ラベル 三浦展 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 三浦展 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2007年9月29日土曜日

【本棚】三浦展:下流社会 第2章 なぜ男は女に“負けた"のか


「下流」という言葉と「下流」の定義において格差社会の論調に対し火に油を注いだ(P.230)と筆者自らが書く前作(→レビュ)は相当売れたようで、本書はその続編。三浦氏の統計の扱いや論理に関する批判は、ネット上に山のように溢れています。本人も確信犯的に統計を用いて自論を展開*1)していますから、それを前提とした上で読む方が良いと思います。

ある種の「いい加減さ」や「うさんくささ」を割り引いて読んだにしても、三浦氏が何を書きたかったのか、いまひとつ判然としません。前書は意欲、能力が低いのが「下流」(前P.6)と明確に定義したところが斬新でした。今回は副題にあるとおりなぜ男は女に“負けた"のかです。しかし読んでみると、その点の言及はいまひとつ。男性が最近女性に比べて弱くなってきたとは感じますが、男性社会と女性社会の優位性に関する問題は上流・下流の問題ではないと思います。

正社員率が高いSPA!男、フリーター系のSMART男(P.39)とか下流は「反中」「反韓」「反米」、非正社員はスポーツイベント(P.157)などの言い切りは、それが実際は間違っていたとしても一人歩きしがちです。世の中の感覚に何となく合致していると、あたかも時代を切り取った真実のように思われがちです。ここの分かりやすさが、三浦氏が指示される理由のひとつなんでしょうが、表層的過ぎます。

概してアマゾンやブログでの評は三浦氏に批判的で、「下流を罵倒している」との感想も散見されます。私も本書は評価しません。彼の分析は「下流の消費行動」や「購読パターン」から「下流」をステロタイプ化しているに過ぎないように思えます。それが一体何なのかと。「下流」と定義された人たちへのメッセージもない。「地域限定社員」ということを提唱していますが、付け足しとお詫びみたいに感じます。

それにしても、何故「下流本」がかくも売れるのでしょう。これは、自分を安全圏において「他人の不幸または失敗を眺めることから喜びを得る」、すなわちシャーデンフロイデ(Schadenfreude)と呼ばれる情動*2)によるものなのでしょうか。あるいは、自ら「下流」と自認する人たちが自らを再確認し自己強化する行為なのか。だとすると巷の下流本は問題提起という体裁を取りながら、エンタテイメントでありヒーリングに堕しているのかもしれません。これ程に格差論が盛んな割には、政策や企業活動*3)の具体的対応が見えてきませんし。

さて、三浦氏関連のネットでの感想を斜め読みしているさなか、そんな「安全圏」*4)に対して痛烈な批判を浴びせている文章が目に止まりました。随分前から有名になっていた、いわゆる「赤木論考」(→「丸山眞男」をひっぱたきたい続「『丸山眞男』を ひっぱたきたい」 )です。標記論考*5)については、それこそ識者を含め多くの言及と批判がなされているようです。それを参照した上で三浦氏の本を考えますと、洞察の甘さと初めに結論ありきのようないい加減さが目に付いてしまうのも否めません。

  1. 三浦氏は「あとがき」で以下のように書いている。
    『下流社会』に対するいくつかの批判に、引用しているデータのサンプル数が少ないことがある。そんなことは百も承知であるが、まあ、私も分析のプロだから、サンプル数が少なくても、さほど間違った分析はしないつもりだ。

    「サンプル数は少なくても思っている結論に結びつける」でしょうか。

  2. たまたま9月29日の日経新聞コラム「モードの方程式」(中野香織)を読んでいて、ああ、これもそういうことなんだと合点した次第。ちなみに、Schadenfreudeに対して「シャーデンフロイデをおぼえたことを深く悔いる」という意味のグラウケンシュトゥック(Glauckensuck)という新語もあるそうな。
  3. 10月1日からは、企業が労働者を募集・採用する際に年齢制限を設けることを原則禁止する改正雇用対策法が施行される。中高年や30歳を超えた年長フリーターなどの就職機会を広げる狙いがあるといわれる。また、トヨタなどは、ようやく全従業員に占める非正社員の割合を30%以下とするような目標を設定した。バブル後遺症で新卒採用を絞り込んだため社員年齢カーブが歪なものとなり、企業活動に支障が出ることを痛切に経営的危機と感じる企業は、登用や中途採用を含め柔軟な人事プログラムを策定する可能性がる。しかしそれが「非正社員」とひとくくりにされる全ての人に朗報であるとは思えない。ここでも「勝ち負け」は生ずるはずだ。
  4. 最初「絶対安全圏」と書いて、「安全圏」に書き替えた。考えてみるまでもなく、今の位置が今後ずっと続く保障=「絶対安全圏」などありえない。そう考えると、自分がいつ「赤木氏」にならないとも限らないのだ。だとしても、ではあるが。
  5. 赤木氏の主張は、フリーターは機会どころか人間的尊厳さえ奪われており、再チャレンジなどできない。今の正社員は「たまたま」正社員になっているだけで彼らの努力とは全く無縁だ。自分たちが這い上がれないならば、中流が下がって来いと。すなわち社会を流動化させるためには戦争さえ辞さない、いや「戦争こそが希望」であると説くものである。戦争になれば東大卒で政治思想犯とされた丸山眞男の横っ面を、中学にも進んでいないであろう一等兵が引っ叩くことも可能なのだと。

2005年10月28日金曜日

【本棚】ユメ見るオヤジ?

先に紹介した三浦展氏の「下流社会」を読んでから、iioさんのclassicaで紹介されている「オヤジ国憲法でいこう!」(しりあがり寿+祖父江慎著/理論社)についてのエントリを読むと、なるほどなと思ってしまいます。(>読んではいないし読まないだろうが)



iioさんは最後にこれってだれが読む本なんだろと書きますが、それは、外見上はとっくに「オヤジ」世代になっているのに、未だに若者の考え方を根っこに引きずっている人が、「諦め」を得るために読む本なんだろうなと。特に個性の件は、(私は余り好きではありませんが)養老孟司氏の著書でも指摘されている通なのかなと想像。


三浦氏は先の本で、「個性」「自分らしさ」というものは高度成長期の団塊世代が実現しようとした上昇志向にマッチングしたものであったが、その子供である団塊ジュニア世代においては、逆に「自分らしさ」を求めるがあまり社会的に自立しにくい下流意識の若者(ニートとかフリーター)を生み出したとする指摘は、あまりにストレートすぎる故に胡散臭さを感じるものの、首肯してしまいたい論理ではあります。


「オヤジ」世代においてもフリーターみたいな夢や妄想を抱いている人もいないわけではなく、朝のケイザイシンブンに愚劣な性愛小説が載る時代ですから、こんな本が書かれる理由も(>繰り返すが読んでない)あるのかもしれません。

【本棚】三浦展:「下流社会 新たな階層集団の出現」

三浦展氏による、最近の階層化社会に関する指摘を総括するような本です。三浦氏はパルコなどで長くマーケティング活動を行ってきた人ですので、最近の階層化についても年代別・性別のセグメンテーションを行い、それぞれのセグメントについて様々な角度から嗜好や結婚観、消費行動、価値観などの変化を示すことで現在の日本、特に最近の若者の姿を炙り出すことに成功しています。

「あとがき」で三浦氏も書いているように、本書に示されたデータはサンプル数が少なく、統計学的にも優位性に乏しい(P.283)とは思いますが、それでも昨今の時代雰囲気を見事に数字で見せている点、秀逸といえましょうか。逆に時代雰囲気に合うようにデータを選択したという批判もあるかもしれませんが、そんなことをしても何の得にもなりませんから、ここは素直に数字を読み取る方が良いのでしょう。

本書の末尾には「下流社会」を考えるためとして、最近の国内文献リストがずらりと並んでいます。そのほとんどが2001年以降に書かれた本で、21世紀の日本は新たな階層化社会の入口(あるいは岐路)にさしかかっていることを改めて感じさせます。

本書の「はじめに」三浦氏は、

単にものの所有という点から見ると下流が絶対的に貧しいわけではない。では「下流」には何が足りないのか。それは意欲である。中流であることに対する意欲のない人、そして中流から降りる人、あるいは落ちる人、それが「下流」だ。(P.6)

と「下流」を定義します。ここに氏独特の対象に対するアプローチの仕方が現れているようです。マーケティングは「割切り」と「規定」や「線引き」が重要で、ファジーで曖昧な要素とは余り馴染まないものなのかもしれない、などと余計なことを考えてしまいました。

三浦氏が本書で延々と説明している内容を読みながら、読者は自分がどこにカテゴライズされているかを知り、そこで規定されたセグメントの性格と自分考えや価値観に一致や不一致を見出すことになります。私の場合は広義の「新人類世代」にあたりますが、そのものズバリであったり違う世代の価値観を有していたりと、まあイロイロでした。

自分のことはさておき、本書で面白いのは団塊世代と団塊ジュニア世代を比較した場合の価値観の逆転現象(あるいは崩壊)ですが、日本を今のような姿に内面的にも外面的にもしてしまったのは、おそらくは団塊世代に一因があり、たとえば

団塊ジュニア女性の子供が成人したとき、今まさに拡大している格差がさらに拡大し、固定化し、階層社会の現実をまざまざと見せつけられることになるのではないかと懸念される(第7章 「下流」の性格、食生活、教育観 P.235)

と発する警告は、いまを生きている私たちが将来を規定するという意味において、三浦氏の論理を受け入れると拒否するとに関わらず、軽んじて受け止めるべき問題ではないと思います。

もっとも、「おわりに-下流社会を防ぐための「機会悪平等」」の章は、一気に論理を飛躍させており、ちょっといただけないと思うのですが、これは三浦氏ひとつの思考パターンなんでしょうか。

2004年9月15日水曜日

【本棚】三浦展:「ファスト風土化する日本」


いつも楽しませてもらっている「k-tanakaの映画的箱庭」で紹介のあった『ファスト風土化する日本~郊外化とその病理』(三浦展:洋泉社新書)を読んでみました。「ファスト風土」とは「ファストフード」にかけた造語だそうです。言っていることの大筋に間違いはなく、いちいち同感できるのですが、新たな知見と驚きは得られませんでした。

三浦展氏はパルコ情報誌「アクロス」の編集長や三菱総研の主任研究員などを経て「カルチャースタディーズ研究所」というシンクタンクを設立されている方。共著の『「東京」の侵略』(パルコ出版)などは、80年代後半のパルコなどに象徴される消費文化や都市動向について言及したものであったと記憶しています。筋金入りのサブカルチャーおよび都市・消費文明の専門家という認識。

当時「パルコ」は衝撃的な店舗でした。渋谷における西武の開発手法は、地方のお手本のようにもてはやされた時期が懐かしいです。三浦氏も指摘するように、西武は渋谷公園通り周辺に「街づくり」的手法を持ち込み、街路空間を若者に魅力あるものとすることに成功しました。そこにおいては品物以上に、街を訪れる人と都市空間相互の関係性が重視されていたように思えます。雑誌「アクロス」はそういう都市風景から生まれていたはずです。

ですから、周りを圧倒して存在する巨大戦艦のごときジャスコを率いるイオングループが『街をつくるという気持ちがないのではないだろうか』(第三章 ジャスコ文明と流動化する地域社会 P.96)と三浦氏が指摘するのも分からないでもありません。しかし、地方にはジャスコが、スターバックスが必要なのだということは、多くの情報発信源でかつ地方の情報さえ消費しつくす巨大都市に住んでいる人には分からない感覚かもしれません。

大型ショッピングで思い出すのはアメリカの巨大施設です(行ったことはない)。ジョン・ジャーディー(Jon Jerde)という商業施設デザイナーが手がけているものも、ほとんどは巨大モールです。日本の商業施設も、かつてのマイカルをはじめ最近話題の施設開発者である電通や森ビルさえ、莫迦のひとつ覚えのようにジョン・ジャーディーに商業施設をまかせています。イオンはそんな無駄使いをしないだけ利口なんでしょうか(笑)。

発想は東京も地方も同じ、地方は東京への渇望からイオングループに活路を見出さざるを得ない、苦渋の選択があるだけです。永遠の二流意識からくる劣等感と歪んだ自意識ですね。その東京おいてさえ、という感じなんですが。

データを随所に掲示し理論武装し田園都市論や日本の郊外化の弊害などを述べているのですが性急で牽強付会の感があります。結論は「均質化した日本の郊外化が消費文明を増長し、さらにはコミュニティーや歴史性の崩壊によりもたらされる様々な病理」を指摘し、社会を「コミュニケーション」と「コミットメント」で再生しようというものなのですが、先から書いているように問題の根は地方にはないのではというのが私の感想です。

だから、最近の凶悪犯罪のあるところが郊外であり『犯行現場の近くにはなぜかジャスコがある』(P.66)というのも刺激的なコピーだと思いますが、ジャスコに象徴される変化と犯罪の因果関係は「ニワトリと卵」のようなもののであって、大事な前提条件が抜けていないかと思うのです。

また、彼は地方において『目標も意欲もなく、適当に働き、テレビを見て、漫画を読んで、ゲームをして、買い物をしてるだけの、たいへん視野の狭い消費人間』(P.183)を生み出しているのだという主張も、なんだかなという感じです。

田園で働くわけでもなく、工場で働くわけでもない。都会のビジネスマンのように、オフィスでハードワークするわけでもない。公共事業に依存し、公共事業がなくなれば失業保険で暮らす。でも、家も自動車も何でもあり、ついでに無職のパラサイトの息子の一人は二人を抱えている。彼らはもう働く意欲がない。楽をして、適当に暮らすことしか考えない。(第六章 階層化の波と地方の衰退 P.178)

最後に彼がひとつの理想としてあげる「吉祥寺」や「高円寺」「下北沢」なのですから、やれやれです。いえ、言っていることは納得しますよ。でもねえ・・・