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2003年3月28日金曜日

【風見鶏】イラク攻撃報道を見ていて

まあつまりはそういうことだ。アメリカとイギリスは手を取り合って戦争を始めた。世界世論は割れたまま、オレは戦争の真実を知ることはできないでいる。戦争で死んでゆくのはイラクの兵士ばかりではない。イラクの(おそらくは金持ちは安全な場所に逃げてしまっているので、あまり裕福とは言えない)一般市民であり、戦争の目的を遂には信じることが出来ないまま戦場に赴いてしまった(こちらも推測だが、おそらくは裕福層とは言えないだろう)前線のアメリカ人やイギリス人兵士達だ。(米国捕虜兵の顔を思い出すがいい)
マイケル・ムーアはアカデミー賞授賞式で「ブッシュよ恥を知れ!」と叫び、失笑とブーイングと退場の拍手と音楽に追い立てられた。政府高官や大企業の子息が、イラクの砂嵐にまみれ、将校に追い立てられて銃を取っているということは、あと24時間でこの戦争が終結することがあったとしても、ありえないことだ。 

まあつまりはそういうことだ。武力ってのは破壊的で暴力的だが、見入っちまうんだ。ナイフや銃やミリタリー関係の雑誌が、ヲタク的な弱々しい男性に支持されている現実を思い出すまでもなく、つまるところ人を殺したいとはマッタク思っていない人が兵器や武器に魅入られるのは、一面でそれらが強さの象徴だったりするからだ。 

まあつまりはそういうことだ。ラムズフェルドは戦争が始まる前から笑っているように見える。中道派のパウエル(改心したのかさえ分からない)は、このごろ国内世論まとめに尽力しているようだが、彼は最初から最後まで笑ってはいないように見える。さて最後に笑うのは誰なんだろう。
笑っていると言えばだ、しかし何だって全てのTV局は金太郎のように同じ番組を作りつづけるのだろう・・・。この隙に、戦争のドサクサに紛れてよからぬことを企んでほくそえんでいる輩は居ないだろうね。 

まあつまりはそういうことだ。映像やメディアの進歩は戦場の生中継というものを実現しちまった。アナウンサーやレポーターが「これは映画やゲームではありません。本当の戦場なのです。リアルタイムに人が死ぬのです」と報じるが、そう言い放った瞬間に失われる現実感ってのは何なんだ。そこに彼ら放送メディアの戦場ビジネス感覚が透けて見えてしまうからかなのか。戦場のリポーターは命がけだろうが、ブッシュやラムズフェルド同様、CNNのトップはリポーターの命より視聴率を気にしては居ないだろうか。
一方オレたち(失礼"オレは"だ)生の戦場を知らないから爆弾が投下される様を、リビングでポテトチップを食いながら正視できる。脳死状態のオレは垂れ流される映像をカンゼンに受容しちまっている。新聞やTVで「今日の戦況」をチェックするのが「日常」になっちまった。自分の肉親や友人が戦場に居ないいから心安らかにハイテク戦車が砲撃する様に内心喝采を挙げられるのか。マッタクCNNをハイエナだと責めることなどできやしない。 

まあつまりはそういうことだ。日本のメディアは刺激的過ぎるからという理由で死体映像ははっきり写さないだろうということ。
「人が死ぬ」ことを報じたいのなら、バンバン朝飯や夕飯の時間に惨たらしい死体映像を流しまくって、吐き気を催させればいい。もっとも死体映像を流すことがマスコミの使命だとは思わないが、大本営発表的になることに大手メディアは荷担してはいないか。 

まあつまりはそういうことだ。CNNをハイエナと呼びそうになっちまったが、彼らが使命感に燃えて戦場に残ったが故に、これほどまでに戦争が注視されているという現実もあるわけだ。映像技術は進化した。そして、戦争反対のムーブメントもかつてないほどの広がりだ。つまりは一面マスコミの勝利ということでもあるのかもしれない。進歩していないのはそれを受け入れる"オレ"サイドにある。 

BBCの人気キャスターは、米国政府の米国兵士捕虜映像放映規制について批判していた。戦時下においても色々な意見が聞こえてこなければ更なる脳死状態に陥ってしまう。


2002年10月23日水曜日

【風見鶏】「N.Y. Times to buy Post's 50% share of IHT」

10.23 International Herald Tribune

23日の朝日新聞朝刊(2面)でも報じられていたが、パリに本拠を置くインターナショナル・ヘラルド・トリビューン(以下IHT)が100%ニューヨークタイムズ(以下 Times)の子会社になることになった。ワシントンポスト(以下 Post)が所有していた残り50%の権利を全て買い取ることにしたという。

今までは、IHTは独自の記事と、Times と Post の記事を掲載していた。世界的な新聞社にとっては、どこと記事を提携するか、あるいはどこと提携して自社の記事あるいはオピニオンを掲載させるか、ということは戦略であるらしい。IHTの子会社化はTimesの世界戦略のひとつであるらしい。

IHTの記事からは、Post と Times が水面下で、様々な駆け引きを行いながら今回の結果に導いたことを説明しているが、経営に関し、PostとTimesでの対立があったようだ。(PostとTimesのIHTとの関係は1960年代後半から続いていた)

気になるところは、TimesのIHTに対する経営関与とともに、IHTのオピニヨン誌としての独立性である。

IHT誌の記者であるPeter C.Goldmark Jr.は以下のように述べている。

"A change in ownership is intended," Goldmark said in a statement. "But there will be no change whatsoever in our commitment to quality, independent journalism. That is what we are, that is what we stand for, and that is what we shall remain."

またIHT誌の編集長 David Ignatiusは以下のようにも述べている。

he hoped the Times would maintain the IHT's role as an international newspaper. "The IHT is a great paper with a long history and a devoted readership," Ignatius said. "I hope the Times will respect the paper's traditions, its dedicated employees and its loyal readers."

我々の感覚からすると、新聞社が他の新聞社を100%子会社にするというのは、系列を除けば違和感を感じるが、Ignatiusは IHT の戦略について以下のように述べている。

The IHT's strategy in recent years has been to combine the strong journalism produced by its parents with reports from its own network of correspondents and stringers. The goal was to produce a newspaper that "spoke with an American accent," according to Ignatius, but maintained an international perspective.

ちなみにIHTは、日本では朝日新聞と記事の提携関係にある。日本では「朝日ヘラルド」という英字新聞が出版されていたはずである。

HIYORIみどり 「でどういうことなの? IHT誌がTimesよりの意見に傾きやすくなるてこと?」

KAZAみどり 「そんなこと聞かないでよ、IHTとかTimesをウォッチし始めてまだ10日も経っていないんだから! そろそろ忙しくなってきたんで止めようと思っていたら、この記事だったわけよ」

2002年10月17日木曜日

北朝鮮拉致被害者の帰国 2

拉致された方々について、次々に情報が流されている。一挙一動が全国民の目に晒されるような感さえある。マスコミは彼女あるいは彼らが何を食べ、何を話したか全て知りたがっている。

何かあれば家族会が記者会見にて話す。郷里に戻っても歓迎会と記者会見が用意されている。こういう状況は異常ではないのだろうか。

たとえば15日の帰国の日の各社のTVニュース。彼女あるいは彼らから得られる情報が微々たる物であったため、各局は再び今まで何度も何度も目にした、被害に遭ったときの場所や状況を、壊れたレコードのように繰り返し垂れ流した。ある番組は、彼女あるいは彼らの24年前と今の写真を拡大して並べ、番組の間中見せてくれるという親切さだ。24年間の時の重みを感じさせたいのだろうが、そんなことを、貴方ならして欲しいだろうか。貴方が今、幸福な状況にあるとしてもだ。帰国以前あるいは生死がわからない間は、24年前の写真は「記号」でしかなかった。しかし生身の人間が現在したその瞬間、それは「記号」なんかではなくなる。

こういう報道姿勢に違和感を感じないだだろうか。

ここで新潟の少女監禁事件(*)を思い出す。小学4年生だった少女を9年間に渡って監禁していたという異常な事件だ。あの事件では、被害者の人格と今後の社会復帰を考えて、報道は彼女に対してある程度の距離を置いた報道をしていたと思う。

その事件と、同じだとは言わない。でも、と感じるのは私だけだろうか?

結論から言うと、しばらくはそっとしておいてあげたいということだ。彼女あるいは彼らから、我々は感動をもらわなくても十分である。私たちは彼女や彼らに比べれば、はるかに安全で幸福な環境で、さまざまな刺激を受容しながら生きてきている。だから、彼女や彼らに悲劇の主人公のような役回りまで果させたくはないと思う。北朝鮮でも日本でも良い、彼女あるいは彼らが望む方法で、好きな場所で、普通に生活してくれればそれでいい、その結果を私は積極的に知りたいとは思わない。ましてや、日本と北朝鮮関係を変えて行くための役割を果すということは、本人の意志があれば別だが、酷すぎはしないだろうか。

ただ、北朝鮮問題、戦後の問題など、私には多くのことがわかってはいないのだが・・・

(*)2000年1月、9年前に失踪した当時小学校4年生の少女が9年2カ月ぶりに柏崎市で発見された。事件が起きた同県三条市から、わずか数十キロ離れたところである。少女は、誘拐したSex Offenderの男の家でずっと監禁生活を強いられていたのだった。男と少女は2階に住み、他人を一歩も入れず、階下には男の母親が召使同然の状態で住んでいた。少女は19歳になり、男は37歳になった。少女は直ちに親元に帰されたが、足掛け10年に及ぶ軟禁生活が彼女の今後の人生にどう影響していくのか。さらに、なぜこの男が警察の捜査網から漏れていたのか。野放しのSex Offenderの現状とともに、二重の意味で国民は大きな衝撃を受けた。


2002年10月16日水曜日

北朝鮮拉致被害者の帰国

北朝鮮に拉致されていた5人の方々が帰ってきた。さぞかしつらい思いであったことだろう。24年ぶりの抱擁には万感の、言葉にはできない感情が詰まっていたのだろうと思う。まずはよかったと言いたい。

しかし、この歓迎ムードに水をさすようだが、ふと思うことがある。マスコミの熱狂的な報道と私を含めたそれを見る者についてだ。報道に接するものは、報道から何を期待しているのだろう。熱烈な歓迎と帰還の喜び、あるいは変わらぬ家族愛だろうか。マスコミは多くのドラマが込められているので、ここぞとばかりに煽るように報道している。

でも、私の場合、冷たいと言われればそれまでだが、どうしても白けてしまう。皮肉な見方かもしれないが、彼女あるいは彼たちに、心からよかったいう気持が起こる反面、彼女あるいは彼らが北朝鮮に洗脳されてしまっていること、あるいは人質として家族を北朝鮮に取られている不幸な状況を、彼らの発言から読み取りたいと無意識のうちに思ってはいないか、そして、やっぱり北朝鮮は不気味で変な国だと再確認したいと思ってはいないか、と考えてしまうのだ。

最近閉幕したアジア大会での一シーンを思い出す。アジア大会には北朝鮮は美女応援団を派遣した。しかし彼女たちの不思議なそして違和感のある応援体操を見たとき、そこに北朝鮮の全体主義と総書記への絶対性に対する嫌悪に似た感情を感じた人もいるだろう。嫌悪の先にあるのは、北朝鮮は「アブナイ国」であるという認識(これもマスコミを通して喧伝されている認識だが)を新たにし、安心するようなところがないだろうか。

拉致被害者が「情報のカタマリ」という表現にもひっかかる。彼らはきちんとした人格と自我を持った人間であるはずだ。彼らは本当に不幸なのだろうか、いや不幸だったのだろうかと考えてみることは無意味だろうか。(間違いなく不幸な状況から始まったことは否定しないし、おそらく現在も不幸な状況=自由を制限された状況であるとは思う)

10月16日付のNewYork Timesは、日本の熱狂を横目に見ながらも「Abducted a Lifetime Ago, 5 Japanese Come Home for a Visit」として、帰国報道をトップページに掲載していた。米軍から脱走したCharles Robert Jenkinsのことに若干触れている点が、日本の新聞とは少し違うが論調は同じである。

拉致被害者の北朝鮮に残してきた家族が人質のようなものという点に関しては、「Pyongyang has said that the six children of the returnees did not want to accompany their parents to Japan. But in Tokyo, the Japanese grandparents said the children were being held as hostages」と言及するにとどめているようだった。

NewYork Times 記事は最後に「拉致して殺してしまう」という小泉首相の発言を紹介して終わっているが、米国にとってはどのような事件として写っているのだろう。少なくとも NewYork Times からは、悪の枢軸論を印象付ける記事という感じは受けた。ただし今の米国の主要話題は、ブッシュVSアルカイーダ(バリ島テロを含む)と連続狙撃事件である。Wasihngtonpost や Wasihington Times には拉致問題に関する記事は、トップページには確認できなかった。NewYork Times の記事が異例なのかもしれないが。(新聞は各誌のHPであることをお断り致します)

拉致問題には、第二次大戦中の日本と朝鮮の関係や補償問題、補償、拉致問題に関する歴代首相と外務省の無責任と無対応ぶり、北朝鮮脅威論と柔和策など多くの問題が絡んでいる。帰国報道のみが前面に取り上げられる報道には違和感を感じてもいる。


2002年7月17日水曜日

情報の非対称性

田中康夫長野県元知事の問題について、情報が少ないと書いた。7月16日の朝日新聞朝刊は、田中氏失職のニュースを大々的に多くのページで説明しているものの、知事と県議の論点を具体的に説明している記事は全く見あたらなかった。新聞は紙面を割いていったい何を報道しているのだろう。「劇場型政治」などという言葉を作り出し偶像を祭り上げ、そしてそれを引きずりおろすことに躍起になっているのは、他ならぬマスコミなのではなかろうか。

同日の朝日新聞社説においても「不信任賛成の県議と田中氏の間で何が対立軸になっているのか、いまだに明確ではない」と書いているが、それをわかりやすい形で示すのが報道のなすべき事ではないのか。私は長野県民ではない、長野県で何が起こっていたのか逐次知っているわけではないのだ。いくらコメンテーターや評論家に意見を述べてもらっても、肝心の前提条件を説明されなければ、共通理解の土壌に乗ることがでず理解することが困難である。新聞社には既に問題点は整理済みなのかもしれない、私が読んでいないだけなのだろう。それでもあのような紙面作りでは、読み手は受身にならざるを得ない。

そんななかで、再び同日の朝日新聞の「私の視点」における杉原帝山大学講師(元長野県知事特別秘書)の意見は、まさに私が感じていることを代弁してくれていた。杉原氏はそれを、「情報の非対称性」という経済用語を用いて簡潔に説明してくれている。杉原氏は新聞の紹介によると、田中元知事の特別秘書として仕えたが、「脱ダム宣言」をめぐる意見の食い違いから辞任したとある。いうなれば、田中氏を一番よく知っている側近だったものの発言だ。

杉原氏の発言は、すべてが明確である。引用したいのだが、それをしていたら全文を引用する羽目になってしまう。朝日新聞が近くにある方で、興味があれば読まれることを勧める。それでも、少しだけ引用すると《テレビや劇場設定の枠の中に収めるため、争点や対立軸を単純化し、多角的な情報提供を前提にしていない》《不信任案決議の背景が市民に伝わらず、ダムを造るか造らないかという議論に矮小化されてしまう》などというスタンスだ。

こういう状況を杉原氏は、《情報の非対称性が劇場型民主主政治の「市場の失敗」》と説明している。まさにその通り、杉原氏が少ない原稿の枠内で提示した問題について、ひとづづつ検証し報道することこそが、マスコミに求められる役割なのではないだろうか。

例えば、県議は田中氏が知事に就任して以来、県経済が停滞しはじめている、と指摘しているが、それを具体的示すことが必要なのではないだろうか。それが田中元知事の政策によるものなのか、それとも前知事時代からの(オリンピック開催を含めた)継続的な負の遺産なのかも含め、双方の主張を提示してもらいたい。専門家に登場願うとすると、その主張や数値の妥当性に対する検証においてではなかろうか。

あるいは、脱ダムによる補助金問題についてもしかりである。補助金と地方自治体という切り口は長野だけの問題ではない。だからこそ田中氏は自立的発展ということを理念として掲げたのではなかったか。

田中氏の政策も小泉首相の政策も「具体的でない」とよくマスコミは報道する。私にはこの、「具体的でない」という主張そのものが具体的ではなく理解できないのだ。(>ばかなだけ? 政治経済欄を隅からスミまで読んでいないから?) できるなら、杉原氏に田中氏の政策のどこが間違っていて現実味がないのか、もう一度、具体的に説明してもらいたい(NHK日曜討論ででもやってくれないかね、サンデープロジェクトは問題多いから)。

同じく「私の視点」で蒲島東京大学教授が指摘しているように《田中知事が戦っている相手が戦後システムそのものであるならば》と指摘している。社会面でタレントの遙洋子さんは《田中さんの姿は「オヤジ」と格闘するキャリアウーマンの姿とだぶる》と書く。

長野県という一地方の問題ではあるものの、だからこそ、わたしを含め、田中康夫問題に敏感になっているのだ。感情論などやイメージ、風潮で論じてはいけないと思う。私には、田中氏のスタンスに協調できるかどうかの判断が、現時点ではできないでいる。

わたしを含めたものを、ここまで追いこんでいる「閉塞感」とはいったい何なんだろうか、と考えざるを得ない。元気のない経済という問題ではないことだけは確かだ。閉塞感の正体さえ掴めないとしたら、なんと不幸な状況だろうか・・・

2002年5月16日木曜日

内閣官房内閣とは大本営か、そして哀しき絶望

天下の外務省がボロボロである。機密費問題に始まり、田中外相との対立、瓢箪から駒のような鈴木宗男疑惑、そして今回の中国瀋陽の日本総領事館亡命事件での不手際である。

現在のところ日本と中国側の主張が大きく異なっていることは報道にて周知の通りである。TVを見ていると、小泉総裁や福田官房長官は「日本の報道よりも外国の報道を信じるのですか」と開き直る。

この論理を聞いて、私は怒りを通り越して絶望を感じた。確かに中国は当初、この問題を国内で全くと言っていいほど報道しなかったらしい。日本が現地検証などをTVカメラ監視のもと実施していても、何が起きているのか理解している市民は少なかったという(私の情報源はTV朝日のニュースステーション:偏向していると言われりゃそれまでだが)。それは報道管制かもしれないし、あるいは、何かを守るために事を大きくしたくなかったと言う配慮だったのかもしれない。守る対象が中国政府かもしれないし、もしかしたら日本政府そのものだったかもしれないのだが、それは分からない。

客観的な事象に基づいて、双方の主張をどこまで信用すべきかを我々が知る手段はないのだ。

しかし、少ない報道情報から両者を比較した場合、どちらにより真実が多く含まれるらしいかということに気づかないほど、我々はばかではない。中国政府発表を全面的に信用しているというわけではないものの、最近の日本政府および内閣官房のやり方を、どうして信用できようか。

現在国会は、経済再生については「底を打った」とし、有事関連法案、個人情報保護法案などの超重要案件を通そうとしているのだ。この2関連法案の提出のされ方からして、政府あるいは内閣官房の言を信じることはできない、思い上がりもはなはだしい!

書いていて、あまりのことに情けなくなってくる。国民には一番重要な事を知らせず、話さず漏さず、政府の言うことだけ信じろという。「民は知るべからず」か、まさに今の内閣官房は戦時(有事)中の大本営そのものなのではないか。

この事件を機に、私は今の内閣をついに全否定しているということにやっと気づかされた。信頼しないということは、支持しないということだ。もう福田官房内閣は支持しません、あ小泉内閣か。

蛇足だが、先日のニュースステーションで、久米宏がビルマ(ミャンマー)のスー・チー書記長に「ちなみに最近の外務省がガタガタなことはご存知ですか」と愚問を発した。スー・チー女史は、笑いを押し殺し、そして少し困ったように(私には見えた)「それは外務省だけではないのでは」と答えたのだったよ、トホホ・・・

2001年6月6日水曜日

報道に対する憤り

田中外相と豪ダウナー外相との会話に関する問題はどこまでが真実なのか。

昨日、ダウナー外相は「田中外相の米国批判の内容を米国に伝えることを橋本龍太郎氏に話した」ことを「事実無根」であるという声明を発表した。

なんなんだ? 田中外相がミサイル構想に疑義を呈したのは事実のようだが、どこまでが本当なのだ?

野党はこれを機にと、外相の資質にまで言及し辞任を強く求めてくるだろう。今のままでは、外交手腕に不安を感じることは確かだ。5日の朝日新聞の社説でも「第六感」に頼るような外交を批判していた。

米国務省のバウチャー報道官は、田中発言を重視しない発言をしている。日本が今までの「協調路線」を踏み外すことはないと思っているからだ。福田官房長官の言うように「同盟国は米国」なのだから。

明らかになったのは、田中外相の大臣としての資質ではなく、政府個人レベルでの意見の食い違いである。したがって、議論すべきは、政府としての統一見解、与野党間の意見調整にこそ議論が裂かれるべきで、一外相の進退問題を汲々と論じるのはいかがなのか。田中外相も批判を浴びていることを真摯に受け止め言動を考えてもらいたいとは思うが。

それにしても、一連の報道の中で真実と真意はどこにあるのか、正確に伝わってこない憤りを感じる。それに、一番最初の情報の発信源は「誰」なんだ? 彼の目的は何だ?

2001年5月20日日曜日

報道の客観性

おとといのニュースステーションで、女性アナウンサーが「国会中継がおもしろいですね」と言ったら、久米宏はあろうことか「NHKの視聴率が上がるだけで、面白くないのですがね」と言った。

ニュース報道をする場の人間だって視聴率を気にしているのことは自明であったはずなのだが、改めて口にされると驚かざるを得ない。考えてみれば、NHKだって10時にニュースを移したのは視聴率のせいだったはずだ。企業活動である以上、当然の行為とは言える。(NHKが企業なのかという問題も残るが)

でも、視聴率という制約に縛られた報道、あるいは、雑誌の売り上げに縛られた報道。そこに純粋な客観性が求められるのだろうか。

民放や週刊誌類は「分かりやすければ、面白ければよい」みたいな視聴者や読者に媚びるような風潮はないだろうか。

報道の標的となったものは、自らを守るすべはもはや残されてはいない。政治生命、企業生命、社会的生命など一瞬にして葬り去ることの出来る報道の攻撃性。それを検証できるのは、報道を評価するという考え方や、報道に対する法的、科学的客観性の証明ということではないのだろうか。その手段は、広く私たちの手に利用されやすいようになっているのだろうか。

2001年5月16日水曜日

国会中継や報道のバカさ加減

ここ数日、報道も野党も田中外相の「ドタキャン」や「具体策無き改革」を集中的に攻撃しているが、ちょっと待っていただきたいという気持ちがある。

我々は、田中外相がなにやら外交上の予定を取り止めたことは知っている。しかし、その交渉の内容や、予定していた出席者、実際に出席したメンバー、そして何よりもその外交予定が何を目的としており、結果どういうことを確認し合ったかについての具体的な内容について知ることが少ない。実際は報道されているのかもしれないが、「真紀子タタキ」に比べて比重が小さいのではないか?

あるいは、「具体策なき改革」というが、首相になってから具体策を検討する時間が今のような状況であるのだろうか。我々はむしろ、国会での無益な答弁よりも、1ヶ月程度で改革にいたるためのアクションプランと具体的な達成目標、またそれを実現するためのメンバーなどを提示してもらうことを期待したいのだ。

だって、会社経営にしても小グループの活動にしても、まずプランありきじゃないの?何ヵ年計画とかさあ、中長期の計画と短期計画が明確に示されるべきじゃないの? どこの公共事業をけずるとかは、具体的施策であってそれ以前の部分じゃないのかと思うのだよ。

その実現可能な計画の項目として、何を絞るのか(重点目標てやつだよね)という議論ならばすべきだと思うけど。具体的じゃないのは野党の民主党だってマスコミだって同様だよ。「経済対策」と「構造改革」て、じゃあ何をするの(してほしいの)?

マスコミからは、知りたい情報が全然伝わってこない、野党は追及して欲しいことを全然追及してくれていない。あんたら、バカじゃないの?といいたくなってくるのだが・・・

まあ、政治音痴にしてノンポリ、俄か政治談義を吹っかける輩に言う資格があるとも思えないのではありますがね・・・・


2001年4月23日月曜日

政治報道について

昨日(4月22日)の朝日新聞日曜版で、筒井康孝がコラムで最近の政治ジャーナリズムに対する批判を述べていた。

 要約すると、あまりにも最近のマスコミは政治家の悪い部分のみを強調して、面白おかしくスキャンダラスに報道しすぎる。分かりやすいという理由で、芸能人を扱うのと同じようなスタンスで政治家に接している。ジャーナリズムがスキャンダル性を前面に出すため、それを覆い隠すために「正義」という仮面をかぶる・・・・というものであったと思う(手元に紙面がないため、不正確だと思うが)。かの失策という烙印を押された橋本元総理でさえ、あの時期の勤めとしては仕方なくいのではないか、むしろ「失策」というのはマスコミが作り上げたイメージが大きいと読み手に印象を与える一文さえあった。

 橋本氏の部分はおいておくにしても、何と的確に、最近のマスコミの馬鹿さ加減を言い表していることか。確かに、マスコミは政治を冒涜しすぎたのではなかろうか。政治家が醜聞にまみれていることも確かである。しかし、いまの社会において、マスコミはどこにも「希望」を見つけ、若き世代に提示してやることもできていない。

 私の小学6年になる息子は、マスコミ報道の政治家の馬鹿さ加減(そればかりだから)にあきれ返り、政治や社会にたいして不信感というものを植え付けられつつあるようだ。平安時代の蘇我氏などの歴史などを覚えるにつれ、「全然変ってないんだね」と感想をもらすのである。