2011年9月25日日曜日

企画展「アーヴィング・ペンと三宅一生 Visual Dialogue」展

2011/09/25 企画展「アーヴィング・ペンと三宅一生 Visual Dialogue」展



  • 開催概要
展覧会ポスター
(写真上)「Poppy: Glowing Embers」、ニューヨーク、1968年
(下)「Flower Pleats (Issey Miyake Design)」、ニューヨーク、1990年
Photographs copyright by The Irving Penn Foundation


21_21 DESIGN SIGHTは9月16日より、企画展「アーヴィング・ペンと三宅一生 Visual Dialogue」展を開催します。本展は二人の視覚的対話によって生み出された創造に焦点を当てるものです。

アーヴィング・ペン(1917年 - 2009年)はファッション、ポートレート、静物写真などを手がけた、20世紀後半を代表する伝説的な写真家です。ペンと三宅一生の最初の接点は、1983年の『ヴォーグ』誌編集ページで初めてペンがISSEY MIYAKEの服を撮影したことでした。「こんな見方ができるのか」と驚いた三宅は、その後パリコレクションで発表してきた服の撮影を依頼しました。87年春夏コレクションから99年の秋冬コレクションまで13年間にわたり年2回の撮影がニューヨークで行われ、この間三宅は一度も撮影に立ち会うことなく、ペンにすべてを任せ、それぞれのクリエーションを介した「Visual Dialogue(視覚的対話)」が交わされたのです。撮影された写真は250点を超え、その一部はポスター、写真集、展覧会と、さまざまなかたちで発表されました。

本展では、二人の創作活動のプロセスに一貫して関わった北村みどりのディレクションのもと、これらの表現を集大成し、二人の視覚的対話による創造の軌跡をたどることで、新たな表現を生み出す想像力と恊働のありかたについて考えます。
会場構成は世界的に活躍する建築家の坂 茂。超高精細プロジェクターによる写真の大画面投影や、マイケル・クロフォードの原画とパスカル・ルランによるアニメーションの上映のほか、田中一光デザインのポスターが初めて一堂に会します。また、ペン自らの手による貴重なオリジナルプリントや撮影用スケッチも特別公開します。




展覧会名:
企画展「アーヴィング・ペンと三宅一生 Visual Dialogue」展
会期:
2011年9月16日(金) - 2012年4月8日(日)
時間:
11:00 - 20:00(入場は19:30まで)
休館日:
火曜日(11月1日3月20日は開館)、12月27日- 1月3日
入場料:
一般¥1,000、大学生¥800、中高生¥500 小学生以下無料
(すべて税込、15名以上は各料金から200円割引)
会場:
21_21 DESIGN SIGHT(東京ミッドタウン・ガーデン内)
〒107-0052 東京都港区赤坂9-7-6
tel. 03-3475-2121
アクセス:
都営地下鉄大江戸線・東京メトロ日比谷線「六本木」駅、千代田線「乃木坂」駅より徒歩5分

主催:
21_21 DESIGN SIGHT、公益財団法人 三宅一生デザイン文化財団
特別協力:
アーヴィング・ペン財団
後援:
経済産業省、東京都、港区
助成:
駐日アメリカ合衆国大使館
特別協賛:
三井不動産株式会社
協賛:
セーレン株式会社、A-net Inc.、ISSEY MIYAKE INC.
協力:
キヤノン株式会社、キヤノンマーケティングジャパン株式会社、
アルテック、マックスレイ株式会社、株式会社 オプティカルソリューションズ
(順不同)

展覧会ディレクター:  北村みどり
ドローイング:  マイケル・クロフォード
アニメーション:  パスカル・ルラン
展示ポスターデザイン:  田中一光
会場構成:  坂 茂
グラフィックデザイン:  佐藤 卓
コーディネーション(U.S.):  金井 純

ツァッブ夫妻展

カリグラフィー
タイポグラフィー
フォント
Palatino
西麻生 ギャラリー ル・ベイン







2011年9月20日火曜日

クラシックジャーナル マーラーを究める

クラシックジャーナル マーラーを究める

久しぶりに買ったクラ本だが、瑣末な差異や話題をことさら大げさに論じたり、きわめて主観的にな感想を、あたかも作曲家の考えを代弁するかのような幻想を含め、究極のヲタ本である。

この内容についていけるか、拒絶をするか。

こういう話題を続けているから、クラシックはドン詰まりなのだと思わされる。

好きな人にはたまらないのではあろうけども、客観的に読んでどうかと考えると、とても価値に値しないのではないかと。

どこか、気持ちの悪さを感じるのは、思い入れが過剰に強すぎるせいか。

それでも久しぶりにマーラーやブルックナーの断章を聴かざるを得なかったのは、性(さが)というものでありましょうか。