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2008年2月24日日曜日

【本棚】桐野夏生:残虐記


私は桐野氏の作品を、一貫して「女性のサバイバルの物語」という読み方をしてきました。本作品も、少女監禁事件を題材としていながら、監禁された少女(当時小学校4年生)と、その後の人生における、彼女のサバイバル戦略が描かれているという点では、他の桐野氏の作品と同列のものでしょう。

しかし、ここで描かれているサバイバルも、今までの大作と同様に極めて過酷な物語になっています。

監禁生活における、少女が考え出した狡猾なる男との関係性。そして、解放された後、世間の好奇と興味にさらされ、喪失した現実と折り合いを付けるために、彼女が見つけた「毒の夢」。その彼女だけの逃避的現実であった世界さえ、成人の男たちの静的な妄想の沼(P.164)と気付いたときの深い絶望。

それ以来彼女は、「性的人間」になったと書きます。ここでの「性的人間」とは常に、ケンジの性的妄想とは何か、という問いを生きることであり、他人の性的妄想を想像することだと。

彼女の唯一の武器は想像力。奪われたものに対して唯一立ち向かえる力。ですから、そこには真実など、もとからないのかもしれません。執拗に彼女を追いかけた検事 宮川が、ぼくの欲しいのは真実じゃない(P.224)と言います。

考えてみると、この小説そのものが、リアルの衣を纏いながら謎と嘘に満ちています。この小説を読もうとする読者の意図そのものが、性的好奇心と妄想であることを嘲笑うが如く。小説の結末を「救われない」と書くこさえもが、もしかすると間違いなのかもしれません。余りにもうがたれた闇は深く、しかもある意味で強靭なのです。

2007年4月21日土曜日

【本棚】桐野夏生:魂萌え!


団塊の世代の大量退職時代を迎え、熟年離婚という言葉が珍しくなくなった現在において、桐野氏が問う改めての夫婦あるいは家族、そして個人としての女。

彼女の作品は、「黒い作品」にしても本作のような「白い作品」にしても、閉塞的な状況にある現代女性の解放とサバイバルをテーマにしています。今回は夫の定年と突然の死という、どこにでもありそうな事件を通して、いままで「のほほんと」暮らしていた主婦が、様々なことに目覚める過程(解放)と、その後の人生を生き抜く決意みたいなもの(サバイバル)を描いている点で、まさに桐野氏の作品世界です。

前半は寡婦となった敏子に言い寄る男性とのヨロメキ遍歴を読まされるのか、といささかゲンナリしたものですが、やはり桐野氏です、そんな安易な方向に作品を流しません。

この小説には「OUT」や「グロテスク」に見られたようなサスペンスや非日常はありませんが、それゆえに、読むものと等身大の話題であり、自らを問い直すことになります。上巻は見ていられないほどに無知で世間知らずであった彼女が、最後は清濁を含めて受容しながらも生きていけるようになったことは、小説的ファンタジーです。しかし、何かをきっかけとし、自己を問い直し、「不満」という言葉で片付けて見ないようにしている現実と向き合うことの重要さ、そして、そんなネガティブな要素から逃げていては損であることを、この小説は教えてくれます。

あの日、関口の機嫌が悪くて、私に不満があるんだろう、と尋ねた。私はこう答えたのよ。『不満というものが何かも忘れた』って。関口は衝撃を受けたみたいで、こう言った。『わかった。後で話がある』って。

ささやかに、「恙無く」生きようとする市井の大勢に対する、かなり強いエールでもあります。それにしても、彼女の小説では、既に昭和的家族観は完全に崩壊していますね・・・。

蛇足ですが、高村薫と同様に、私は桐野氏はミステーリー作家であるという意識が希薄であろう感じているので、こういう小説展開は、彼女にとってごく自然の成り行きだと思っています。

2006年11月22日水曜日

【本棚】桐野夏生:玉蘭


本作は個人的には今まで読んだ桐野氏の作品の中でベストでないかと考えます。

まず、いつものことながら物語りとして面白い。主軸は時代を隔てた二組の男女の時空を越えた交感、あるいは数奇な物語です。そして、打算的にして孤独な男女が、慰め傷つけ合う激しい愛の物語でもあります。男女の複雑な心理描写や駆け引き、夢も希望もない性交の描写、そこから浮かび上がる女性と男性の性の違い。男の狡さ、女の弱さと強さ。これらの描出は桐野氏ならではの鋭さだと読みながら唸ってしまいます。

桐野氏は有子を好きになるか嫌いになるかで、この小説の好みがはっきりした感がありますねと書きま。私は有子に限らず桐野氏の主人公は概ね嫌いです。作品は好きですが(^_-)

物語としても面白いですが、テーマ的にも桐野氏が追い求めている(と勝手に私が解釈している)テーマがくっきりと浮かび上がります。打算的で自分勝手なことしか考えない人物たちが、互いを利用しあい、出し抜きながらも、惹かれあい、すがり合う。あたかも自分の中の虚無を埋めるかのように。あるいは、現在の自分ではない別の何者か、別の場所に憧れる主人公たち。現在の自分では決して超えられない壁(差別、境遇)の存在。しかし、現在の自分はゲームのようにはリセットできないという現実。

自分の今いるところは世界の果てなのか。新しい世界なのか。

新しい場所から来たから、新しい世界が始まるなんて幻想だ。新しい場所に足を踏み入れるってことは、良く知っている世界の実は最果ての地に今いるっていうことなんだ(P.15)

この小説の核となる象徴的な台詞です。この言葉を吐くのは主人公の一人である質。彼がこの言葉を言えるようになったのは、彼が全てを失ってからです。つまり彼にとっては「新しい世界」 なんてなかったという吐露です。「最果ての地」と思っていたところが、結局は自分の延長でしかないと知った時、初めて彼は自分が世界の真ん中にいたと知る。そこからは逃れられないのだと。

もし本当にそこから逃げ出そう(解放されよう)とするならば、それにはもう一人の主人公である有子(あるいは「グロテスク」の和恵)のように自らが「毀れる」しかないというのでしょうか。自分を引きずる以上、新しい世界などないのだとしたら何と残酷な結論でしょう。ですから最終章の質の物語は、私には蛇足、桐野氏の読者への良心と思えてしまいます。

本書は他の桐野作品よりも読みづらいと思います。しかしこの小説は力強く、哀しいくらいに美しい。あたかも玉蘭の香りのように(>嗅いだことないけど)。この小説でもう桐野氏は結構です、すでに、ある高みに達しています。この先彼女は(物語は別として)、何を書くのですか?

2006年10月24日火曜日

【本棚】桐野夏生:光源

不思議な小説です。少なくともミステリーではありません。こんな作品を書く桐野氏ですから、彼女の本質はミステリーにはないと私は考えています。ジャンルもわからないし、的確な帯のコピーさえも書けない変な小説(桐野氏のHP)というのは、彼女の作品にミステリーを求める読者に対してのコメントでしょうか。

そうであっても本作品は一級のエンタテイメントで、かつ深い人間洞察が含まれています。桐野氏の持ち味が充分に生かされた作品で充分に読み応えがあります。ストーリーの展開も良く、彼女の中では目立たない作品かも知れませんが極めて秀逸だと思います。

私は、どうもこういう我が儘な人たちが大好きらしいです(笑)。

と桐野氏は語ります。彼女の小説の主人公は皆、自分の欲望や利益を最大限に考える行動を取ります。そこから、彼女の作品のキーワードである「サバイバル」という言葉が炙り出されます。我を通しますから、他者へは「悪意」となって放出される場合もあります。ウジウジした優しさや思いやりは存在しません。厳しい環境や、自らを束縛するものからの解放を望みながら生き抜くこと。そこには他者への思いやりよりも、他者を利用して自分が生き残るための「戦略」が生じます。それが彼女の小説の真骨頂です。

この小説においても、女性プロデューサーの玉置、撮影監督の有村、若手監督の三蔵、元アイドルの井上、そして人気俳優の高見。それぞれが我をぶつけ合い、助け合いながらも利用しあい、そして自分のサバイバルに利用できなくなれば容赦なく切り捨てる。誰もが何かを背負い、何かから逃れるように生きています。逃れたいと思いながらも、実は逃れた先に存在する孤独と虚無。自分だけが拠り所であると信じているハズだったのに、本当は違うかも知れないという疑問。そして新たなる束縛。主人公はおそらくは玉置でしょうが、ここには勝者も敗者も居ません。

最後は「狂乱」というカタストロフに導かれますが、それは真の意味でのカタストロフではなく、次なるカタストロフへの前哨に過ぎません。玉置に「勉強していないのはあなただけ」と最後に冷たく言われた高見とて、人気俳優「高見」を演じることを放棄した先にある自由と束縛を考えると、私は複雑な思いで小説の頁を閉じました。

ということで桐野氏の作品にも、そろそろ飽きてきました。これでオシマイにしようと思います。もしかすると『玉欄』なら読むかもしれませんが・・・

2006年10月18日水曜日

【本棚】桐野夏生:OUT


OUTな登場人物たちが、それぞれの事情からOUTなことに携わり、人間関係としてOUTな事をされたために、OUTになってしまい、開き直って更にOUTな事に手を染めることになったばかりに、極めてOUTな奴に付け狙われ、どこまでもOUTしてゆく・・・。 


『水の眠り灰の夢』を書いた後、桐野氏はスランプに陥りました。その時に死体をバラバラにした主婦対死体解体業の中国マフィアが歌舞伎町で戦う、というアイデアを思いつき書き上げた作品なんだそうです。圧倒的なリアリティと、ストーリーの意外性、そして娯楽性により多くの読者を獲得したことは想像に難くありません。

それにしても、彼女の筆致とテーマの硬質さよ。雅子を始めとする主人公達の息の詰まるような閉塞感と孤独感とはここでも共通。それは生い立ちや家庭環境、容姿や能力、学歴や社会的地位などなど、様々ではあるものの、その差異を「階級差」あるいは「差別」と称してもよいかもしれません。個人が絶対に越えられない壁に束縛されていること。閉塞した空間にガスが圧縮されたかのように一気に濃度が高まり爆発する。しかし爆発してもそれは解放されたことなのか。解放とは何からの自由なのか。自らを解放するために、肉体を「解体」する作業に従事したというのは洒落なのでしょうか。肉体が肉体としての関係性を「解体」させられたように、彼女たちは人間的「関係性」さえも無意識のうちに「解体」してしまいますが、自らの精神は全く解放されないという悲劇。

ここでも永遠の束縛と解放の永久運動があるのかと思いきや、作者は全く別な回答を用意していました。そう、何者からも自由であるかのように振舞っていた佐竹という存在。いや彼こそが一番不自由な、過去の自分という存在に束縛されて生きていたという矛盾。隠されたもう一つの自分自身、一番OUTな奴。目覚まされたふたつのOUTな魂が出会った世界は凄絶さを極めます。

考えようによっては「佐竹」という解答があるだけに、まだ救いがあるのがこの小説の逆説的な特徴と言えましょう。読む人によっては、完全にOUTと評価されるのも頷ける作品です。

蛇足ですが、桐野氏の作品に登場する「男性」は、極めて冴えませんね、いつものことですが。彼女にかかると男性は皆、精神的に子供のようです。佐竹は「化け物」だから別物です。

2006年10月16日月曜日

休日ブラブラ2

歌舞伎座夜の部を観劇してくる。演目は仁左衛門の「仮名手本忠臣蔵 五段目、六段目」と幸四郎の「梅雨小袖昔八丈 髪結新三」。久しぶりの歌舞伎座なので、感想を書こうと思っても「いやァ~、やっぱり歌舞伎って面白いですね」というような、やる気のない小学生みたいな感想しか浮かばない。どなたかも書かれていたが、無理を承知で書くことを続けないと何も表現できなくなるようだ。

この有名な演目だが、歌舞伎トーシローの私にとっては筋を知るのも、観るのも今日が初めて。幸四郎の新三については、ネット上の感想を読むと否定的な意見が多いようだ。私は他の新三は知らないので、これでも充分に楽しめた。そして、こういう演目を心から楽しいと思っている自分に驚いたりする。忠臣蔵は熱演ではあったが、初めて観るために印象が薄い、というか、充分に咀嚼できない。二度三度と見ると違うのだと思う。

昼の部の感想なども読んでいると、無性にまた歌舞伎座に行きたくなる。気を許すと寝てしまうのだが、それでも、あの空間の魔力には抗えない・・・。開演前とか休憩時間に鯛焼きの焼ける甘ったるい匂いをかいでいると理由を越えた至福感に包まれる。

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桐野夏生氏の「OUT」を読み始めたが、彼女のグイグイ引っ張る筆致に魅かれる半面、読むのが辛い。どうして彼女の作品は、とことん救いのないところから出発するのだろう。この小説に解放と解決はあるのか、と少し不安になる。高村薫氏をはじめて読んだときも思ったが、桐野氏って本当に女性作家なの?いや、いや、女性しか書けないか、やっぱりああいう作品は。




2006年10月15日日曜日

【本棚】桐野夏生:柔らかな頬



グロテスク」に続いて読んでみたのが「柔らかな頬」です。本書を読んで、桐野氏の作家としての力量に対して感服の念を覚えました。彼女はミステリー作家という分類のようですが、テーマは決してミステリーではありません。 

本書をどのような「物語」として読むかは人それぞれでしょう。私は「グロテスク」「柔らかな頬」 と続けて読んで、彼女の作品に通底するキーワードとして「解放」「サバイバル」ということを考えてしまいます。

人は色々な束縛やしがらみの中で生きています。ある場に居ることが本来の自分を損なうからと逃避したとしても、別な場は再び時間とともに自分を拘束し始める。この束縛と解放の、再生と崩壊の無限運動。「解放」に向う個は、自分が自分であることに強すぎるため自己中心的であり他者への思いやりは極めて希薄です。

死ぬまで自分が何者なのか確認し続けることの虚しさと哀しさ。その確認する作業そのものが生きる証でもあるかのように、他者を傷つけ、ひたすらに走り続ける主人公たち。自分と他人の絶対的な差異の自覚、いや過去の自分と現在の自分さえ、そこには異質なものが横たわる。他人とは分かち合えないことを自覚したときの、他者が絶対に介在できないギリギリの孤独。極めて個人的な存在である「肉体」というもの、肉体を貫く「性」の意味。しかしそれでも人は求めてしまう、その果てしない虚無を埋めるために。

この小説を読むと「グロテスク」は、本書のテーマから敷衍して圧倒的に肥大化した個の物語であるとも読めます。だから作品に結論も解決もありません、というか必要ないのです。「子供が失踪した」ということはミステリーの枠を超えたところに存在しているのです。

そういう意味から、第十章 砂岩は唯一作者が読者におもねた蛇足と感じたものです。作者のコメントを読むと、そういう意図ではなかったようです。アマゾンのレビュを読むと「ラストが賛否両論」とのコメントが多数ですが、私からすると、まったく意味のない議論です。「事件」の「解決」を求める読者が多いことも、後から知りました。犯人が誰か分かったところで、何も得られないというのに。

2006年10月10日火曜日

【本棚】桐野夏生:グロテスク

以前の偶刊-ポセイドニオス堂慥かにこの人の筆は凄いと桐野夏生氏が紹介されておりました。浮月氏が紹介するくらいですから、これは確かであろうと読んでみた次第。私はミステリー・ファンでも読書家でもありませんから、ベストセラー作家である桐野氏の作品を読むのはこれが初めてですが、確かに驚きましたね。 

しかし、何と言う物語でしょう。筆致は凄いが書かれている内容も凄惨。桐野氏はこの世の差別のすべてを書いてやろうと思ったのだそうです。「差別」とは他者に対する優越感、他者への容赦ない哄笑、仲間意識、色々な複雑な感情が込められています。日本には階級差別はタテマエ上ないことになっていますが、周知のごとく学校や職場でのイジメを含め、階級や派閥、そして差別のない集団など皆無でしょう。絶対に越えられない壁の存在、そういう差別社会の中での厳しいサバイバルと「解放」が嫌と言うほどに描かれています。特に女性がサバイバルするということはどれくらいに過酷なことなのか。浅はかな私のような男性には想像だにできない世界です。

勝つとか人より優れるとかいうこと。その底には、自分が自分であることを確認するという作業が潜みます。しかし他者の目を通してしか「自分であること」を確認できない現代の生。そこに潜む圧倒的な孤独みたいなものが透けて見えて、その暗さと深さには背筋が寒くなるほどです。狂おしい程に求めそして堕ち続けた彼女達、あるいは闘争から引くというサバイバル戦術を取った彼女=「わたし」。誰もが最後には、自分の存在を確認するために自らを滅ぼしてゆきます。

迸る悪意。他者と自分の、理想と現実の乖離。都合の良いように嘘に塗り固められた過去。救いようのない物語・・・。読んでいて吐き気を催すほどで、その生き様はまさに「グロテスク」。しかし、それ程までにして描ききった彼女達の生は、(ラストはちょっと甘いと感じたものの)小説という虚構を通して再構築され、彼岸の彼方へ昇華されてゆくかのようです。

2003年8月10日日曜日

【本棚】桐野夏生:顔に降りかかる雨


本作は93年、第39回江戸川乱歩賞を受賞した作品である。桐野氏といえば、もはや押しも押されぬミステリー作家としての地位を築いているとは思うが、これは彼女の初期の作品に当たるのだろう。

ミステリー界には三F現象とか四F現象という言葉があるらしい。すなわち作者、主人公、読者の三者がいずれも女性なのが三F、これに翻訳者が加わると四Fなのだとか。


言われてみると、この小説は女性が書いたという雰囲気や匂いに満ち溢れている。登場人物を紹介するときの描写の仕方、服装や香水・アクセサリーなどの小物についての記述など、ブランド名が明確に用いられており、記号として知る人ならばイメージが膨らむように書かれている。あるいは、主人公の村野ミロと一緒に失踪した女性を追う村瀬の描写の仕方、そしてラブシーンへと至る描写・・・あざといほどの「女性の視点」という描写が、逆に私には鼻についてしまう。主人公の村野ミロが、最初は嫌悪しながらも成瀬に惹かれてゆく過程も、やっぱりなあ・・・という思い。

こういう気分は何なのだろうかと、読みながらずっと考える。男社会の描写や視点に慣れすぎている事から来る違和感か、我々男性がしがらみに縛られて逆立ちしてもできないような垣根を、女性たちが軽々と越えてしまうことへの羨望か、あるいは営々と築きあげられてきた男性社会に対して、そういう生きざまをみっともないと思わせられることへの悪あがきか。

もっとも桐野氏はそんなことを意図して書いているのではないようではある。女性にも気持の良い、フットワークの軽い、そして面白いミステリーを書いているだけなのだろう。従ってミステリーとしての面白さは十分、そこにアングラ的なSM風俗や、東独逸のありようとの対比、女性の野心と願望などが織り交ぜて書きこまれており、読物としても悪くはない。

しかし読後感としては、ミステリーとしての味わいよりも彼女の文体そのものの印象が強すぎるため、ゲンナリしてしまう。女性のビビッドなパワーに当てられたというところだろうか。彼女がロマンス小説やレディースコミックの原作者としても活躍している、との解説を読み、成る程と納得した次第。世の中の、女性と男性の妄想の違いに思い至る小説でもあった。

こうしてレビュを書いて気付いたが、私はミステリー読んでも、ミステリーのトリックや質そのものには全然関心も感心もないのだな・・・