西武百貨店池袋本店で開催されている「星空の世界展」写真展に行ってきました。
KAGAYAは星空写真家にしてプラネタリウム映像クリエイターです。写真展でこんなに人が多いのは、東京カメラクラブの写真展以来のこと、凄い人気です。
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
西武百貨店池袋本店で開催されている「星空の世界展」写真展に行ってきました。
KAGAYAは星空写真家にしてプラネタリウム映像クリエイターです。写真展でこんなに人が多いのは、東京カメラクラブの写真展以来のこと、凄い人気です。
写真家、Syuheiinoueさんのツイートより。フィルムで写真を撮ることについて語っています。
井上さんの書く「時間をかけた愛着」とか「何を撮りたいのか」を考えること。ここをスパっと無くしちゃうと、写真は「取り敢えず撮っておく」「記録として」みたいな雑なものになってしまう。
想い出としてはそれでもいいのだけど、他人を喜ばせたり感動させる「写真」には多分ならないのだと思う。あとからどんなに写真を編集したとしても。
膨大なデジタルデータから最適な一枚を探す時間をかけるくらいなら、一呼吸置いて、何を撮りたいのかと考えてシャッターを押す、その時間をかけた方が良いのかもしれないなと、自分の下手な写真を見て常に思うわ。
フィルムで撮ることの良さは、
— Syuheiinoue / Studio Neutral (@syuheiinoue) April 28, 2023
①枚数と予算に限りがあるので
②何を撮ろうか考える
③目的を持って写真を撮るので
④天気とかフィルムの制約を考えるようになる
⑤ので、結果的に大切に1枚を撮ろうとする
⑥コミュニケーションが変わる
⑦撮れないモノの諦めが付く
⑧現像、スキャンをする…
富士フィルムイメージングプラザで開催の渡邉真弓さん写真展
#富士フイルムイメージングプラザ
— yukimaru (@yukimaru_o) August 20, 2022
で8/15まで開催されていた#渡邉真弓 さんの写真展
しんみりと良かった、全く予想していなかった写真との出会い。 pic.twitter.com/4r3sA02afY
Twitterで 写真家の今道子さんが個展を開いていることを知り、思わずツイートしました。
今道子さんといえば、野菜、魚、植物、花などを素材に、グロテスクとも言えるような「静物」を再構築し、モノクロ写真に撮っている作家さんです。
#今道子 さんの写真。1990年代の後半に見た時は衝撃だった。それこそカメラ雑誌で知った写真家のひとり。今改めて見ても衝撃だけど。
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) May 14, 2021
藍画廊の今道子展を見る - mmpoloの日記 https://t.co/ldyfexkmPV
先日、日本カメラが休刊になったことを書きました。
写真界隈の衝撃は結構大きくて、激変する写真界の将来について、模索が始まっています(始まっているというのでは、遅すぎたのかもしれません)。
以下は、写真家の横木安良夫さんのnoteの言葉から、メモとして引用しておきます。
便利だった写真家たちは、皆不要になった。なぜなら、写真家はコンテンツをほとんど作らなかったからだ。写真家じゃなく、皆、アサイメントの消費者だったのだ。これからの写真家は、コンテンツを作る意識が必要だと思った。もう遅いかもしれない。その実験のひとつとして、アマゾンキンドルを2015年に始めた。300冊以上のCRPを出版しているが、まだ全く「力」にはなっていない。時代は変わっている。写真雑誌、カメラ毎日(1985年)アサヒカメラ(2020年)、日本カメラ(2021年)なきあと、残されたカメラ雑誌の奮闘と、一億総カメラマンの時代、日常に写真があふれた時代、写真は何か!を考えるのは、紙からデジタルに移行しているのに、まだなにも産んでいないデジタル時代の写真。いやもう、世界のどこかで生まれてるのに、気づいていないだけかもしれない。
後で何か付け足すかもしれません。
月刊雑誌の日本カメラも遂に休刊とのこと。自分的にも感慨深いものがあります。
自分の場合、まだフィルムカメラの全盛期、1980年代の後半から1990年代にお世話になった雑誌。何十年前のことだよみたいなムカシ。
遂に日本カメラも••••
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) April 16, 2021
日本カメラ休刊のお知らせ:日本カメラ https://t.co/Kr4LpIqIOY
思えば、両雑誌とも購入していた時期もありました。あの頃は日本のカメラが、とても元気が良かった、懐かしい。この雑誌で、何人もの、とても優れた写真家を知ることができたりしました。
別所さんのnote読んで心底驚愕。車の自動運転がクルマをドライブする楽しみを奪ったように、AIカメラは写真を編集する楽しみを人から奪うのか。カメラメーカーがどうなるとか以前に、人間は何をするのか、何を表現して、どこに楽しみを見出すのか問われる。 https://t.co/deOeSWFTIP
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) November 19, 2018
なぜ写真を撮るのか、ということは、人それぞれで、千差万別の考え方があっていい。自己の内面表現という、ひとまずの回答もありだと思う。自分の中でバランを取るようなものか。
自己の内面を吐露してどうするんだ、表現は受け止める人、相手があってこそ、相手がどう思うかというこの抜きに表現はない。という考え方もよく分かる。両者は相反するものではなく、おそらく離れがたい裏表なのだろう。
誤解されると困りますが、村井さんの写真がというわけではなく、誰かが分かってくれればいい、自分は自分みたいな表現は、さすがにどうかとは思うけど。
ナイーブすぎる世界観とか。難しい問題です。
村井さんの写真は好ましいですよ。
そもそもがツイート自体が精神面でのバランス取りみたいな、自分にとっては。
@MRIPhoto さんのツイートとnote 読んで思ったことです。勝手にリツイートで失礼しましたm(_ _)m
なぜ写真を撮るのか、ということは、人それぞれで、千差万別の考え方があっていい。自己の内面表現という、ひとまずの回答もありだと思う。自分の中でバランを取るようなものか。 https://t.co/rHISY1u0gK
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) August 19, 2018
なぜ,写真を撮るのか|村井信智 @MRIPhoto|note(ノート) https://t.co/6Sbeq9xkkR
とりあえず,僕が写真を撮る理由をなんとなくまとめました
— Nobutomo Murai (@murainobutomo) August 18, 2018
暇な時間に読んでみてください
藤倉匠さん在廊。お話を伺えた。現代の消費者価値に対するアンチテーゼとしての写真だとか。
藤倉匠さん曰く。この作風になる前はキッチリしたスナップとか撮影していたらしい。機材も全て売ってここにたどり着いた。
リコー イメージングギャラリーにて pic.twitter.com/gmmyUWz9FP
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) July 15, 2018
写真家の田中信明さんの写真に対する考え方に共感するところが多い。
発言は過激だが、日本の写真界(あるいはカメラ界と言ってもいいかもしれない)に対する、根強い不信感、不満感。そしてカメラ業界に踊らされている、日本のアマチュア写真界を、非常に深く憂いている。
あくまでもカメラは道具でしかなく、高いカメラ、最新のカメラを手に入れれば、あるいは、うまく写っている写真のデータ(露出、絞り、ISOその他モロモロ)を真似れば、よい写真になるという多いなる勘違い。
写真がアートとしてあるいは芸術として認められないことに対する憤り。
写真は他者に対するプレゼントという考え方が、余りにも当たり前すぎて素敵です。
いやはや、とても発言はとても尖っていますが、きっとご本人は、とても優しい方だと思います。
渋谷ヒカリエで開催中の、東京カメラ部写真展に行ってきました。
付けられたタイトルが「世界はもっと美しい。」です。
主にインスタグラムなどSNSに投稿することで有名になった方々の写真展と言って良いでしょうか。
従来のカメラ雑誌に投稿されている写真とは、歴然と一線を画しているように思えます。
写真を観た印象を上げてみます。
まず感じるのは、写真に対する圧倒的な熱量です。それと対象に対する真っ直ぐな愛とでもいうのでしょうか。
展覧会のベタなタイトルにあるように、現在と未来に対する肯定感が強い、幸福感や明るさに溢れています。写真の輝度が高も、コントラストも高い感じ。写真とは何かみたいな大冗談の芸術論を振りかざさず、理性よりも感性、雰囲気を大切にする。対象が撮影者の眼にどう見えたか、それを再現するには写真の大胆な加工も厭わない、などなど。
従来の写真ファンは、若干しかめ面するのではないでしょうか。
展覧会場に行くと気づくのですけど、カメラマンの皆さんが、お互いに結構顔見知りみたいで、なんだか同窓会のようで楽しそうです。しかも、皆さん、若い。女性率も高いように思えます。
そんな印象ですけれど、だからといって写真の質が低いわけではありません。東京カメラ部に推挙される写真に、ある傾向があるとしても、それなりの水準は維持されていると思います。
なんて、上から目線的に偉そうなこと書いてすみません。彼らの写真に対するアプローチには羨望さえ感じます。
おそらく、それは、過去に置き去りにしてきた、対象に対する素直な熱量に対する呵責なのでしょう。
こういう雰囲気は今の日本にあって、とても大切なことだと、しみじみと思いましたね。
自分のような年寄りには、だからでしょうか、少しばかり眩しすぎる世界でした。
帰り際に、渋谷駅方面をスマホで撮ってみました。
国立新美術館が企画・主催する初めての個展となる『安齊重男の“私・写・録(パーソナル フォト アーカイブス)”1970-20』を観てきました。安齊氏は現代美術の現場を記録してきた写真家。実は私はとりたてて現代美術にも、そして安齊氏にも興味があるわけではありません。知り合いの写真が展示されている、ということを知り、観てきた(=探してきた)次第です。
安齊が撮影した芸術家は非常に多岐にわたり、その圧倒的な数の写真群は息を飲むばかり。芸術作品を撮ったというよりは、その芸術を生み出した作家や時代を写しているといった方が正しいでしょうか。
それにしても、1970年からつい最近に至るまでの多くの作品群について、ひとつひとつを眺めると、現代美術ですから、アタマの中に?マークがいくつも浮んでしまいます。しかし、それらを総体として時代の流れとしてみたときには、何か感応できるものがあります。一見、無味乾燥な作品だったり、ぶっきらぼうな、あるいは、人をこばかにしたような作品であっても、実はその作品が生み出された作家の内実は、非常にドロドロとしており、止むに止まれず、あのような作品を生んでしまったということが、何となく伝わってきます。
写真を眺めると、それは芸術というものが持つ抽象性の奥に隠された欲望とも葛藤とも渇望とも言えるような、ナマな人間の感情の奔流のようであって、余程具象よりも空恐ろしく感じたものです。あまりの写真の多さと芸術作品の直接性に、軽い眩暈と吐き気さえ覚えたことも否定できません。
知り合いの写真も数枚発見でき目的も達したので、あまり長居は無用と展示会場を後にしましたよ。

「東京の夜は悪夢のように美しい」~東京デーモン 魔都TOKYOの夜景写真集
内山 英明の写真集です。「東京デーモン」というキャッチにひかれて手に取ったのですが、数多ある東京の写真集とは一味違うものを感じました。
内山英明氏は1949年生まれ、『JAPAN UNDERGROUND』などの写真集で有名です。私たちの住んでいる世界のすぐ裏側に展開している世界を、実に見事な映像で見せてくたものですが、この東京デーモンもそのテーマの延長にあるように思えます。
都市へのアプローチは批判的でも否定的でもなく、それ故にコンセプチュアルな都市論は感じられません。そういう方向ですから、写真はむしろロマン的な雰囲気を帯びており、内山氏が私たちの見ている世界の断章ともいうべき風景に、生暖かい愛着と美しさを感じていることが伺い知れます。それは彼が自らの作品を語っているように、暗黒のもつ甘美さと恐怖への憧憬と感じられます。まさに東京世代の原風景なのかもしれません。
闇の底深く沈みゆくTOKYOの街の耽美(たんび)な輝きは心までも空虚にさせる。(中略)そんなときだ。吹き渡る一陣の風とともに物狂いするような爽快な淋しさが突然、胸を突き上げてくるのは……。夜の中にポッカリとした裂け目が広がる。裂け目から幻のように現出するもうひとつのTOKYOの姿、その一瞬の『刻(とき)』の姿が私は好きだ。
耽美的なまでの輝きと、都市の中にポッカリと浮かび上がる巨大建築群や廃墟、それに奇妙なオブジェたち。このように書くと単なる陳腐な都市写真でしかないようですが、彼の写真からはその先に蠢くゴシック的な魔界の存在を暗示させてくれます。まさに「魔窟」という表現が適切なのですが、「魔窟」という言葉の持つイメージが、これまた陳腐化しているため、ちっとも彼の映像の魅力を文章では伝えられません。
写真集を買ったわけでないのですが(>だから買った上で感想書けよ)内山氏の名前は記憶にとどめておくとしましょう。
砧公園内にある世田谷美術館で宮本隆司氏の初期から最新作まで集めた包括的写真展が開催されていると知り、早速行って来ました。
宮本氏は1986年、まさにバブルが始まろうとする頃に<建築の黙示録>という、近代建築の解体現場の写真を世に問い、強烈なインパクトを与えてくれました。チケットの写真は、その写真集の中の余りにも有名な《ベルリン大劇場》です。
宮本氏の写真は、ちょうど私がカメラや写真に興味を持っていた頃とラップしており、また私の生業が建築に携わるものであるため、当時から注目していた写真家です。最近の廃墟ブームなどとの関連において、宮本氏の写真についても考えが及ぶこともあり、そういうもろもろの意味から展覧会には期待を抱いておりました。
宮本氏の写真を語る上で避けて通れないのが<建築の黙示録>で示された廃墟的イメージにあることは論を待たないのですが、それに続く<九龍城砦>や<アンコール>などの写真群を眺めていると、いわゆる皮相的な廃墟美に留まらないメッセージ性を強く感じることができました。
確かに宮本氏の細部にまでピントの合った廃墟写真は、光と影のコントラスト、作品全体を支配する静謐性とともに独特の美意識に貫かれているため、廃墟写真家の先駆者としてもてはやされたり、あるいは<九龍城砦>に示されるアジア的都市像が、映像作家などに与えたであろう影響についても想像はできるのですが、それだけを宮本写真の真髄と考えることはできないようであることを、おぼろげに感知できました。
解体中の建築物という無機的なものを扱っていながら、彼の写真が極めて有機的に見えるのは不思議なことです。それは本来晒すべきではなかった内実が、解体現場において白日の下に露呈し、声無き軋み声を上げているのを写真を通して聞くからでありましょうか、あるいは<アンコール>に見られるように、無機的な遺跡の表面を滴り這い回る植物の逞しき生命力に慄くからでしょうか。
彼の写真に貫かれているテーマについて私が感じたキーワードは「表と裏」「光と陰」「解体と再生」「無機と有機」「実像と陰画」「喧騒と静寂」、ひいては「死と生命力」という相反するイメージです。これらのキーワードから宮本氏の写真史を読み解くならば、彼が写真媒体というものを自覚的に選択し、カメラのもつメタファー的イメージをも写真のテーマにしていること、さらには彼のコンセプトそのものを具現化した昨今のピンホールカメラに至った経緯や、ヴェネツィアの街を上下反転させた定点カメラで撮影した実験的ビデオ作品の意味も分かってくるように思えるのです。
写真展のパンフレットにある「壊れゆくもの・生まれいずるもの」という副題は、さすがに彼の写真を語る上で適切であると思うのですが、では彼が期待した「生まれいずるもの」が何であったのか、「壊れゆくもの」に彼はノスタルジーと哀愁を感じているのか、という点は私の中で未だ疑問として残っています。
<ダンボールの家>というホームレスの住宅を撮影した一連の写真も象徴的です。宮本氏はもともと建築写真家として出発したのですが、その彼が解体写真を経て、世の中で最底辺と言ってもいいようなダンボールハウスを撮影しているのはどういうことなのでしょうか。写真から私が感じるのは、建築としての意味とか形態といものよりも、都市のどこにでも「生えてくる」植物のような逞しき生命力です。
ただしここでも彼の写真は錯視を及ぼすほどに、これらホームレスの家が、本来は喧騒の都市の中にあり、周囲には悪臭を放っているであろうに、写真世界は極めて静謐であり無臭であり、そしてそれ故に現実から隔離されているように見えることには注意しなくてはならないかもしれません。そして、彼が解体現場で何かの喪失を暗示した末が、現代の東京に出現しているモダニズムの極地のような建築群にはなく、ダンボールハウスに向かったことは興味深いことであると思います。
最後に展示されていたピンホールカメラに至っては私は仰天の域に達しました。上下反転した巨大な青色の世界は到底この世の世界であるとは思えず、世界の裏側からこの世を見たような凄みに満ちています。ピンホールカメラとは、すなわち大きな箱を作ってその中で直接印画紙に焼き付けるという、写真の原点に戻ったような所作をして出来上がったものですが、行為そのものが作品として現れていることには驚かざるを得ません。
彼の写真世界を支配している静謐性は宗教的な意味合いさえ帯びてきて、ありふれた景色が、あたかもこの世を反転した蜃気楼のように思えてくるのでした。
そうして思いを巡らすと、成る程と思うのは、写真展のはじめに展示してあった<神戸 1995>の地震によって倒壊した巨大な写真です。これはほぼ実物大の大きさの写真を、短冊状に切り裂き展示しているのですが、作為的な展示の仕方によって、写真はバーチャルなリアリティを喪失させられ、写真と私の居るところの間には決然とした境界が設けられているのです。まさに写真を知り尽くした写真家の成せる技といえるかも知れません。