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2005年9月17日土曜日

【本棚】関岡英之:「拒否できない日本」


関岡秀之氏は1961年生まれ、大学を卒業後、東京銀行(現・東京三菱銀行)に入稿し証券投資部門ほかを経た後に退職、1999年に早稲田大学大学院理工学研究室に入学しているという一風変わった経歴の方。早稲田大学ではある建築家の研究室に所属し、それがきっかけとなって参加した北京での国際建築家連の世界大会に参加します。そこで感じた一抹の不可解さから、彼は建築界をも超える壮大なテーマに挑むことになってしまいます。

それは一言で言えば本書副題の「アメリカの日本改造が進んでいる」ということです。アメリカの対日圧力要望書である「年次改革用要望書」の存在と、十数年の日本の歴史を振り返ると、まさにその要望書が描くように「改革」が進められてきた実態が明らかになり、アングロ・サクソン(米英)系の個人主義的価値観により日本を塗り替えようとする(ほとんど理解不能の)野望について知ることになります。



本書の内容は、建築、金融、司法、商法などあらゆる分野に「年次改革要望書」の影響が読み取れることを指摘しております。それは日本の国際化とか自由化、国際標準への準拠とか消費者、国民のためと表面的にはされているものの、結果的には米英を中心としたごく一部の勝者が日本で「自由」に動けるようにするための周到な施策と圧力であると看破します。

フリードマン(経済学者、市場原理主義の教祖的存在、1976年ノーベル経済学賞受賞)的な自由主義とは、万人の自由というよりは、投資家や企業経営者たちの自由、つまり平たく言えば金持ちがさらなる金儲けに狂奔する自由を説くものにほかならない (P.204 5.キョーソーという名の民族宗教)



ロナルド・ドーア(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)特別研究員)は『日本型資本主義と市場主義の衝突 日独対アングロサクソン』のなかで、こんにちの「自由化」と言われているものは実は「英米化」にほかならず、それが求めているのは貧富の差を拡大すること、無慈悲な競争を強いること、社会の連帯意識を支えている強調のパターンを破壊することであり、その先に約束されているのは生活の質の劣化である、と述べている。(P.220)


上記の主張や引用のように、関岡氏が現在の「構造改革」の行く末に疑問と警鐘をならしています。

私事になりますが、私自身日々の「無慈悲な競争」の前線で、従来の談合も強調も崩れたゼロサムゲームに似たビジネスを強いられていますが、結果的には「貧者」から「富者」へ単に「所得移転」する役割を担わされてるだけのように感じることがあります(正直、自分達の身銭まで削って真の「勝者」に「貢いで」いる状況)。「富者」はもはや絶対的な「強者」になっており、スタンダードは「強者」が牛耳っています。契約の条件は最初から「片務」です。

関岡氏は「米英」系のやり方について、「法」に対する考え方の違いにまで言及していますが、ここで塩野七生氏の「ローマは一日にしてならず」の一文を思い出しました。

政治体制とは、単なる政治上の問題ではない。どのような政体を選ぶかは、どのような生き方を選ぶかにつながるのである。(P.168 第二章 共和制ローマ 「ローマは一日にしてならず(上)」文庫版)



改革とは、かくも怖ろしいものなのである。失敗すれば、その民族の命取りになるのは当然だが、成功しても、その民族の性格を決し、それによってその民族の将来まで方向づけてしまうからである。軽率に考えてよいたぐいのものではない。(P.172 第二章 共和制ローマ 同上)

蓋し同感。








2005年9月2日金曜日

夏は終わったか?


衆議院選挙が公示されいよいよ舌戦も暑くなってきた。夏は確実に終わりつつあるが暑いところはまだ暑い。


以前仕事で付き合っていた知人から久し振りにメールが来た。彼の会社は春に会社更生法が適用され、その後外資が支援すると発表されていた。会ってハナシを聞いてみると給料は大幅カット、会社は「10年で上場させる」という方針らしく、これでは先が見えず不安なので同業他社に転職をすることにしたと。幸い彼はすぐに大手から内定を貰う幸運に巡り合えた。果たしてこの場合「おめでとう」と言うべきか・・・とりあえずは、よかったなと。


小泉首相の進める改革。痛みの中で良い方向に脱皮できる人は幸せである。経済的には「淘汰」「再編」とくくられるできごと。いまの私とて10年後どころか5年スパンで見ても先が透明なわけではない。この年になって「先が漠然と不安」というのは確かにやりきれないが、社会環境や経営責任のせいにする年齢でもなくなってきた。


病院の待合室でファッションやライフスタイル関連の月間誌をパラパラ眺めるにつけ、一体どこの世界のできごとかと思うような話題ばかり、やっぱり日本は変質しつつあるのかなと、ぼんやり思う。



ハリケーンで略奪激化 米南部、貧困層に不満

超大型ハリケーン「カトリーナ」上陸に伴い、約48万人の市民の大半が市外に脱出した米南部ルイジアナ州ニューオーリンズで、市内に残った住民による略奪や自動車の襲撃などが激化、地元警察などが警戒を強めている。(8/31)


スピルバーグの映画「宇宙戦争」でも、トム・クルーズの前妻は安全な場所に早々に避難していた。アメリカのような日本なって欲しいと思わないが、そういう将来の方向性まで今回の選挙が背負っているのかは判断がつかない。競争社会ということは上のような帰結でもあるのだから。


あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書 新潮新書 (125)
保阪 正康 (著)
を読む。感想は表にそのうち・・・。早い人なら1~2時間で読んでしまうだろうが、内容は示唆に富む。批判も多い気もするが・・・

2004年7月12日月曜日

参議院選挙が終わって

参議院選挙が終わり、自民党は目標の51議席の確保はできませんでしたが、公明党と併せて安定多数を確保、一方民主党は、共産、社民などの票を食い躍進という図式で終わりました。


しかし、二大政党の到来などとマスコミがはやし立てるのも、なんだかずれていると思いながら、政権に対しては複雑な思いを抱いています。




というのも、民主党への支持はおそらく「No小泉路線」という意識の集約であったろうとは思うものの、その勢力は思ったほど大きくはなかった、という点と、民主党の政策や民主党員の顔ぶれを見ても、自民党ほどではないかもしれませんが「多彩」であり、ひとつの政策政党としては矛盾を孕んでいるのではないかと思うからです。


政党は何らかの利益を代表するものですが、「自民」=地方・農村、「民主」=都市というほどには単純な図式では、もはやありません(一人区において今回の与党勝率は14勝13敗、前回は25勝2敗だった)。憲法問題についても、かつてを知る者には自民も民主もオール与党のようであり様相は複雑です。鈴木宗男氏が落選したとはいえ、あれほどの得票したのは、間違いなく地方のある「層」の利益代表として期待したからでしょう、政治と有権者の関係は結局変わっていない部分も多いのだと。


小泉政策は格差の拡大と属米路線が明確で、「改革」の目的もそこにあるようですから、これまたある「層」の利益を代表しているのでしょう。その「層」以外の人たちは、自分達がその「層」に居ないことを、実はまだ気づいていないのかもしれなく、従って選挙が前評判ほどには盛り上がらず、争点も「年金問題」という卑近なものに終始してしまったような気がしないでもありません。


自分たちがその「層」ではないことを気づかないというのは、書店にあふれる「金融関連書籍」のヤマを見るとふとそう思うわけで、誰もがもしかしたらソロスになれると思っているのかもしれません。


小泉氏は、当面責任を取るつもりも無く「改革路線は微動だにせず」ですから、格差拡大と属米路線を更に薦める政策をとりつづけるでしょう。そういう路線に「No」という政治家が現れない限り、どこの政党が票を取ったとて、五十歩百歩の感は否めません。


福祉、年金、消費税、少子化、国防、改憲、教育、不良債権処理、国債、金利、どれもこれも日本の将来にとって重要な問題ですが、それらを全て含めて私たちはどこに向かうのか。今の日本を炙り出すような選挙ではあったと思います。議席を伸ばした民主党の今後には期待しましょう。



��004参院選 民主50、自民49 議席確定


 第二十回参院選は十二日、開票作業をすべて終了、比例代表を含めて百二十一議席とすべての当選者が確定した。自民党は勝敗ラインの五十一議席に届かず四十九議席。公明党と合わせた与党でも改選過半数の六十一に届かなかった。民主党は五十議席を獲得して改選第一党となった。

 自民は平成元年参院選で単独過半数を割り込んで以来、その回復が悲願だったが、十三年参院選でみせた「小泉ブーム」の再現は、ならなかった。民主党は比例代表で第一党となる一方、選挙区では、自民の牙城だった二十七の一人区で健闘。東京、神奈川、愛知で二議席を獲得するなど大都市圏の複数区でも幅広く議席を得た。公明党は改選の十から十一議席に拡大。共産党は改選十五から四議席へと大幅減、社民党も改選二議席を維持しただけだった。(産経新聞)

Yahoo http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040713-00000002-san-pol [7月13日2時35分更新]


2004年2月20日金曜日

新生銀行の再上場

新生銀行が再上場したことが話題になっています。新生銀行といえば破綻した日本長期信用銀行。バブルの時の乱脈融資が破綻の引き金で、国会でも何度も答弁を繰り返していたことを思い出します。

買収したのは、米投資ファンドのリップルウッド・グループなど。上場に伴う株の売却で約2300億円を得ています。1210億円
余りだった投資資金の2倍近い収入を得て、なお時価7千億円以上の株式を保有するわけです。国が投入した公的資金は約7兆9000億円、そのうち債務超過分の穴埋めとして金銭贈与した約3兆6000億円は損失が確定。悪名高く批判された「瑕疵担保条項」を積極的に利用して、三年間で300社以上の債権を国に買い取らせての再生です。旧長銀の連鎖倒産は民間信用調査機関の調べによると、152社、負債総額約11兆円に上っているそうです。(以上、日経、朝日、読売新聞より)
この企業再生劇を成功と見るのか、苦い経験と見るのか、経済に疎い私には判断ができません。国民負担は4兆とも5兆円とも言われています。確かに新生銀行は徹底した業務改善などに取組んでいるようで、日本の銀行が出来ないようなサービスを提供しつつあります。銀行では多くの優秀なインド人を雇って効率化に取組んでいるという話も聞いたことがあります。
釈然としない思いは残るものの、外資だからこれほど早く再生させることができたのでしょうか。まさに竹中金融相の思い通りになったわけえですから、成功というように受け止めるべきなのでしょう。私には分らないことだらけですが、非常にエポックメーキングなことで記憶にとどめておくべきことだと思っています。

2002年11月28日木曜日

【風見鶏】「社説 次の矢に期待する構造改革特区」~教育への株式会社参入

11.28 日本経済新聞 社説

このごろ忙しく新聞をゆっくり読む時間がないのだが、28日付け日経新聞社説に「経済活性化への突破口として期待される構造改革特別区域法案が12月に成立の見通し」との記事が目にとまった。

その中で、「株式会社による病院や学校の経営は、それぞれ厚生労働省、文部科学省の反対で見送りになった」とある。これには疑問を感じざるを得ない。医療はさておき教育の民間参入拒む理由は何か。文部科学省は「教育の質を保証できない」としているが、社説同様に不可解の念にとらわれる。

私は教育にも大規模な改革が必要だと思っている。それは義務教育から生涯学習を含めたスパンでの改革だ。教育には多様性が必要だと言う認識が、まだ醸成されないのだろうか。今のままでは学校教育は、社会に出ても「使い物にならない」(=だから勉強しない)ものでしかないのではなかろうか。

産経新聞の「教育を考える」2002/10/28も合わせて読んでみた。株式会社がによる学校経営の是非については判断が難しい。しかし、現行の教育制度、教育機関に対する「深い不信感」だけは、更に深まるのであった。



HIYORIみどり 「学校経営が失敗したら、やっぱり生徒を保護するために企業に公的資金注入するの~? つぶれたら卒業証書もらえなくなっちゃうじゃない」

KAZAみどり 「その考えそのものが硬直化しているわ。卒業証書や学歴に何の意味があって? 学校が潰れそうなら別なところに移る、自分が何を学びたいのか見極めた上で学校を選ぶという発想はできないの」

HIYORIみどり 「あなたのはデキル人の論理よ。転職だってままならない社会で、子供と親にそれを求めるのは無謀ぢゃない。今なら籍さえあれば卒業できるのよ」

2002年11月3日日曜日

【風見鶏】「Why reforming Japan's banks could ruin the U.S. ~ The dollar dilemma」

11.03
International Herald Tribune
Akio Mikuni and R.taggart Murphy The New York Times
Saturday, November 2, 2002

IHTのEditorials & Opinionsに、エコノミストの三國陽夫氏が The New York Timesに寄稿した文章が掲載されていた。

竹中金融相の不良債権処理加速策が、与党からも反発にあって骨抜きにされたこと、しかし竹中の方針は sincere であり、日本経済は大いなる危機に直面していることには変わりがないと指摘。しかしながら日本の「不良債権」の捉え方は、世界の常識からはかけ離れており、日本の金融は西欧から見ると「不思議の国のアリス」のようだと書いている。

その後、ここ数年間の日本の経済の構図を説明した後に、日本政府は派閥の圧力などをまとめる真の意味でのリーダーシップを発揮できず、過去においても他の全ての改革におけるイニシャチブが取れず、政策も骨抜きでしか進められないと指摘してる。

一方で、日本にはドル立てで3兆ドルもの資産があること、また不況下においても対米貿易黒字を維持していることに言及、もし銀行が債権取りたてを余儀なくされれば、日本企業は(貿易黒字で得ている)ドル売りをせざるを得ず、結果的に米国経済を弱める結果となるとしている。

不良債権処理は、日本経済にとっても米国経済にとっても大きなジレンマを抱えていると言えそうである。

HIYORIみどり 「よくわかんな~い」
KAZAみどり 「はっきり言って私もよく分からないの(><) 英文以前に経済が良く飲みこめていないようなのね。間違っているかもしれないからこれ以上書かないわ、ムチはイヤだわ」
YORIDORIみどり 「(-_-)/~~~~ ピシ-、ピシ-! もっと勉強して出なおしてらっしゃい!」

2002年10月23日水曜日

【風見鶏】「Japan Delays Banking Changes」

10.23 The New York Times
竹中大臣が中間報告を送らせたことをNY Timesが報じていた。彼が中間報告を送らせたことを知らないブッシュ大統領は、今日のプレスクラブでの昼食のスピーチ(a press club luncheon speech)で、彼の方針を褒めちぎったばかりであるとのこと。 

記事は、青木参幹事長が竹中に真っ向から反対したこと、昨日の記者会見でのUSJ銀行頭取 寺西正司頭取のコメントなどを紹介し、最後には竹中の改革を支持するコメントで締めくくっている(以下)。
「John B. Taylor, United States under secretary of the Treasury, told reporters in his luncheon speech today: "Minister Takenaka, I understand, has established some principles for dealing with nonperforming loans. I agree very much with these principles. They make sense, and we're supportive of those."」
ここ1日半の日本経済界の動きと不良債権処理という点は重点的に説明しているものの、セーフティネットをはじめとして、反対勢力が何を論点としているのについての言及は乏しいように思えた。 

先に紹介した増田氏の主張については、私には判断できない。ただ、アメリカは失業者が出ても競争原理を徹底させ銀行を健全化させることを強く望んでいることだけは確かなようだ。

2002年7月15日月曜日

 田中長野県知事の不信任決議

15日、田中康夫長野県知事が県議会から不信任決議案を提出されたのを受け、議会を解散せず辞職し再出馬する意思を固めたらしい。この問題についてどのように考えるべきなのか、私は戸惑ってしまう。

田中知事が「脱ダム宣言」により県議会と対立していたことは知っている。脱ダム後の治水問題についても研究もしていたと聞く(県治水・利水ダム等検討委員会、浅川及び砥川の「総合的な治水・利水対策について」の答申)。双方とも納得できる妥協点を模索していたのだろうとは推察する。

全国の自治体において、公共事業の見なおしの機運は高まっている。特に、素人目にはムダとしか思えない道路や港湾施設、農場空港などを紹介される報道に接すると、その思いは強くなる(ムダなダム=怪文だな ^_^; )。実際に、走行台数の極めて少ない高規格道路や高速道路を通ると、さらにその思いは強くなる。

しかし、これらの事象は本当に正確に伝えられているのだろうか。事業のコストパフォーマンスについて、公正かつ正確に説明されているかと考えると疑問を感じる。推進であっても反対であっても、双方の主張は判断可能な形で提示してもらいたい。だから、信濃毎日新聞の7月14日の社説を読んでも曖昧さが払拭しきれない。地元新聞でさえ「何が理由の不信任であり、何を争点に争う知事選かが明確にならなくてはならない」と書いている。

日曜日のサンデープロジェクトでは、田中知事と県議が出演し、意見を述べ合ってた。これを聞いていると、脱ダムはひとつのきっかけに過ぎず、根底には知事と県議の深い溝を感じる。田中知事になってから、県政、県経済は停滞しているではないか、というのが県議達の主張のようだ(県議の代表意見は毎日新聞の記事から伺い知ることができる)。この点は、小泉内閣の「痛みを伴う構造改革」とラップする部分があるように思える。

感情論で反対するなどという愚考は避けねばならない。不信任を出せば解決とかいうような問題ではない。小泉・田中に代表されるような、現状の閉塞感の中から改革を求める気持は私とてある、改革に対する期待もある。それは、より豊かで(物質面ではなく)住みやすい社会へ向けてという前提で、やみくもな破壊者を望んでいるわけではない。

理念としての「望ましい社会」と納得のゆく実現に至るアクションプランを我々は求めている(田中氏の理念は毎日新聞のインタビューから伺い知ることができる)。私はこの問題を考え始めると、情報量の少なさから先に進むことができない。


2002年2月15日金曜日

ゼネコンの再編について(1)

今日の日経新聞に、合併を決めている三井・住友建設にフジタも分割・合流することに決まったと報じられている。

解説によると、銀行筋も「ただやみくもに企業をつぶしても評価されない」との認識から淘汰から再編に舵取りを余儀なくされているという。また不良債権処理の具体的な道筋について政府より求められたことも受けているようだ。その点で「政府主導の再建」ということらしい。

三社合わせた売上高はおよそ1兆1千億円程度で業界7位に踊り出る。しかし、売上高が増えても不良債権も激増する。その中で、フジタなどの不採算部門などを切り捨て、リストラを実行しながらの合併となると思われるが、具体的な方向性はまだ見えない。

以前に、ゼネコンの合併は受注増という点からはメリットが少ない、と書いたことがある。スーパー大手とは少し事情が異なる中堅クラスのゼネコンが、リストラを実行しつつ優良部門を統合し、財務体質を健全化するという方向はあるのかもしれない。

今後も微震、激震は続きそうで余断は許さずゼネコン・ウォッチャーとしては目が離せない。

2002年1月19日土曜日

「脱中流意識のすすめ」ということ

朝日新聞の「私の視点」で、「非中流」意識ということについて言及しているものがあった。(2002年1月18日 東京文芸倶楽部代表理事 山形誠司 ◆生活水準「中流意識」捨ててこそ健全)

小泉首相の構造改革に賛意を示す層が、「中流意識」を持つ層と重なるのではないかと指摘した上で、「構造改革に取り組むなら景気の低迷は仕方がない、環境問題解決のためには今の生活レベルを下げる必要がある、とはっきり主張できる階層の出現がぜひ必要」と述べている。この層を「下層」では抵抗があるので「非中流」層とでも呼ぶ。

大胆なる意見といえよう。「本来、8割以上が「中流」などというのは幻にすぎず、そのような社会は不自然」と言うが、今まで階級差がないこと、みなが中流であるという幻想に守られて、これも幻想かもしれない平和と平等と安全を享受してきた。ある程度努力するとレベルの差こそあれより金銭的に豊になれると信じてきた。

そういうものが崩れるどころか、そのこと自体を否定するということ。以前にも書いたが、成長や発展を目標とする生き方に転換を求めなくてはならない。企業など資本主義の大前提は拡大再生産である、この前提を覆すことは並大抵のことではない。

自分が中流でないという意識を含め、現在の生活水準を下げることへの同意は難しいだろう。一度上がった水準は用意には落とせないものだ。しかし、家庭での父親不在や子供の教育などを考えると、今の生活がベストであるとも言いがたい。

2002年1月17日木曜日

ゼネコンの贈収賄事件に思う(その3)~業界の行く末

淘汰が進むと言っていながら全然すすまない。Xデーだの2月危機だの、「エコノミスト」系の経済誌は定期的に「ゼネコン危機」特集を組んでおり、業界通でなくとも株価の低い企業を列挙できるほどだ。

昨年、青木建設が、今年になって拓殖住宅が民事再生法の申請に踏み切った。青木は中堅、拓殖は住宅としては大手だ。民事再生法というのは、要は会社幹部は残り、債権は免除して会社の更生を目指すというものだ。更生計画の中で人員の削減はあるだろうが、会社は存続させるのだ。山一證券のような破綻ではない、会社はなくならない。青木は本業での更生を、拓殖は本業の住宅部門を捨てメンテナンス・リフォームに特化して再建を期している。

拓殖住宅のケースは、本業を捨てたということである意味画期的な再建計画であると思われる。市場規模の縮小は新築物件で著しい。しかし住宅インフラを考えた場合、リフォーム市場は今後も増えつづけることは明らかであろう。早期に業態をシフトし再建を図るというのは英断であるとともに、この部門での先鞭を付けるかもしれない。

一方青木建設は、本業での再建である。細かな再建計画は分からないが青木建設の引き受け先として、欧州などのゼネコンが声を上げているという記事も読んだことがある。日本のゼネコンは研究部門なども有し技術力は相変わらず高い。企業での経費負担の多い、事務部門などを切り捨て、技術部門だけ買い取るという考えは、今後も発生してくるパターンかもしれない。実際のところ、一部のメーカー系ではそのような技術部門だけの買収ということは珍しくないはずである。

ただ、どちらの場合にしても、これだけでは、市場の中で過剰な労働人口が健全なる調整可能な人員まで削減されるということには程遠い。

◇  ◇  ◇  ◇

青木建設が民事再生法適用に踏み切ったとき、小泉首相は「やっと、構造改革がはじまったな」とコメントした。なんなんだと思った。業界もばかだが、国土交通省も健全なる、あるいは理想とする業界像を示すことなく、力尽きて倒れるか、あるいは銀行に見放されて倒れるかを、ただ指を加えて待っているようにしか思えない。

今株価を踏みとどめている上場企業は、体力のある企業かバブルで踊らなかった企業だ。これを業界の自発的な自浄作用とでも称するのだろうか。500万人の建設労働者が例え1割削減されたとしたも、その労働人口はどこに向うというのか。建設労働者というのは技能労働者と呼ばれるものは少ない。解雇された瞬間に行き場はなくなる。昔は、そういうものを「日雇い」などと称し建設産業が労働力を吸収していたという。どこに向えというのだろう。

流通業界最大のネックであったダイエー問題にカタはついた。残るはゼネコンの整理だけなのだから、動きが生ずることは必死である。

2001年8月28日火曜日

構造改革なくして景気回復なし

この話しを考え出すと、どうしても「幸福論」に行き着くのだ。
 
景気回復することが幸福だとする、大多数と政府、企業というもの。しかし、そこで働く多くの人たちは、本当に幸福なの?という問いである。
 
男性であれば家庭を犠牲にし、自分の信念も場合によっては犠牲にし、企業成績の向上のために時間を削る。あるいはそれを自己実現だとしてモチベーションのすり替え理論を身に付ける。
 
女性であれば、そのような企業至上社会(男性社会とは言わない)を前提として、家庭を守り子供を育てることを強いられる。
 
旧来型の夫婦像だが、今だって変りはしない。学生時代あるは独身時代の(一見)享楽的な生活が結婚後できなくなってしまうので、今の「逆ギレ」の親たちが発生しているだけのことだ。
 
そのどこにも「幸福」なんて転がっていないのではないだろうか。
 
毎週、自宅から1時間以内の場所へゴルフに出かけ、家にはテニスコートやプールがある生活(まるで大橋巨泉だが)が豊かな生活か?確かに豊かだし、ひとつの究極かもしれないけれど誰もが巨泉になれるわけじゃあない。
 
景気回復の先に真の豊かさが見えてくるのか? 私には、享受できる「豊かさ」が見えない。自分が「享受したい豊かさ」はあるけどね。
 
宗教でも哲学でも単なる精神論でもない、「幸福論」や「豊かさ」という概念が日本には欠如しているんじゃないだろうか。特殊な場における幸せではなく、毎日の生活における「豊かさ」という発想が。

失業率5%

失業率が5%を超えたというニュースが新聞にのっていた。失業率の捉え方もあるが、実際に準失業状態の人も含めると実数はもっと多いのかもしれない。

さて、構造改革には痛み=失業者が伴うことは自明のこととして認知されたが、いざ構造改革の具体性となるといまだ不安要素が多い。

頼みの綱のIT産業が、松下、富士通、日立、東芝などのメーカーで大幅なリストラを展開している。昨日(8月27日)の新聞では東芝が国内で1万7千人の従業員削減計画を発表していた。これは、今までの企業が海外での人員整理であったのに対し、国内でという点が注目される。

構造改革とは業種転換を意味している。IT関連産業でさえこの始末である。構造改革の痛みは特定業種に固まるという見方もある(いわゆる、建設、流通などだが)。彼らまたは我々は、では積極的に業種転換を図ろうとして、一体どういうメニューがあるというのだろうか。福祉をはじめとするサービス産業への転換というが、お題目に過ぎないのではないかと危惧する。具体的な職種と数値(骨太の方針には530万人の雇用?)を年単位で企業ごとに示してもらいたいものだ。受け入れ企業だって、助成金をもらえば済むという生易しい話ではなかろう。

40歳を過ぎて、全くの異業種に移る、一から資格を取り直してというのもかなりつらいものだろう。それが痛みというなら受け入れるしかないのか。また、40歳前後でそれなりの管理職で収入を得ていた人が、転職した場合、収入は半分くらいになってしまうとも考えられる。それも痛みというのなら受け入れるしかないのか。

無駄といわれている公共工事や行政サービス、または各種の特殊法人などなど、そのどれも、そこに働いている人たちは「自分の仕事は無駄です」「私は無駄な仕事をしてます」と言う人は(よほどのことがない限り)いないだろう。みな、意義と価値があると信じて働いている。はたからの見え方と、中での見え方はまるで異なっているとは思うが。

翻って、自分を考えてみる。「あなたの業種は将来性がないから、他に移らなくてはなりません。1ヶ月以内に目処をつけて1年以内に新しい職場についてください。」と突きつけられたら? 何を頼りに動けるだろうか? それなりに忙しく、色々なものを犠牲にして今の境遇を手に入れたのに、「あなたの20年前の選択(あるいは30年前)は間違っていたのです。先見の明がなかったのです。生活水準を維持するのは諦めなさいと宣言されるのである。

こういう痛みの先に見える、景気の回復とは何か? のっぴきならないところまで達するのに、後少しという気がする。

これは国民である我々が望んでいたことなのだ。構造改革を手段として景気を回復させることが目的として。景気が回復すれば幸せになると皆が望んだんだよな。

2001年7月16日月曜日

党首のTV討論

参議院選挙まであと2週間。昨日の日曜日の朝は、NHKおよびテレビ朝日で党首すべてがTV出演し、論戦を張っていた。私はNHKの方は観なかったが、「サンデー・プロジェクト」はなかなかに面白かった。

その中で、司会の田原さんがしきりに「YesかNoか、やるのかやらないのか」と二者択一的に回答を迫っても、相変わらず回答を濁す小泉首相の答弁が気になった。首相たるもの、おいそれと白黒つけることは難しいのだろうが、首相としての真意と自民党の真意の微妙なずれを、浮き彫りにすることができないもどかしさを感じた。

一方、野党の方は野党で、扇国土相に「選挙のためだけの団結、不良債権処理さえ意見がばらばらではないか」と指摘されるように、足並みの乱れとスタンスの不確かさが逆に露呈してしまったように思える。国会の党首討論よりもよほど面白いと思うのは私だけだろうか。

さて、それぞれの政党の論点を書く気はないが、「痛みを伴う構造改革」とは「倒産し失業する可能性」であることを出演党首は全て認識していたし、与野党含めてそれを「止む無し」とする姿勢も明らかにはなった。それならばである、50万人の雇用創出にしても、セーフガードにしてももっと具体的な対策として打ち出されなければ、本当に未来があるのかは見えてこない。5年後に自分は失業していないと言い切れるだろうか?

さて、ここで、全くレベルの違うことを、ついつい思ってしまう。以上の議論は、「発展すること、進歩することが是である」という、前提のもとに全ての議論は展開されている。そうなのだ、京都議定書の件についてもなのだ、「進歩しつづけること」が前提なのである。それは人間社会が高度に経済的な活動に置きかわっているからだけではなく、「常に進歩しつづける=新たな刺激を求めつづける」動物としてプログラムされてしまったことからくる悲劇なのだろうか・・・と。