンパニの乱打は凄いものの、統率されて曲を閉じます。それを許氏が指摘するように凛とした気品
と呼ぶことに、少しも意義はありません。
【音盤】ベートーベン:「エグモント」序曲/テンシュテット キールpo.
テンシュテット ベートーベン「エグモント」序曲
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一体この「エグモント」序曲は何なんだっ!と聴き終わったあと、愕然とし、呆然とし、自分が何を聴いたのか良く理解できず、改めてもう一度聴き直しながらレビュを書いています。
演奏は第5番と同様のキールフィルハモーニー管弦楽団。録音のせいなのか、実際そうなのかは分かりませんが、ここでも低弦とコントラバスは分厚いアンサンブルを聴かせてくれます。ティンパニは時にはドロドロと重く、時には決然と打たれ演奏を際立たせます。
そして第5番で聴かれた、ポジティブな推進力はここでも全く失われておらず、8分14秒の演奏があっという間です。後半の切迫するような煽りからラストに至る部分は、もはや一気呵成といった感じ。
戯曲「エグモント」はエグモント伯爵という悲劇の英雄の物語ですから、序曲は暗く始まりますし、処刑シーンを現す部分もあるのですが、演奏解釈はひたすら前向きです。というのも、この曲も結局はベートーベン的な「勝利の音楽」で終わるからでしょうか。
最後の長調に転じた部分は、自殺する恋人クレールヒェンと処刑されるエグモント伯爵の愛と正義、あるいはネーデルランドの独立を暗示しているらしいのですが、演奏はまさに圧巻の一語に尽きます。一転の曇りもない青空に向かって、特大の打ち上げ花火と祝砲を鳴り響かせているような印象さえ感じます。
圧巻ついでに、もう一度繰り返して聴いてしまいましたよ・・・トホホ(>4度は聴かんぞ、でもiPodには入れよう)
PS. syuzoさんには敬意を表してTBを2発ほど打っておきました。
2005年11月20日日曜日
【音盤】スヴェトラーノフ/レスピーギ:ローマ三部作
- ローマの噴水
- ローマの松
- ローマの祭
- スヴェトラーノフ(指揮) USSR State so.
- Live at the Great Hall of the Moscow State 1980.2.30 Scribendum SC021
許光俊が「オレのクラシック」で残酷と野蛮と官能の恐るべき『ローマの祭り』
としてベタ褒めの盤であります。
残酷と野蛮と官能の限りを尽くした音の酒池肉林と言うしかないこの演奏は、クラシック史上に残る名作である。これを聴かないでスヴェトラーノフを、いやオーケストラ演奏を語ることができないのは間違いないところだ。
とまで書いています。そうか、私は今までオーケストラ演奏を語る資格さえなかったのかとフカク反省し聴いてみたのですが、爆演であることは認めるものの許氏のような手放しの絶賛を与えることができません。
というのも、この演奏はチンケな再生装置で聴いてはダメですね。再生装置の処理限界を超えるのでしょうか、音の塊はダンゴ状態となって耳にぶち当たって砕けるだけ。金管の音(特にペットとかも)もどこか貧相に聴こえてしまう・・・。やはりホールでこの爆発的な音塊を全身で受け止めなくては、おそらくはこの演奏の真価を語ることはできないのだろうと、再びフカク悟ってしまいました。(>どんな演奏でもそうなのでしょうが)
それでもとりあえず気付いた事をメモしてきますしょう。「ローマの噴水」は爆演という点からはイマひとつ、繰り返して聴くほどの演奏とは思えず。しかし「ローマの松」の「カタコンブ付近の松」は低弦の支えの分厚さは凄く壮大な音楽を聴かせてくれます。金管は限界近くまで咆哮します。一方「ジャニコロの松」のような静かなところになると、ソロのまずさが耳に付く。抒情という点でもあまりイタリア的感傷は感じない。「アッピア街道の松」はさすがに凄まじいカタストロフを演出している。最初の出だしの重さと暗さは尋常ではない。ロシア陸軍が凍土を黙々と行進しているよう。しかし最後はモスクワかどこかに凱旋しているような歓喜の爆発。オーボエとかのソロはやっぱりちょっと粗削りでイマイチだが打楽器の迫力は聴きモノ。全体のバランスとしては粗さを怒涛の迫力が飲み込んでいる、ラストの終わり方も凄い。ハマれば思考停止になることは間違いない演奏。
「ローマの祭り」は、一体全体どうしたらこんな演奏が可能なのか。「チルチェンセス」は暴君ネロの祭り。この暴虐の限り、殉教者の祈りを全て斬り裂くかのような音楽には驚く限り。スヴェトラーノフはオケの多少の(多少か?)破綻は無視し、ホール全体に(おそらく)鮮血の霧を撒き散らしているかのよう。底抜けに明るいハズのナヴォナ広場の「主顕祭」も力瘤入りまくりの鉄のダンス。グロテスクさと諧謔性、え、あれ、こんな曲だったっけ。ラストに至っては空いた口がふさがらない。許氏の耳にどうしてこれが「官能」と聴こえるのか、私の感性とは違うという他ないが(>再生装置が違うんだってば)、ひとつの極地の演奏であることは認める。
褒めているんだかケナしているんだか分からない感想になってしまったが、ストレス解消になる演奏でもあるので、「アッピア街道の松」と「主顕祭」はi-Podに入れておくか(笑)
と、ここまで書いて、以前にもレビュウしていることに気づいた、何てこった!
2005年2月18日金曜日
【音盤】シャイー/オルフ:「カルミナ・ブラーナ」
カール・オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」
- シルヴィア・グリーンバーグ(S) ジェイムズ・ボウマン(C-T) スティーヴン・ロバーツ(Br)
- ベルリン国立大聖堂合唱団、ベルリン放送交響合唱団
- リッカルド・シャイー指揮 ベルリン放送交響楽団
- 1983年6日、Jesus Christus-Kirche,Berlin、LONDON名盤1200 POCL-9982
ラトルのカルミナを聴いて以来、頭の中でカルミナの強烈なリズムやら白鳥の歌が、グルグルと回転運動を続けています。おかげで風邪で寝込んだ3連休は、音楽を聴かずとも、カルミナ節を反復することで退屈することなく過ごすことができました(嘘)
この盤は、ロンドンの名盤1200の中のひとつ、リッカルド・シャイーが29歳の時の録音。シャープさとクールさ、それでいて美しい歌心にも満ちている演奏です。
冒頭の"O Fortuna"は何の躊躇いもなく、音楽を炸裂させて開始しているところの鮮やかさ。乾いたティンパニの音と弾け飛ぶシンバルの響き、それに続くふわふわと刻まれるリズムは、美しさと力強さを併せ持っています。
土俗的なエネルギーという雰囲気もあまり強くはない、また、シャイーがイタリア人だからなんでしょうか、どこそこに明るさが漂っていて、この曲に特徴的なドイツ的田舎臭さ(?)と私が勝手に思っている雰囲気は希薄です。それはそれで悪くはないですが。
"Oim lacus colueram (昔は湖に住まっていた)"を歌うのは1941年生まれ、イギリス型の典型的なカウンター・テノールのジェイムズ・ボウマン。彼の歌によって異様な音楽が更にグロテスクに歪んでおります。バリトンのスティーヴン・ロバーツもソプラノのシルヴィア・グリーンバーグも、良い声で歌ってくれています。ソプラノ独唱の"In trutina (天秤棒を心にかけて)"など何度も聴いてしまいますが、どこか"ディズニー的"と思うのは彼女がアメリカ人という先入観?
全体によくまとまっていてますが、カルミナが持つ原始的な本能を呼び覚ますようなザワザワ感がもう少し欲しいというのは贅沢でしょうか。
こちらはティーレマンのカルミナ・ブラーナ
そのうち、ゆっくり聴いてみます。
2005年2月6日日曜日
【音盤】ラトル/オルフ:「カルミナ・ブラーナ」
カール・オルフ:世俗カンタータ「カルミナ・ブラーナ」
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年末恒例のベルリン・フィル「ジルヴェスター・コンサート」での演奏で、NHKでご覧になった方も多いと思います。HMVで輸入版が1990円、国内版が2000円でしたから国内版を購入しました。この価格差はイロイロな意味で微妙です。
さて「カルミナ・ブラーナ」と言えば、冒頭の"O fORTUNA (おお、運命よ)" と、続く"Fortune plango vulnera (運命は傷つける)"ばかりが有名で、また土俗的なパワーがバリバリというイメージだったのですが、ラトルの版を聴いてみて、この曲を今まで真面目に聴いていなかったのだと思い知りました。
確かに強烈なリズム、シンプルな反復旋律、劇的コーダは聴きごたえがありますし、刻み付けるようなラテン語のリズムはニ三日は脳内でグルグルと永久運動を起こすかのような力を持っています。しかし、対訳とともに仔細に聴いてみますと、土俗的なパワーばかりではなく、非常に変化に富んだ構成であることに気付かされます。
テーマも「春に(自然と青春)」「居酒屋にて(苦情と日常生活)」「求愛(男女とエロス)」と三部構成、どれもこれも味わいがあります。第二部の"Olim lacus colueram (焙られた白鳥の歌)"のブラックさ、"Ego sum abbas (余は大僧正様)"のオカシ哀し大迫力な嘆きなど、凄い歌詞と音楽です。
しかし一番の聴きどころはワタシ的には第三部でしょうか。歌詞も結構どぎつく、児童合唱に歌わせる曲かよというような内容をシレっと歌わせています。圧巻は"In trutina (ゆれ動く、我が心)"のソプラノ独唱から"Dulcissime (私のいとしい人)"~ここだけでも5回以上は聴いたな~を経て"Venus generosa! (気高きヴィーナス)"と最高潮に達し"O Fortuna"となだれ込む場面でしょうか、ここでのティンパニの強烈にして硬質な響きは凄い。
ラトルの演奏がどうの、ということは上手く書けませんが、ベルリンの性能を最大限に発揮させながらも、単なる土俗的な演奏に陥ることなく、曲のもつ現代性や美しさを引き出しているように思えます。第一部"O Fortuna"での速度変化なども、楽譜に忠実な演奏ということらしいですが、かなり刺激的です。また、第1部の終わり"daz diu chuegin von Engellant lege an minen armen. He! (英国の女王を 私の腕に横たえるためなら)"の最後における打楽器の猛打も凄まじいの一言、ライブで聴いていたら"Hi!"で吹っ飛んでいるます。
曲のあちこちで活躍バリトン歌手クリスティアン・ゲルハーヘルはハリのある朗々とした、そして説得力のある歌声を聴かせてくれます。ソプラノのサリー・マシューは、声質としてはメゾ・ソプラノに近いのかな、最後のキレる寸前の高さで歌う"Ah! totam tibi subdo me! (私のすべてをあげましょう)"も悪くはないですが。
書き始めると、ツッコミところ満載の曲ですからキリがないので、このあたりで。
2004年12月27日月曜日
【音盤】キーシン/ムソルグスキー:展覧会の絵
キーシン
- ムソルグスキー:展覧会の絵
- トッカータ,アダージョとフーガ ハ長調BWV564(バッハ/ブゾーニ編)
- ひばり(グリンカ/バラキレフ編)
- 組曲「展覧会の絵」(ムソルグスキー)
- キーシン(p)
- 2001年8月4,5日、フライブルク
- RCA 09026.63884
この録音は2001年7月&8月フライブルクでのスタジオ録音ですが、こんなに分厚くも手ごたえのある「展覧会の絵」を聴かされてしまっては、完全に打ちのめされてしまうしかありません。とにかく凄いの一言に尽き、何を書くべきかキーを打つ手が止まってしまいます。
凄いと言えばアファナシエフの演奏も鬼気迫るものでしたが、こちらは彼のクセが強烈すぎムソルグスキーを題材にした彼のオリジナル演目を聴かされているような気にさせられてしまうことも否定できません。
対してキーシンの演奏には、いかほどのこけおどしもなく、ただ曲そのものへの深い共感と愛情と理解をもって、真正面から取り組んでいるような純粋さが感じられます。純粋ではあっても、若者の持つ未熟さなどは全く超越しており、逆に巨匠然とした堂々たる響きに深い感動を覚えます。
録音が秀逸なのでしょうか、ダイナミックレンジも極めて広く、大音量のときの壮大さ、ピアニッシモでの震えるような美しさが、余すところなく伝えられます。音には一点の濁りもなく、音が重なり壮烈なる音列を演じている時にさえ、各音それぞれが明確であるのはテクニックの冴えなのでしょうか。冴えてはいても、テクニックに没することはなく、ひとつひとつの曲の違いを抉り出すかのような表現力によって、改めてこの曲の持つ魅力と凄みを感じさせてくれます。
冒頭の"プロムナード"が終わってからの"グノームス"でのグロテスクな表情付など、そして回遊する"プロムナード"での色彩の変化、最初の数曲を聴くだけで、ピアノという楽器の底知れぬ性能とそれを引き出すキーシンの腕に脱帽するしかありません。続く"古城"ときたら、静謐さと叙情と哀しみと美しさを称えた涙モノの曲に仕上がっています。
とにかく全てが凄いのですが、特筆すべきは弱音部の美しさでしょうか。例えば"カタコンブ"に続く"死者による死者の言葉で"の部分におけるトレモロなど戦慄さえ感じます。
An die Musikのでもこの曲の感想が掲載されていますが、
ピアノ版を聴いていると、いつもはどうしてもラヴェル編曲による華麗な管弦楽曲版を思い描いてしまうものだが、キーシン盤ではまずそのようなことがない。
ということに全面的に賛同します。聴き終わったあとの深い満足感は格別です。
ブゾーニの編曲によるバッハの有名オルガン作品《トッカータ、アダージョとフーガBWV564》も見事としか言いようがありませんが、こちらは余り馴染みの曲ではありませんので感想は割愛します。
時間があったら、少しまとめてキーシンで聴いてみたいという気になりました。
2004年3月2日火曜日
アイノラ交響楽団の演奏会
アマチュア団体でしかも特定の音楽家に特化するというのは、ユニークでありながら非常に冒険でもあるように思えます。シベリウスの曲は私も好きですが、二つの組曲はあまり馴染みがないためどのような演奏になるのか、期待と不安を持って聴き始めました。 アマチュアとは言っても在京のオケですから技量は高いオケのようです(比較対象なしの独断)。ffにおける音量も十分で、ダイナミックレンジの大きな迫力のある演奏を聴くことができました。特に、金管群の音量は十分すぎるほどで、想いの丈が伝わってくるかのようです。弱音や弦楽器による細かなトレモロなど繊細な動きもなかなか聴かせてくれました。多少表情が固いかなと思うこともありましたが、オケとしての初々しさなのでしょうかね、あるいは私の勝手な思い込みでしょうか。
2003年11月11日火曜日
日本フィル 第137回サンデーコンサート
日時:2003年11月10日 14:00~
場所:東京芸術劇場
指揮:小林 研一郎
演奏:日本フィルハーモニー交響楽団
ヴァイオリン:二村 英仁
リスト:ハンガリー狂詩曲 第2番
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン(ジプシーの歌)
ラヴェル:演奏会用狂詩曲「ツィガーヌ(ジプシー)」
モンティ:チャールダーシ
ムソルグスキー:組曲「展覧会の絵」
コバケン+日フィルの演奏会に出かけた。リストのハンガリー狂詩曲に始まり、二村氏のヴァイオリンが3曲、そして「展覧会の絵」と親しみやすいプログラムであった。
しかし、日曜日14時のに始まる「サンデーコンサート」という気楽な雰囲気の演奏会のためか、会場が始終ざわついていてどこか緊張感に欠けていた。それは演奏中でもそうで、開放咳ならまだしも鞄やパンフレットのガサゴソする音が始終絶えない。そういう私も体調があまりよろしくなく、なかなか演奏に没頭できないで終わってしまったというのが正直な感想。
二村氏のヴァイオリンは優しく温かみのあり、それでいてなかなかに聴かせる演奏だったと思うのだけど、心には響いてこなかった。二村氏と日フィルとの相性という点ではどうだったのだろうか。「ツィゴイネルワイゼン」のような通俗名曲を技巧でブイブイ弾きまくる演奏が、二村氏のスタイルには似合わないのかもしれないとも思った。
ラヴェルやモンティは、私には始めての曲で、全くもったいないのであるが、とにかく楽しめないままに二村氏は去ってしまった。二村氏は、機会があればもっと近い席でじっくりと聴かせて貰いたい音であったことは付記しておこう。
次は「展覧会の絵」である。コバケンの展覧会なのだからとかなり期待して聴き始めた。しかし、本番であるから事故やミスは止むを得ないと思うのだが、金管群が不安だ。弱音でのアンサンブルの乱れも気になり、どことなく雑な印象を受ける。そして時々、自分の耳がおかしいのでは訝ったのだが、音程がどうもピンとこない。それも弱音での出だしの音だったり、重要な部分での音程であるだけに演奏全体の印象がぼやけてしまった。(プロのオケなので、音程が悪いということはありえないと思う。私は当日は風邪気味であったから、頭と耳がぼやけていたのだと思う。)
展覧会の絵は、強弱や緩急取り混ぜながら、最後のキエフの大門に向かって盛り上がる曲だが、最後のクライマックスも弱音での緊張が維持されてこそ壮大な感興が得られるものだ。肝心の弱音での繊細さや緻密さ、美しさに乗り切れなかったため、今日の演奏には満足できなかった。
アンコールは、何か1曲やった後に(忘れた)キエフの大門のラスト数分をもう一度演奏した。こういうアンコールもありかなとは思ったのだが、コバケンの生真面目さとサービス精神、そして音楽と日フィルへの深い愛情は感じたが、今日の演奏の印象をくつがえすものではなかった。
4月に東京に来て日フィルの演奏を聴くのはじめてであったのが、今まで数度聴いた東響と比較すると、弦の音色や雰囲気が異なっているように思えた。東響はどちらかといえば透明感が際立っているが、日フィルには音に粘性を感じ重心も低く、良い意味での雑味も感じることができる。それだけに全体のバランスが崩れてしまうといただけないというのが、今日の感想ではあった。体調の良いときに再度、コバケン+日フィルを聴いてみたい。
蛇足になるが、コバケンは3階席にいてさえ、その唸り(叫び?)声が聴こえるほどである。それでも、帰り際にクラシックファンたちが「コバケンも年をとったなあ」と感慨深げに話す声が、なぜか耳に残ったのであった。
2003年7月5日土曜日
【音盤】ホロヴィッツの展覧会の絵など
Horowitz:Danse excenrique
Scriabin:Sonata No.9 Op.68
Tchaikovsky:Dumka, Op.59
Bizet-Horowitz:Variations on a Theme from "Carmen"
Prokofiev:Sonata No.7 Op.83:Ⅲ.Precipitato
Rachmaninoff:Humoresque, Op.10, No.5, Barcarolle, Op.10,No.3
Debussy:Serenade to the Doll
Sousa-Horowitz:The Stars and Stripes Forever
BMG CLASSICS 09026-60526-2(輸入版)
以前、アファナシエフの「展覧会の絵」のことを書いた。アファナシエフの演奏が「狂気」だとしたら、この演奏は何と言ったらいいのだろう。ホロヴィッツ版によるこの演奏は、よく「悪魔に魂を売り渡した」演奏とか評される。「狂気」だの「悪魔」だのの言葉を連発するほどに、演奏が薄っぺらく消費されてしまうような危惧を覚えるのだが、聴いてみれば果して演奏の凄まじさに無防備にもあてられてしまう。
ホロヴィッツの「展覧会の絵」は1951年のカーネギーライブが名盤として名高いが、これは1947年のスタジオ録音。ラヴェル編曲によるオーケストラ版をホロヴィッツが更にピアノ用に編曲した版である(これだけでもヘンタイ的であることが伺える)。
音質はレコードのヒスノイズが入っていて決して良好ではないが、浮かび上がる音楽に慄然とし背筋に悪寒を覚えるほど。特にBydloやCatacombsの激しさと重さときたら気が違ってしまっているのではなかろうかと思うほどだ。Baba Yaga から The Great Gate at Kiev を経てラストに至るところは圧巻の一語。緩急自在にして色彩豊か、そしてそこかしこの凄みには感服し、ピアノという楽器を極限まで使いきる技芸に脱帽。特に叩きつけるような低音表現は重い楔が暴力的に撃ちこまれるかのようだ。ホロヴィッツの悪意さえ感じるヴィルトオーゾ性は遺憾なく発揮されていると言えよう。
他の曲は気にせずに買ったのだが、開いてみればホロヴィッツお得意のスクリャービンやプロコフィエフのほか、彼が好んで編曲したアンコールピースが納められているではないか。プロコフィエフのソナタ第7番とスクリャービンのソナタ第9番「黒ミサ」は1953年2月25日のカーネギーホールでのコンサートライブのもの。久々にホロヴィッツのスクリャービンを聴いたが、こういう演奏が残っていることを神と悪魔に感謝。
「カルメン」変奏曲や、有名な「星条旗よ永遠なれ」(1950.12.29)などもアンコールの戯れなどと言えるような曲ではなく、もとが軽く明るい通俗名曲であるくせに、編曲された演奏は別物だ。扇情的にして言葉を失うほどの技巧が披露されるのだが、それでいて本人は極めて冷静で、ピアノの裏からニヤリと笑うような嘲笑と暗い炎のような情念さえ感じてしまう(=だから「悪魔」なんだって)。聴き終わった後に、体温は確実に一度くらい上昇したような気がし、全身にはうっすらと汗さえ浮かんででしまった。
ホロヴィッツの超絶技巧というものも、ファンにとっては語り始めればきりがないのだろうが、さてそれでは、私はこういう演奏が好きなのだろうかとふと考える。彼の技巧のひけらかしを嫌う聴衆も多いとは思う。私はこの盤を何度も聴き直して思った、ホロヴィッツの技巧も凄いとは思うものの、それを通して聴こえてくる暗さやグロテスクさ、そしてアイロニー、更には天才故の孤高の孤独のようなものが滲み出しているかのようで、実は惹かれてしまうのだ(それが嫌いだという人も多いと思う)。ただし、あまりにも演奏はホロヴィッツ色に染まりすぎており、曲本来の構造や構成を考えると、彼の演奏が曲にとって最高のものであるということは別問題として置いておかなくてはならないだろう。
いずれにしても、こういうCDはキケンである、しばらく封印しなくてはならない。
広上淳一&東京都交響楽団
ストラヴィンスキー:春の祭典
日時:2003年7月4日 17:00~
場所:東京オペラシティコンサートホール
指揮:広上淳一 ヴァイオリン:庄司紗矢香
演奏:東京都交響楽団
マックス・レーガ-(1873-1916):ヴァイオリン協奏曲 イ長調 作品101(日本初演)
ストラヴィンスキー:春の祭典
本日の演奏は本来、指揮者は大野和士氏であったのだが、頚椎捻挫のため広上氏が代役で振ったプログラムだった。大野氏の指揮を期待していた人は残念な思いをされた方も多かったのではなかったろうか。私はひとえに庄司さんのヴァイオリンを聴きたかっただけであったので、指揮者が変わったことに期待も不安もなかったと書いては失礼になるだろうか。
さて、その庄司さんの演奏するのが、日本初演になるというマックス・レーガ-のヴァイオリン協奏曲である。演奏時間が60分という大作だ。CDなどで予習もしていないので、ここで聴くのが始めての曲であった。
一度聴いただけでは、どこに感動を持って行けば良いのか分かりにくい曲であったというのが正直な感想なのだが、思い出すままに書いてみよう。
第一楽章だけで30分もあるのだが、聴いていて旋律線が良く分からない、盛りあがっているのか盛り下がっているのか、うれしいのか、哀しいのか、まるで混沌として夢見るようなフレーズが延々と続く。でも決して不快な音ではない。ゆるやかな波動やうねりのようなものを感じ、深層を漂うがごとき心境になる。はじまりも終わりもなく、精神の表層と奥を行き来するかのような趣さえする中に、ときどき突如とした閃きやパッションが迸る。自分自身、眠いのか覚醒しているのか分からないなかで、庄司さんのヴァオリンの音色だけが綿々と連なっている。
レーガ-はヴィルトオーゾ風の協奏曲を嫌ったらしく、確かに聴いていてヴァイオリン協奏曲というよりはヴァイオリンを伴った交響曲風なつくりではあるのだが、庄司さんの音色はひとときもオーケストラに埋没することなく、何かを唄い続けている。音色は多彩で複雑でそして確かにブラームスを思わせるようにロマン的だ。目をつぶって聴いていると、ほんとうにヴァイオリンを一人の奏者が弾いているのだろうか、という気にさせられる。決してバリバリ弾きまくっているのではないのに、オケをバックにしたこの存在感は何だろうと思わされる。それが曲の構成なのか、あるいは庄司さんの力量なのか。
解説はマックス・レーガ-研究所のスーザンネ・ポップ氏の寄稿によるものだが、「精巧に造られたからみあう蔦のような音形総体」との表現は、聴き終わってみてなるほどと妙な説得力をもちえているように思われた。60分が長いのか短いのか、それさえ分からない。1942年のアメリカの初演では「節度のない量のビールとソーセージ」と酷評されたらしい。
たった一度聴いただけでは、全貌を掴むことはできなかったものの、演奏が終わった後も庄司さんのヴァイオリンが頭の中で鳴りつづけていた。
余談だが、休憩時間中にホワイエで初老の女性が「1楽章のカデンツァは本当に素晴らしかったわね!」と興奮して話しているのが耳に入ってきた。私はそうだったかしらと思い返し、聴衆として未熟なのかと思ってしまった。そういう言い方をするならば、素晴らしかったのはカデンツァだけではなかったのだし。
そんな余韻に浸っていた中で始まったのが春の祭典だ。改めて都響の音色に耳を傾けるなら、響きの重心がかなり低めであることに気づかされる。深みとコクのある音色は独逸ものに強そうな印象を受けた。
さて広上氏の指揮するハルサイであるが、これはレーガ-の雰囲気をまったくかき消すような響きであり、その対比に最初は少なからず違和感と抵抗を覚えたことも否定できない。何と言ってもハルサイである、さもありなんと思い、はてさてこの20世紀の前衛ともいうべき古典を、どう料理してくれるかと期待したのだが、地を蠢き噴き上げる凶暴さを感じはしたものの、予定調和の出来レースのようも聴こえはじめ、妙にまとまった音楽に感じてしまった。そう思って広上氏の指揮を見ていると、前後左右上下に大きく動くその指揮振りも、ダンスを指導する振付師のように見えてきて、鼻白むところもなきにしもあらず。
そうは言っても都響の響きや音量は驚くほど大きく、迫力などの点では全く申し分ないことは認めざるを得ない。オペラシティホールも非常に音響的に優れたホールで、こういう環境で都響が奏でる独逸ものを聴けば、さぞかし壮大なる満足を得るのだろうなと思いながらも、今聴いているのはストラヴィンスキーで、ああ、そうだそうだ、こんな余計なことを考えていたら、あっという間に終わってしまうぞと自分に言い聞かせるのであった。
都響は聴けば聴くほど上手いオケだし、音量がクライマックスのときに、ほんの少し荒れた印象を受けることもあったが、それは曲調のなせるわざなのか。粗さを重心の低さでカバーしているようにも聴こえ、分厚い響きはさすが在京オケだと思うのだが、最後まで何かひとつ充たされずに終わってしまった。
それにつけても思い出すのは、いつ終わるとも知れなかった庄司さんのヴァイオリンなのである。夢の中の深層に(実際眠りそうにもなったし)、サブリミナル効果のように刷り込まれてしまったようだ。聴けるならもう一度聴いてみたいと思いながら。(明日サントリーでまた演奏するらしいが・・・)
2003年4月25日金曜日
ゲルギエフ/チャイコフスキー「くるみ割人形」(全曲)
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
録音:Festspielhaus, Baden-Baden, Germany, 8/1989
PHILIPS 462 114-2(輸入盤)
さて、このCDは『くるみ割人形』全曲(81分)がなんと1枚におさめられている。チャイコフスキーやゲルギエフファンならずとも嬉しい構成である。それにしても、どこを切っても有名で耳馴染みのある曲を通しで聴くのは、もしかしたら始めてかもしれないなあと、聴きながらにして思った。
ゲルギエフはバレエ音楽であるこの曲を、どう料理しているか。さすがにこの曲は「戦争もの」ではない。だから、彼お得意のマチョさで、ゴリゴリ押しまくっているというような演奏ではない。それでも、非常にメリハリとダイナミックさに富んだヴィヴィッドな演奏になっていると思う。
彼の音楽の場合『シェヘラザード』でも『アレクサンドル・ネフスキー』でもそうであったが、激しい部分と弦を中心とした歌の部分の表現の対比には、いつも驚かされるのだが、この演奏でもそれを存分に味わうことができる。シンバルは高らかに鳴り、ティンパニは地響きのように叩かれる、そこに天から差し込むがごときハープの音色・・・ああ、これって『くるみ割り人形』なの・・って(^^)。
この演奏から聴き取れるのは、まさに生き生きとした躍動感だ。本来バレエ音楽であるためか、体の底から沸いてくるようなリズムは、時に野蛮なまでの野生を目覚めさせるかのよう。一方で彼の音楽は官能的でもあるのだと思う。本能に近い部分に作用してしまうので、ある種の音楽ファンには「効く」のだろう。リズムのぶれも粗さも、そういう種のファンにはどうでもよくなる。このような点を、あざとらしいとして疎んじる人もいるかもしれない。
それにしてもゲルギエフの統率するキーロフの演奏ときたら。本当によく彼に反応していると思う。これを聴くと、最近発売された彼の演奏のエッセンスが全てぎっしり詰まっているように聴こえる。コントラバスのかすれるような低音の響きもそのままだ。ああ、ゲルギエフとロシアの息吹が流れ込んでくる(^^)
「Trepak」を聴くと、札幌公演のことが思い出される。本当は、クラクCDなんて聴いている場合ぢゃあないですがね。
2003年4月3日木曜日
【音盤】ゲルギエフのプロコフィエフ「アレクサンドル・ネフスキー」
ゲルギエフの待ち待った新譜だ(発売が1ヶ月ほど延期された)。収録はプロコフィエフの「スキタイ組曲」(アラーとロリー)そしてカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」だ。演奏はキーロフ歌劇場管弦楽団と合唱団、アレクサンドル・ネフスキーはモスクワでのライブ録音である。
例によってゲルギエフ節全開、合唱は絶叫しているし、オケの迫力も凄い、最大限の音響で鳴らしまくろう、みたいなキャッチで売っている。特に後者はエイゼンシュタインの同名の映画音楽として作曲されたものをカンタータに作りなおしたもので、戦争をテーマとした音楽だ。
私はゲルギエフの振る音楽のレビュを書こうとすると、それが戦争をテーマとしたものでなくても、つい戦闘シーンが思い浮かんでしまうことを禁じることができないでいた。そういう点がゲルギエフのアグレッシブさを象徴していると思うのだが、今回はまさに「戦争」そのものを扱ったもので、まさにゲルギエフの真骨頂というべきだろう。
プロコフィエフの音楽ではあるが、カンタータはともすると「カルミナ・ブラーナ」のようにバーバリアンに聴こえる。話題の「The battle on the ice」のテーマが耳について離れない。
2003年3月6日木曜日
スヴェトラーノフ指揮 レスピーギ / ローマ三部作
この盤はHMVのサイトでも紹介されていた、スヴェトラーノフ指揮ソ連国立交響楽団の1980年ライブステレオ録音である。スヴェトラーノフといえば、いわゆる金管バリバリの爆演系の指揮者というイメージがある。ホールを大音量でかき鳴らすその演奏に虜になった人は多い。
で、この演奏だが、たしかに《アッピア街道の松》も凄まじいのだが、《ローマの祭》もすっごい音響で野蛮なまでの響きを聴かせてくれている。HMVの「お客様レビュ」も「凄い」というコトバ以外見当たらない。そんなに脳死状態になって良いのかと不安の念にも駆られるのだが、実は私も あいた口がふさがらない 状態に陥ってしまった(^^;;
先に紹介した「エフゲニー・スヴェトラーノフのページ」の はやしひろしさん のレビュでは "「世紀の珍盤」!!"という評価が与えられている(^^;;; 有無を言わさない、そして頑固にしてゆるぎない確信に満ちた暴虐さは、同じような芸風と思われがちのゲルギエフに劣らない(というか・・・ちょっと次元が違う)ような気がする。
録音はARTリマスターということであるが、音質はザラザラとしていてそれほど良くはない。それでもスヴェトラーノフの迫力は存分に味わうことができると思う。















