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2003年9月4日木曜日

【音盤】ケーゲル/ショスタコーヴィチ交響曲第7番















ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 作品60 レニングラード

指揮:Herbert Kegel
演奏:Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig (MDR Sinfonieorchester)
録音:1972年 Kongreβhalle Leipzig Konzertmistschnitt

許光俊という評論家の影響か、ケーゲルという一般的には(そして独逸的にも世界的にも)あまり知名度の高くない指揮者が、日本の一部のファンの間では脚光を浴びている。

許氏曰く、
ついに、待望久しい超弩級の名演奏が日の目を見た。これほどまでに感情豊かに演奏された「レニングラード」は他にないだろう。(中略)こんなに身近で、人間的で、表情豊かで、楽しくて、悲しい、ロマンティックでセンチメンタルな音楽だったのだ
と。

そして、クラシックのイロハも分からないような私のような輩も、許氏とHMVに乗せられて盤を求めてしまっているというのが現実だろうか。私は定番さえ聴いたことがないというのに、ケーゲル盤について語ろうとしている。

さて、ゲルギエフ/ロッテルダム盤を聴いた後にケーゲル盤を聴くと、演奏の違いに若干驚かされる。ケーゲル盤は何と言っても、冒頭からして推進するエネルギーに満ち、それでいて軽やかで美しい。非常に素直な曲を聴いているようで、心洗われるような印象を受ける。この印象は、最後まで変わることがない。静かで強い推進力により曲はあっという間に進行するという印象だ。タコ7がちっとも長いと感じない。

全曲を通して表現の巾が広く、そして感情的だ。決してエモーショナル過ぎなエグイ演奏というわけではない。演奏解釈上は非常に正当なのではないだろうか。爆発する部分の表現も凄まじいが、弦や木管を中心とした旋律の部分の歌い方も、ときに哀しいほど明るく、そして、ずしりと重い。そこかしこに、ケーゲルの繊細さと誠実さが聴こえる音楽に仕上がっているように思える。

それは第一楽章のティンパニが鳴り始める「戦争の主題」に至る部分もそうだ。しかし、これが真の明るさなのか、表面的なものなのか。『酔っぱらいの千鳥足踊り』という許氏の表現は的確かもしれない。滑稽にして明るいだけに、カタストロフへ向うスピードと得体の知れない恐怖は、あたかも明るいお化け屋敷のようだ。許氏も指摘する13分以降のカタストロフには慄然とする。なんだろう、この凄さは。ゲルギエフ盤ではただ音量が大きいことで押しまくっていだけなのではなかろうかとさえ思える。ここにはただならぬものがある。何かが完全に崩れてしまった絶望と恐ろしいほどの悲しみがある。これは爆演という種類のものとは明かに異なった表現だ。演奏が凄いことも確かなのだが・・・。21分を過ぎるあたりからの弦による旋律も深く流れるようで心を打つ。そこかしこに、戦場に咲く花のような哀しい美しさや、瓦礫の中で聴こえる故郷のラジオのような懐かしさを覚える。なんとセンチメンタルな音楽であることか!

劇的な第一楽章と第四楽章にはさまれた、第ニ、三の両楽章も彫りの深い音楽になっている。特に第三楽章は、アダージョ楽章であるが、感情的にも複雑なものが込められているように感じる。特に私の好きなフルートソロの部分の静寂さと美しさは、どこか違う世界を夢見るかごときだ。感想が抽象的にして感傷的になるので、ここらあたりで留めるが、ケーゲルの音楽からは様々な風景や感情が沸き起こってくる。特に第三楽章のラスト2分の表現と懐の深さには目を見張る思いだ。よく聴くとケーゲルの唸り声が聞える。

第三楽章から最終楽章に向けては一気加勢だ。ゲルギエフ盤と比べるとこの楽章も4分も速い、スピード感を感じるのはそういうわけか。圧倒的なカタストロフと歓喜に向けての推進は、白馬に乗った騎士が髪をなびかせ駆け抜けるかのような颯爽ささえ感じる(<もう少しまともな表現ないのかね)。

クサイ比喩が出てしまうほどに、許氏も指摘するようにケーゲルの音楽は表情豊かだ。『ショスタコを一部のマニア向け作曲家』『やたらと暗い内向性の音楽』『石像かロボットかと思っていた音楽』というのも許氏がケーゲル盤以外に抱いている、ショスタコーヴィチの一般像であるらしいが、ケーゲル盤からは確かに違ったものを感じる。

当然、ここまで感極まった音楽のラストは素直に私は歓喜として捕らえる。そう、勝利の歓喜である。

2003年5月6日火曜日

【音盤】ケーゲル/ベートーベン 交響曲第5番「運命」


  1. ベートーベン 交響曲第5番 ハ短調「運命」作品67
  2.  J.S.バッハ 管弦楽組曲 第3番 ニ長調 BWV.1068~アリア 
  • 指揮:ヘルベルト・ケーゲル 
  • 演奏:ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団 
  • 録音:1989年10月18日サントリーホール 
  • Altus ALT056(国内版) 
ケーゲルのベートーベンだ、許光俊氏が絶賛する演奏。彼は、この演奏を「フルトヴェングラー以来の、歓喜への信頼に満ちた演奏」(CD解説)と評した。そういう彼のフィルターを払いのけて演奏に接することは難しいかもしれない。しかし、予備知識はアタマに刷り込まれてしまった、果してどんな「運命」が聴こえてくるのか、期待と不安錯綜しながら聴きはじめた。
1楽章4分半当たりから感じられるただごとではない響きに、思わず襟を正した。低弦が太く嘆くようだというばかりではない、ヴァイオリンは長く厚い音を響かせ、琥珀色の音色を重ねている、美しい。しかしそればかりではなく、1楽章に込められた哀しみの表現に気づかされる。
単純な「ダダダ、ダーン」のリズムが、かくも残響を残して、絶望か苦悩の嘆きを唄うのを聴いたことはない。声をかけて慰めることさえできない姿がそこにある。7分50秒頃から、巨体が崩れるかのごとき1楽章のフィナーレの圧巻さ。
2楽章とて楽天はまだ支配していない。それは在りし日の思い出や回想に聞える部分もあるが、漂う寂寞感はぬぐえない表情だ。勝利を予感するトランペットの響きはまだ懐疑の中に沈みこむ。これがベートーベンの「運命」であるとは思えないほどに感情的で悲愴的ではないか。
3楽章がこんなにも堂々と迫ってくる、あるいは日が翳るがごとくあっという間に表情を変えてしまう演奏を私は知らない。フルトヴェングラーの1947年のベルリン復帰の演奏であっても、これほどに多感ではなかったのではと思わされる。テンポの操り方、強弱の付け方などの演奏技法によるところもあるのだろうが、演奏を聴いていて感情が両極端に振幅するのを抑えることができない。
4楽章も引き摺る様に重々しく始まる。まだ不安は拭うことができない。1分20秒くらいから始まる表現は痛々しいまでの迷いを感じる。ここから歓喜へ向うには、どのような変貌を見せるのだろうかと次ぎへの展開に期待は高まる。
テンポは揺れるが決して速くはない。着実な歩みで演奏は進む。4分、冒頭の繰り返しのところで少し面白い表現を聴かせてくれた、いったいこれはなんだろう。そう、聴きながらあれやこれやと考えさせられてしまう。おやおや弦のピチカートてこんなにも雄弁だったかしらとか。
そして、ティンパニに導かれて始まる第4楽章への移行、ああ・・・光がさしてくる。そして抜けてしまう・・・全身に浴びる溢れるばかりのまばゆい光の洪水! 鬱状態から圧倒的躁状態への遷移。おお、まるで揺れて大波に乗るよう、酔いさえ感じるような演奏ではないか。ベートーベンなのになんと筋肉質的でないことか、表現が極めて優しい。弱いというのでは決してない。包まれるがごとき喜びをの表現。
確信と祈りにもにた歓喜の希求。しかし裏に不安はないのか、本当にこんなに歓喜を信じて良いのか、という疑義。ラストを聴き終えても、楽天的な歓喜と満足感が私の心を満たしてはいない。聴こえるのは、痛々しいまでの涙を含んだ歓喜への願いだ。
それは、アンコールのJ・S・バッハのアリアを聴いたときに突然生じた。私の中での理性と感情の堰が切れてしまったのだ。「運命」の後での曲だ、通常なら違和感があるところが、あまりのハマリ方に私は呆然となってしまった。この美しさと哀しさはどうだ、最初の一音が弦の合奏が聴こえたその瞬間に、まさにこの曲が「運命」の後の必然であると思わせる説得力で語りかけけてきたのだ。
ああ・・・もう一度聴きなおす気力は起きない、というよりも、こういう演奏は何度も繰り返し聴いてはいけない。何と言う音楽だろうか、そして何と言う演奏であろうか。私は音盤を聴いて、こんなにも泣いてしまったことは、かつて一度もない。(あったかもしれないが、恥かしいから思い出したくない>いつも泣いてるぢゃないかよ>CD聴いただけで泣くなよな)
*)この感想は、CDを聴きながら同時進行で文章をしたためた。そして再度、CDを聴きなおすこともしていない。それゆえ、極めて感情的で一面的なレビュになっていることに自分でも気づいてはいるのだが、書きなおす気もしないのでご容赦願いたい。

2003年5月5日月曜日

【音盤】三つのベートーベン「運命」聴き比べ

許光俊氏の「世界最高のクラシック」を読んで、彼が最高と評する音楽のいくつかに接したいと思うようになった。そこで、とりあえずフルトヴェングラー(1947)、ケーゲル(1989)、チェリビダッケ(199)による三種類の「運命」を聴いてみることとした。どの盤もライブ録音である。フルトヴェングラーの演奏は、ベルリン復帰の歴史的名演の初日のものである。

それぞれの演奏時間は下記の通り。

フルトヴェングラーケーゲルチェリビダッケ
第一楽章7’53”8’13”7’08”
第ニ楽章10’29”12’29”11’42”
第三楽章5”40”6’01”6’17”
第四楽章7”45”9’48”10’41”
TOTAL31”47”36’31”35’48”

チェリビダッケは晩年、テンポが遅くなったことで有名だ。単に演奏時間だけを取りだして云々することには意味があるとは思えないのだが、それでも、三つの演奏を比較してみた場合、意外にもケーゲルの演奏が一番演奏時間が長いことに気づく。

それぞれの楽章の長短をケーゲルとチェリビダッケで比べてみると面白い。レビュに書いたが、ケーゲルの演奏を聴いて、この曲の2楽章の姿を改めて知る気がした。また、チェリビダッケの演奏を聴き、この交響曲が極めて構築的な音楽であることに気づいたのである。どれも必然のテンポといえるのかもしれない。

フルトヴェングラーの演奏は明らかに速い、比べて聴かなくてもその速さには気づく。でもその速さから伝わるものがあることも認めざるを得ない。

ここに示した三種類の「運命」は、ぶっ続けで聴いたのだが(フルヴェンとチェリは時間を改めて再度聴いたが)、どれも特異な演奏であり、また驚くべきほどの集中力を見せた瞠目に値する音楽となっていることを認めざるを得ない。


フルトヴェングラー指揮
ベルリン・フィル
1947年5月25日 ベルリン
TAHRA-FURT 1063-1066 (Made in France)
言わずと知れたフルトヴェングラーの名演である。かつて音楽雑記帳(2001年8月)において、私はベルリン復帰の3日目の演奏の感想を(そのときも同じように三種類の「運命」聴き比べで)述べた。始めて聴いた時のような震えるような感動は、今回は得ることができなかったが、凄まじい演奏であることに変わりはないようだ。

��日目のものは札幌に置いてきているので、この初日の演奏と3日目の演奏を比べることはしていないのだが、何かをはらすような叩きつけるような表現、ラストに向ってオケを追い立てるさまは、ドグマの噴出のような思いさえし、異様なまでの迫力だ。

迫力が音質のせいもあってか粗さや雑さに聴こえる部分もないわけではない。しかし、ラストに向い何かに憑かれたようにオケを引連れて突進する様は、鬼人と言えるかもしれない。

いずれにしても「超」が付くほどの因縁めいたベルリンライブ。その筋の人たちにとっては既に語り尽くされた感がある演奏だ。もはや「評することを拒絶している」演奏だと言えるかもしれない。音質は他のフルベンの録音と比べるとどうなのか、詳しいことは私には判断できないが、演奏の質を判断できるほどの録音ではある。

とにかく、まずはフルトヴェングラーを聴いてから以下の2枚を聴いたということだ。


ヘルベルト・ケーゲル指揮
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
1989年10月18日 サントリーホール(東京)
Altus ALT056(国内版)
驚いた、心底驚いた。許氏が『これは日本ライヴであり、生演奏やFM放送を聴いたひとたちの間では半ば伝説として語られていた超強力な演奏』(「世界最高のクラシック」P.204)と書くだけのことは、確かにあった。

CDの解説も許氏だ。『その頃の日本は、バブル経済によって贅沢を貪り尽くし、あらゆる楽天主義が蔓延していた時代であった。こともあろうにそんな東京のまんあかで、絶望と希望のギリギリの対決のような音楽が行われていたのだ。何と言う悲惨でグロテスクな風景だったろう。』と許氏は書いている。

1989年、東ドイツ崩壊の前後、ケーゲルは間違いなく社会主義者であったという。そして、この演奏の翌年、ケーゲルは自らの命を絶つ。許氏も言うように、こんな音楽を奏でてしまったことは、果して演奏する側にとっても聴く側にとっても幸せなことなのだろうか。

ケーゲルというとシベリウスの4番のように、ちょっとキワモノ扱いのように感じていたのだが、全く考えが改まった。レビュは別頁に記した。




セルジュ・チェリビダッケ指揮
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団
1992年5月28、31日 ミュンヘン
EMI TOCE-11603
これまた、驚くべき演奏であった。フルトヴェングラー、ケーゲルト聴いてきて、このチェリビダッケの演奏を聴いたときに、その特異性が際だって浮き上がってきた。

私は恐れ多くて、チェリビダッケの音楽について語る素養は持ち合わせてはいない。とりあえずレビュを書いたが、いったいチェリビダッケの何について語ったことになろうか。

こうして、「運命」をぶっ続けで聴いて分かったことがある。これほど消費し尽くされていると思っていたこの曲に、まだまだ多くの発見や喜びを見出すことができるということだ。三種類の演奏を聴いて、なお飽きるということがない。恐るべしベートーベン、といったところだろうか。(>恐るべしクラシックヲタクと言うべきだよ、ヤレヤレ。)

蛇足になるが、これらの演奏は、許光俊氏が推薦する演奏であったわけだ。いったい評論家に指南されなければ、これらの演奏の凄さに気づかなかったのだろうか、あるいは、ケーゲルの感想でも書いたように、評論家の意見の刷り込みの呪縛から自由な状態で演奏に接しているのだろうか、そこに疑問を感じないわけではない。特にフルトヴェングラーのような音質の良くない演奏をありがたがるという態度については、やはり一般受けはしないだろうなあと思うのであった。

2001年9月3日月曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 ケーゲル指揮 ライプチヒ放送交響楽団による交響曲第4番

指揮:ヘルベルト・ケーゲル 演奏:ライプチヒ放送交響楽団 録音:1969 BERLIN Classics 0031432BC(輸入版)
この演奏を聴こうとする、あるいは既に持っているのならば、私の下手な解説よりも「奥座敷」で展開されている、この演奏に対する解釈を読む方をお奨めする。この評があれば、これ以上何を付け加えるとい言うのかという気になる。また須田さんによるシベリウスのページの中の交響曲第4番の解説においても、この盤がとんでもない演奏であることに触れ、数ある4番の演奏の中で最も優れた演奏という位置を与えている。
しかし、私としてはケーゲルのこの演奏が4番として非常に優れた演奏であることは認めるものの、シベリウスの演奏として名演奏であるかという点になると賛同することには躊躇してしまう。この演奏はシベリウスの当時の陥っていた苦境を、ケーゲル独自の世界観で解釈し音楽にしたという点においては非常に優れていると思う。
特に、一楽章の圧倒的な迫力と力強さ、そして第三楽章の人生への諦念と黄泉の国から響くかのような音色は、聴いていて重苦しく心を打つ。その一切の妥協のなさは深い慟哭とともに音楽を特徴付けている。強引に強い綱か何かに縛り付けられ、暗い海の底へと引きずりこまれるかのような錯覚さえ受ける。
演奏の音色の重心も当然低く、コントラバスやチェロのの響きの重さといったらこれ以上のものはないと思わせるほどだ。
奥座敷では『ケーゲル盤は、死の恐怖と生への葛藤という事をまさに実感させてくれる演奏』という誠に的を得た表現でこの演奏の特徴を見事に言い当てている。妥協のない演奏解釈は、捉えどころのないこの曲に、しっかりとした縁取りと輪郭を与えていると思う。
しかし、私はふと思うの。今まで4番の演奏を四つほど聴いてきた。そのどれも、どちらかというと、ここまで暗くはなく、希望というものを垣間見せてくれる演奏であったように思える。それぞれの組み立て方は違っても、曲のフレーズの中に硬質な煌きが垣間見えたものである。それは、シベリウスがこの時期に、深い嘆きと諦めの中にありながらも、また死の恐怖に抗いながらも、どこかに透明な希望を捨てていなかった気持ちの表れに思えるのだ。どんなに苦境の中にいても、ふと我に返って光をみることがある、そんなイメージを抱かせる。それは人間の心の襞の複雑さというものなのではなかろうか。
ケーゲルの演奏は、解釈の点において分かりやすく迫力があるものの、そのような襞や複雑さに欠ける気がするのである。
ここで改めてベルグルンド&ヨーロッパ室内管の演奏を聴きなおしてみたのであるが、演奏に込められた透明さは格別で、暗い色調を帯びているものの北欧の淡い光と影が、雲の中で交錯するような煌きを感じる。どちらかというと音楽とイメージが上から降ってくる感じだ。それに対し、ケーゲル盤は地の底から湧きあがるかのような暗黒を湛えている。この解釈の違いは大きい。
どちらの演奏を好むかといえば、シベリウス的には圧倒的にベルグルンド盤だと思う。ただ、機会があればケーゲル盤も聴いてみることはお奨めする。