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2006年7月21日金曜日

【音盤】NAXOS日本作曲家選輯/武満徹:鳥は星形の庭に降りる他

  1. 精霊の庭(1994)[14:40]
  2. ソリチュード・ソノール(1958)[6:23]
    3つの映画音楽(1994/95)
  3. 訓練と休憩の音楽-『ホゼー・トレス』より-[5:02]
  4. 葬送の音楽-『黒い雨』より-[5:10]
  5. ワルツ-『他人の顔』より-[2:20]  
  6. 夢の時(1981)[14:27]
  7. 鳥は星形の庭に降りる(1977)[13:44]
  • マリン・オールソップ(cond)、ボーンマスso.
  • 2005年1月;イギリス、プーレ、ライトハウス・コンサートホール
  • NAXOS 8557760J

NAXOSの日本作曲家選輯から武満徹の盤が発売されています。曲目には晩年の「精霊の庭」が入っていることや、映画音楽からの編曲も収録されていて大変に魅力的な構成です。

早速聴いてみましたが、オールソップ&ボーマンスso.のサウンドはクリアでかつ透明な響きといった印象。武満音楽の美しさを充分に表現していて聴きやすい仕上がりになっているようです。ただ個人的な好みからは、(うまく表現できないのですが)もう少し摩擦感といいますか、ひっかかりのようなものが欲しいところです。「ユニバーサル」な武満像という点では、こういう解釈が正統なのでしょうかね。

《3つの映画音楽》は、武満が手がけた映画音楽から作曲者自らがアレンジして組曲風にまとめたものとのこと。『黒い雨』は武満展で映画を観ている時は「暗いBGMだな」くらいにしか思いませんでしたが、音楽だけ聴いてみると極めて秀逸。『他人の顔』のワルツは諧謔性とデカダンな美しさに舌を巻きます。

演奏機会の少ない「ソリチュード・ソノール」も収録されているので武満ファンには必須な盤でしょう。

それにしても驚くのは(相変わらずの)片山杜秀氏の詳細にして緻密な解説。写真が挿入されているのは最初の頁だけ、下のような調子で11頁にも及ぶ解説はCDのそれを越えています。この解説を入手するだけでも、この盤の価値はあるかと・・・


かねてから敬愛していますおやぢの部屋2からトラックバックを受けました。そちらの解説の方が適切でございます。

2006年7月12日水曜日

東京藝術大学:モーツァルト管楽シリーズNo.2 高木綾子/モーツァルト:フルート協奏曲 K.313


高木さんの演奏の感想については、拙HPやブログでも何度も書いていながらにして、実演に接するのはこれが初めてです。


過大なる期待を持って演奏会に望んだのですが、聴き終わった後での感想といえば、完全に惚れ直したというのが正直なところ(ビジュアルぢゃなくて)。




まずステージに上がってきたところから既にオーラを発しています。モノが違うというのは、こういうことなのでしょう。淡いリラかラベンダーを思わせる色のドレスを颯爽と身に纏い、ステージ中央にスクと立った姿からは貫禄さえ感じます。


今年のモーツァルト・イヤーを含めて一体彼女は何回のモーツァルトを演奏しているのでしょう。ソロ活動中のパユがそうであったように、内心少々はウンザリ気味なのか、あるいは毎回気持ちを新たにできるものなのか、演奏者の表層的な内面は聴衆には分かる筈もありません。


オーケストラの前奏が始まると顔つきが一段と怜悧になり、伴奏を軽く口ずさみさえして音楽に没入していきます。その姿はスタート前のアスリートを思わせます。そして音楽に対する集中を一気に高めた後でのフルートの第一声。


��。何という音の掴みでしょう。そのビビッドさときたら、最初の出だしで一撃です。何度も聴きなれたフレーズがクイッとばかりに立ち上がる。生き生きとして快活で敏捷なモーツァルト。


彼女の演奏からは、野性とか高度な運動性能を感じることがあります。例えば、昨年発表したCDの武満徹の《海へ》。ここでも、動物的なカンとさえ思えるような印象の演奏が展開されます。他の武満像とは
少し(いや、かなり?)違う。今回のモーツァルトも学究的モーツァルト解釈の点からどうなのかは、私には全く分かりませんが、これほどにドキドキしながら聴いたモーツァルトも他にはないということも確か。


まるで黒豹を思わせるしなやかさを展開させながら、モーツァルトの世界をゆうゆうと突き抜けてゆく自在さ。1楽章最後のカデンツァは、もう息を呑むばかり。あまりに唖然。壮観、爽快、感歎。駆け抜ける音楽の至福。これがK.313なのか、いやこれこそがK313なのか。彼女の音色と残響だけが奏楽堂空間を満たしたときの音しか存在しない緊張と充実。この演奏を聴くだけでここに来た価値は充分にありました。


横で見守る金教授や藝大の関係者の方々は、どのような思いで彼女の演奏を聴いたのでしょう。カデンツァの最中に金教授がビオラの女性と目配せしているのが印象的でした。


高木さんのブログを読むと久しぶりに興奮した演奏若かりし頃の演奏に近くて、やりすぎたかなぁ~?と書かれていました。私のような聴衆(^^;;には受けは良かったと思いますよ(笑)。



ということで、予想以上の高木ショックのため、次なる高木綾子は8月27日、白寿ホールでの武満徹《ヴォイス》《海へ》に決定です。
(諸事情があって行きそびれました・・・激残念)


2006年7月5日水曜日

【音盤】高橋アキplays武満徹

  1. 閉じた眼
  2. ピアノ・ディスタンス
  3. 遮られない休息 I、II、III
  4. リタニ I.アダージョ II.レント・ミステリオーソ-アレグロ・コン・モート
  5. フォー・アウェイ
  6. 雨の樹 素描
  7. 雨の樹 素描 II
  8. 閉じた眼 II
  9. 2つのレント:アダージョ-エ・テンポ・ディ・リベロ、レント・ミステリオサメンテ
  10. ロマンス
  11. こどものためのピアノ小品 I.微風、II.雲
  12. ゴールデン・スランバー
  • 高橋アキ(p)
  • TOCE-13320

    ��月末に直島を訪れたことは以前書きました。そこで現代美術作品などに接したせいか、無性に武満徹を再び聴きたくなってしまいました。EMI ClASSICS 決定版1300に高橋アキさんのピアノ演奏を安価で入手できますので、早速聴いてみました。

    正直に言うならば、武満徹の音楽はいまだによく分かっていません。ですからこの盤に納められた「こどものためのピアノ小品」とか、おなじみのビートルズ・ナンバーを編曲した「ゴールデン・スランバー」などの、あまりゲンダイオンガクしていないメロディの中に、つい、自分にとっての武満の音楽的意味とか価値を見出そうとしてしまいます。武満は難解な曲も書いたけれど、一級のメロディメーカーだったんだなという一面的で独断な納得の仕方、武満もそんなにとっつきにくくないぢゃない、という偶像の民主化。

    武満の曲は「こどものための」だとか、スタンダードナンバーの編曲であっても、実は演奏するのが、かなり難しいのだそうです。でも、そういう難しさを全く感じさせずに曲はあまりにも美しい、美しすぎて哀しくなるくらいであります。ですから、武満の音楽に癒しを求めてしまうことも否定はできません。

    しかし、そういうアプローチしやすく親しみやすい武満像とは裏腹に、難解ながらも響きの豊穣さに浸りきったとき、音楽が琴線の深いところにハマる武満音楽というのもある。本盤の最初に納められている「閉じた眼」はルドンの絵を思い出さずとも、心の深いところに降りてゆくかのような静けさと、ある種の激しさに深い感銘を覚えます。比較的親しみやすい「雨の樹素描」は、たっぷりと水分を含んだ質量感のある大樹の豊穣さが脳裏に浮かびます。

    相場ひろさんはCD解説の中で、前衛音楽の先駆者であった武満と映画音楽などの分野で活躍した武満を「ふたりの武満徹」の相克として説明しています。かつては前衛時代の武満こそが本来の姿であるとして評価されていたが、現代においては武満の価値は一転しのだと。

    こんにち武満を聴き、愛好する人たちの多くにとって、かつてとは逆に彼は、前衛音楽に対する調性音楽の勝利を象徴する作曲家として理解されているようなところがありはしまいか。

    これを読んで一瞬はっとはしたものの、あまりに武満を理解する「型」に拘泥しすぎてはいないかとも思います。

    虚心に聴くならば、先にも書きましたように、ある瞬間に音楽が琴線を奮わせる。セリー理論だとか調性だとかの専門家しか理解できない音楽理論をゆうに飛び越えて、音楽の持つ得体の知れない力が人を捉えて放さなくしてしまう。そんな武満音楽の魅力を改めて思い知らされてくれる名盤であると思います。

2006年5月22日月曜日

【音盤】武満徹:ギター作品集成


武満氏はギターをこよなく愛したことで知られています。ここに納められたギター曲の数々を聴いていると、しみじみと心の奥底にまで、武満氏のメロディがじんわりと染み渡るのを感じることができます。

武満氏のメロディは、ことさら大声で感情を吐き出したり主張はしません。何かを感じ取るかのような感性の部分が大きい。彼の興味の対象が、水とか樹とか風や雨に象徴されるような自然的なものであったことは、曲の標題から推測できますが、彼の音楽が単なる自然描写に留まっているわけではありません。

本盤の解説で作曲家である細川俊夫氏が次のように書いています。

時々、むしょうに武満徹の音楽を聴きたくなる。その強い気持ちは、ちょうど都会生活に疲れて、森や海に行きたくなる衝動に似ている。自然にふれ合いたいという気持ちと、武満徹の音楽にふれたいという気持ちは、どこかで通じ合っている。

そして、武満氏の音楽の中に細川氏は自然のもつ見えない官能的な力を感じるとしています。

おおむね私もこの感覚には同意します。ただ「官能的」という言葉の印象ほどには武満氏の音楽はナマさが全くありません。地層を幾つも越えることで浄化された地下水にも似た、洗練と純化を繰り返したピュアさが際立っています。

ピュアさとともに魅力なのは、絶えず変化してとらえどころのない茫洋とした感じ、しかし底に秘められた整然とした構築感。ですから、武満の音楽は漫然と聴いていると何となく通り過ぎてしまう。あれ、これだけ?みたいな感じ。でも真摯に耳を傾けると、奥から違った声や響きが聴こえてくる。

この盤にあっては、それぞれの曲の良し悪しを語る必要はなさそうです。鈴木氏のギターは、独特のメロウさと柔らかさ、そして不思議なアンニュイさを漂わせつつ、限りなく美しい武満の音楽を歌いきっています。ただ静かに浸るのみで充分です。

2006年5月14日日曜日

【音盤】武満徹:A String around Autumn、Ceremonial/小澤&サイトウ・キネン


ア・ストリング・アラウンド・オータムはヴィオラを、セレモニアルは笙を伴った管弦楽曲です。1989年と1992年に発表された曲で、どちらも武満晩年の作であると同時に、どちらも「秋」をテーマにした曲となっています。セレモニアルは「秋に寄せ頌歌」という副題を持っています。初期の武満作品と比すと随分と聴きやすい音楽といえます。


ア・ストリング・アラウンド・オータムはヴィオラ独奏が前面に押し出され、非常にメロウでロマンティックな曲に仕上がっています。もはやヒーリング系音楽に近づいているかのようですが、良く聴くとそれぞれの音の響きは決して安易ではなく、ヴィオラとオーケストラの響きの反応と融合が実に見事です。


セレモニアルは日本楽器の笙を用いた曲ですが、これが用いられるのは曲の前半と後半のごく一部です。しかし笙の持つ暖かな音色は、この曲に独特の色彩を加えています。


最初はヴァイオリンのか細い、神経質な響きに導かれまて曲が始まります。この静寂と響きからは雅楽をイメージするかもしれません。この冒頭が独特の静けさや透明感、リリカルさといったものを音楽に付与しています。しばらくすると打楽器なども加わり音は重層的になりますが、それでも最初にイメージされた透明感は失われません。


挿入される笙の音色は、弦の響きとは対照的で一瞬の幻か夢のような印象を与えます。ゆったりと動く旋律線は、そよそよと野に揺れる薄をイメージするかもしれません。


90年代近くの武満氏の作品は、無調の現代音楽というよりは、音楽に旋律の流れが戻っているように聴こえます。とはいっても明確な物語性があるわけではなく、漂う響きの流れがより主体性を持ったという風に捉えることができます。あくまでも茫洋とした、とらえどころのなさは変わりありません。60年から70年の武満氏の音楽にこそ力があった、とする意見もありますが、私はやはり晩年の「聴き易い」作品の方が好きです。所詮、その程度の武満理解です。

2006年5月13日土曜日

【音盤】武満徹:弦楽のためのレクイエム/小澤&サイトウ・キネン


レクイエムとありますが、1955年に早世した作曲家・早坂文雄氏を追悼しつつ描いた曲とされています。あるいは当時武満氏は結核を患っており自らに対するレクイエムであったとする解説も目にしたことがあります。一方この曲で武満氏が特定の誰かを追悼するという意図はないとする文章も何かで読みました。


そういう事情はさておき、それであっても、この曲は限りなく哀しく、限りなく美しいことに驚かされます。


弦のみによって奏でられる響きは重く荘厳です。最初は美しい響きだけど何だか暗いなあくらいに思っていたのですが、何度か聴いていると曲の底に潜んでいる圧倒的な慟哭に気付かされます。声を上げて泣いているのではない、涙を流して泣いているのではない。そういう表層的な感情表出ではなく、心の深いところが存在を脅かされる恐怖とともに震えている。


しかしそれは、早坂氏追悼ということを知った上で想起された聴き手の感情かも知れず。そういう予備知識を抜きに聴いたとしても言い知れぬ深い哀しさは伝わってくるようです。


はじまりもおわりも定かではない、人間とこの世界をつらぬいている音の河の流れる部分を、偶然に取り出したものだと云ったら、この作品を端的にあかしたことになります。


と武満氏は東京交響楽団の機関誌に書きました。彼の音楽に対する考え方を示す意味で興味深い文章です。武満氏は「哀しみの感情」などを音楽に持ち込んだつもりなどなかったのかもしれません。音楽を聴く者は、いかようにでもして自らの文脈の中に当てはめずには理解できないのでしょうか、困ったものです。


この曲を評してストラヴィンスキーがこの音楽はじつに厳しい、まったく厳しいと語ったとされており、それが武満氏の評価を高めるきっかけになりました。「厳しい」というのをストラヴィンスキーがどのような意味と文脈で語ったのかは分かりません。この曲が一点の虚飾もない非常なる高みに到達していることだけは確かであると思います。

【音盤】武満徹:ノヴェンバー・ステップス/小澤&サイトウ・キネン

武満氏を代表する曲なので随分前に買って聴いてはみたものの、「なんぢゃこりゃ」てな感じで、当時は全く馴染めず、即お蔵入りした盤であります。武満氏の他の曲なども辛抱強く聴くことによって、ようやくこの曲にも慣れてきて、そうしますと曲の持つ特質とか美しさ、そして厳しさが朧気に浮かび上がってくるような気になってきました。

この曲は尺八や琵琶の音色が非常に特徴的ですし、それがオーケストラと掛け合う様も面白いのですが、圧巻は曲後半での、ほとんどカンデンツァと思われるほどの和楽器による独創部分でしょうか。朗々と響き渡る尺八の音色と、バチバチと硬質な音色で弾かれる琵琶は、ある種の懐かしささえ覚えます。自分が尺八奏者となって演奏していることを想像すると、曲の聴き方も変わってきます。結構これは気持ちいいことかもしれない、と。


武満氏は雅楽を聴いたときの驚きを以下のように記しています。


ふつう、音の振幅は横に流されやすいのですが、ここではそれが垂直に動いている。雅楽はいっさいの可測的な時間を阻み、定量的な試みのいっさいを拒んでいたのです。

 これは何だろうか、これが日本なのだろうかと思いましたが、問題はヨーロッパの音楽からすればそれが雑音であるということです。雑音でなければ異質な主張です。そうだとすると、ぼくという日本人がつくる音楽は、これを異質な雑音からちょっとだけ解き放って、もっと異様であるはずの今日の世界性のなかに、ちょっとした音の生け花のように組み上げられるかどうかということなのです。


確かにここには、日本の古典楽器の玄妙なる響きと緊張感があります。音楽は旋律を持って横に流れる事はなく、自律して存在します。決然とそして黙然と立ち上がってくる響きがあり、音の持つ存在感がそれだけで意味を語るかのようです。


音が自律して自己充足的である故に、音と対極にある無音、即ち沈黙も音楽の一部として、その姿を美しくさらすこととなります。それはあたかも、日本画の何も書かれていない地空間のような。何もないことによる美の表現。


音の旋律線と多彩なパレットによって塗り重ねられ説明されるのとは全く違った有り様。これは極めて日本的風景であるとともに、一方で至極イノセントな世界観であると感じます。その日本というローカルな意味を超えたところにあるイノセントさゆえに武満徹は世界性を獲得したと言えるのでしょうか。ここらあたりは、まだよく分かりません。

2006年5月4日木曜日

【音盤】武満徹:環礁ほか/外山雄三&都響

  1. 地平線のドーリア(1966)
  2. ソプラノとオーケストラのための「環礁」(1962)
  3. 鳥は星型の庭に降りる(1977)
  4. 群島S.-21人の操車のための(1994)
  5. 弦楽器のためのコロナⅡ(1962)
  • 指揮:外山雄三 東京交響楽団 浜田理恵(S)
  • 1997年8月31日~9月4日 東京芸術劇場
  • DENON COCO70775

ここには武満徹の初期から晩年までのオーケストラ作品が収められています。しかし、武満氏の初期から中期、すなわち60年から70年代の実験的な作品群は、何度聴いても簡単に馴染めるものではありません。

いつだったか、家で映画「2001年宇宙の旅」を見ていたとき、モノリスが現れると奏でられるリゲティの音楽(《レクイエム》《アトモスフェール》)を聴いて家人曰く、「こういう耳障りで、人の気持ちをかきむしるような音楽を好きという人とは、お友達になれないわね」と。しばし絶句した私でありましたが、このアルバムでの武満徹もその類の音楽と言えないこともありません。

地平線のドーリア》に武満氏自らがプログラム・ノオトを書いています。

旋律ではなくハーモニック・ピッチ(Harmonic pitch)という考え方、リズムではなくプルセーション(Pulsation)という考えかた。新しいポリフォニーを試みる最初のデッサン。

ここに現れる音の濃淡、輪郭の融解、茫洋とした音世界、弦の特殊技法を多用した抽象的音パレットによる混沌は、たゆとうようでいて静かに流れ、しかしどこにも向かわない霧のようです。定位しない音楽は言葉にできない不安を呼び覚ましますが、しかしある瞬間に和的な響きやら美しさの片鱗が見えたりします。冒頭のハーモニック・ピッチへ回帰したときには、やっと懐かしさを覚えます。

しかし、この題名ばかりが有名な曲であっても、漠然と聴きながせば、耳に届くのは耳障りで不快な不協和音の連続でしかなく、「音楽以前」と評する人がいたとしても、その人の感性の方が正しいと思うほうが一般的な感想かもしれません。

環礁》は跳躍するソプラノパートを伴う難曲です。声楽を伴い詩を歌うからといって、武満氏の曲が親しみやすくなるということはありません。大岡信氏の詩はシュールで、文学的素養のない私には、さっぱり理解できません。浜田理恵氏のソプラノ肉声は武満氏の響きと融合可能なギリギリの一線を保っており潔いです。

と、書いて気付きました。武満氏の音楽には肉感的生々しさ、感情のストレートな奔流などが全く似合いません。音は響きそのものとして研ぎ澄まされ、武満が彫拓したかのような純粋性を持っています。彼にとって作曲とは、自然を含めたインスピレーションの中から、何かコアとなるものを聴き取り、美的な「かたち」へとつくりかえる行為であったのでしょうか。

旋律線を有さない曖昧さは、西欧ロマン主義的な音楽のあり方から、確かに自由となっています。しかし、その獲得された自由さが、場合によっては時代の足かせであり、時に古臭さを感じてしまうことも否めません。実験的、デッサン、であったことが、音楽史以上の意味を現代に与えうるのか、あるいは彼の音楽が「日本的なるもの」を考える上で今でも有効であるのか。

鳥は星形の庭に降りる》などは、まさに彼が夢で見たイメージを曲にしたものです。題名ほどには親しみやすい曲ではありませんが、1970年代後半にあって前衛的というよりは、かなり調性を意識した作品であると感じます。

それが1994年の《群島S.》となると、さらに響きが変わってきていて聴き易くなっていることに気付きます。ここではおのおのの楽器の音色と響きが相互に絡み合い、そして全体的な融和と表情の豊かさを聴くことができます。相変わらず能動的で意味的な旋律線は認められませんが、このアルバム中では唯一、武満的ロマンをストレートに感じ取ることの出来る作品かもしれません。逆に60年から70年の鋭利な武満音楽を好む人には迂遠されるものかもしれません。

アルバム最後は図形楽譜を用いた《弦楽のためのコロナⅡ》です。極めて実験的な作品なのでしょうが、1分半程度の曲ですぐに終わってしまいます。無調の不協和のテンションがこれからどこに向かうのだろうか、と思ったところで、曲は何の解決もなく終わってしまいます。今まで延々と不協和を聴かされた耳には、ちょっと物足りない程。

ということで、この音盤の感想も、何のまとめも結論もなしで、おしまいにすることとします。

2006年5月1日月曜日

武満徹展に行って、映画「黒い雨」を観る

東京オペラシティアートギャラリーで開催されている「武満徹-Visons in Time」展に行ってきました。会場に着いたら、今村昌平監督の「黒い雨」(1989)が丁度これから上映されるとのこと。途中で出ても良いらしく、ついでだから観てやるかと軽い気持ちで席に座ったところ、これが結構面白くて結局最後まで観てしまいました。
武満展なんだから、音楽について書くべきなんでしょうが、映画に集中しちゃって、不安気な雰囲気を誘う音楽ということ以外、あんまり音楽のことは覚えていない。ラストの音楽もどんなだったかしら?
映画は井伏鱒二の小説の映画化なので原爆被災者を扱っていて重い。しかし家族の崩壊の様子とか、お互いの傷を認め合うことによって芽生えた救いの愛とか、そういうテーマ性に感動するよりも、川又昂撮影による映像に圧倒されっぱなしでした。1989年の作品なのですが、よくぞこういう農村風景とそこに生きる人達の姿を撮りきったものです。(農村風景ということでは、濱谷浩氏の「裏日本」なんかを思い出します)
かつては存在した農村的共同体や農村的風景が、嫌になるほどのリアリティを持っています。
映画を観ながら、かつての日本から失われたものが、ここに描かれた家族たちのささやかな幸せだけではないことを否応にも気付かせてくれます。
演技的には、清楚な雰囲気を出し切った田中好子に好感が持てると同時に、叔父夫婦を演じた北村和夫と市原悦子が抜群の味。特にコンプレックスを背負った生き方をしている市原演ずる妻が何とも哀れ。そういう形でしか自己実現ができなかった時代であったのだと。いや、それは今の時代も一緒でしょうか。

武満徹展のことも何か書かなくちゃならないでしょうね。武満氏の楽譜とか抽象画とかが展示されていて、それなりに楽しめました。特に楽譜は、図形楽譜でない普通のものであっても、それ自体がアートとして成立しています。近代建築を代表するコルビジェの図面をふと連想してしまいます。
また武満氏が好んだアーティストの作品も展示してあるので、武満ファンは満足することでしょう。私は熱烈なファンではないし、前日に本展示の公式ガイドブックを池袋ジュンンク堂でしっかり眺めていたので、展示内容に意外性はありませんでした。
それでも展示空間的にも武満氏の几帳面さとイノセントさが際立っていて良い雰囲気です。ただ武満氏の音楽を延々と流しながら抽象的なビデオを流している展示とかは、私には馴染めません。そもそも私は抽象が苦手ですし、畢竟根っからの武満ファンには、なれそうもないのなあと感じる展示内容でもありました。

2006年4月29日土曜日

【音盤】武満徹:森のなかで/庄村清志

荘村清志/武満徹へのオマージュ
  1. 森のなかで(1995)ギターのための3つの小品
  2. Over the Rainbow、Yesterday、The Last Waltz、Secret Love、What a Friend、Londonderry Air
  3. 海へ(1981)アルト・フルートとギターのための
  4. エア(1996)フルートのための
  5. 不良少年(1961/1993)2台のギターのための
  • 荘村 清志(g)、田部井辰(g)、 金 昌国(fl)
  • TOCE-9463

武満氏1995年の作品に《森の中で》と題する三つのピアノ曲があります。タイトルはWainscot Pond-after a painting by Cornelia Foss、Rosedale、Muir Woodsとされており、それぞれが北米の美しい森を有する地名です。

最初に配されたWainscot Pondについて武満氏は下記のような文章を書いています。

ウェインスコット・ポンド-Wainscot Pond-を、実は、私は未だ訪れたことがない。それがアメリカの何処にあるのかも知らない。友人から送られてきた絵葉書に印刷された美しい風景画の下に、小さな活字で、Wainscot Pondとあった。池の向こうに、私には、沈黙する森が見えた。

武満氏は、風景や他の芸術作品から多くのイマジネーションを得て、それを作品に昇華しました。この3分半ほどの小品も、極めてイマジネティブで静かな黙考や響きとともに、中間部では気のせいか憧れのような、いや慈しみのような感情をも聴き取ることができます。1995年といえば武満氏は既に癌と宣告され闘病中の身でした。その闘病生活の小康状態の中で描かれた曲であると考えると、曲のあまりの静けさと美しさに打たれてしまい、言葉になりません。

芸術新潮5月号で、友人であった作曲家ルーカス・フォスから送られた、その絵葉書が掲載されています(下図~無断転載)。大胆にも空が画面の上2/3を占めた構図。今にも雨の降りそうな寂寥とした雰囲気でありながらも荒涼とはしていない静謐な風景が描かれています。「沈黙する森」、池の向こうの森に武満氏は何を想ったのでしょう。そこには芳醇な世界が存在したのでしょうか、あるいは自らが行くべき世界を見たのでしょうか。

2006年4月28日金曜日

【音盤】武満徹のギターのためのスタンダードソング

荘村清志/武満徹へのオマージュ
  1. 森のなかで(1995)ギターのための3つの小品
  2. Over the Rainbow、Yesterday、The Last Waltz、Secret Love、What a Friend、Londonderry Air
  3. 海へ(1981)アルト・フルートとギターのための
  4. エア(1996)フルートのための
  5. 不良少年(1961/1993)2台のギターのための
  • 荘村 清志(g)、田部井辰(g)、 金 昌国(fl)
  • TOCE-9463

アルバム2番目に納められている6つのギター曲は、ラスト・ワルツを除き《ギターのための12の歌》(1974/77)からとられたものです。どれもが耳に聴きなじみのあるスタンダードソング。しかし武満さんの編曲にかかってしまうと、美しいメロディがひときわ引き立ちます。それでいて音楽が決して前に出てきて主張することはありません。静かに間や余韻を楽しむかのように、音楽は響き渡ります。 

ビートルズ・ナンバーも良いですが、この6曲の中では賛美歌としても親しまれている《What a Friend》がとてもいいカンジ。曲については解説することさえ野暮と思えるほど。そっとした囁きや優しさに満ち溢れていて、ほんとうに思わず何度繰り返して聴いてしまいます。

武満さんが、一流のメロディーメーカーであったことはよく知られいまが、カラオケのようなものは嫌いであったとか。それでいながら、意外にも演歌とか流行歌には驚くほど詳しくて、散歩しながら口ずさむこともあったとか、何かで読んだことがあります。

私はギターという楽器が好きです。そして、自分のよろこびのためにこの「12の歌」を編曲したのですと語る一方で、ギタリストたちの固定した風景にもうひとつの窓から別の風景を開きたいと考えたと武満さんは語っています。本当に、心から「音楽」が好きな方だったのだなと、改めて思います。

2006年4月27日木曜日

芸術新潮の武満特集がうれしくて、不良少年に涙する



帰宅途上に書店に立ち寄ったら、「芸術新潮」が「はじめての武満徹」と題する特集をしている。何故に「芸術新潮」が武満なんだ?と訝りながら紙面をめくったところ、東京オペラシティアートギャラリーで開催されている「武満徹-Visions in Time」展にちなんだ特集であるらしく。本誌の内容も「武満徹(以下TT)がいる」「TTをきく」「TTをみる」「TTをうたう」「TTをたべる」「TTをまとめる」とコンパクトで多角的な企画。表紙の和田誠のイラストがまた懐かしくとてもイイ感じ。

武満徹は未だに私には縁遠い作曲家なのだが、アタマの痛さも忘れて何だかワクワク。立ち読みをするのももったいない気がして早速に購入。帰宅してパラパラと写真を眺めるにつけ、武満ってのは音楽家を越えた「ひとつの時代」であったのだなあと、根拠もなく思う。たいして聴いてもいないのに、ぜんぜん親しんでもいないのに、武満徹の周辺のことを知るだけで、多少スノッブ臭いところはあるけれど、どうして優しい気持ちにななるのだろう。ヒーリングという軽いものではないのに、どうして癒されてしまうのだろう。

iTunesで取り込んでおいた「不良少年」を荘村さんのギターで繰り返し聴く。本作品は羽仁進監督の同名の映画(1961)で使われた音楽、どんな映画なのかは不勉強にして知らない。3分40秒の短い曲だが、音楽にはとがったところが、どこにもない。心の深いところに、じんわりとしみわたる。あんまり何度も聴いていると泣けてくる。

以下はテキトウに描いたもの。

2006年4月21日金曜日

【音盤】武満徹:ピアノ作品集/藤井一興

  1. 雨の樹素描(1982)
  2. 閉じた眼(1979)
  3. フォー・アウェイ(1973)
  4. ピアノ・ディスタンス(1961)
  5. 遮られない休息(1952/59)
  6. 2つのレント(1950)
  • 藤井一興(p)
  • フォンテック FOCD-3202

1950年の処女作「2つのレント」から1982年の「雨の樹素描」までの武満のピアノ曲を集めたもの。Tower Recorodで「今なら半額」というのに、ついつられて購入、iPodに入れて何度も聴いています。しかし武満の曲は何気に流して聴くということを許容しません。じっくりと耳を澄まさなければ、何も残らずに通り過ぎてしまいます。

例えば1950年の「2つのレント」という曲。武満の処女作にしながら「音楽以前」と当時の批評家(山根銀二氏)から酷評を受けたと言う作品。Adagioは、冒頭のくぐもった靄のかかったような低音のトーンが支配的な曲。自分がどこに居るのか定まらない不安定な気持ちになりながらも、何かを確かめるような感じ。続くLento misteriosamenteは、もう少し音が容をなしている。逆にメロディー的なものが解体されて響きとして再構築されてしまったと言う方が適切か。彼の音楽に感じられる時空間の広がり、饒舌とは反対の色彩の豊かさは、この処女作にして充分に感じることができます。

今こうして聴いてもかなり実験的な音楽として聴こえます。でも決して「音楽以前」などという稚拙な独りよがりな音楽ではありません。

一方で有名な「雨の樹素描」の美しさは特筆もの。自然と人間を超えた叡智に抱かれるかのようなイメージ。ピアノを通した水滴の表現はあまりに見事。ピアノの音の粒立ちがキラキラと煌いています。音楽というよりも音そのものが連なり、重なり、変化する様。それゆえに、響きは夢幻のイメージをかきたてます。たった2分43秒の演奏に身も心も洗われるかのよう、しかし決して安易なヒーリングではありません。

瀧口修造の追悼作である「閉じた眼」も、上記と同じような路線にある曲のような印象。ただ「雨の樹素描」よりは激しい。しかし、それとて、あからさまな、あるいは象徴的意味での感情表現ではない、聴いていて、ひたすらに純粋な響きのみが支配してゆく峻厳さに身を任せるのみ。

ここに納められた曲は、どれもが瞑想的というか、自分の内部へ、あるいは何かにじっと耳を澄ませることで聴こえてくる音楽のようです。一音一音を確かめながら、どこか空間から音を紡いで織り上がったような作品群。武満独特の色彩に彩られた繊細さと豊穣さ。先にも書いたように、作品に真摯に耳を傾けなければ音楽の囁きに気付くことはありません。こういう曲を聴いていると、俗世間のザワザワしさが莫迦らしくなってしまいますね。

2005年8月5日金曜日

【音盤】工藤重典/武満徹:海へⅢ

いやあ本当に暑いですね、21時に外に出ても電光掲示板は33度とか示しています。こちらに来てそれなりの暑さにも驚かなくなりましたし身体も慣れましたが、それでも夜に30度を越えるのはつらい。

思わずプールにでも飛び込んでしまいたくなりますが、そうも出来ないので工藤重典さんの武満徹を取り出して聴いています。



工藤重典/「巡り」~武満徹没後5年特別企画
  • ①そして、それが風であることを知った ②巡り ③マスク ④海へⅢ ⑤エア
  • 工藤重典(fl) 岩佐和弘(fl) 川本嘉子(va)、篠崎史子(hp) 
  • 2000年11月8~10日 那須野が原ハーモニーホール(栃木県) 
  • SONY SRCR2585

で、またしても「海へⅢ」なんですね。新ネタはないのかと思うでしょうが、まあご容赦を。

高木さん、ガロア、そして工藤さんと聴き比べてみますと、2001年に書いたレビュの通り工藤さんの音色は暖かです。尺八のような音色さえ出していたガロアとも違い、身体を包むような生暖かさを伴っていてます、自己主張するような演奏スタイルではありません、流れるか浸るかのような心地よさ。それゆえガンガンに効いた空調とは違った自然な心地よさと涼しさを感じます。反面、曲の優雅さが前面に出ていていますからスリリングさは薄い、武満的難解さも隠蔽されている。

考えてみるとガロアの三つの演奏は、よく練られた演奏なのだなと思います(それぞれ印象が違いましたし)。また高木さんのアプローチも捨てがたいなと。

2005年7月23日土曜日

【音盤】ガロア/武満徹:海へⅡ、Ⅲ

Takemitsu:I Hear The Water Dreaming
④Toward the SeaⅡ ⑥Toward the SeaⅢ
Patric Gallois(fl) Fabrice Pierre(hp) Goran Sollscher(g) BBS so. 9/1999 London Warehouse Deutsche Grammophon 453 459-2

先日書いたようにガロアのアルバムには三つのバージョンの「海へ」が納められています。この構成を「しつこい」と思う人もいるかも知れませんが、私は興味深く三つの違うバージョンを楽しんでいます。

「海へⅡ」ハープと弦楽合奏による演奏ですが、これがなかなかいいんですね。弦が加わることでアンサンブルの美しさが加わり曲も重層的に深みを増したように聴こえます。響きも三つのバージョンの中では一番「現代音楽的」に聴こえるかもしれません。もっとも耳障りな音はどこにもなく美しく抒情的な音楽に仕上がっています。ハープも弦との伴奏の中でしっかりと存在感を主張しており、アルト・フルートと三位一体で音楽を作っているという感じです。ガロアの木管による抑えれた音色は弦の音色とも良く合っています。Cape Codなどは圧巻で舌を巻いてしまいます、こんなに美しくてよいのだろうかと疑問が沸くほどです。

「海へⅢ」はハープとの演奏ですが、「海へⅡ」の後に聴くと驚くほど新鮮に聴こえるから不思議です。歌舞伎の始まりは浅黄幕を切って落としますが、弦がない響きはそのくらい劇的な効果を生んでいます。弦がない分フルートとハープの役割は相対的に高まるのですが、その効果がこんなに鮮やかに曲のイメージの違いとして現れるとは。ギターとハープの音色の違いも微妙で、どちらにも味わいがあります。強いて言うとハープとの共演の方が、お互いにぶつかり合うような「強さ」を感じます、意外とハープは骨太なのですね。「海へⅡ」のデッサンのようでありながら、しかし曲としては別物。完成度が極めて高く曲の輪郭も際立っています。

かようにして聴いてみるとⅠからⅢまで通すことで面白さがみつかるのだなあと思えます。

2005年7月20日水曜日

ガロア/武満徹:海へⅠ

武満徹の「海へ」は全てアルト・フルートの曲ですが、伴奏によってギターとのⅠ、ハープと弦楽合奏のⅡ(1981)、そしてハープとのⅢ(1989)の三つのバージョンがあります。一番多く演奏されるのはⅠとⅢだと思いますが、このガロアのアルバムには全てのバージョンが納められていてお得です。

Takemitsu:I Hear The Water Dreaming
    ①I Hear The Water Dreaming ②Toward the SeaⅠ ③Le Fils des etolies ④Toward the SeaⅡ ⑤And Then I Knew 'twas Wind ⑥Toward the SeaⅢ ⑦Air
  • Patric Gallois(fl) Fabrice Pierre(hp) Goran Sollscher(g) BBS so.
  • 9/1999 London Warehouse
  • Deutsche Grammophon 453 459-2


ガロアが吹くのはChris Abellの木管フルート。最初の出だしから絶妙に抑制された音色が、モノトーンな武満の世界を提示してくれます。意図的なのか「尺八」的な表現も聴こえてきますから、先に聴いた高木綾子さんの「海へⅠ」よりも余程日本的な湿度を伴った演奏に聴こえるから不思議です。落ち着いていながらにしてスリリング、変に煽るようなところは全くない深い演奏です。

高木さんの演奏は、以前も書いたように音色表現の幅は広いものの、エネルギーレベルも高く挑みかかるようなチャレンジングな演奏です。それゆえに「人間と対峙する孤独な鯨」というような印象を受けます。一方でガロアの演奏は木管フルートというせいもあるのか、自制(自省)的で「対峙」や「闘争」はありません。ひたすらどこかに潜行する巨体が想像できるだけです。どちらも表現としてはありかなと思いますが。

武満はこの作品をメルヴィルの「白鯨」から次の言葉を引用して説明しています。

Let the most absent-minded of men be plunged in his deepest reveries...and he will infallibly lead you to water...Yes, as everyone knows,meditation and water are wedded together.

spiritual domainとか言われても実際のところは「なんのこっちゃ?」という感じなのですが、ガロアの「海へⅠ」を聴いていると、自分の深い部分と対話しているようで落ち着いた気分にさせてくれます。その意味からは私にとって非常に貴重な一枚です。

ちなみにガロアが木管フルートに興味を持ったのは武満徹のノヴェンバー・ステップスに影響を受けてのことだそうです。

2005年7月15日金曜日

高木綾子/武満徹:海へⅠ

高木さんのアルバムを何度かに分けて紹介していながら、アルバムタイトルとなっている武満徹の「海へⅠ」をスルーしてしまうのも気になりますので簡単に感想を書いておきましょう。 


アルトフルートとギターのためのこの作品は、1981年に作曲されグリーンピースの「Save the Whales」のキャンペーンに寄贈された作品で、「Es、E、A」(=Sea)の三つの音を旋律動機としている三楽章形式の曲です。それぞれが「夜」「白鯨」「鯨岬」と題されていて、どれもが神秘的で深い味わいを持った曲です。聴くたびに母なる海を悠々と泳ぐ鯨を想像させてくれ、近づき難いイメージのある武満作品の中でも、数あるフルート作品の中でも私の好きな曲の一つです。

アルトフルートの少し低い音や、フラッタータンギングやフルートの特殊奏法を駆使した音楽は、静かで深い感銘を与えてくれます。高木さんは表現の幅が広いようで、ピアニッシモの弱音から限界に近いフォルテッシモまで幅広くある意味で芯のある音できかせてくれています。息も良く続くなあというくらいに、音色を変化させながら音を引き伸ばしたりする様はさすがかなと。ちょっとドキドキするような展開だったりします。

ただ、ヘッドフォンなどで音量を大きくして聴きますと、ピアニッシモの際に聴こえるホイッスルトーンのような音とか、どうしても入ってしまうブレス音が少々気にならないわけではありません。随分と奏者に近い位置にマイクをセッティングしているようです。

それでもこのアルバムの中にあっては、意欲的な演奏で高木さんの別の魅力に触れることができると思います。生で聴いてみたいものですね。

高木綾子 福田進一/海へ
⑥海へ(武満徹)
高木綾子(fl) 福田進一(g) 2004年6月18~20日 スイス、ベインウィル修道院 コロムビア COCQ84000

2005年6月29日水曜日

高木綾子 福田進一/海へ

梅雨だと言うのに暑いですね、今日は35度にもなったのですとか。外に出ると熱風が全身を包みます。うんざりしながら涼を求めて新宿のHMVに入ったら、高木綾子さんの新譜が発売されていましたので思わず手に取りました。何と福田進一さんとのデュオではないですか。



ジャケットも梅雨時期なので最初は白カビが生えているのかと思ったのですが、水滴のついたガラス越のポートレートだと気付きました、とてもスィテキ(素敵)です。

さて内容ですが、ピアソラや武満徹の有名曲をはじめ、ボザやイベールなどのフルート関係者にはお馴染みの作曲家の曲や、アルゼンチンのギタリスト兼作曲家のブホール、カンヌ生まれの名ジャズ・ピアニスト、作曲家、指揮者であるボーリングの曲なども交えて楽しめるアルバムになっています。ありきたりの選曲でないところが、うれしいです。

高木綾子 福田進一/海へ
    ①ブエノス・アイレスの雲(ブホール) ②タンゴの歴史(ピアソラ) ③子守歌とセレナード(ボザ) ④イストワールより金の亀の番人、ガラスの鳥籠 (イベール) ⑤間奏曲(イベール) ⑥海へ(武満徹) ⑦ハバネラ形式の小品(ラヴェル) ⑧古き良き時代ノカンドンベ(ブホール) ⑨アイルランドの女(ボーリング)
  • 高木綾子(fl) 福田進一(g)
  • 2004年6月18~20日 スイス、ベインウィル修道院
  • コロムビア COCQ84000


高木さんのフルートは、実は生で聴いたことがないのですが、CDを通して聴く限りにおいては、独特の抵抗感のある音色に特徴があり魅力になっています。特に低音での迫力は、音楽だけを聴いているとジャケ写真のような女性が演奏しているとは思えないかもしれません。このアルバムでも、最初の曲から、歌声で言うなら「ちょっとハスキー」な感じの音色でグイグイと迫ってきます。

しかし、ここが誤解を招くと思うところなのですが、CDをヘッドフォンを通して聴くのと、ホール空間で聴くのでは全く異なったものであると思いますので、実際がどうなのかは、いつか補正しなくてはならないと思っています。

曲はどれもが良いですね、「タンゴの歴史」や「海へ」はもちろんですが、「ブエノス・アイレスの雲」や「子守唄とセレナード」などの、のびやかでゆったりとした曲も聴きこたえがあります。疲れた体が「ああ、海にでも行きてーな」と叫び始めます。いくつかの曲は楽譜でも入手して練習してみようかな、という気にさせてくれます(ボザとかボーリングとか)。

ギターの福田さんも絶妙な音色で聴かせてくれています、まさに余裕、貫禄といったものまで感じますね。福田さんの「タンゴの歴史」といえば工藤重典さんとのアルバムも実家にあるはずなので、いつか聴き比べて見ます。個々の曲の感想を書くには疲れすぎているので、これにて。

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2004年9月13日月曜日

札響ホルン奏者のブログ

つらつらとブログを巡回しておりましたら、札幌交響楽団のホルン奏者である橋本さんのブログをみつけました(こちらWaltzforDB)。ブログタイトルもなかなかふるっています。

演奏者がブログで身辺のこととか、裏話的なことを語ってくれることは楽しみなものです。もっとも個人のサイトとはいえ、演奏者は半ば公人でありますから、あからさまなコメントはしずらいと思います。橋本さんのブログは、更新頻度もまだそんなに多くはありませんが、北国の音楽情報など、ごゆるりとエントリーされてくださるとうれしいな・・・と。


そういえば、札響は10月17日にサントリーで東京公演がありますが(武満徹/弦楽オーケストラのための「死と再生」・マーラー/交響曲第6番 イ短調「悲劇的」 ) 武満とマラ6だと・・・しんどそう・・・



2003年4月20日日曜日

【音盤】NAXOS 日本作曲家選輯 「武満 徹」


そして、それが風であることを知った 他
  1. そして、それが風であることを知った(フルート、ヴィオラとハープのための) 
  2. 雨の樹(3人の打楽器奏者のための) 海へ(アルト・フルートとギターのための) 
  3. プライス(フルート、2台のハープ、マリンバと打楽器のための) 
  4. 巡り~イサム・ノグチの追憶に(フルート独奏のための) 
  5. ヴォイス(声)(フルート独奏のための) エア(フルート独奏のたえめの) 
  6. 雨の呪文(フルート、クラリネット、ハープ、ピアノとヴァイブラフォンのための)  
  • ニュー・ミュージック・コンサーツ・アンサンブル  
  • ロバート・エイトケン(フルート) /NAXIOS
NAXOSの日本作曲家選輯から武満徹が発売された。フルーティストはロバート・エイトケン。解説によればエイトケンは武満徹を深く尊敬し、二度にわたり武満をカナダに招待しているとか。このCDに収められた曲は、彼らが武満から直接指導を受け、彼のために演奏したものとののこと。収録曲は武満のフルート作品を知るには格好の曲ばかりである。
 
武満の音楽を語ることは難しい。彼の音楽は沈黙と静寂さの中に、限りない色彩と饒舌さを秘めた音楽のように思えるからだ。一聴してモノトーンな演奏からは、煌くような多彩な色彩のハーモニーを感じる瞬間さえある。それが武満の抑制された表現に全く背反しないということ、これは表現において驚くべきことだと思うのだ。このようなモノトーンの生み出す色彩感覚故に、彼の音楽は日本的な情緒、例えば後期の狩野探幽のような雰囲気さえも漂わせる。武満の音楽から能を思わせるという解釈もあるが、哀しいかな、私は能に接したことがないので分からない(>こういうの日本人としてマズイよな(^^;;)
 
また武満は、水、空気など捉えどころのないモノを音楽のテーマとして求めたようにも思える。流れ変遷し同じ形をとることはないのだが一貫してあるもの、そういうことさえ感じさせるのが彼の音楽だ。


残念ながら私は、不勉強にして武満の音楽にそれほど親しんでいるわけではない。またエイトケン(右写真)というフルーティストやトロントで活動するパーカッション・アンサンブルのNEXUSという存在も初耳であった。武満を敬愛する演奏家たちが奏でる武満の音楽。ぐたぐた言わなくても聴くと分かる、武満の曲は美しい。しばし日常の雑事を忘れて聴き入るのも悪くない。