田中康夫長野県元知事の問題について、情報が少ないと書いた。7月16日の朝日新聞朝刊は、田中氏失職のニュースを大々的に多くのページで説明しているものの、知事と県議の論点を具体的に説明している記事は全く見あたらなかった。新聞は紙面を割いていったい何を報道しているのだろう。「劇場型政治」などという言葉を作り出し偶像を祭り上げ、そしてそれを引きずりおろすことに躍起になっているのは、他ならぬマスコミなのではなかろうか。
同日の朝日新聞社説においても「不信任賛成の県議と田中氏の間で何が対立軸になっているのか、いまだに明確ではない」と書いているが、それをわかりやすい形で示すのが報道のなすべき事ではないのか。私は長野県民ではない、長野県で何が起こっていたのか逐次知っているわけではないのだ。いくらコメンテーターや評論家に意見を述べてもらっても、肝心の前提条件を説明されなければ、共通理解の土壌に乗ることがでず理解することが困難である。新聞社には既に問題点は整理済みなのかもしれない、私が読んでいないだけなのだろう。それでもあのような紙面作りでは、読み手は受身にならざるを得ない。
そんななかで、再び同日の朝日新聞の「私の視点」における杉原帝山大学講師(元長野県知事特別秘書)の意見は、まさに私が感じていることを代弁してくれていた。杉原氏はそれを、「情報の非対称性」という経済用語を用いて簡潔に説明してくれている。杉原氏は新聞の紹介によると、田中元知事の特別秘書として仕えたが、「脱ダム宣言」をめぐる意見の食い違いから辞任したとある。いうなれば、田中氏を一番よく知っている側近だったものの発言だ。
杉原氏の発言は、すべてが明確である。引用したいのだが、それをしていたら全文を引用する羽目になってしまう。朝日新聞が近くにある方で、興味があれば読まれることを勧める。それでも、少しだけ引用すると《テレビや劇場設定の枠の中に収めるため、争点や対立軸を単純化し、多角的な情報提供を前提にしていない》《不信任案決議の背景が市民に伝わらず、ダムを造るか造らないかという議論に矮小化されてしまう》などというスタンスだ。
こういう状況を杉原氏は、《情報の非対称性が劇場型民主主政治の「市場の失敗」》と説明している。まさにその通り、杉原氏が少ない原稿の枠内で提示した問題について、ひとづづつ検証し報道することこそが、マスコミに求められる役割なのではないだろうか。
例えば、県議は田中氏が知事に就任して以来、県経済が停滞しはじめている、と指摘しているが、それを具体的示すことが必要なのではないだろうか。それが田中元知事の政策によるものなのか、それとも前知事時代からの(オリンピック開催を含めた)継続的な負の遺産なのかも含め、双方の主張を提示してもらいたい。専門家に登場願うとすると、その主張や数値の妥当性に対する検証においてではなかろうか。
あるいは、脱ダムによる補助金問題についてもしかりである。補助金と地方自治体という切り口は長野だけの問題ではない。だからこそ田中氏は自立的発展ということを理念として掲げたのではなかったか。
田中氏の政策も小泉首相の政策も「具体的でない」とよくマスコミは報道する。私にはこの、「具体的でない」という主張そのものが具体的ではなく理解できないのだ。(>ばかなだけ? 政治経済欄を隅からスミまで読んでいないから?) できるなら、杉原氏に田中氏の政策のどこが間違っていて現実味がないのか、もう一度、具体的に説明してもらいたい(NHK日曜討論ででもやってくれないかね、サンデープロジェクトは問題多いから)。
同じく「私の視点」で蒲島東京大学教授が指摘しているように《田中知事が戦っている相手が戦後システムそのものであるならば》と指摘している。社会面でタレントの遙洋子さんは《田中さんの姿は「オヤジ」と格闘するキャリアウーマンの姿とだぶる》と書く。
長野県という一地方の問題ではあるものの、だからこそ、わたしを含め、田中康夫問題に敏感になっているのだ。感情論などやイメージ、風潮で論じてはいけないと思う。私には、田中氏のスタンスに協調できるかどうかの判断が、現時点ではできないでいる。
わたしを含めたものを、ここまで追いこんでいる「閉塞感」とはいったい何なんだろうか、と考えざるを得ない。元気のない経済という問題ではないことだけは確かだ。閉塞感の正体さえ掴めないとしたら、なんと不幸な状況だろうか・・・
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