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2006年1月11日水曜日

ゲルギエフ指揮:マリンスキー劇場管 ワーグナー「指環」演奏会形式


��日はゲルギエフ指揮マリンスキー劇場管によるワーグナー「指環」の演奏会形式版を所沢で聴いてきました。


    ワーグナー 舞台祭典劇「ニーベルングの指環」より

  1. ヴァルハラ城への神々の入場~「ラインの黄金」より
  2. ヴァルキューレの騎行~「ヴァルキューレ」より
  3. 魔の炎の音楽~「ヴァルキューレ」より
  4. 森のささやき~「ジークフリート」より
  5. 「ヴァルキューレ」第1幕,全曲(演奏会形式)


  • ジークムント:アレクセイ・ステブリアンコ(T)
  • ジークリンデ:ムラーダ・フドレイ(S)
  • フンディンク:ゲンナジー・ベズズベンコフ(Bs)

行く前は「演奏会形式」ですし随分迷ったのですが、当日券(1階18列20)を開演5分前に購入、結局聴いてしまいました。結果的には満足のゆく充実した演奏会であったと思います。




まず、演奏曲目が「指揮者の強い要望により」上記に変更されたとのアナウンス。知名度の点からは「ヴァルキューレの騎行」ははずせないのだろう、とは思いましたが、前半はちょっと雑駁な印象。


いきなり「ラインの黄金」の「ヴァルハラ城への神々の入場」から聴きはじめるのは、どうしたって違和感、無理がある。「ラインの黄金」を演奏するならば、「指環」全体を象徴するかのような前奏曲ははずして欲しくないなあ、などと勝手なことを考えながら聴いてしまいます。二曲目から「騎行」を聴かされるのもツライ、まだそんな気分ではない。


歌が入らない演奏なのも、主人の居ない(あるいは眠り薬で眠らせている)家にお邪魔しているような感じで、どうも居心地が悪い。それはヴァルキューレでも同じで、彼女たちの奇声が聴こえない騎行は興醒めでシンバルの連打も白々しい。しかも勇壮な金管の彷徨が耳に馴染まない、というか何か変。タンギングの付点リズムはそういう音符でしたっけ?と疑問に感じながら、煮え切らない気持ちで聴き続けます。「魔の炎の音楽」もしかり、アタマの中でヴォータンやらブリュンヒルデの歌声を補間して聴いてしまいます。


もっともこれは、勝手な私の感想であって、演奏自体は悪くない、というか音の厚さの点でさすがと思わせます。楽団員が舞台に上がってきた時の印象は「でかいな」というものでしたし、低弦や金管の音量も十分。ゲルギエフは指揮台を設置しない平場で、タクトを持って精力的に指揮していました。そういえば、演奏前のチューング音のバラバラさは、結構印象的でしたね。そこにこのオケの自由奔放さとイキの良さの片鱗を聴いたのですが、実際はどうなんでしょう。


休憩をはさんでの「ヴァルキューレ」第1幕は、予想外の大満足といったところ。前奏曲の嵐とそこを逃げるジークフリートを象徴するかのような音楽から、ズイズイと演奏に引き込まれます。


ジークムント役のステブリアンコは、どう見てもジークムントには無理のある体型ですが、(チクルスではジークムントは別の人)声の張りは若々しく素晴らしい。またジークリンデのムラーダ・フドレイ は美貌と美声を兼ね備えた歌手。歌声もホールの隅々まで通り申し分なし、声質も魅力的です。


この二人が自らを告白しあい、愛に目覚めてワーグナー的「ふたりだけ」の世界に没入してゆくさまは見事で、演奏会形式ではあったものの、十分に楽しめるものでした。オケと歌手の音量バランスもよく、音楽が高まっても歌声が聴こえなくなるということは全くなし。眩暈のしそうな音楽を作り上げています。一体この演奏にどういう演出をしているのか興味はつきませんが、演奏会形式ですと曲そのものを堪能することができます。


この段になると、ゲルギエフがどうとか、金管のあれがどう、とか言うのは野暮なことです。ラストに向けての迫力や盛り上がりは素晴らしく、どこまでも駆け上るめくるめく感興と圧倒的な迫力で幕となったときには、思わず「うむ!」と訳の分からないコトバを発してしまいました。


ただし、オペラの実演には接したことのない私ですから、この演奏が「オペラ演奏的」あるいは「ワーグナー演奏的」見地から評した場合どうか、ということについては、全く述べることができません。基本的には、あまりクセや官能に重きをおかない、といって機械的過ぎることもなく、適度に感覚を刺激しながらストレートにふけ上がる性能の良いエンジンという感じですかね(>かえって分からねーよ)。


第1幕だけで終わったのは、演奏が満足いくものでしたから、物足りなくもあり、フドレイが膝を突いて観客に挨拶する仕草を観ているだけで、「あ"~、オペラ観てー」という気は強くなったことだけは確かです。

2006年1月10日火曜日

三連休最後の衝動的行動>ゲルギエッ!

今まで本屋というと池袋東武百貨店の旭屋書店ばかりに行っていたのですが、昨年の店内改装で本の品揃えが少なくなったような気がしています(感覚的比較)。たまたまコンビニで「男の書斎」みたいな定期的に書店に並ぶ雑誌をパラパラとめくっていたところ、池袋にジュンク堂という本屋があり、思想関係の本が充実していると知り、さっそく行ってみました。

行く前は『池袋の西口だし、せいぜいが建坪も小さいビルの中に入っている専門書主体の本屋だろう・・・』などと勝手に想像していたのですが、着いてビックリです。な、なんてこった! 1階から9階までジャンル別に豊富な本が揃っているではないですかっ!

しかも窓際には椅子とテーブルが設置してあって、慣れた方は数冊まとめて机に積んでお勉強なさっている。歌舞伎関連コーナー(9階)も充実していて、開架部分では京橋図書館よりも蔵書は多いか。丸の内オアゾ内の丸善よりも、たぶん多いような気がします(感覚的比較)。

ビジネス書や人気の本のある階の椅子に座っている方は全く動きそうもないので、仕方なく比較的すいている9階に移って「モーツァルト最後の年」(H.C.ロビンズ・ランドン)を座り読み、ああ満足。今度から開店と同時に来て椅子を確保しようっと(>するなって)

満足したところで、さてと時計を見たら14時前。う~んと考え、えいやっ!と思い切り、14時5分の西武池袋線に飛び乗り航空公園へ。お目当ては所沢市民文化センターでのゲルギエフ&マリンスキー歌劇場管弦楽団の演奏会(ワーグナー「指環」演奏会形式)。当日券が残っていることは確認していたので、行けば何とかなると思っての行動。結果は、まあ満足でありました(^_^)。感想はそのうち気が向きましたらアップします。

衝動買いならぬ、衝動聴きだな・・・(><) それにしても、当日券も余っているし、席も8割程度(感覚的判断)の入りというのは、プログラムの問題もありますが、ちとサビシイか。眼鏡を持っていなかったので、字幕を追うのがしんどかったです。




2005年4月1日金曜日

ゲルギエフ&ウィーン/チャイコフスキー:交響曲第4番

4月になってしまいましたね。今年は昨年よりも寒いせいか、桜はまだのようです。来週半ばが見ごろでしょうか。そうは言っても、固い蕾も少しずつ開いてきましたから、今日はアタマを少し開く意味で、ゲルギエフのチャイ4などを聴いてみました。

それにしても、今時チャイ4だけでCD1枚作るなんて・・・不経済ですわな。


  • ヴァレリー・ゲルギエフ指揮 ウィーンpo
  • 2002年10月 ウィーン ムジークフェラインザール Live PHILIPS 475 6316(輸入版)

随分前に発売されていた、ウィーン・フィルとのライブ録音です。以前はゲルギエフといえば日本盤が出たらすぐに飛びつくように買っていたのですが、この頃はまあ輸入盤が出てからでもよいか、という程度になってしまいました。ゲルギエフが嫌いになったというわけではないのですが、余りに人気が出過ぎましたから、そんなに熱くなるのも大人気ないかな、といったところです。

それでも通して聴いてみますと、流石といいますか、ゲルギエフの奏でるチャイコフスキーはよく統制されていて、なかなかに上手いなあと感じます。

チャイコフスキーの4番というのは、ある意味で身も蓋もないような音楽です。こんなにあからさまに感情を表出してしまって、恥ずかしくないのだろうか、と思うところがないわけでもありません。そんなこの曲を、ゲルギエフは、感情を全開にしてグイグイとひっぱていくような野暮なことは、実はしていません。

この演奏に荒々しさや猛々しさ、ロシア的土臭さを求め、ある意味で莫迦騒ぎのようなカタストロフを期待するならば、おそらく聴く人は肩透かしをくらうのではないでしょうか。確かに冒頭のホルンやトロンボーンの強奏を聴くと、ただごとならぬ爆演を期待してしまいますし、どこまでも底の知れないウィーンpoのメンバーが、ゴリゴリと音を出しているのを聴くと、凄いなあとは思うのですが、チャイコフスキーの詩情とか叙情も上手く表現していて、音楽的には振幅のゆったりと大きな、悠然とした演奏になっているように思えます。

音楽全体を支配する、大きな波というか、うねりが感じられ、そこにストーリー性を見出すような感じに仕上がっているようです。また、今回の白眉は3楽章でしょうかね。弦のピチカートは大地さえ粒立つかのような重々しさと強さが溢れており、その強さのままに木管までもがシンクロし、第4楽章の狂騒を予兆するかのような演奏は、なかなかです。また、中間部のメロディーはチャイコフスキーがバレエ音楽作家であったことを思い出させてくれます。そのまま踊れそうな楽しさを味わえます、ここもマリインスキーを率いて長いゲルギエフならではでしょうか。

第4楽章は「狂騒」と書きましたが、これも脳天気なお祭り騒ぎにはなってはいません。下品にもならず、過激にもならず、ウィーン的優雅ささえも湛えながら、この「身も蓋もない」音楽を語ってくれます。今回のゲルギエフに落胆する人は、ここをもっとガンガンやって欲しかったのでしょうか。テンポは結構速めですし、ラストに向けての煽り方も結構凄いですし、オケ全体が強奏した後のムジクフェラインが数十センチほど振動してたのではないかと思わせるほどの音塊も聴くことができるのですがね。

私は、久しぶりにゲルギエフとチャイコフスキーの音楽を楽しむことができましたが、評価は分かれる音楽かもしれませんし、ある種類の方には全く興味の沸かない音楽かもしれません。

2004年3月15日月曜日

【音盤】ゲルギエフ/ショスタコーヴィチ交響曲第5番

  1. ショスタコーヴィチ:交響曲第5番
  2. ショスタコーヴィチ:交響曲第9番
  • 2002年6月30日(第5番)、5月14日(第9番)

ゲルギエフのショスタコーヴィチ交響曲第5番を聴いてみました。日本語盤の解説は宇野功芳氏です。例によって絶賛の嵐ですが、さて私の聴いた感想といたしましては・・・

ゲルギエフは昨年7番が話題でしたが、今回はポピュラーな5番と比較的マイナーな9番のカップリングです。ゲルギエフは何度も書いていますが、私の好きな指揮者の一人ではあるのですが、昨年の日本公演でのマーラー(3番)にしても、話題と言われたショスタコービチの7番の録音にしても、今ひとつ心琴に触れるところまではいかなかったというのが正直な感想でした。

ゲルギエフの持ち味の一つであった粗々しさというものも、商業的な芸風として扱われるフシもありましたし、もしかしたらゲルギエフの真髄は、風評とは別のところにあるのではないかと考えたりもしていました。

そういう意味から、ショスタコの5番は期待と不安を錯綜させながら聴く事になったのですが、実はこれはなかなか言葉に表すことのできない素晴らしい演奏に仕上がっており、久しぶりに満足ができました。

私がCD評のお手本とするClassical CD Information & Reviewsでは以下のように書いています。

いずれも演奏も技術と表現の両面において完成度が高く聴き応え十分の名演といいうるものですが,私のようにこれまでこのコンビが聴かせてきた荒々しさやざらつきのようなものを求める向きからすると,物足りなさを感じてしまうかもしれません。

私は逆にそうは感じませんでした。荒々しさやざらつき というものは、もしかしたら彼の持ち味ではないのではないかとさえ、今回の演奏で思ったのです。

ショスタコの5番としては、演奏的な解釈はオーソドックスのように思えるのですが、1楽章冒頭からフィナーレまで、表現力の多彩さ、そして音楽的なふくらみと包容力はかつてないほどのように思えます。テンポは全体的にゆっくりに感じますが、重要な部分では大胆なアゴーギグをかけたりもしています。打楽器や金管楽器の迫力、それに低弦のパワフルな刻みなど、曲全体に驚くべきの生命力を与えているようです。

しかし、一番驚いたのは。第2楽章の最後のオーボエ・ソロの部分のスローテンポでも、脳天を叩き潰すかのような打楽器の強打を伴ったフィナーレでもなく、第3楽章の恐ろしいまでのヴァオリンのpppをバックに奏でられるメロディでした。この演奏では時間さえもが引き延ばされ、銀色に輝く一本の糸から真珠のような数々の想いがハラハラと零れ落ちるかのような、あるいは音楽が分解され再構築されてゆくかのような感じを覚えました。演奏は非常に丁寧ですし音楽的な効果を計算しつくしているように思えます。

日本語盤の解説は例によって宇野功芳ですが、彼の言う「格調高い悲劇」ということは、今ひとつ理解できませんでしたが、ゲルギエフの表現力の多彩さを聴くという意味からは満足の行く盤でした。

2003年11月23日日曜日

【ゲルギエフを聴く】

今となっては押しも押されぬ指揮者の一人となりましたが、初めてCDでチャイコフスキーの交響曲第5番を聴いたときの衝撃は忘れられません。それ以来注目の指揮者の一人です。

演奏会の感想

CDレビュ

その他

NHK音楽祭 ゲルギエフのマーラー交響曲第3番

日時:2003年11月22日 14:00~
場所:NHKホール
指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
合唱:キーロフ歌劇場合唱団

マーラー:交響曲第3番 ニ短調)

コンサートにのぞむにあたって、あるいはマーラーの交響曲第3番という異常に長い演奏に接するにあたって、私は余りに精神的にも肉体的にも疲れていたかもしれない。結果から言ってしまうと、ゲルギエフという贔屓の指揮者の演奏であったにも関わらず、演奏から得るものは必ずしも多くはなかった。演奏を聴きながら「このまま終わってしまうのか」と半ば諦めと虚しさを感じていた。

マーラーの交響曲第3番は合唱を伴う大曲であり、テーマも死を連想させる要素は薄く、冬を押しのけた夏の勝利、夢のような矛盾、甘美さと目も眩む様な壮大な境地にまで高まった神の愛さえ感じる曲だ。合唱が登場するのは第4、5楽章、時間にして十数分である。しかしピンポイントで入るソロや少年合唱は、この曲を際立たせており、そうしたことで得られる最終楽章の美しさは、何ものにも変えがたいものがある。ティンパニーの強打とともに締めくくられるラストでは、大きな感動に包まれるはずであったのだが・・・。では、今回の演奏に何が不足していたのかと思い出そうとするのだが、それを適確に表現することは難しい。

第一楽章冒頭のホルンのテーマの吹奏は、音量的にもはっとするほどのものであったし、音響的重心の低さと分厚さは、オケの実力を十分に感じさせるものであった。NHKホールで、あれほどの音を聴けるとは思っていなかっただけに驚きとともに期待は高まった。

ゲルギエフの演奏なだけあって表現の巾は広いし、分厚い音響に支えられた音楽は聴き応えは十分、甘美で優雅な旋律も悪くはなかったと思う。しかし、結局のところ複雑で矛盾に満ちたマーラーという雰囲気はあまり感じることができず、全体的な表現としてストレートすぎるようにも感じられた。

演奏を聴きながら、ゲルギエフのマーラー観というものは、いったいどうというものなのだろうかと自問していた。バーンスタインやテンシュテットの演奏だけがマーラーではないことも認める。バーンスタインの印象を私は引きずりすぎていると思うときもある。いや、ちょっと待てだ。そもそも、私のマーラー観とは何なのか。この演奏が良いとか気に食わないというほどに、私はマーラーを聴き込んでいるわけでも、マーラーに通じているわけでもないではないか。

それでも、私の拙い音楽経験の中で築かれたマーラー像と今回のマーラー演奏の間に微妙なズレがあり、それを私は認容することができなかったということなのだろうか。音量が大きければ感興が得られるというものでもないわけだ。

個人的には注目の演奏会であったが残念な結果であった。クラシックBBSで有名な「クラシック招き猫」の「音の余韻館」も覗いてみたが、わずか1名の方の書き込みしかなかった。今回のゲルギエフ来日の目玉がキーロフオペラにあったとしても淋しい限りではある。

2003年11月15日土曜日

PMF2004にゲルギエフ登場  

「モーストリー・クラシック」のサイトを見ていたら、来年のPMFにゲルギエフが登場するらしい。以下は、同HPから引用。

個人的にゲルギエフは嫌いではないが、PMFにゲルギエフが適切なのか、資金面から疑問を感じるのは私だけか。人気の指揮者を招待して、クラシックファンの裾野を広げようという意図なのかもしれないが、PMFというのは、本来的には一発もののイベントではなく、もっと地道な活動のように思えたのだが。

いずれにしても、札幌にいない間にゲルギエフが札幌に1ヶ月近く滞在するというのは、穏やかな気持ちになれないことだけは確かだ。

●札幌で毎夏開かれている教育音楽祭「PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)2004」の記者会見が14日、東京都内のホテルで行われた。会見には、PMFの前田龍一常務理事、PMF首席教授・芸術主幹を務めるウィーン・フィルの首席クラリネット奏者ペーター・シュミードル、そして、来年の首席指揮者を務めることになった指揮者のワレリー・ゲルギエフらが顔を揃えた。
●PMFは1990年、指揮者で作曲家の故レナード・バーンスタインの提唱でスタート。教育音楽祭としては、米国のタングルウッド、ドイツのシュレスヴィヒ・ホルシュタイン音楽祭と肩を並べる存在に成長した。来年は7月10日から8月4日まで行われ、オーケストラコース、コンポジションコースの教育が行われ、オーケストラ演奏会、教授陣による演奏会、ミニ・コンサートなど40公演の開催が予定されている。
●オーケストラコースでは、ワレリー・ゲルギエフの指揮、ニコライ・ズナイダーのヴァイオリンによるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィッチの交響曲第11番「1905年」をはじめ、ファビオ・ルイージによるマーラーの交響曲第6番「悲劇的」、チエン・ウェンピン指揮によるバルトーク「中国の不思議な役人」、リヒャルト・シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」などのプログラムが組まれている。
●会見でシュミードルは、「PMFは来年で15年目を迎えますが、常に新しいことを取り入れていくことが大事だと思っています。これからも世界的にビッグな指揮者を招く努力をしていきたい」と語った。一方、ゲルギエフは「PMFの発足前から、バーンスタインからこの素晴らしい計画のことを聞いていました。若い人に教えるだけでなく、彼らから学ぶことも多く、若い学生と新しい体験ができるのを楽しみにしています」と語った。

2003年9月3日水曜日

【音盤】ゲルギエフ/ショスタコーヴィチ交響曲第7番


ショスタコーヴィチ 交響曲第7番 作品60 レニングラード
指揮:ゲルギエフ 演奏:キーロフ歌劇場管&ロッテルダム・フィル 録音:2003年 Live Recording ロッテルダムのデ・ドゥーレン
ショスタコーヴィチの交響曲第7番について、どのような背景の音楽として考えるかは大きな問題かもしれない。戦争を扱った表題音楽としての見方や、スターリン、ヒットラーなどから完全に自由になって解釈することの是非もあるとは思う。しかし、音楽をいつも成立背景と結びつけて聴くことについての疑問がないわけでもない。ゲルギエフの満を持して録音した演奏が、どのようなスタンスに立つ音楽であったか。
この演奏は、ロッテルダム・フィルとキーロフの合同演奏という形で、彼の最近の公演のパターンを踏襲した演奏になっている。合同演奏から醸し出される音響は圧倒的であり、私の現在の拙い音響装置を通してもその迫力がビシビシと伝わってくる。
第一楽章の冒頭の弦ユニゾンからして力強い。明るく重層的な深い響きに、しっかりした打楽器が打ち鳴らされ音響的にも盛りあがりを見せる。最初からこれはただ事ではない演奏であると期待は高まる。
中間部から始まる「戦争の主題」、スネアドラムに導かれボレロ風に始まるところが第一の聴きどころのひとつだ。徐々に緊張が高まって行くが、長調であるために雰囲気はグロテスクに明るい。次第に音量が大きくなって、刻みも力強くなるが、レニングラード包囲をやはり表わしているのだろうか。近づく軍隊を象徴しているのだとすると、こんなに諧謔的な音楽もないものだ。最初はオモチャの兵隊と思えたものが、いつのまにか鋼鉄の大編隊に変わっている。トロンボーンが奏でる当たりになると、繰り返されるテーマは変わっていないのだが不気味さが増してくる。それにしても、この劇的な破壊性はどうだ、裏で奏でる旋律が歪みまくり悪魔的な響きを醸し出している。どこまで音量が増大するのか計り知れない。切迫感と緊張をはらみ圧倒的な迫力で押し寄せるさまは凄まじいの一語に尽きる。
大音量は第一と第四の両楽章で極端で、第四楽章の次第に高まるテンションと壮大なラストは、まさに歓喜へ向けての爆発とも言える音楽になっている。どこかマーラー的な歓喜の片鱗を感じないでもない。
大音量で奏でるだけではなく、例えば第二楽章の叙情的にして寂しげなメロディなどは、実に丁寧にかつ美しいし、第三楽章のフルートソロも哀愁に彩られた美しい旋律を聴かせてくれる。少し力を入れて吹き過ぎているようにも感じるが、逆にそこに喪われつつあるものへのパッションが感じられる。
まさにブラボー連発の演奏と言えるが、では私はこの演奏で心底感服したかというと、今ひとつの印象も拭えない。彼のまさに得意とする分野の音楽において、更に音量的には全く申し分のない演奏ではありながら、どこか鬼気迫る切実なものが感じられない。それが何なのかは分からないが、もしも作品にロシア人の持つ、悲しみや絶望や希望が込められているのだとしたら、それが少し大味になって表現されてしまったという気がしないでもない。彼特有の、獣じみた、あるいはロシアの黒く冷たい大地をイメージするような生々しさが、少し薄いように感じるということだ。ロッテルダム・フィルとの混声だからというわけではないのだろうが。
決して演奏の質は低くないと思う、ゲルギエフの力量とオケの緊張は最高レベルかもしれない。別な日に聴くとまた違った感想を持つことだろう。
石原 俊は「クラシック・ジャーナル 002」において、『私の聴くかぎり、ゲルギエフの演奏に標題音楽的なわざとらしさは微塵もない(中略)ゲルギエフは七番を、普遍的な「交響曲」として描きたかったのではなかろうか』と書いている。演奏を聴いた後に彼の解釈を読んだので、先入観があったわけではないし、逆にこの曲を聴いた後でも、彼の考えに同調できるほどに、私はこの曲に親しんではいない。よってこれ以上コメントすることもできない。

2003年4月25日金曜日

ゲルギエフ/チャイコフスキー「くるみ割人形」(全曲)


チャイコフスキー/くるみ割り人形(全曲)
 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
 録音:Festspielhaus, Baden-Baden, Germany, 8/1989
 PHILIPS 462 114-2(輸入盤)

ずいぶん以前から発売されていることは知っていたのだが、見つけられずにいたCDだった。池袋HMVに行ってみたらロープライスコーナーで販売されていたのでゲット。ゲルギエフファンならば話題のショスタコ7番を買うべきなのだろうが、タコは重い。聴くのに覚悟が必要であるので今回はパス。(そのうちこっそり聴くことにしようとは思っている・・・)

さて、このCDは『くるみ割人形』全曲(81分)がなんと1枚におさめられている。チャイコフスキーやゲルギエフファンならずとも嬉しい構成である。それにしても、どこを切っても有名で耳馴染みのある曲を通しで聴くのは、もしかしたら始めてかもしれないなあと、聴きながらにして思った。

ゲルギエフはバレエ音楽であるこの曲を、どう料理しているか。さすがにこの曲は「戦争もの」ではない。だから、彼お得意のマチョさで、ゴリゴリ押しまくっているというような演奏ではない。それでも、非常にメリハリとダイナミックさに富んだヴィヴィッドな演奏になっていると思う。

彼の音楽の場合『シェヘラザード』でも『アレクサンドル・ネフスキー』でもそうであったが、激しい部分と弦を中心とした歌の部分の表現の対比には、いつも驚かされるのだが、この演奏でもそれを存分に味わうことができる。シンバルは高らかに鳴り、ティンパニは地響きのように叩かれる、そこに天から差し込むがごときハープの音色・・・ああ、これって『くるみ割り人形』なの・・って(^^)。

この演奏から聴き取れるのは、まさに生き生きとした躍動感だ。本来バレエ音楽であるためか、体の底から沸いてくるようなリズムは、時に野蛮なまでの野生を目覚めさせるかのよう。一方で彼の音楽は官能的でもあるのだと思う。本能に近い部分に作用してしまうので、ある種の音楽ファンには「効く」のだろう。リズムのぶれも粗さも、そういう種のファンにはどうでもよくなる。このような点を、あざとらしいとして疎んじる人もいるかもしれない。

それにしてもゲルギエフの統率するキーロフの演奏ときたら。本当によく彼に反応していると思う。これを聴くと、最近発売された彼の演奏のエッセンスが全てぎっしり詰まっているように聴こえる。コントラバスのかすれるような低音の響きもそのままだ。ああ、ゲルギエフとロシアの息吹が流れ込んでくる(^^)

「Trepak」を聴くと、札幌公演のことが思い出される。本当は、クラクCDなんて聴いている場合ぢゃあないですがね。



2003年4月3日木曜日

【音盤】ゲルギエフのプロコフィエフ「アレクサンドル・ネフスキー」


Scythian Suite, op.20
Alexander Nevsky, op.78

 指揮:ヴァレリー・ゲルギエフ
 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
 PHILIPS 473 600-2(輸入盤)

ゲルギエフの待ち待った新譜だ(発売が1ヶ月ほど延期された)。収録はプロコフィエフの「スキタイ組曲」(アラーとロリー)そしてカンタータ「アレクサンドル・ネフスキー」だ。演奏はキーロフ歌劇場管弦楽団と合唱団、アレクサンドル・ネフスキーはモスクワでのライブ録音である。

例によってゲルギエフ節全開、合唱は絶叫しているし、オケの迫力も凄い、最大限の音響で鳴らしまくろう、みたいなキャッチで売っている。特に後者はエイゼンシュタインの同名の映画音楽として作曲されたものをカンタータに作りなおしたもので、戦争をテーマとした音楽だ。

私はゲルギエフの振る音楽のレビュを書こうとすると、それが戦争をテーマとしたものでなくても、つい戦闘シーンが思い浮かんでしまうことを禁じることができないでいた。そういう点がゲルギエフのアグレッシブさを象徴していると思うのだが、今回はまさに「戦争」そのものを扱ったもので、まさにゲルギエフの真骨頂というべきだろう。

プロコフィエフの音楽ではあるが、カンタータはともすると「カルミナ・ブラーナ」のようにバーバリアンに聴こえる。話題の「The battle on the ice」のテーマが耳について離れない。

しかしながら、私はこの曲が良く分からない。音響的に凄いのは分かった。でも輸入盤で買ってしまったので、対訳を辞書片手に読まなくてはならない。

2003年2月15日土曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮 プロコフィエフのピアノ協奏曲集


ゲルギエフが アレクサンドル・トラーゼ(Alexander Toradze) と録音したプロコフィエフのピアノ協奏曲集(PHILIPS 462 048-2)を見つけたので早速ゲットしてみた。オケはゲルギエフの主兵サンクトペテルブルク・キーロフ歌劇場管弦楽団で1995~96年にかけての録音。トラーゼというピアニストは初めて聞く名前だが解説によればゲルギエフとトラーゼは1980年頃から何度も演奏を重ねてきたらしい。

プロコフィエフの5つあるピアノ協奏曲のうち比較的有名なのは1番と3番ではないかと思う。実際プロコのPコンで思い出すのもこの二つの華々しい曲だ。どちらもロシア的抒情とプロコフィエフらしさに溢れた名曲である。アシュケナージとプレヴィン/ロンドン響による定番、アルゲリッチとデュトワ/モントリオール響による壮絶な1番と3番の演奏、そして同じくアルゲリッチとアバド/ベルリンの3番などが有名だろうか。

その一つ一つと聴き比べをしているわけではないが、ゲルギエフ自ら「(フルトヴェングラーがベートーベンを好きだった様に)私も、プロコフィエフをやっているときは、彼こそが自分の好きな作曲家なんだと思います」というだけあり、この演奏も充実した演奏に仕上がっている。

もっとも1,3番が有名なプロコフィエフだが、ピアニストのトラーゼは「However, in our view the Second Concerto stands out as Prokofiev's most personal statement」であるとし「Prokofiev's Second Piano Concerto is an exceptional human document which traces a scenario of sorrow, escape, disenchantment and mature growth amounting to a final farewell to a beloved friend.」と書いている。ここでの友とは1909年から1913年の間に友情を築いていたピアニスト Maximilian Shmitgoff のことである。プロコフィエフは1913年4月に Shmitgoff 自らの遺書とも言える手紙を受け取る。そのような体験が音楽に色濃く反映されているとトラーゼは説明している。

プロコフィエフの時に叙情的にして甘美、時にグロテスクにして野獣のような音楽が聴くものを圧倒する。古典的でありながらも現代的な和音と響き、そして躍動し火花を散らして跳ね回るリズムは、体の末端の感覚をざわざわと覚醒させてくれる。いつも聴きたいわけではないが、プロコフィエフのピアノは良い。

2003年1月17日金曜日

ゲルギエフのインタビュー

amazon.co.jpのサイトを見ていたらゲルギエフのインタビュー記事を見つけた。(2002年11月22日、ロシア大使館で行われた記者会見)

彼が作曲家としてプロコフィエフが好きなことは知っていたが、彼の好きな指揮者がフルトヴェングラーであるとは今まで気づかなかった。二人はレパートリーも芸風も違うのだから少し意外な思いにとらわれた。

ゲルギエフは今年6月の来日公演ではプロコフィエフの「戦争と平和」、チャイコフスキーの「エフゲーネ・オネーギン」、そしてムソルグスキーの「ポリス・コドゥノフ」という歌劇を演じる。ゲルギエフはオケ指揮者というよりはオペラ指揮者として西欧で受け入られてきた経緯があるだけに、興味深い演目ではあるのだが、どれもこれも少しマイナーなプログラムだなあと感じてしまう。

もっともゲルギエフは「クラシックのレコード業界の何が問題かというと、この30年か40年の間に、録る必要のなかったものまでたくさん録ってしまったことでしょう。」とインタビューで述べている。確かにそうかもしれないなあと思うのであった。

そんなゲルギエフも2003年6月下旬からワーグナーの「指輪」4部作に取り組むことになっている。これも楽しみであると思う。というか、その前にはじめて聴くワーグナーシリーズでワーグナーを制覇しておかなくては・・・・

ついでだが、2月にはゲルギエフの新録音も発売される。プロコフィエフのカンタータ《アレクサンドル・ネフスキー》とショスタコーヴィチ:交響曲第7番《レニングラード》だ。タコ7は昨年の来日公演でもキーロフとN響の合同演奏で凄まじい演奏を展開したらしい。今回はキーロフとロッテルダム・フィルによる合同演奏。これも楽しみである。

2002年12月30日月曜日

【音盤】ゲルギエフ/ミヤスコフスキー ヴァイオリン協奏曲


ニコライ・ミヤスコフスキー( 1881- 1950 )
ヴァイオリン協奏曲 二短調 作品44

ヴァイオリン:ワディム・レーピン
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
指揮:ワレリー・ゲルギエフ録音:2002年7月2-4日 フィンランド、マルッティ・ラルヴェラ・ホール(ミッケリ音楽祭でのライブ)

ミヤスコフスキーという名前さえ初めて聞くのだが、CD解説によると「ソヴィエト連邦時代前半のロシアにおける、最も才能豊な作曲家のひとり」とのこと。生涯27もの交響曲をものにしながら無名であるとは、歴史に埋もれた作曲家ということだろうか。「作風はいずれか言えば保守的で、スラヴ的な後期ロマン派と呼ばれるべき位置にとどまった」作曲家、ということが20世紀前半の作曲家でありながら、音楽史的にも演奏的にも不遇な位置に留めている理由なのだろうか。

何度か聴いてみたが、音楽に深刻な響きは聴かれず躍動感と明るさに満ちている。作曲年代が1938年であることを考えると、少し楽天的過ぎないかという感じを持たないわけでもない。例えば一楽章のテーマの繰り返しにしても、少し聴いていると飽きてしまうような感じがなきにしもあらずだ。

とは言っても、音楽がいつも時代を背負っていなければならない理由などどこにもないし、逆にそのことが音楽を聴く上での重荷になってしまうことだってある。ここは素直にミヤスコフスキーの音楽に耳を傾ける方がよいのかもしれない。

先にも書いたように、暗さや激しさの少ない曲であるからゲルギエフのアクのようなものも、この演奏からはあまり聴こえてこない。(それでも充分にアグレッシブではあるが)

一方でレーピンのヴァイオリンは、あくまでも堂々とヴァイオリンとしてのメロディアスな雰囲気や技巧をいかんなく発揮しており、聴いた後にそれなりの満足感を得ることはできる仕上がりになっている。1楽章に挿入される技巧的なカデンツァも聴き所である。2楽章のメロディアスにして抒情的な音楽も非常に印象的だ。オケとヴァイオリンの掛け合いも、ゆったりとした気持ちにさせてくれる。

それでも、首を傾げてしまうところがないわけでもない。というのも、全体的にどこかしら中途半端な印象を受けてしまうのだ。和音やフレーズの展開にしても、どっぷりとロマン派しているようでいながら、ある瞬間に現代的な断片をふと聴かせたりする。そういうところが、何かとってつけたようでしっくりとこない。それが不安を象徴する手法では全くないというのだから、何か音楽に落ち着きがないように思えてしまうのだ。

最後のフィナーレにしても、いかにも的な終わり方であるところが、かえってわざとらしく感じられてしまう。というか、この時代作曲していて、この音楽?と やっぱり思ってしまうのであった。ロマン派の時代に作曲されていれば良かったか、という問題でもないとは思うのだが・・・、なかなか呪縛から逃れられないと改めて思うのであったよ。

演奏はよいと思うので、従来のヴァイオリン協奏曲に飽いてしまった方には、お薦めかもしれない。

2002年12月29日日曜日

ゲルギエフ/チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲


ペーター・チャイコフスキー ヴァイオリン協奏曲 二長調 作品35
ヴァイオリン:ワディム・レーピン 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団 指揮:ワレリー・ゲルギエフ録音:2002年7月2-4日 フィンランド、マルッティ・ラルヴェラ・ホール(ミッケリ音楽祭でのライブ)
ゲルギエフが手兵キーロフを率いヴァイオリンにはレーピンを迎えて録音した、チャイコフスキーとミヤスコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみた。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は私の好きな曲のひとつであるが、あまりにも有名でありすぎるために普段改めて聴こうという気に、なかなかならない曲でもある。今更チャイコンかよ・・・というカンジなのである。それでもゲルギエフがどのように料理するのかという点に興味があった。レーピンは聴くのが初めてであるし。
しかしながら、何度か聴いてみたがのだが、ゲルギエフの芸風よりも、レーピンのヴァイオリンに大きく心を動かされた。レーピンがどのようなヴァイオリニストとして評されているのか分からないが、録音からは野太くがっしりとした骨格をもった、ダイナミックな音楽が深く心に染み渡るように感じだ。アクとかクセとか節のようなものは比較的少ないかもしれない。どこかズドーンとした印象のストレートな音楽だ。ただし素直で世間を知らないストレートさというのではない、色々なことをやり尽くしてきた末にたどり着くストレートさみたいな感じ、だとすると、これが若干30歳の若者の音楽なのかと一瞬考え込んでしまう。1楽章の奔流の後には思わず拍手してしまう、見事見事と。
この盤で聴く限り、レーピンの音はゲルギエフ&キーロフのスタイルに合っているようにも思える。ゲルギエフの時に野獣のような攻め方(ここではそういう野蛮さは少ないが)に対し、それをしっかりと受け止めるだけの太さと、よい意味での粗さを感じることができる。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲には優雅さや優美さよりも、疾走する力強さと生命力を感じることに異論はなかろう。レーピンのヴァイオリンには、それが見事に表現されているように思える。この曲が作曲された時期はチャイコフスキーにとってあまり幸福なときとは言えないはずだが、曲に秘められた強いエネルギーの発露にはいつも聴くたびに感歎させられる。自在に駆け回るレーピンのヴァイオリンは、チャイコフスキーの音楽をきっちりとトレースしているように思える。
いつもなら、このままチャイコ節に乗ったまま快活な気分で曲を聴き終えるのだが、少しひっかかったことがある。一聴してダイナミックさとヴィルトオーゾを駆使した曲に仕立てられているように思えるのだが、この演奏からは明るさの裏側に、何かにせかされているかのような、あるいは追い立てられているかのような姿さえ感じるのだ。本当はそんな気分ではないのに、無理に快活に明るく振舞っているかのような、そういう感じだ。
このような受け取り方が作品および演奏解釈上正しいかは分からない。おそらく、私だけの感じ方だろうとも思う。それでも、レーピンのヴァイオリンからは、第3楽章のお祭り騒ぎにも似たクライマックにおいても、切迫したただならぬ緊張感を感じる。それに環をかけゲルギエフ&キーロフが攻め立てているのだ、まったくもって分厚く凄いチャイコンに仕上がった。
もっとも、それでもというか、この盤の評にある「ロシア的」ということが何を指しているのかは、私には分からないの、ロシア的とは何か誰か教えてくれないだろうか。
不満もないわけではない。ミキシングのせいなのだろうか、オケよりもヴァイオリンが全面に浮き出たような録音になっている。実際のホールではこんなにヴァイオリンは大きく聴こえないはずだ。従って、実際の演奏とはかなり印象が異なるのではないかと思う。それに、全般に録音の立体感が乏しくどことなく雑な音に聴こえてしまう、ライブのせいだからだろうか。



2002年12月2日月曜日

ゲルギエフ指揮 キーロフ歌劇場管弦楽団 2002年日本公演

  • 日時:2002年12月1日 16:00~ 
  • 場所:札幌コンサートホールKITARA 
  • 指揮:ワレリー・ゲルギエフ 演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
  1. ムソルグスキー/歌劇「ホヴァーンシチナ」前奏曲 "モスクワ河の夜明け" 
  2. ムソルグスキー/交響詩「はげ山の一夜」 
  3. ボロディン/交響詩「中央アジアの創玄にて」 
  4. バラキレフ/イスメライ(東洋的幻想曲) 
  5. リムスキー=コルサコフ/交響詩「シェエラザード」OP.35 
  6. アンコール チャイコフスキー/バレエ音楽「くるみ割人形」より グラン・バド・ドゥ、トレパック

ゲルギエフの札幌公演に行ってきた。ゲルギエフは好きな指揮者の一人だ。彼の演奏を聴くのは2000年1月の東京公演(マーラー交響曲第2番「復活」)以来のことである。あのときは、ゲルギエフのマーラーということに聴く前は不安を持っていたのだが、終演後は、もののみごとに脳天を吹き飛ばされたかのような衝撃に震えていたことを鮮烈に思い出す。そういうことで、期待は大きいコンサートであった。
好きな指揮者ではあるが、彼のつくる音楽にいつでも全面的に賛同しているわけでもない。CDを聴いていても、極端な表現は作品解釈上の妥当性という点では疑問を感じることもある。しかし、理性を超えたところで彼の音楽に惹かれることに抗えないのも事実だ。彼の音楽は圧倒的な説得力で語りかけてくるように思えるのだ。どうも私は、こういうマッチョ性に弱いところがある。
 
最近の彼は非常に有名になってしまったようにも思える。一部ではカリスマ視するような傾向がなきにしもあらずだ。今日のコンサートもどのような客層なのかと思っていたら、老若男女入り乱れているのである。クラヲタのような人よりも楚々としたこぎれいな人(*1>が多いのを見て、私は大いなる戸惑いを隠せなかった。これほどまでに彼が支持されていることに、今の今まで気付いてはいなかった。
同じカリスマ性を称えられる指揮者であっても、ゲルギエフはラトルとは全く違った音楽を作るように思える(ラトルは生を聴いたことがない)。ゲルギエフの演奏からは、非常に生臭く「直情的で獣のような」、そして有無を言わさない熱狂を感じる。そこが万人受けする要因なのかとも思う。
 
だからといって、ゲルギエフの演奏が雑であったり感情のままに荒々しく歌い上げているだけではない。ことさらに深刻ぶるような歌い方はしなないものの、彼なりの音楽に対する統率力や計算や分析というものは、聴くことができるわけだ。
そういう点からは今日の演奏もゲルギエフらしいく、熱く歯切れの良い演奏であったのだろうとは思う。激しいところは逆巻く怒涛のように激しく、柔らかく美しいところは草原を吹き通す風か、揺れる草花のようであり、色彩豊かな響きを堪能することができた。彼の微妙な指先(*2>や、大げさな指揮により統率されるオーケストラは、まさに主兵というイメージである。
 
また、今回の曲目はソロイスティックなところが要求されるものが多く、その点も楽しめるものであった。クラリネットやフルート(*3)などの木管をはじめとして、金管も安定感のある素晴らしい音色であった。シェエラザードのバイオリンソロも、若干線の細さを感じたが決して不満足であったわけではない。一方クレッシェンドの頂点でのはじけるような音響や地鳴りのような重低音も聴く事ができた。あれだけの音響で音が濁らないというのも流石といえようか。
 
選曲は全て標題音楽的であるため親しみやすい。ロシア的色彩の強い音楽は、一幅の絵画か絵巻物を読むようでさえあった。禿山の一夜やシェエラザードなどの超通俗名曲(*4)を、これほどまでの迫力で演奏してくれれば、本来ならば満足と言ってよいのかもしれない。
しかし、実は私は大いに不満なのである。全ての演奏が終わった後、札幌ではなかなか聞くことがきないような拍手とブラボーの嵐(*5)のなか、何か煮え切らない感覚を私は味わっていた。
 
それは札幌でのプログラムに負うところも大きいと思う。ゲルギエフはどちらかというとロシアの作曲家のうち、比較的マイナーな歌劇などを録音して脚光を浴びてきたという経緯がある。今回の札幌でのAプログラムも、そういう彼らしい特色の一片が感じられるものだ。それでも、このプログラムはあんまりなんぢゃないと思うのは私だけだろうか。前半は馴染みやすい交響詩を、後半はシェエラザードでは、さながらアンコールピースの寄せ集めを聴くかのようと書いたら失礼だろうか。それとともに、Aプロはメロディアスでピアニッシモで終わる曲が多いことも特徴だ。熱狂の中にブラボーの嵐を迎えるという選曲ではない。あるいは深い意味が込められた深遠な曲でもない(*6)。
 
それと、私が期待したほどのゲルギエフらしさの薄い、どちらかというと(彼の演奏の範囲内においては)比較的理性的な演奏なのではなかったかということだ。ここについては、聴いた人により捉え方は全く異なるだろうと思う。大きな感動を覚えた人に対して異を唱えるつもりも、水を差すつもりも全くない。ただ私には、若干の不満(というか燃え滓つーか)が残ったことも確かなのである。手放しで「カンドーした!!」とは言えない。
ここで更に考えてみた。もしかするとゲルギエフは、いつでもどこでも、獣のごとく直情型に鳴らしまくるというタイプの演奏家(*7)ではないのかもしれないということだ。彼の演奏の中には荒々しさの中にも揺るぎのない統率力と、独特の美学があることは認めるところだ。札幌公演は、その美しさの方を強調した叙情的演奏を目指したのではないかと思い至ったのである。(おとなしい演奏というのではない。あくまでも彼の演奏の技芸の範囲においてということだ)
 
そう考えると逆に今日の選曲の意図というものも見えてくるように思える。ソロイスティックでありかつロシア的な叙情音楽を堪能させる、という意味においてはなかなかなもので、決してAプロを軽く扱ったということではないのかもしれない(*8)。
とは納得してもだ。シェエラザードだって悪くはないのだが、他プロの方が魅力的に見えてしまう。案外Cプロのプロコフィエフの人たちは、シェエラザードの方が良かったと思っているのかもしれないが。ちなみに、他のプログラムは、ブルックナー交響曲第4番(Dプロ)、マーラー交響曲第9番(B、Eプロ)、ストラヴィンスキー春の祭典(N響)、ショスタコーヴィッチ交響曲第7番(N響との合同演奏)(*9)である。美しい旋律でダンスするゲルギエフも良いのが、目をむき牙をむき出して襲いかかるゲルギエフも聴きたかったなあと・・・。
 
蛇足だが、アンコール最後のくるみ割人形は(*10)圧巻であったことは付け加えておこう。
  1. クラシックヲタク=クラヲタが、こぎたない(失礼な!) と言っているのではない。ただヲタクが深くなるにつれ、ある外観上のスタイルに収束する傾向はあるようだ。いくつかのパターンはあるようだが。
  2. 今日の振りは、すべて指揮棒あり。ただし指揮棒を持たない手が、時に長島の一塁への送球のあとのように(ひどい例え!)、あるいはテルミンを奏でるがごとく微妙に揺れながらオケに指示を出しているようであった。
  3. フルートは前半4曲は、曲によりファーストを入れ替えていた。女性のフルーティストは木管であった。
  4. シェエラザードにしても禿山にしても、ゲルギエフ盤が発売されていなければ、食指が伸びることはまずないだろうと思える。
  5. ゲルギエフが登場したときの拍手からしてすごかった。ゲルギエフにかける熱い期待が込められているかのようで、私は実は面食らってしまった。
  6. そんなことは、チケットを買う前にプログラムを見た瞬間にわかるぢゃないのと言うかも知れない。しかし私はオバカなので、ゲルギエフが来るというだけでプログラムを見もせずにチケットを買ったのである。コンサートの直前まで「火の鳥」だったっけ? などど考えていたのである。
  7. 書いて改めて恥かしくなってしまったが、そんな指揮者だったら、通年発情型の ただの、お○か である。
  8. こういうのを「すっぱい葡萄の論理」と言うのでしたかしら?
  9. 同日のN響アワーは、まさにゲルギエフのショスタコとハルサイを報じていた。タコ7は「一楽章のほんの一部」(有名なところね)とハルサイは全曲。ハルサイはNHK FM放送でも生放送をしていた。たまたま私は車中でこの演奏のラストを聴いた。カーオーディオがしょぼいので「なんだかフヌケなハルサイだなあ。間違ってもブーレーズやゲルギではないな」と思ったのである。怒号のような拍手の後に「演奏はNHK交響楽団、指揮はワレリー・ゲルギエフさん・・・、生放送でお伝えしています」と流れ、ナニイ!と思わず叫んでしまった。 昨日、TVで再び見てみたが、視覚による錯覚だろうか、それとも実際にそうっだったのだろうか、ものすごい演奏に今回は思えたのであった。実際、演奏の感想なんてそんなものでしかない、ということの査証だろうか。
  10. もである。いまでも頭の中で鳴っているのだ


2002年7月26日金曜日

【音盤】ゲルギエフ/R=コルサコフ:交響組曲《シェエラザード》


リムスキー・コルサコフ:交響組曲《シェエラザード》
第1曲:海とシンドバッドの船 
第2曲:カランダール王子の物語 
第3曲:若い王子と王女 
第4曲:バグダッドの祭り-海-青銅の騎士の立つ岩での難破-終曲 
ボロディン:交響詩《中央アジアの草原にて》
バラキレフ:イスラメイ(東洋風幻想曲)

指揮:ワレリー・ゲルギエフ
演奏:キーロフ歌劇場管弦楽団
録音:2001年11月 サンクトペテルブルグ

ゲルギエフの新譜が出た。満を持してと言う感じの《シェエラザード》である。HMVのサイトでの評価を読むと、いやがうえにも期待が高まる。日本語版の解説はあいも変わらず宇野功芳である。

シエラザードはご存知のように《アラビアンナイト》を素材とした音楽だ。暴君となってしまったシャリアール王と、その暴虐を思いとどまらせるために、繰る日も繰る日も寝物語を聞かせるシェエラザードが音楽的には重要なテーマとして登場する。シェエラザードにより語られるのがシンドバッドの物語である。シャリアール王というのが、また凄い。女性の不貞から絶望し女性不信に陥り、夜ごと新しい生娘を迎えて翌朝になると首を刎ねて殺してしまうというのだ。シェエラザードはシャリアール王に仕える大臣の娘で非常に才色兼備、彼女の物語聞きたさに、ついにはシャリアール王は彼女を殺すことができなかった、というわけである。最後はシャリアール王はシェエラザードを愛するようなるという。

さて、こういう物語なので、暴君のシャリアール王とシェエラザードがどのように表現されるかがポイントとなるわけだ。ゲルギエフの演奏は凄まじいの一語に尽きる。第一楽章冒頭のシャリアール王のテーマは、肉食獣が虎視眈々と獲物を狙うがごとき不気味さをたたえているではないか。暗闇の中で目を爛々と光らせ、涎をたらし、獣くさい匂いを漂わせてでもいるような音楽に、思わず慄然とする。そして、その直ぐ後にハープ伴奏を伴って現れるシェエラザードのテーマの優美で妖艶なこと。これならば暴君シャリアールも、彼女の虜になったことも頷けるというものだ。ここテンポは遅い、この演奏を聴く者も、最初の数分間でゲルギエフの棒に虜となるか、あるいは嫌悪を感じるか分かれてしまうかもしれない。

続いてシンドバッドの航海を描写するような音楽が続くが、ゲルギエフは悠々とそしてダイナミックな音楽を形作っている。粗い低弦の響きは相も変わらず空気が振動しているようでさえある。それにしてもこの響きは尋常ではない。クライマックスでのフォルテッシモのオーケストレーションの巧みさには舌を巻く。粗く粗雑なようでいて、実は悠とした響きが全体を支配する、これほどに激しく荒くありながら統率がとれているというのは流石というところか。

第二楽章は冒頭からシェエラザードのテーマだ。「ああ、幸多き王様よ、わたしの聞及びましたところでは・・・」と物語が開始されるのだ。カランダールとは諸国を行脚する遍歴僧のことらしい。ファゴットの響きがノスタルジックで心に染みる。それにしても、改めて何度も聴くと、非常に変化に飛んだ発想豊かな楽章であることに気づく。ここでもゲルギエフは緩急強弱の変化を自在に操りながら音楽を推進させてゆく。宇野功芳もこの楽章はベタ褒めである。「ファゴットの心のこもり切った多彩な表情」とかいう表現はよく分からないのだが・・・(^^;;

第三楽章の官能的なテーマはあまりに有名だ。この流麗なる響きの中でもコントラバスの響きが低く小さく、そして粗く下支えしている。ゾクリとするような音響だ。中間部からの音楽はリズミックであるが、しかし後半はうねるようになって、なにか船酔いに近いものを感じてしまう。シャリアール王が感じた酔なのだろうか、あまりに見事な音楽であり表現である。麻薬の幻影に近いような歪みさえ感じる。(>麻薬なんてやったことないですよ!)

さて終楽章は再びシャリアール王のせかすようなテーマから、さらにシェエラザードの受け答えで始まる。この掛け合いの凄さよ! 脳天が一瞬白く弾けてしまいそうになる。ここからは一気呵成にジェットコースターに乗ったかのような、あるいは戦闘のような音楽が続く。アンサンブルのリズムは爆弾か砲撃の爆風のようだ。スネアドラムなどの打楽器のリズムは強く固く、ショスタコの10番かと思わせるほど、激しすぎる!! トランペットとスネアのタンギングは凄まじく速い! 小機関銃の掃射を浴びるようでさえある。どうしてゲルギの感想は、最後は戦争になってしまうんだろうか・・・。船の難破のシーンときたらもう、4mもあるかと思うような大波が押し寄せるようで、こいつはもうパーフェクトストームかよ。完全に参りましたというカンジ。

ラストのシェエラザードと、暴君たることを止めたシャリアール王のテーマが救いとなって音楽をしめてくれる。こいつがなかったら、荒ぶれた心の行き所がなく途方に暮れるところである。かつての猛獣もすっかり手なづけられたかのような表現で(=しかし不気味さはまだまだ漂わせながら)これまた良いと思う。

またしても最後は理性を失ったレビュになってしまった。しかし好みは分かれるかもしれない。この粗さと激しさについてこれるかがポイントだろう。逆にゲルギファンにはたまらない演奏といえるかもしれない。あと2曲あるのだが、疲れ切ったのでこれについては今回は触れません、あしからず。

2002年4月20日土曜日

【音盤】「展覧会の絵」を聴く

ゲルギエフの展覧会の絵を聴いたついでに、家にある他の盤を2枚ほど聴いてみた。2枚しかないのでは聴き比べも何もあったものではないとは思うが。いまさら展覧会でも・・・という気持ちもあり、盤は増えないのである。

カラヤン指揮 ベルリンフィル
イエスキリスト教会 1965年

私が初めて展覧会を聴いたのは、このLPだ。高校生の時に購入したのだと思う。カラヤンというカリスマと、曲のもつおもしろさ、ソロイスティックなフレーズに魅了され、何度針を落として親しんだことか。グラモフォンの両開きジャケットは高校生には高嶺の花で、買ったときはジャケットの分厚さと解説の量に、感動の涙を流した(ウソ)ことを思い出す。

演奏は、カラヤンとしては二度目の録音で、その実力を十分に発揮している時期であり、独特の華やかなサウンドに仕上がっている。ベルリンフィルのソロも旨い、申し分ない出来であるとは思うのだが、一方で逆にそれ以上のものが聴き取れない、というのは高望みなのであろか。

チェリビダッケ指揮 シュツットガルト放送響(Stuttgart Radio Orchestra)
1976年 ライブ

チェリビダッケの晩年の演奏(1993年9月24,25日、ミュンヘン)ではないが、それでも十分に「遅い」演奏であると思う。ゲルギエフ盤との比較で話せば、演奏時間にしてチェリは35分56秒、ゲルギは32分5秒である。また最後のキエフの大門だけ比較しても、チェリの6分6秒に対しゲルギは5分23秒で駆け抜ける。この時間の差は、数字でみるよりも聴いてみると顕著で、二つは全く違った音楽として聴こえる。

チェリの遅さはしばしば指摘されるものだが、嫌みなものではなく、地から沸き上がるように音楽を積み重ね構築してゆくさまは、確たる足取りとともに聴衆を音楽に引きずり込む。この演奏でも、着実な歩みは、あたかもゆっくりと味わうかのように展覧会場を巡るようであり、目の前に彷彿とその情景が浮かんでくる。ラストのキエフにしても、遅くはあるが大きな盛り上がりを見せ、決して不完全燃焼で終わってしまう演奏になっていない、さすがと言うべきだろうか、聴き終わったあと、ひとり静かにブラボーと叫んでしまう。


ゲルギエフ指揮 ウィーンフィル
2000年 ムジク・フェライン ライブ

ゲルギ盤は何度聴いても異質であり、すさまじい。全身の肌が粟立ちラストに向かって放心状態となってしまう。しかし、そういう演奏がこの曲にとって幸福なことだろうかと疑問を感じないわけではない。特にチェリ&ミュンヘンと比べると、ゲルギエフのグロテクスクなまでなまでの音楽性というものが顕著だ。しかし、雑だというのではない、これまたチェリとは対極にある究極の演奏と言うことだ。

2002年4月19日金曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮/ウィーンフィル 「展覧会の絵」


ムソルグスキー
組曲「展覧会の絵」(ラヴェル編)
  録音:2000年4月28日、ムジークフェラインにおけるライブ
歌劇「ホヴァンシチナ」前奏曲(モスクワ河の夜明け)(ショスタコーヴィッチ編)
交響詩「はげ山の一夜」(リムスキー=コルサコフ編)
ゴパック:歌劇「ソロチンスクの市」から(リャードフ編)
  録音:2000年12月22日、ムジークフェライン

指揮:ゲルギエフ
演奏:ウィーンフィル
PHILIPS UCCP-1053

何とも凄まじい「展覧会の絵」だ。私はゲルギエフのファンであるので贔屓として聴いてしまう傾向がなきにしもあらずではあるが、この演奏には心底驚かされた。あの「春の祭典」の後のリリースであるので、発売と同時に購入し(ゲルギエフ読本もオマケでついてくるし)何度も聴いているのだが、聴くたびに何度も打ちのめされてしまっている。

「展覧会の絵」というのはご存知のとおり、非常に描写的な曲である。そのため聴き所も多いと思う。「ブイドロ」の重々しさ、トランペットソロの秀逸な「サミュエル・ゴールデンベルクとシュミイレ」、「カタコンブ」の暗さ、そして「バーバ・ヤーガの小屋」から「キエフの大門」に至るクライマックス。どこを取っても音楽的に申し分がない。

そういう音楽なだけに数多くの名演奏があるのだと思うが、これほどに衝撃的な演奏は少ないかもしれない。何といってもものすごいのは、ウィーンフィルの音である。もはやこれがウィーンの音なのだろうかと訝ってしまう。

ゲルギエフとウィーンの組み合わせと言えば、チャイコフスキーの交響曲5番もすごかった。この演奏を聴いて、改めて思う、オケのイメージなどどれほど正しいのだろうかと。ウィーンだから「洗練された美しさ」というイメージのみで語ることが間違っているのだと思わされる。彼らこそ世界一流のスーパースター軍団、指揮者の好みに合わせて優雅にもなれば破壊的な暴力を振るうことさえ茶飯事なのかもしれない。それほどにゲルギエフ的な(=と聴衆が期待し予測する)サウンドが展開されている。

それでもウィーンだけあってというべきなのか、細かな描写力もさすがである。力強く荒々しいだけの野蛮で雑な音楽になっていない。ソロの説得力もなるほどと思わせるし繊細な表現もある。

しかし、「バーバ・ヤーガの小屋」を聴いた瞬間には、あたかも棍棒で殴られているかのように脳天が白く弾けてしまい、正常なレビュを書くことができなくなってしまうのだ。それほどに凄まじき力と引力だ。「土俗的」とか「バーバリアンな」「ロシア的」「土臭さ」なとかのキーワード好まれるが、音楽を聴くとそれらの言葉の陳腐さと限界に思い知らされるだろう。

グイグイと引っ張られて強烈なシンバルの音のはじけた先の「キエフの大門」の広がりとパースペクティブの壮大さ。ものすごいドラマチックな音楽が構成されている。ラストに近くの鐘の音の乱舞と、ワンテンポ遅れて入る大太鼓の強靭なる響き(何と効果的なことか)に彩られた大伽藍を目の当たりにすると、もはや涙がこぼれてくるのを止めることが出来ない(・・・て、簡単に泣くなよ、音楽聴いて)。何度聴いても、何回聴いても、同じように打ちのめされる。音楽が終わった後の、壮大なるカタルシスときたら何に例えることができようか(たとえなくたっていいよ)。

この演奏はライブらしい。CDには拍手が入っていないので良く分からないが、こんな演奏を生で聴かされたら、理性を数万光年彼方へ吹き飛ばされたまま、当分社会復帰が出来ないかもしれないと思うのであった。(じゃあ、帰ってこなくていいよ)

ただだよ、付け加えておくと、「展覧会の絵」でこんなに感動するなんて、まだまだ甘いなあ、若いなあ、とも思うのだけどね、冷静になるとだよ。(冷静にならなきゃ分からんかね)

この盤にはまだ他にもイロイロな曲が収録されているのだが、力尽きた、他のレビュについてはマタコンブ(=また今度)!(ゲロゲロ)

2001年8月5日日曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮/キーロフ歌劇場管弦楽団による「春の祭典」


ストラヴィンスキー:「春の祭典」(1947年改定版)
ワレリー・ゲルギエフ(cond) キーロフ歌劇場管弦楽団
July 1999 PHILIPDS UCCP-1035(国内版)

ゲルギエフがストラヴィンスキーの「春の祭典」を録音したとなれば、嫌でも聴かねばならないという気にさせられてしまう。国内版で多少高くても、あるいは宇野功芳の解説がうっとうしくとも、まずは聴かねば始まらない、ということで結構期待をもって購入した。

この曲を聴くには、少しはいい再生装置で聴いたほうがよいと、まず言っておこう。最初はCDウォークマンのチンケなヘッドフォンで聴いていたのだが、それから受ける感興とスピーカーや良いヘッドフォンを通して聴いたのとでは、全く別の曲を聴くような体験であった。

さて、「序奏」からして重低音が響き、荒々しきプリミティブな爆発前のエネルギーを感じさせてくれる。この数分間だけで、ゲルギエフの面目躍如たるべき音楽であるという期待が高まる。

「春のきざしと乙女たちの踊り」の部分の粗さと躍動感、そして全体に漲る生気はどうだ。ティンパニなどの打楽器の強打は大地を打ち鳴らすほどのもので、何と言う迫力であろうか。宇野功芳が絶賛するのも、わからないでもないかと思わせる。そして、どう言うといいのだろうか、体全体が浮き足立つ、細胞が立ち上がって喜びに震え出すような雰囲気なのだ。「レコード芸術 8月号」で山崎浩太郎氏が”踊る音楽”とか”肉体性”というキーワードを使って語っているが、的確な表現であると思う。

「クラシック招き猫」のBBSで誰かも評していたが、確かに粗い、「春の祭典」として変なところもあるらしい。しかし、それが一体どうしたというのか、この演奏の本質からは瑣末的な問題としか思えない。

「誘拐の遊戯」の部分などは恐怖さえ感じるような音楽に仕上がっているではないか。ここに至ってすでに脳天に直撃のような衝撃を受けてしまっている自分に気付くのだ。ゲルギエフの術中に完全にはまってしまっている。

「春のロンド」のコントラバスの地響きにも似たフレーズの作りこみ。何かが巨大な予感とともに再生し立ち上がってくる臭い。そしてティンパニと金管群による信じられないほどの叫びとフォルテッモ!!! ここから「敵の都の人々の戯れ」「賢者の行進」に至る音楽の勢いの圧倒的な迫力、粗いとはいうが弦楽器は結構滑らかだ。しかしこのリズムと勢いは何なんだ、なだれ込み、息をつかせる暇を全く与えない、まるで花火大会のスターマインを聴かされているかのような畳み込むような音の洪水は、まさにゲルギエフ節だ。 「大地への口づけ」のラストの不協和音の響きなどは戦慄さえ走る。こんなにもすさまじき和音であったか、「大地の踊り」に至っては、もはや音響に溺れてしまい助けを求めたくなる。

何と言うことだ、何と言う音楽だろう、あっという間に第一部が終了してしまっている。そして、さらに深淵なる第二部の「序奏」に突入だ。

ここの不協和音ときたら、現代音楽だ、クラシックだなどという範疇を超えてしまった音だ。この音を聴いて、魂が揺さぶられないものがいようか(=いるとは思うよ)。

第一部の怒涛の音楽を聴いて、ここでふっと一息つくかのごとくだが、先ほどの粗さと緊張感を維持しながら「乙女たちの神秘な集い」などがうたわれてゆく。繊細さとか精緻さというものは感じない。図太い音楽が迷いもなく進んでゆくという感じだ。

そして、「いけにえの賛美」だ。宇野功芳は嫌いだが、いまは素直に解説を認めたい。ここに至って音楽は沸騰し始める。それも、煮えたぎったという感じではなく、これほどの音楽でありながら、不思議なことに冷たく煮えたぎっているのだ。ゲルギエフは非常に効果的に音響を形作っている、一見熱く振っているようで、綿密なる計算があるのではなかろうか。

「祖先の呼び出し」のおどろおどろしくも呪術的な雰囲気は、「祖先の儀式」へと引き継がれる。単調に打ち鳴らされるリズムが次第にクライマックスへ向けての序奏になっていて曲を前に進めてゆく、ひとつの緩みもなくだ。音楽を聴くものはゲルギエフに首根っこを鷲掴みにされたまま、異教徒の集会を見せられ引きずりまわされてしまう。

最後の「いけにえの踊り」までもだ。もはや目をそむけることなど許されない。目を覆うばかりのこの雰囲気も、ついには原始の野蛮なまでの本能が刺激され、狂暴にして荒ぶる魂が完全に目覚めさせられてしまうのだ。ラストのあり方などどうだ、「これでもか!!」と棒を振り下ろした=いけにえを完全に屠ったかのような感じだ。

何度も繰り返すが、何という音楽で何と言う演奏であろうか。最初から最後まで慄然としたまま音楽が過ぎてしまった。聴かねばこの迫力は伝わらないと思う。ゲルギエフが好きなら迷うことなく買いなさいというところだ。

ただだよ、冷静に聴くならばこれが古今東西の「春の祭典」の決定盤ということにはならないと思う。何故って? これは、完全に「異教徒の祭典」の音楽なのだ。このエネルギーのあり方は、「春の祭典」を20世紀の現代音楽の幕開け的な位置付けや、解釈からの演奏とは目指す方向が異なると思うのだ。純粋に音楽的な世界だけがここでは展開されている。 私はそれほど多くの「春の祭典」に接しているわけではない。宇野功芳のような熱に浮かされたような感想を書いてはしまったが、それだけエキセントリックな一枚であることだけは確かなのである。

2001年7月1日日曜日

【音盤】ゲルギエフ指揮 ヴェルディのレクイエム



ヴェルディ/レクイエム 
  • 指揮:ワレリー・ゲルギエフ 
  • 演奏:サンクトペテルブルク・キーロフ歌劇場管弦楽団と合唱団 
  • ソプラノ:ルネ、フレミング 
  • メゾ・ソプラノ:オリガ・ボロディナ 
  • テノール:アンドレア・ボチェッリ 
  • バス:イルデブランド・ダルカンジェロ 
  • 録音:7/2000 PHILIPS UCCP-1026/7 (国内版) 
ヴェルディのオペラ名曲集を聴いたり、ボチェッリのテノールを聴いたからというわけではなく、ゲルギエフ&キーロフだからという理由で買った盤である。これがヴェルディのレクイエムの決定版かはさておき、豪華キャスト(らしいが、私はボチェッリしか知らない)を配した演奏で、かつパッケージも凝っていて楽しめるCDに仕上がっている。
ゲルギエフといえばエネルギッシュにして濃い演奏を期待するとことで定評がある。この演奏も音響的な迫力は十分であり、ことに繰り返されるディエス・レイ(怒りの日)のテーマの恐ろしさは格別だ。しかし、いわゆる「ゲルギエフ的な濃さ」という点では今一つであるように思える。彼のファンの中には、この演奏を不満を感じる人もいるかもしれない。近々「春の祭典」が発売されるらしいが、こちらも楽しみである。
ボチェッリはビールか何かのCFでの曲でも歌っているらしく、CDショップに行くと彼のコーナーが出来ているほど。人気があるのかな? この中では、唯一声を知っている歌手であるが、ちょっと異質な声に聴こえるのは気のせいだろうか。