ゲルギエフの展覧会の絵を聴いたついでに、家にある他の盤を2枚ほど聴いてみた。2枚しかないのでは聴き比べも何もあったものではないとは思うが。いまさら展覧会でも・・・という気持ちもあり、盤は増えないのである。
カラヤン指揮 ベルリンフィル
イエスキリスト教会 1965年
私が初めて展覧会を聴いたのは、このLPだ。高校生の時に購入したのだと思う。カラヤンというカリスマと、曲のもつおもしろさ、ソロイスティックなフレーズに魅了され、何度針を落として親しんだことか。グラモフォンの両開きジャケットは高校生には高嶺の花で、買ったときはジャケットの分厚さと解説の量に、感動の涙を流した(ウソ)ことを思い出す。
演奏は、カラヤンとしては二度目の録音で、その実力を十分に発揮している時期であり、独特の華やかなサウンドに仕上がっている。ベルリンフィルのソロも旨い、申し分ない出来であるとは思うのだが、一方で逆にそれ以上のものが聴き取れない、というのは高望みなのであろか。
チェリビダッケ指揮 シュツットガルト放送響(Stuttgart Radio Orchestra)
1976年 ライブ
チェリビダッケの晩年の演奏(1993年9月24,25日、ミュンヘン)ではないが、それでも十分に「遅い」演奏であると思う。ゲルギエフ盤との比較で話せば、演奏時間にしてチェリは35分56秒、ゲルギは32分5秒である。また最後のキエフの大門だけ比較しても、チェリの6分6秒に対しゲルギは5分23秒で駆け抜ける。この時間の差は、数字でみるよりも聴いてみると顕著で、二つは全く違った音楽として聴こえる。
チェリの遅さはしばしば指摘されるものだが、嫌みなものではなく、地から沸き上がるように音楽を積み重ね構築してゆくさまは、確たる足取りとともに聴衆を音楽に引きずり込む。この演奏でも、着実な歩みは、あたかもゆっくりと味わうかのように展覧会場を巡るようであり、目の前に彷彿とその情景が浮かんでくる。ラストのキエフにしても、遅くはあるが大きな盛り上がりを見せ、決して不完全燃焼で終わってしまう演奏になっていない、さすがと言うべきだろうか、聴き終わったあと、ひとり静かにブラボーと叫んでしまう。
ゲルギエフ指揮 ウィーンフィル
2000年 ムジク・フェライン ライブ
ゲルギ盤は何度聴いても異質であり、すさまじい。全身の肌が粟立ちラストに向かって放心状態となってしまう。しかし、そういう演奏がこの曲にとって幸福なことだろうかと疑問を感じないわけではない。特にチェリ&ミュンヘンと比べると、ゲルギエフのグロテクスクなまでなまでの音楽性というものが顕著だ。しかし、雑だというのではない、これまたチェリとは対極にある究極の演奏と言うことだ。
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