ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 作品60 レニングラード
指揮:Herbert Kegel
演奏:Rundfunk-Sinfonieorchester Leipzig (MDR Sinfonieorchester)
録音:1972年 Kongreβhalle Leipzig Konzertmistschnitt
許光俊という評論家の影響か、ケーゲルという一般的には(そして独逸的にも世界的にも)あまり知名度の高くない指揮者が、日本の一部のファンの間では脚光を浴びている。
許氏曰く、
ついに、待望久しい超弩級の名演奏が日の目を見た。これほどまでに感情豊かに演奏された「レニングラード」は他にないだろう。(中略)こんなに身近で、人間的で、表情豊かで、楽しくて、悲しい、ロマンティックでセンチメンタルな音楽だったのだと。
そして、クラシックのイロハも分からないような私のような輩も、許氏とHMVに乗せられて盤を求めてしまっているというのが現実だろうか。私は定番さえ聴いたことがないというのに、ケーゲル盤について語ろうとしている。
さて、ゲルギエフ/ロッテルダム盤を聴いた後にケーゲル盤を聴くと、演奏の違いに若干驚かされる。ケーゲル盤は何と言っても、冒頭からして推進するエネルギーに満ち、それでいて軽やかで美しい。非常に素直な曲を聴いているようで、心洗われるような印象を受ける。この印象は、最後まで変わることがない。静かで強い推進力により曲はあっという間に進行するという印象だ。タコ7がちっとも長いと感じない。
全曲を通して表現の巾が広く、そして感情的だ。決してエモーショナル過ぎなエグイ演奏というわけではない。演奏解釈上は非常に正当なのではないだろうか。爆発する部分の表現も凄まじいが、弦や木管を中心とした旋律の部分の歌い方も、ときに哀しいほど明るく、そして、ずしりと重い。そこかしこに、ケーゲルの繊細さと誠実さが聴こえる音楽に仕上がっているように思える。
それは第一楽章のティンパニが鳴り始める「戦争の主題」に至る部分もそうだ。しかし、これが真の明るさなのか、表面的なものなのか。『酔っぱらいの千鳥足踊り』という許氏の表現は的確かもしれない。滑稽にして明るいだけに、カタストロフへ向うスピードと得体の知れない恐怖は、あたかも明るいお化け屋敷のようだ。許氏も指摘する13分以降のカタストロフには慄然とする。なんだろう、この凄さは。ゲルギエフ盤ではただ音量が大きいことで押しまくっていだけなのではなかろうかとさえ思える。ここにはただならぬものがある。何かが完全に崩れてしまった絶望と恐ろしいほどの悲しみがある。これは爆演という種類のものとは明かに異なった表現だ。演奏が凄いことも確かなのだが・・・。21分を過ぎるあたりからの弦による旋律も深く流れるようで心を打つ。そこかしこに、戦場に咲く花のような哀しい美しさや、瓦礫の中で聴こえる故郷のラジオのような懐かしさを覚える。なんとセンチメンタルな音楽であることか!
劇的な第一楽章と第四楽章にはさまれた、第ニ、三の両楽章も彫りの深い音楽になっている。特に第三楽章は、アダージョ楽章であるが、感情的にも複雑なものが込められているように感じる。特に私の好きなフルートソロの部分の静寂さと美しさは、どこか違う世界を夢見るかごときだ。感想が抽象的にして感傷的になるので、ここらあたりで留めるが、ケーゲルの音楽からは様々な風景や感情が沸き起こってくる。特に第三楽章のラスト2分の表現と懐の深さには目を見張る思いだ。よく聴くとケーゲルの唸り声が聞える。
第三楽章から最終楽章に向けては一気加勢だ。ゲルギエフ盤と比べるとこの楽章も4分も速い、スピード感を感じるのはそういうわけか。圧倒的なカタストロフと歓喜に向けての推進は、白馬に乗った騎士が髪をなびかせ駆け抜けるかのような颯爽ささえ感じる(<もう少しまともな表現ないのかね)。
クサイ比喩が出てしまうほどに、許氏も指摘するようにケーゲルの音楽は表情豊かだ。『ショスタコを一部のマニア向け作曲家』『やたらと暗い内向性の音楽』『石像かロボットかと思っていた音楽』というのも許氏がケーゲル盤以外に抱いている、ショスタコーヴィチの一般像であるらしいが、ケーゲル盤からは確かに違ったものを感じる。
当然、ここまで感極まった音楽のラストは素直に私は歓喜として捕らえる。そう、勝利の歓喜である。
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