2003年7月5日土曜日

ホロヴィッツの展覧会の絵など

Mussorgsky:Pictueres at an Exhibition
Scriabin:Etude Op.2 No.1、Prelude Op.11 No.5、Plelude Op.22 No.1
Horowitz:Danse excenrique
Scriabin:Sonata No.9 Op.68
Tchaikovsky:Dumka, Op.59
Bizet-Horowitz:Variations on a Theme from "Carmen"
Prokofiev:Sonata No.7 Op.83:Ⅲ.Precipitato
Rachmaninoff:Humoresque, Op.10, No.5, Barcarolle, Op.10,No.3
Debussy:Serenade to the Doll
Sousa-Horowitz:The Stars and Stripes Forever

BMG CLASSICS 09026-60526-2(輸入版)
以前、アファナシエフの「展覧会の絵」のことを書いた。アファナシエフの演奏が「狂気」だとしたら、この演奏は何と言ったらいいのだろう。ホロヴィッツ版によるこの演奏は、よく「悪魔に魂を売り渡した」演奏とか評される。「狂気」だの「悪魔」だのの言葉を連発するほどに、演奏が薄っぺらく消費されてしまうような危惧を覚えるのだが、聴いてみれば果して演奏の凄まじさに無防備にもあてられてしまう。

ホロヴィッツの「展覧会の絵」は1951年のカーネギーライブが名盤として名高いが、これは1947年のスタジオ録音。ラヴェル編曲によるオーケストラ版をホロヴィッツが更にピアノ用に編曲した版である(これだけでもヘンタイ的であることが伺える)。

音質はレコードのヒスノイズが入っていて決して良好ではないが、浮かび上がる音楽に慄然とし背筋に悪寒を覚えるほど。特にBydloやCatacombsの激しさと重さときたら気が違ってしまっているのではなかろうかと思うほどだ。Baba Yaga から The Great Gate at Kiev を経てラストに至るところは圧巻の一語。緩急自在にして色彩豊か、そしてそこかしこの凄みには感服し、ピアノという楽器を極限まで使いきる技芸に脱帽。特に叩きつけるような低音表現は重い楔が暴力的に撃ちこまれるかのようだ。ホロヴィッツの悪意さえ感じるヴィルトオーゾ性は遺憾なく発揮されていると言えよう。

他の曲は気にせずに買ったのだが、開いてみればホロヴィッツお得意のスクリャービンやプロコフィエフのほか、彼が好んで編曲したアンコールピースが納められているではないか。プロコフィエフのソナタ第7番とスクリャービンのソナタ第9番「黒ミサ」は1953年2月25日のカーネギーホールでのコンサートライブのもの。久々にホロヴィッツのスクリャービンを聴いたが、こういう演奏が残っていることを神と悪魔に感謝。

「カルメン」変奏曲や、有名な「星条旗よ永遠なれ」(1950.12.29)などもアンコールの戯れなどと言えるような曲ではなく、もとが軽く明るい通俗名曲であるくせに、編曲された演奏は別物だ。扇情的にして言葉を失うほどの技巧が披露されるのだが、それでいて本人は極めて冷静で、ピアノの裏からニヤリと笑うような嘲笑と暗い炎のような情念さえ感じてしまう(=だから「悪魔」なんだって)。聴き終わった後に、体温は確実に一度くらい上昇したような気がし、全身にはうっすらと汗さえ浮かんででしまった。

ホロヴィッツの超絶技巧というものも、ファンにとっては語り始めればきりがないのだろうが、さてそれでは、私はこういう演奏が好きなのだろうかとふと考える。彼の技巧のひけらかしを嫌う聴衆も多いとは思う。私はこの盤を何度も聴き直して思った、ホロヴィッツの技巧も凄いとは思うものの、それを通して聴こえてくる暗さやグロテスクさ、そしてアイロニー、更には天才故の孤高の孤独のようなものが滲み出しているかのようで、実は惹かれてしまうのだ(それが嫌いだという人も多いと思う)。ただし、あまりにも演奏はホロヴィッツ色に染まりすぎており、曲本来の構造や構成を考えると、彼の演奏が曲にとって最高のものであるということは別問題として置いておかなくてはならないだろう。

いずれにしても、こういうCDはキケンである、しばらく封印しなくてはならない。