録音:1993年9月24,25日 ミュンヘン、ガシタイクザールおけるライブ
ムソルグスキー ボレロ
録音:1994年6月18日 ミュンヘン、ガシタイクザールおけるライブ
指揮:セルジュ・チェリビダッケ
演奏:ミュンヘン・フィル
EMI TOCE-11608
音楽雑記帳に1976年のシュツットガルト放送響との演奏時間の比較を記載した。これを見ても分かるように尋常なるテンポ設定ではない、ここまで遅いとは思ってもいなかったというのが正直な感想だ。しかし、雑記帳にも書いたように、録音された演奏を聴くだけで、遅いだの速いだのと評することに意味があるのかは疑問である。チェリビダッケの演奏は、そのEMIからリリースされたいきさつからして、演奏評を拒絶しているところがある。そういう意味からはCDの感想を書くことには困難がつきまとうと感じざるを得ない。
しかし、考えてみれば私はクラシック初級者で一ファンでしかないので、まあそういうことを気にかける必要もないだろう。
さてだ。プロムナードの開始最初からして遅い出だしである。他の部分も全てが遅い。まるでオケが練習でもしているのではないかと思わせるほどのテンポだ。
しかし、その遅さゆえに、例えばトランペットの柔らかい響きはやゆっくりとしたリズムは、諭すようだったり、回顧するようだったりで、限りなく慈しみと優しさが根底に流れるかのようである。遅さが逆に音楽の構成や意味を見事に聴かせてくれるかのようだ。「死者との対話」がこんなにも美しい音楽であったか、しかも極めてムソルグスキー的なサウンドであることは、この演奏で再発見させてくれた。
「バーバヤガー」も「キエフの大門」も、止まるのではないかと思うほどだ。もはや今まで聴いたことがない音楽が展開されている。しかし最後まで聴き通したとき、言い知れぬ感動に包まれていることに気づかされる。なにか大きなものに懐かれるかのようなあたたかさと、安心感、そして宗教的な境地にも似た至福さえ覚える。
それにしても、遅いテンポが、音楽の構成をこんなにも残酷なまでに露わにしてしまうものなのだろうかと、驚きを感じてしまう。ここに納められている15の断片のどれもが、顕微鏡的な精度で眼前にその細部を表した上で、マクロな調和と統一の結晶を見せている。CD解説の中で、許光俊が
あらゆるリズムや音型が目の前で生々しい形をもって誕生し、全体を構成していくという壮大な演奏を実現したと書いているが、これには全面的に同意する。まさに私が感じた感覚もそういうものであった。細部の拡大と再構築された全体像のすばらしさは、言葉にできないほどだ。
私はチェリのこの作品を何度も聴き返すことは止めにした。チェリのEMI録音がどのような経緯で発売されたかは、皆さんはご存じだろう。チェリの息子の言葉をいまは尊重しておきたいと思うからだ。
聴き手は、録音を繰り返し再生すればするほど、自発的に演奏というイヴェントを共同体験する意欲を失います(セルジュ・イオアン・チェリビダッケ)
そうとばかり言えない面もあるとは思うが、とにかく今はその意見に賛同する。
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