2004年12月27日月曜日

手帳

パソコンやPDAでの情報整理も良いのだが、手帳にも変な愛着を持っている。通常は仕事用の会社で配布される「能率手帳」のようなもので充分なのだが、その他にバイブルサイズのシステム手帳を3冊(リングサイズがそれぞれ違う)、名刺サイズのリフィル1冊、MOLESKINの無地手帳、電子手帳(って最近言わんな、PDAだ)CLIE、ときどき文具店に行っては買ってしまう小さなメモ帳などなど・・・まあ、そんなにどうやって使い分けるのかと思うのだが、それらをグルグルまわしながら使っている。


で、今日は、LOFTへ行って、つい「ほぼ日手帳」を買ってしまった・・・


うーん、来年のメイン手帳はどれになるのだ? 教えてくれっ! ということで、年末に突入、さらば。

キーシン/ムソルグスキー:展覧会の絵


今年もいよいよ残すところ後数日になってしまいました。明日は個人的な忘年会を二つ掛け持ちして、怒涛の師走が終了します。ブログの方も、これがが本年最後のエントリーになりそうです。

キーシン
  1. ムソルグスキー:展覧会の絵
  2. トッカータ,アダージョとフーガ ハ長調BWV564(バッハ/ブゾーニ編)
  3. ひばり(グリンカ/バラキレフ編)
  4. 組曲「展覧会の絵」(ムソルグスキー)
  • キーシン(p)
  • 2001年8月4,5日、フライブルク
  • RCA 09026.63884

この録音は2001年7月&8月フライブルクでのスタジオ録音ですが、こんなに分厚くも手ごたえのある「展覧会の絵」を聴かされてしまっては、完全に打ちのめされてしまうしかありません。とにかく凄いの一言に尽き、何を書くべきかキーを打つ手が止まってしまいます。

凄いと言えばアファナシエフの演奏も鬼気迫るものでしたが、こちらは彼のクセが強烈すぎムソルグスキーを題材にした彼のオリジナル演目を聴かされているような気にさせられてしまうことも否定できません。

対してキーシンの演奏には、いかほどのこけおどしもなく、ただ曲そのものへの深い共感と愛情と理解をもって、真正面から取り組んでいるような純粋さが感じられます。純粋ではあっても、若者の持つ未熟さなどは全く超越しており、逆に巨匠然とした堂々たる響きに深い感動を覚えます。

録音が秀逸なのでしょうか、ダイナミックレンジも極めて広く、大音量のときの壮大さ、ピアニッシモでの震えるような美しさが、余すところなく伝えられます。音には一点の濁りもなく、音が重なり壮烈なる音列を演じている時にさえ、各音それぞれが明確であるのはテクニックの冴えなのでしょうか。冴えてはいても、テクニックに没することはなく、ひとつひとつの曲の違いを抉り出すかのような表現力によって、改めてこの曲の持つ魅力と凄みを感じさせてくれます。

冒頭の"プロムナード"が終わってからの"グノームス"でのグロテスクな表情付など、そして回遊する"プロムナード"での色彩の変化、最初の数曲を聴くだけで、ピアノという楽器の底知れぬ性能とそれを引き出すキーシンの腕に脱帽するしかありません。続く"古城"ときたら、静謐さと叙情と哀しみと美しさを称えた涙モノの曲に仕上がっています。

とにかく全てが凄いのですが、特筆すべきは弱音部の美しさでしょうか。例えば"カタコンブ"に続く"死者による死者の言葉で"の部分におけるトレモロなど戦慄さえ感じます。

An die Musikのでもこの曲の感想が掲載されていますが、

ピアノ版を聴いていると、いつもはどうしてもラヴェル編曲による華麗な管弦楽曲版を思い描いてしまうものだが、キーシン盤ではまずそのようなことがない。
ということに全面的に賛同します。聴き終わったあとの深い満足感は格別です。

ブゾーニの編曲によるバッハの有名オルガン作品《トッカータ、アダージョとフーガBWV564》も見事としか言いようがありませんが、こちらは余り馴染みの曲ではありませんので感想は割愛します。

時間があったら、少しまとめてキーシンで聴いてみたいという気になりました。

2004年12月24日金曜日

いまさら「電車男」

今年のネット界を騒がせた話題といえば、Googleの隆盛、ブログの流行、そして「電車男」ということになるのではないかと思います。「電車男」は新潮社から本にまでなって、しかも50万部突破というのだから驚くばかりです。


今更「電車男」の話題を書くのも何なんですが、「電車男」本が(私の)職場の忘年会でビンゴ景品になったりするほどなので、つらつら考えたことを書いておこうかなと思ったわけです。


板が熱くなったことと本が売れるていることには大きな違いがあるように思うのですが、それはさておき、「電車男」というのは周到に用意されたストーリーなのではないかと思っています。電車男が実在するかどうかはネット上でも話題になっているようです。それを読むほどにヒマではありませんので、以下は私の考えたことです。




確かに「電車男」の話題は、読むものを「熱く」する何かが潜んでいます。秋葉ヲタクが変身してゆくさまは、驚きと同時に小気味よささえ感じます。ダメ男(女)が恋によってどんどん素敵になってゆくというのは、根強い変身願望とともに、よくあるストーリーのような気もしますが十分に感動的です。


ネットで通して読むとちょっと疲れますが、途中で止められなくなるほどにエンターテイメント性があります。電車男を軸としながら、名無したちの脱線しがちな妄想も笑えます。この電車男を応援する無数の名無したちが、なんだかイイやつらばかりなのも泣けるところです。


「まとめスレ」ではスレッドを上手く編集していますから板特有のアラシもなく、全体的に肯定的で前向きで暖かな、そして熱い雰囲気が持続され感動のラストをむかえます。掲示板ですから投稿時間も示さており、それが展開に緊張感を与えています。


今までの小説と違うのは電車男の行動に名無したちが関与し、それが次のストーリー展開に影響を及ぼすした点であることは、読んだ方ならば納得するでしょう(実際はそれほど行動に対する「関与度」は高くないのですが)。板の前の応援者たちは電車男が帰宅し彼の放つデート報告=爆弾を、期待と不安と"喜び"と"痛み"を持って待ちわびます。彼らが自らの秘めた思いを板にぶつけ、電車男がひとつづつ難関を突破してゆくさまは、RPG的といえるかもしれません。


「電車男」を新たな小説の試みと絶賛する人は、このような参加型の小説に対して期待を寄せているのかもしれません。(村上龍がそんなこと、とっくにやっていたように思うが、ちょっと違うか?)


「電車男」の中で注意すべき点は、彼が変身してゆくことではなく、相手の女性が極めて理想的に描かれている点ではないかと思います。電車男を半歩リードしながらも暖かく電車男を受け入れてゆくエルメス子は、あるタイプの男性達の、まさに理想的な女性像を示しているように思えます。彼女は電車男を一度たりとも否定も拒否もせずに暖かく迎え入れます。私は最後まで読んでも、エルメス子をリアルな女性として想像することができませんでした。これこそ秋葉ヲタクに代表されるような名無したちの妄想上の聖母なのではないかとさえ思ったわけです。ここらへんは、かなり偏見が入っているかもしれません。


電車男のスピーディーな変身と理想の女性像が余りに出来すぎであるため、これは周到に準備された都市伝説創造の試みではなかったのか、「書き手」と名無したちとのコラボレート作品なのではないかと疑うわけです。女性が板と出版という二度の行為によってプライベートの暴露を許容していることも私の常識を越えています。


「電車男」は、ヲタクだのゲーマーだの、ひきこもりだの、ニートだのでくくられ、リアル社会との絆を見出しにくくなっている彼(彼女)ら、リアル社会に憧れながらも失敗と失望を繰り返すことで、自らのプライドを守るためには自虐的になるしかなく、自分の中に閉じこもりがちになる者たちへの、エールとして描かれたラブストーリーなのかもしれません。(おっと、ニートの姿は「日本外交」そのものの姿なのではないか、もしかすると!)


板が熱くなったのは、リアルタイムで参加しながら電車男に「関与」できる関係性にゾクゾクするほどの興奮を覚えたのでしょうし、想像以上の好展開に胸を躍らせたのだと思います。


一方で本が売れるのは、掲示板にあまり馴染みのない人が「こわいものみたさ」のような興味を持って買っているのではないかと思います。ネットに馴染んでいる人なら、わざわざ本を買うことはないでしょうし(今でもネットで読める)、今更「電車男」かよと思うでしょうしね。


「電車男」や「エルメス子」は実在するのかもしれませんが、そうだとしたらこれほど幸せなことはないでしょう。逆に幻想を振りまき夢を与えながらも、実は周到に用意されたビジネスであったならば、おそらくはその反動として幻滅が示す底の深さは、想像以上かもしれません。あれほどのものを意図的に創作可能かについても疑問は残りますが。


かくも「電車男」は語られるという点で多様性を帯びており、女性において対極な「負け犬」とともに、今年を象徴する出来事であったことだけは確かだと思いますが、いかがでしょうか。

2004年12月22日水曜日

立川のビラ配りの件3

「立川自衛隊テント村」という反戦団体が、防衛庁官舎にビラを配った件で住居侵入罪に問われた件について以前エントリーを書きましたが、東京地裁八王子支部で無罪判決が言い渡されたそうです。


細かな事情まで調べてはいませんから、普通に考えれば「ビラを配っただけで逮捕」はやり過ぎではないか、と思っていましたので、当然の帰結だとは思うものの、ネット上では公安の権力行使について肯定的な意見も少なくないことを知ったりしたものです。事件を報じたのが朝日新聞と赤旗だけでしたから尚更であります。


【参考サイト】






 こうした政治的なビラ配りについて、判決は「憲法21条の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すもの」と述べ、ふだん官舎に投げ込まれている宣伝ビラや風俗チラシよりはるかに大切であると説いた。


と朝日新聞にありますが、表現の自由や政治的活動の巾に関する微妙な問題を孕んでいることは否定できず、「立川自衛隊監視テント村」という、少々過激な名前の市民活動家たちの行動が、ある種類の方々の反感を買ったことは、ちょうどイラクで拘束された三人の日本人の時にも巻き起こった感情と、どこか通じるものを感じます。


彼らが反対した自衛隊は実際サマワで何をしているのか全く分りません。給水活動に道路復旧や学校復旧だと政府は言いますが、イラク復興にどれだけ寄与しているのか全体での位置付けも分りません。勿論、イラク派遣に一体いくらの国費が費やされているのかも分りません。具体的な活動内容と、それに関わる収支は是非報告していただきたいものです。


なにしろ、知らないうちにこんなものを造っていたりしたんですから。


【関連エントリー】



朝日新聞 社説12月17日

■ビラ配り無罪――郵便受けの民主主義


 イラクへの自衛隊派遣に反対するビラを防衛庁官舎の郵便受けに配り、住居侵入の罪に問われた東京の市民団体の3人に対して、東京地裁八王子支部で無罪の判決が言い渡された。


 逮捕した警察、起訴した検察の全面的な敗北である。


 そもそも身柄を拘束したり、起訴したりする必要のない事案だった。2月末に逮捕され、5月まで75日間も勾留(こうりゅう)し、公判は8カ月に及んだ。無罪の結論を出すのが遅すぎたくらいだ。


 被告とされたのは、「立川自衛隊監視テント村」という反戦団体に属する男女3人。職業は中学校の給食調理員と介護会社員とアルバイトである。今年1月と2月、東京都立川市内にある防衛庁官舎の敷地に入り、宿舎8棟のドアの郵便受けにビラを配って逮捕された。


 「イラク派遣が始まって隊員や家族が緊張している時期に、玄関先にビラを放り込まれるのは住人として大変不快であり、家族も動揺した」。証人として出廷した自衛官ら3人は口々に訴えた。


 確かに、先遣隊、主力第1波、第2波と派遣が進み、各地の自衛隊にピリピリした空気が漂っていた時期だった。


 A4判のビラは「自衛官・ご家族の皆さんへ いっしょに考え、反対の声をあげよう」という呼びかけだった。


 判決は書かれた内容を「自衛隊員に対する誹謗(ひぼう)、中傷、脅迫などはなく、ひとつの政治的意見だ」と述べた。さらに「国論が二分していた状況で、ビラはさして過激でもなく、不安感を与えるとも考えがたい」と指摘した。


 こうした政治的なビラ配りについて、判決は「憲法21条の保障する政治的表現活動の一態様であり、民主主義社会の根幹を成すもの」と述べ、ふだん官舎に投げ込まれている宣伝ビラや風俗チラシよりはるかに大切であると説いた。


 住居侵入に当たる行為ではあるが、配り方は強引ではなく、住民にかけた迷惑も少なかった。刑罰をもって報いるほどの悪事ではない。判決はそう結論づけた。明快な判断である。


 イラク開戦とそれに続く各国軍の現地派遣をめぐっては、世界のあちこちで大規模な抗議活動が繰り広げられた。欧州では、ベトナム反戦デモを上回るうねりとなった国も多かったが、日本では際立って低調だった。


 滞在中たまたま日本の反戦デモを見た外国人たちはその規模の小ささ、若者の少なさに驚いた。理由はいろいろあるだろうが、ビラ配り事件にあらわれた警察の過敏な取り締まりも一因だろう。


 自分の気に入らない意見にも耳を傾けてみる。それは民主主義を支える基本である。派遣を控えた自衛隊員にとっても、同僚や家族と全く違う意見を目にするのは無駄にはならないはずだ。くだらない意見だと思えば捨てればいい。


 そんなところにまで警察が踏み込むのは危険きわまりない。判決はそう語っている。


2004年12月21日火曜日

夢想仙楽

会社の同僚にムチャクチャうまい焼酎を教えてもらった。その名も「夢想仙楽」というもの。スペインより輸入したシェリー樽に5年間貯蔵し熟成させたという一品だ。


色はウィスキーのように琥珀色、古酒独特の色と深い味わい、そしてスコッチを髣髴とさせるシェリー樽の豊穣なる香り、こいつは旨い。「森伊蔵」や「伊佐美」も確かに旨いが、あれらはプレミアがついてバカみたいな値段だ。こちらは2730円。


思わずインターネットで注文しちまったよ。(て、これがOpinionネタかよ・・・)

2004年12月20日月曜日

アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団/マーラー:交響曲第2番 「復活」


年末も近くなってきましたから、あちこちで第九の響きに身をゆだねている人も多いでしょう。かく言う私も今日はヒマだったものですから、フルトヴェングラーのバイロイト1951年盤などをネットで聴いたりして、ただならぬ終楽章に改めて唖然としていたりしました。

第九も良いのですが、私としてはマーラーの「復活」の方がしっくりします。ということでアバドなんですが・・・これはいただけませんでした。非常にネガティブなレビュです。

アバド&ルツェルン祝祭管弦楽団
2003年 DG 477 508

アバドが2003年にエリート・オーケストラとして編成されたルツェルン祝祭管弦楽団を振ったマーラー交響曲第2番とドビュッシーの海は、評判が良いようだし、年末も近いし、ということで聴いてみたのですが、私にはこの演奏のどこが良いのかさっぱり分からなかったというのが正直な感想です。

まずルツェルン祝祭管弦楽団についてはHMVをご覧いただくと詳細な解説がありますが、引用いたしますと
アバドが創設に寄与したグスタフ・マーラー・ユーゲント管を母体とするマーラー室内管弦楽団が中核となり、各パートのトップにはベルリン・フィルの現・元首席奏者を始めとする名手を据え、これに最先端でソリストとして活躍するプレイヤーたちも加わり、実に錚々たる顔ぶれが揃ったスーパー・オーケストラ

ということだそうです。続くオーケストラの参加者名を見ると驚くべき陣容です。

コンサートマスター:コーリャ・ブラッハー(元ベルリン・フィル)
弦の各パート:ハーゲン四重奏団ら
第 1ヴァイオリン:ルノー・カプソン、セバスティアン・ブロイニンゲ(ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管コンマス)、ドメニコ・ピエリーニ(フィレンツェ五月祭管コンマス)、ブリジット・ラング(北ドイツ放響コンマスの)ら
第2ヴァイオリン:ハンス=ヨアヒム・ヴェストファル(元ベルリン・フィル)
ヴィオラ:ヴォルフラム・クリスト(元ベルリン・フィル首席)
チェロ:ゲオルク・ファウスト(ベルリン・フィル首席)、ナターリャ・グートマン、ゴーティエ・カプソンら
コントラバス:アロイス・ポッシュ(ウィーン・フィル)
フルート:エマニュエル・パユ(ベルリン・フィル首席)
オーボエ:アルブレヒト・マイヤー(ベルリン・フィル首席)
ホルン:シュテファン・ドール(ベルリン・フィル首席)
クラリネット:ザビーネ・マイヤー
トランペット:ラインホルト・フリードリヒ

まさにスーパー・エリート・オーケストラ。奏でる音は、冒頭のコントラバスの音からしてタダモノではなく、物凄いアンサンブルを聴かせてくれます。音量もマーラーを聴くには充分で、フォルテッシモがつくる壮大な音の大伽藍は、ホールで実演を聴いていたならば、かなりなものであったろうと思わせるものがあります。

また、個々のプレーヤーの技量も素晴らしいもので、どの断片を取っても美しく均整の取れた音楽に仕上がっていると思えます。これほど贅沢な編成でマーラーの「復活」を聴けるのなら、これにまさる至福があろうかと思うのが普通なのですが、1時間半近く聴き通して得た感想は「何なんだこれは?」というものでした。いったいに、マーラーを聴いたという感興が全く生じません。

昔からアバドは録音と実演の印象差が激しいとは言われていましたし、ベルリンを辞めた後、アバドも変わったという評判も耳にするのですが、私が鈍いのでしょうかね。

仕方ないからテンシュテット&LPOと比べてみました

テンシュテット&ロンドン・フィルハーモニー管
EMI 1981年5月

繰り返して書きますが、オケの性能、録音とも抜群であると思います。しかし肝心なパッションが、私がマーラーに求めている何かが決定的に欠けています。それが何なのか、あまりにも拍子抜けしたため、手元にあるテンシュテットとLPOのマーラー全集から終楽章だけ聴いてみました。(テンシュテット&NDRは持ってませんし)

すると・・・どうしたことでしょう、終楽章だけですよ、白けきっていたのでまあ口直しにという程度に聴いただけであるのに、冒頭から34分間、圧倒的な音楽に打ちのめされ放しです(繰り返しますがNDR盤ではありません、syuzoさん評では評価低いですから)。この違いは何なのか、聴きながら自問するのですが、その答えは分かりません。

オケの性能はLPOより圧倒的にルツェルン祝祭管弦楽団の方が高いでしょう。音の抜けやクリアさもルツェルンに分があります。しかし、アバドの演奏が大音量になればなるほど、非常にピュアなところに行き着き、ディテールレベルでは微細な表情まで描いているにも関わらず全く質量感を伴わないように感じられるのは、もはや異様といってよいかもしれません(再生装置が貧弱だからか?)。

私にとってマーラーを聴くことは一つの体験に近いものです。テンシュテットの演奏は(LPOとの全集盤が彼の代表的な演奏であるかはさてき>しつこい)終楽章を聴いただけでも慄然とするものがあります。地面は沸騰し天は裂け、そこに一条の光が差し込み、まさに神が降臨しているのではないかと思わせる凄まじさが秘められています(私だけの幻想かもしれないが)。

アバドは、そんなマーラー観とは全く無縁です。そもそも、第一楽章で感じる精神的な崩壊(と私が勝手に思っている)がアバドには感じられません。従って得られる結論はテンシュテットとは全く異なったものになっているようです。音楽に痛みも軋みもなく、非常にストレートに美しさを歌います。だから破裂するような歓喜も薄いのでしょうか。ひたすら演奏だけが立派であり、それが返って白々しさを増します。好みの違いも大きいとは思いますが。

アバドの演奏がマーラーに対するアプローチとしてどうなのかは私には判断ができず、こういうマーラーもあるのだと納得するだけです。逆に言えば、過剰なものを排除して出来上がった歓喜の世界ということもできます。ですからマーラーに特別な思い入れを求めていない人や、前世紀的なマーラー像に飽いている人には、充分過ぎるほどに満足できる演奏であるのかも知れません・・・。DVDも出ていますが、改めて映像とともに聴いたら感想変わりますかね?

さて「海」は、みなさん評判良いようですから、これはどうでしょう・・・(まだ聴いてません)

2004年12月19日日曜日

テンシュテット&NDR/ベートーベン:交響曲第7番

年の瀬も押し詰まってまいりまして、結構ばたばたと忙しい状態が続いています。あっという間の一年でしたが、聴きたい音楽、読みたい本など山積みのまま来年になりそうです。

てことで、テンシュテット&NDRのベト7の感想を書きました。正直な話、本文でも書きましたがSyuzo's Weblogを参照していただいた方が、時間の節約だとは思います。

テンシュテット(指揮)NDR
EMI/NDR 10122(Germany)

リズムとエネルギーの塊のような「舞踏の神化」ベートーベンの交響曲第7番。爆演系ではありませんが、別な意味で物凄い演奏が展開されています。最初に断っておきますが、私の感想など読まずにSyuzo's Weblogのレビュを読んでください。全てが言い尽くされています。

第一楽章冒頭はゆったりと、そしてふくよかで、堂々たる風貌の音色を響かせてくれます。このコントロールされたふくよかさは全楽章を支配する明るさに通低しています。弦の刻みは強すぎないものの的確で、テーマは朗朗と歌われます。ここに広がる明るさと幸福感は例えようもなく、交響曲第6番「田園」の延長を思わせる世界観に素直に驚かされます。

重層的に重ねられる音は、キャンバスに塗り重ねられる油絵の具のようであり、標題音楽ではないのに様々な風景が目の前に浮かんでは消えていきます。例えばそれは、黄金色に染め上がった丘陵地帯であったり、その上を舞う鳥であったり、農夫たちの踊りであったり、木枯らしや嵐であったり・・・あまりにも見事な音楽と演奏に至福の時が流れます。

静かに、しかし芯が燃え上がるようにパッションが加わる第1楽章の終わり近くは、なかなか聴きどころです。比較的長い残響時間さえも音楽に組み込み多くの余韻を残してくれます。

第ニ楽章は葬送行進曲とされていますが、こんなにもテーマが穏やかにそしてなだらかに奏でられてしまいますと、もはや言葉にすることができません。例えようもないほどに哀しくそして美く、そのまま昇天してしまいそうです。この楽章を聴くだけでも価値がある、そんな演奏です。

第三楽章冒頭はティンパニの強打で始まるものの、決してテンポは急がず着実な演奏です。大人しすぎるのではないか、などと途中で感じたりしたのですが、実のところ第四楽章まで聴き終えあたりを見回したら、ボウボウと燃え盛る炎にホールごと包まれていたというような感じです。

テンシュテットのオーケストラコントロールは確かに見事で、フレーズを微妙に伸ばしたり、ごく短い間にゆるやかなクレッシェンドをかけたりと、かなり細かなことをしているように聴こえ、それが演奏と音楽に彫琢を施しています。第三楽章でのリズムとメロディの交替は次第に高揚し、聴くものにとてつもないベートーベンのエネルギーが注入されていきます。

第三楽章と第四楽章は間に譜面をめくる音が「ガサガサ」と聴こえたと思ったら、あの聴きなれた付点のリズムが炸裂します。ラストに向けてはsyuzoさんの迫力はあるのにいたずらに威嚇的にならず、自然で明るい表情のまま、巨大なスケールで上昇と下降を繰り返してゆく。しかも、その響きは透明さを失わない。というコメントに尽きています。終末近くにホーンの音色が聴こえたときには、ベートーベンを聴いたという勝利の感慨に満ち溢れています。

ああ・・・なんと幸せなベートーベン、なんと凄いテンシュテット。おいら、三度も続けて聴いちまったよ(;0;)<泣くな

(2004.12.17)
追記

とここまで書いて、自分のHPファイルをごそごそしていたら、テンシュテット&ミネソタ管のレビュが見つかりました。こちらは今手元にないので比較して聴けません。しかし、Syuzo's Home Pageの「テンシュテット:禁断の部屋 その6 ベートーヴェン:交響曲第7番」を参照にして自分のレビュを読むと、今回の演奏(80年)とミネソタ管の演奏(89年)には明らかに違いがあるのかと知らされます。機会があれば聴き比べて見ましょう。

2004年12月17日金曜日

学力低下って子供の世界ぢゃないだろ

今週は新聞紙面で「子供の学力低下」について話題になっていました。もはや文部科学省も「世界トップレベルの学力ではない」と認めたそうで、それは「ゆとり教育」に起因するという論調です。


ブログ界でも熾烈なバトルを展開していらっしゃる「週刊!木村剛」では『2004.12.16 ゆとり教育でゆとりを感じているのは誰?』というエントリーがあったばかりです。個人的には、知的レベルの崩壊は子供の世界の出来事ではなく、オトナ社会での出来事なのではないかと常々思っています。




時々、鴎外やら漱石の小説を引っ張り出して再読してみますと、当時の知的エリート層の学力レベルが極めて高いことに驚かされます。あるいは、日本のトップにまでのぼりつめた政治家や経営者もしかりです。鴎外や漱石に描かれた「知的遊民」は別としても、教育にモチベーションやインセンティブがあったということでしょう。


しかし、現在では「教養」は「生きる力」に直結しませんし、社会に出て役に立ったという実経験が不足しています。学校教育の効果が実体験として語られるということもめったにありません。「詰め込み」の行き過ぎ面も指摘された時期がありましたから、勉強することをネガティブに感ずる風潮が日本にずっと醸成され続けてきているように思えます。


そういう意識が今のオトナ社会を形成しているように思えます。直接の関係はないかもしれませんが、例えばTVときたらほとんど白痴的なものも少なくなく、あれだけの高度なテクノロジーを使って膨大な浪費をしていると思うと唖然とします。ディスカバリー・チャンネルやヒストリー・チャンネルのような番組は、いったいどれだけあるでしょう(あれがいいとは言わん)。


これから発展を期待している国は、発展に希望を見出していますから、その第一歩となる「教育」を受けることに渇望しています。日本には逆に言えば、満ち足りて「希望」がなく、ひいては教育も教養も廃頽し享楽と快楽が拡大しつつあるということでしょうか。

2004年12月14日火曜日

寒くなってきたが


朝、会社に行く途中の歩道で、猫がバッタリと力尽きたように死んでいた。車にはねられたのではなく、そこまで歩いていて崩れ落ちたような死に方だった。猫は人気のないところで死を迎えると思っていただけに、少しショックだった。


A駅の地下鉄を降りると、改札前に人だかりができている。どうしたのかと思ったら、サラリーマンが一人、鞄を手に握ったままうつぶせに倒れて、ぴくりとも動かないでいる。周りではどうしていいか分からない人たちが心配そうに倒れた彼を見守っている、駅員は救急車を呼んでいるようだった。いまさら近づくこともできないし、行ったところでどうにもならない、無力に立ち去るしかなかったが、あのサラリーマンは、どうなっただろう。


猫の話題と一緒にすることは不謹慎かもしれないが、これから年末にかけて、忙しさの合間に忘年会やらなにやらが押し寄せてくる。自分を守れるのは自分だけだと思い知った朝であった。

TV:戦場のピアニスト

昨日のテレビで「戦場のピアニスト」を放映していたんですね。途中から観たので、真面目な感想を書くまでには至りませんが、とにかく凄まじい映画でした。話題になるだけありますね。


映画前編に漂う哀しさは覆いようもなく、あっという間に変化してゆく時代の流れ、不条理なまでの差別と殺りくには、映画でありながら胃がせり上がってしまうような恐怖と絶望を感じたものです。




DVDのジャケットにもなっている廃墟のシーンは、涙も出ないというほどの圧倒的な迫力。戦争の虚しさをこれほどまでに映像表現したシーンは、ざらにはないかもしれません。ポランスキー自信の実体験がなければ描けない映像かもしれません。


ユダヤ人迫害という点ではスピルバーグの「シンドラーのリスト」などを思い出す人もいるかもしれませんが、私は戦闘シーンのドキュメンタリーを見ているような迫真性に、むしろ「プライベート・ライアン」冒頭の上陸シーンを重ねてしまいました。あるいは、ロイター通信などが最近伝えたファルージャ虐殺の様子とか・・・人間の命が雑巾ほどの価値もない状況に慄然とし「撃たないでくれ!」と声を上げそうになります。


ピアニストのシュピルマンの行動については、私は弱さとか卑怯さは感じません。彼ほどに強靭な精神の持ち主は逆にいないのではないかとさえ思います。だから彼が戦後にラジオ放送を再開したときの笑いの中に見せた苦渋の表情には、言葉にはできない感情が込められているように思えました。


音楽的には、私はショパンという作曲家にあまり馴染んではいないのですが、この映画を観たからには、ショパンにまつわるイメージに、私の中である縁取りができてしまったことは否定できないですね。モーツアルトにまつわるイメージが映画「アマデウス」に影響されてしまうように・・・TVで観ただけなのに、それほどまでに強烈な映画でありました。


2004年12月9日木曜日

リチャード・ミニター:「なぜ企業はシェアで失敗するのか」

何気なく読み始めたこの本だったのですが、企業の「シェア至上主義」に疑義を唱え、マーケットにおけるシェアは、利益とは何の関係もないことを、嫌というほどに思い知らせてくれるものでした。

ビジネス本として、非常に卓越した内容でありますので、マーケット・シェアと利益率に少しでも感心のあるビジネスマンや経営者は一読の価値はあると思います。この本を読むと世のCEOを初めとして「マーケット・シェアの拡大」という、一種宗教にも誓い妄想に取り付かれている愚が明らかになります。

私の属する業界もしかりで、会社の期首や期央の経営会議で問題になるのは、まずは総売上高と経常利益。「利益率」という概念もないわけではありませんが、量重視で、量を確保すれば社員を賄う原資は得られるという幻想にとらわれているような気がします。あと「赤字覚悟」で仕事をとってシェアを高めれば、そのうちコストリーダーになれるというユメを見ているわけです。なんたって利益率ときたら限りなくゼロに近い一桁という成熟産業ですから、厳しい競争にしのぎを削るのは当然ではあるのですが、「そのうち」ってことの見込みもまた、利益率と同じくらいのものでしかないわけです。

2004年9月号のハーバード・ビジネス・レビュ(日本版)は、『「利益率」の経営 低収益体質からの脱却』というテーマで論文を掲載していましたし、高収益率企業でかつ、マーケットリーダーであるデルの本も読んだばかりでしたので、採算に合わない仕事からどうやって利益を叩きだすか、そもそも、その仕事をやるべきなのかという判断を迫られる業務をしている関係上、テーマ的にもヒトゴトではなく、理想と現実の違いにゲンナリしてしまうのも事実。

いったい、わが社幹部連中は何を考えて企業経営をしているのか、何を基準として経営判断をしているのか、小一時間ほど問い詰めたい気になります。

ちなみに著者のリチャード・ミニターは、ウォールストリート・ジャーナル・ヨーロッパ紙の元エディター。現在はジャーナリストとして、ウォールストリート・ジャーナル紙やワシントン・ポスト紙、ニュー ヨーク・タイムズ紙、サンデー・タイムズ紙のほか、世界中の有力経済専門紙を中心に寄稿している方。

2004年12月8日水曜日

ムター/シベリウス:ヴァイオリン協奏曲

  • アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
  • アンドレ・プレヴィン(指揮)シュターツカペレ・ドレスデン
  • GRAMMOPHONE

師走になりましたが、今日も釧路地方では地震がありましたね。余震だそうですが、寒くなってきましたし大きな地震にならないことを祈ります。

今年は天地がちょっとばかり変で、日曜日の札幌は大雪の大荒れの天気でしたが、東京は25度だったそうですね。飛行機でたかだか1時間15分ほどの距離しかないのに、まさに別世界。

ということで、別世界のムターのシベリウスを聴いてみました。感想はこちらです。

かなり濃い目のムターのチャイコフスキーを聴いたので、実際彼女の芸風はどうだったかしらという意味から、34歳の時のシベリウスを聴いてみました。

冒頭からノンヴィブラートの音、チャイコフスキーの第二楽章で聴かれた音です。嫋嫋たると表現する人もいるようですが、絞り上げるような表現力には只者ならぬ雰囲気を感じます。

音色の変化は、ここでも見事であり、それは饒舌とも豊穣とも違ったもの、クレッシェンドになるに連れ、音は太くなり分厚さをましてきます。メタリックな感じでゴリゴリと奏する様はかなり迫力あります。しかし、そこはムターです。あくまでも多彩な表現力の一面ということですから、力まかせな乱暴さということではありません。繊細さと強烈なところのレンジが広いということでしょうか。

ムターの音楽は、極めてエネルギッシュで感情の振幅が大いものの、泣きや浪花節に落ちることはありません。ですから演奏を聴いて感情移入をして感極まるようなことはありません。ひたすらに見事だなあとは思うのですが。

第一楽章のカデンツァなど奔放さの限り、かなり好きなことをやっているように聴こえます。完全にムター節で、自分の世界を表現しているような熱演です。凄い演奏だとは思ですが、シベリウスを聴いているという温度感は希薄です、プレヴィン率いるバックのオケもしかりです。

「好きな演奏か」と問えわれれば「感心はしても感動はできません」ということになりますね。シベリウスに特別な思い入れを持っているヒトには特にそうかもしれません。

PS.年末締め切りの仕事がバタバタと入ってきたり、今までうっちゃっていた仕事の催促が来たりと、さすがに師走は忙しくなってきました。かなりしつこい風邪もひききったので、あとは驀進かァ。ブログはぼちぼちですな。

2004年12月3日金曜日

ムター/コルンゴルド:ヴァイオリン協奏曲


チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ウィーン・フィルハーモニー(チャイコフスキー)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ロンドン交響楽団(コルンゴルド)
GRAMMOPHONE UCCG-1206

ムターのチャイコフスキーは、コルンゴルドのヴァイオリン協奏曲がカップリングされています。レビュを書いて気付いたのですが、どちらも「ニ長調 OP.35」なのですね。

コルンゴルドは1897年生まれ、幼くしてウィーンの楽壇にデビューして天才ともてはやされ、その後アメリカに渡り映画音楽の世界で成功した作曲家。本人は晩年にウィーン楽壇に復帰したかったようですが、「映画音楽作曲家」というレッテルは死ぬまでぬぐえなかったそうです。

さて、そんな作曲家が1947年に描いたのがこのヴァイオリン協奏曲。いやいや悪くないですよこれは。最初に聴いたときには、まさにハリウッド映画音楽だあと思ったものの、それはそれでよいではないですか。ロマンティシズム溢れる、甘ったるくも力強くエネルギッシュな曲です。

甘美なところはこれ以上はないと思えるほどで、とろけてしまうよう。それをムターのヴァイオリンで聴くと、暖炉の火で柔らかくなったキャンディーよろしく、「もう、どうにでもして」と言わんばかりの音色となって聴くものを骨抜きにしてくれます。特に第一楽章の冒頭の旋律が凄い、これを聴くだけでも価値があるかな。チャイコフスキーでは、先入観からか疎んじた音色が、ここでは、非常にマッチしています。

快活な部分では、芯がはっきりした太い音が、それこそ自在に駆け巡る快感は、これまた例えようもなく、聴いていて「ああ、楽しいなあ」という気にさせてくれます。古きよき時代の上昇志向な感じが懐かしいです。

コルンゴルドはフーベルマンのために、この曲を書いたそうですが、初演はハイフェッツなのだそうです。技巧的にも結構難易度が高いようですから、ヴァイオリンを聴くという意味では楽しめる曲です。

というわけで、コルンゴルドは悪くはないのですが、ふと考えてみると1947年という時代に、アメリカでこんな脳天気な音楽を作っていたとは、コルンゴルドさん・・・幸せでしたね。

2004年12月2日木曜日

コンサートは誰と行くか

iioさんのCLASSICA QuickVoteで『コンサートに行く時は誰と行くかと』いう設問が設置されていました。私は「進んで一人で行くことが多い」にしてしまいましたが、そもそも今年はコンサート会場にほとんど脚を運んでいませんな。


「進んで一人で」という設問が気にはなりますが、私の場合、予定がドタキャンになることも多いため、コンサートはほとんどが当日券狙い。従って、ラトルやゲルギエフ騒動からも無縁で、平穏かつサビシイ日々を過せるというわけです。


「今日○○響のチケット当日券あるけど、いくか~?」

「え?おまー、そんな桶に金払うの?シュミ÷ぃ」

などという会話を避けての事では決してないのですが。

今の時点でのQuickVoteの結果は以下でした。





(有効投票総数 :98)

進んで一人で行く 44.9% 44

やむなく一人で行く 25.5% 25

進んで二人以上で行く 23.5% 23

やむなく二人以上で行く 6.1% 6


「やむなく二人以上で行く」>行くなよ、6名(笑)

2004年12月1日水曜日

ブログ中毒?

k-tanakaの映画的箱庭で「Blog中毒者チェック」というエントリをみつけました。このごろは、エントリ頻度もめっきり減っていますし、中毒なんかぢゃないぜと、思いながら確認してみました。





  1. WEBブラウザのお気に入りに、ついブログフォルダ作成してしまった。→当然

  2. そのフォルダにはすでに10数件以上登録してある。→加えては消している、RSSリーダーには数十件、Firefoxにも十件以上・・・

  3. 仕事場でもアクセス情報をチェック、うっかり閲覧した人の出所を全てたどる。→した。逆のことも怖れて会社からのクラ関連アクセスは止めた

  4. よくわからない話題でも、なんとかしてコメントしてみたい自分がいる。→やめた

  5. 会社では更新すまいと思いつつ、いつか折れそうな自分がいる。 →折れまくり

  6. ていうかネタ発見→本当に即更新作業をしたい。→今がそう

  7. 隙あらば誰彼構わずトラックバックしようとする。→人は選ぶ

  8. 「む!今の発言にトラックバック!」等と口走ってしまう。 →口走らない

  9. 深夜の閲覧、更新作業による慢性的な寝不足。 →夜は弱い

  10. 相当飽きっぽいのにまだ続けている。 →そろそろ止めようと思っている

  11. 終始なにかと新しい記事のネタ探し。 →ネタはネタころやってくる

  12. 同じ職場内で、ネタの譲りあいみたいなものが発生している。 →ない

  13. 携帯のデジカメ機能の使用頻度が、以前より確実に増している。 →携帯はキライ

  14. ブログの話かと思って聞いていたら実は仕事の話だった。 →周りの人間はブログを知らん

  15. 仕事の話でちょっとでもがっかりしてしまった。→んなわけない

  16. 「さ、もう寝よ。」と思いつつ、もうちょっと見てからにしようと思ってしまう。→布団に入った後、エントリの誤字とかに気付いて、再びPC立ち上げなおすことはしょっちゅう。


あとひとつ加えた。

17. 空港でヒマなんでネットカフェとかに入って、自ブログやいつも見ているブログを閲覧して飛行機に乗る。

・・・完全に逝ってる・・・

なお、このエントリ作成所要時間、約11分。

2004年11月30日火曜日

ムター/チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲

チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 OP.35
アンネ=ゾフィー・ムター(Vn)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ウィーン・フィルハーモニー(チャイコフスキー)
アンドレ・プレヴィン(指揮)ロンドン交響楽団(コルンゴルド)
GRAMMOPHONE UCCG-1206

ムターの15年振りの再録となるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を聴いてみました。

私が「思わずジャケ買いしてしまうヲジサン」であるかはさておき、HMVで少しばかり視聴したのですが、「ひょえっ!なんぢゃこれ」というくらいに個性的な演奏で、そのまま聴きつづけるのがつらかったのでフラフラとゲットしてしまいました。

An die Musikの伊東さんは、本盤のレヴュでこれは好き・嫌いがはっきり分かれるだろう。と書いておられましたが、聴いてみればまさに個性的な演奏。出だしからこれでもかと言わんばかりの濃厚な表現が聴かれます。チャイコフスキーがこんなにも色香のある音楽だったかしらと戸惑ってしまいます。

「妖艶」「むせかえるような」などの形容詞を冠したくなる演奏で、それがムターの個性なのだといわれれば、そういうものかとも思いますが、果たしてこれが「美しい」演奏であるかは疑問です。(美しいの定義も問題ですが)

ムターのヴァイオリンは、ノンヴィブラートの音から、艶やかさと豊穣さを乗せまくったヴィヴラート音まで、あるいはポルタメントの多様やあざといまでのアゴーギグなど、表現の巾は変化自在であり極めて広いといえます。演奏スタイルは下品とか演歌的というのではないのですが、非常に濃いものです。目的のためには手段を選ばないといいますか、娘にもなれば熟女にも老婆にも化けるといったような・・・

コテコテの演奏がキライなわけではないのですが、ムターのこの演奏には、どこかついていけないものを感じます。聴いていて顔をしかめてしまうような部位がいくつもあります。例えば、第二楽章冒頭のノンヴィヴラートの音色など。もっとも、これはこれでびっくりするような音です。暗くかすれたむせび泣きであり、この楽章は全般的にヴァイオリン協奏曲というより、オペラの悲劇のヒロイン歌う哀しいアリアにさえ聴こえます。でも何となくムタれ気味になった耳に、オケのフルートの音色が新鮮に聴こえ、救われる思いだったりします。

夫であるプレヴィンとの共演というだけあってアンサンブルは悪くありません。ムターに十分にかつ自在に歌わせているように感じます。オケはバックで闊達すぎるムターを外側から優しく抱擁しているようでさえあります。

見事といえば見事なのですが、改めて伊東さんと同じように好きか・嫌いかと問われれば「好きとは言いたくない、が抗えない力も感じる」というのが結論ですな。

2004年11月28日日曜日

C・クライバー/ビゼー:歌劇「カルメン」


ビゼー:歌劇「カルメン」

カルメン:エレーナ・オブラスツォワ
ドン・ホセ:プラシド・ドミンゴ
エスカミーリョ:ユーリ・マズロク
ミカエラ:イソベル・ブキャナン
フラスキータ:チェリル・カンフシュ
メルセデス:アクセル・ガル
スニーガ:クルト・リドル
モラレス:ハンス・ヘルム
レメンダード:ハインツ・ツェドニク
ダンカイロ:パウル・ヴォルフルム
ウィーン少年合唱団
ウィーン国立歌劇場合唱団
ノルベルト・バラチュ(合唱指揮)
ウィーン国立歌劇場管弦楽団

カルロス・クライバー(指揮)
演出・装置・衣装:フランコ・ゼッフィレッリ
収録:1978年12月9日、ウィーン国立歌劇場(カラー&ステレオ)

季節の変わり目で風邪がはやっておりますが、いかがお過ごしでしょうか。当方は絶不調が続いており、元気付けにという意味も込めて、クライバーの、《カルメン》(78年)をゲット、快晴の土曜日、西日が燦々と入り込む部屋で、DVD視聴をいたしました。

驚いてはいけません、《カルメン》でさえ私にとっては、これが初聴であります・・・


C・クライバーの《カルメン》はファン待望の正規映像とのこと。フランコ・ゼッフィレッリの舞台・衣装演出、37歳の絶頂期のプラシド・ドミンゴによるドン・ホセ、エレーナ・オブラスツォワのカルメン役です。クライバーファンには有名な演奏であるだけではなく、《カルメン》の演奏の中でも評価の高いものだといいます。

オペラ無学な私は、この有名すぎる《カルメン》のストーリさえ熟知しておらなかったのですが、ライバーの映像で、ようやく初体験を果たしたことになりました。
さて、感想はといえば、聴いてびっくり、観てびっくり。改めてどこの断片をとっても名曲のオンパレードであると感心すると同時に、ドミンゴやオブラスツォワもさることながら、やっぱりクライバーの指揮は何て魅力的なんだろうということに最初は尽きてしまいました。

オープニングの入り方からして凄い。拍手が鳴り止まぬ内にオーケストラをかき鳴らし始めます。颯爽として優雅で、しかも熱く、なんてカッコいいんだろうと溜息が出てしまいます。前奏曲での渾身の力を込めた指揮ぶりなども見ごたえがあります。

5分ほどの「通俗名曲」とさえ呼ばれるような聴きなれた音楽を、これほど優雅に、そしてワクワクと聴かせてくれることには心底驚きます。クライバーの音楽を聴いていると、安定した位置にある気持ちの重心を、不安定な位置にまで吊り上げられ、さらに揺さぶられているように感じるときがあります。微熱を帯びた高揚とでも称しましょうか、それが、この《カルメン》では冒頭から感じられるのです。期待は嫌でも高まるというものです。

圧巻は、第2幕のジプシーの唄ですね。猛烈なアッチェレランドとクレッシェンド、オケも歌手達も崩壊寸前にまで煽られながら、ギュンギュンと舞い上がってゆくかのように壮大なる熱狂を作ってゆく様は、衝撃的という言葉以外では表せません。カルメン演ずるオブラスツォワが、歌と踊りが結びついて、はじめはゆっくりと、でもだんだんと速く激しくと歌うそのままの演出が、舞台でひしめき合う男女や、フラメンコを踊る男女の熱狂が渾然一体となる様は悪魔的でさえあり、ここを以って《カルメン》のハイライトと言う意見もあることには納得してしまいます。

カルメンはホセから本当に心変わりしたのか

さて《カルメン》を観ていて疑問に感じたことがあります。それはカルメンのホセに対する気持ちです。

第4幕からラストに向けての展開を単純化しますと『心変わりしてしまったカルメンのもとにストーカーと成り下がったホセが押しかけ、カルメンの冷たい態度に、ホセが遂には逆上してカルメンを殺してしまう』ということになります。

しかし、カルメンは本当に心変わりしていたのか、ということが気になります。カルメンは仲間にホセが来ているから気をつけろと忠告され、更にホセが自分を殺そうとしている、ということを知りながら、敢えてホセに会っているのです。しかも、ホセに対し会話の中で何度も「私を殺して」という態度さえ取るのです。

最初に見たときは、ホセに対して自殺幇助を求めたようにさえ見えたこの場面。何度か観て確認しますと、カルメン演ずるオブラスツォワが実に複雑な表情で、揺れ動いている女心を演じていることが分かります。ホセをいとおしく思いながらも、彼女とホセは生きる世界が違っていることを知り、更には少しは闘牛士のエスカミーリョにも心が動いてはいたでしょう。そういう突き放した態度と、諦めきれない気持ちが、移り変わる場面で実によく演じられています。

鎖、指輪(愛)、自由と死

ラストのクライマックスでは、ホセが贈った指輪を放り投げたカルメンに逆上し、単純なホセはナイフを取り出します。そして「悲劇」です。ここでの演出は、カルメン自らがナイフを構えたホセに抱き寄るようにして刺されています。彼女から死に向かったという解釈のようです。

ホセからとっくに心が離れていたなら、最後まで指輪をしてたことは理解できません。おそらく彼女は、このような形でホセと「決着」することを、ずうっと待っていたのでしょう。ホセを愛するということは、第3幕でのカード占いの結果では「死」を暗示するものでした。誰にも縛られず、自由であることを願っていた彼女が、強い運命には抗えないことを知っていたとしたら。彼女が闘牛場の外でホセと会ったときに感じたであろう喜びと哀しみと諦め。自らの運命を自らの意思で断ち切ろうとした彼女を思うと、カルメンがホセを冷たくあしらう様は涙をそそります。

彼女は本当に自由を心から望んでいたのでしょうか。第一幕のカルメンの歌う有名なハバネラ《恋は野の鳥》の後、言い寄る男達をあしらいながら、カルメンは自分を無視しているホセに気が付きます。カルメンは彼に近づき何をしているのか?と問い、ホセは「鎖をつくっている」と答えます。「鎖? 心をつなぐ鎖」とカルメンは一瞬呆然としてつぶやき、ホセに(最初は戯れかもしれませんが)運命の花を投げつけるのです。

この点からも彼女の心情を憶測することはできそうです。いずれにしても《カルメン》には初めて接したばかり、参考文献にも全く接していないので思い違いかもしれません。ただ、カルメンの心情をどのように解釈するかで演出も感想も180度変わったものとなるでしょう。

それにしてもオペラの男性はガキばかり

最初は、カルメン演ずるオブラスツォワのアクが強すぎること、ドミンゴも37歳ですから直情で純朴な田舎の兵隊という雰囲気ではなくて、オペラの配役と実年齢のギャップやら、イメージのギャップに困惑してはいたのですが、第4幕での心理劇を理解しますと(勝手な解釈ですが)、それぞれの人物が急に際立ってきます。

特にカルメン役のオブラスツォワは、(もっと当たり役のカルメンもいるでしょうが)これはこれで納得です。ミカエラの清純さも捨てがたいのですが、劇に占める役どころは小さいですね。ワーグナーならさぞ献身的にして母性的な救済役として配するところでしょうか。

しかしオペラの男性役というのは、どれもこれもどうしてこう子供じみて単純なんでしょう。「愛した惚れた」で一直線で破滅に向かってくれます。《カルメン》はストーリー的にはむしろ、ホセの破滅の物語と解釈した方が良いと言われているようですが、この演出ではカルメン役のほうが光っているように思えます。

ドミンゴの歌唱力はそれはそれは素晴らしいでのですが、役にあまり深みがありません、ドミンゴを責めてはなりません。あと、ネット上の解説を斜め読みすると、ホセを「ストーカー」と評する文に多く出くわします。ホセは確かにしつこいし、殺意さえ持っていましたが、それを「ストーカー」と片付けるところに、現在の単純さと酷薄さのひとつが表出されているように思えます。あと、カルメンの心情に言及した文章はほとんどないのが不思議です。

このように観れば観るほど興味の尽きない《カルメン》です。クライバーの音楽も相まって「空前絶後」と評される演奏です。決して《ジプシーの歌》や《花の歌》だけがハイライトではない演奏であるというのが、本日の結論。

2004年11月24日水曜日

マイケル・デル:デルの革命

パソコンのダイレクト販売を行っていることで有名なデルの創業者が、自らのビジネスに対する考え方を書いた本。世界で成功するベンチャー起業者というのは、小学生の頃から才気あふれていて、一般のヒトとはやっぱり違うのだなあと思い知らされる本でもあります。

本人の資質は別としても、現代における経営やビジネスマンに対する示唆も多く、私としては大変面白い本でした。

デルのビジネスモデルがダイレクト販売によるSCM(サプライ・チェーン・マネジメント)の確立であることは誰でも知っていますが、それは、デルの最大のポリシーである「顧客重視」という点からの当然の帰結だと書いています。従って、顧客のためにならない製品開発はやらないという判断も、昨今のプロダクトアウトからマーケットインへという潮流をみるまでもなく21世紀に生き残る企業像を示しているといえましょう。

会社は株主(オーナー)のものであり、株主利益の最大化が会社の目的とするのも、当たり前と言うには当たり前すぎる主張なのですが、日本の企業を見ていると株主利益など無視した経営をする企業も少なくなく、大企業であろうと未だに持ちえていないカルチャーであると思わざるを得ません。

経営判断をデータを用いて行い、例えば小売販売チャネルからあっさり撤退しダイレクトモデルという戦略を先鋭化させるという判断も見事。ROIという言葉は知っているものの、適切な経営データをもとにした判断という点では赤子のような私の勤めている某企業など、デルの爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものだと、つくづく思うのでした。

デルは起業以来、いまだかつて見たことのない高い成長率(業界成長率より高い成長率)と高利益率を確保しつづけていますが、会社としての体脂肪率は極めて低く、ポリシーもシンプルである点、企業経営者ならば見習うべき点は多いと思うのでした。

創業者自らの本なので、手前味噌もあるとは思うのですが、堀江某の本よりはよっぽどタメになるかなと・・・

2004年11月21日日曜日

ハーン/エルガー:ヴァイオリン協奏曲


エルガー:
ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品61
4つのピアノ小品 Op.119
ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)
サー・コリン・デイヴィス(指揮)
ロンドン交響楽団
Deutsche Grammophon
474 5042

しばらく多忙で、音楽を聴くどころかエントリーするのも面倒な状態が続いておりましたが、アクセス解析を見ると、更新しなくても訪問してくださる方もいらっしゃるようで、恐縮でございます。

さて、遅ればせながら、ヒラリー・ハーンの新譜であるエルガーのヴァイオリン協奏曲を聴きました。最初はパッとしなかったのですが、10回くらい聴いたら良さが分かってきました。曲に最初馴染めませんでしたので、ハーンへの言及は僅かです。

エルガーのヴァイオリン協奏曲を聴くのは本盤がはじめて。ヒラリー・ハーンの新譜ということで購入したのですが、一聴しただけでは長大なだけでとらえどころのない曲といった印象。

そもそもエルガーなんて「威風堂々」と「愛の挨拶」くらいしか知らない、「チェロ協奏曲」なども持っているハズだが、ドンナ曲だったかはさっぱり。

そういうわけですのでライナーなどを頼りに知識を仕入れると、ヴァオイリン協奏曲は彼の最愛の友人であるAlice Stuart-Wortley(妻の名前と同じであることから、エルガーはWindflowerと名付ける)に捧げられたものなのだとか。

表向きは、名ヴァイオリニストのクライスラーに捧げられていることになっていますが、楽譜には「ここに...の魂を封じ込める」とスペイン語で書かれているのだそうです。実際1912年にAlice Stuart-WortleyにI have written out my soul in the concerto,Sym.ll& the Ode & you know it. In these three works I have shewn myselfと書き送っているそうですから。

有名な「愛の挨拶」は、二人の婚約を記念した美しい曲ですし、愛妻家で知られたエルガーですのに、Windflowerをはじめとして、彼の周りには少なからぬ女性が登場しているようです。ただ、関係は非常にプラトニックなものであったそうですが。

さて、このようなエピソードが作品解釈上有効であるのかはさておき、改めて聴いてみるならば彼の情熱と憂鬱、老年にさしかかっての回顧や悔恨などがほろ苦く聴こえてくるようですから、先入観というのは恐ろしいものです。

重苦しいオーケストレーションに対してヴァイオリンに与えられた技巧的なフレーズは、抑えがたい感情の本流にも感じられます。そこかしこに聴こえるWindflowerのテーマは、聴いていて切なくなりますね。あんた、そこまで思っていたなら・・・などと考えてしまいます。

しかし、そこは愛妻家で鳴らしたエルガーですから、立ち込める霧のようにほの暗く曖昧とした中に、ふと立ち現れる感情なのでしょうか。控えめであるだけに、美しいのですね。

解説によると、第二楽章のヴィルトオージックなヴァオイリンのフレーズが"トリスタン・コード"で導かれていると書かれています。"トリスタン"はめくるめく破滅への愛の世界ですが、確かに私は第一楽章からトリスタン的な狂おしい雰囲気を感じはしました。ただし破滅には向かいませんがね。

エルガーが人生の終わりに近づいた頃、16歳のメニューインの録音を聴きながらThis is where two soul merge and melt into one anotherと語ったそうです・・・。(ああ、死ぬ前でよかったね)

この第二楽章のヴァイオリンのフレーズなど涙が出そうになるくらいに美しいです。それを支えるバックも見事。解説では伝記作者Michael Kennedyのno matter whoese soul[the concetro]enshrines, it enshrines the soul of the violinを引用していますが、まさに其の通り。エルガーのソウルがヴァイオリンの精へと昇華しているかのよう。

それで、ヒラリーのヴァイオリンなのですが、このような音楽を表現するのに、これ以上はないのではないだろうか、というくらいに美しく、繊細で、慎重で、しかし力強い音楽を奏でてくれています。音色は心が一本通っています。表現にクセはなく、相変わらずテクニックには一分の隙もなく、硬質ながらも仄かな気品さえ漂わせながら、この長大な愛の音楽に正面から挑んでいます。

2004年11月17日水曜日

パウエルの辞任

パウエル国務長官の辞任ニュースが世界を駆け巡っています。イロイロな憶測は乱れ飛んでいますが、ブッシュ新政権がパウエルなきあとでも中道派(ハト派、穏健派ではない)勢力へと舵取りができるようになった、という見方には不安と疑問を感じます。

パウエル辞任は世界情勢を左右しますが、日本的にはアーミテージ副長官や農務長官アン・ベネマンの辞任の方が影響が大きいかもしれません。

私的には「ライスの顔も、そのうち描かなくちゃならないのか」というぐらいの影響しか当面は考えられませんが。(パウエルだって、イラク開戦の頃描いたものです。あまり書くことがないので、「埋め草」でした・・・)

2004年11月7日日曜日

映画:山猫

k-tanakaの映画的箱庭でヴィスコンティの傑作「山猫」が上映されていることを知り観てきました。イタリアの至宝、映像の世界遺産とでも言うべき作品が国を挙げての文化事業として復元され、撮影監督ジュゼッペ・ロトゥンノの監修で何度も改良を重ね今世紀に入ってようやく終了、「イタリア語・完全復元版」として甦った。ということだそうで、堂々3時間6分の大作として劇場に蘇ったことは、それ自体が感動的な出来事と言えましょう。

改めて観ますと、映画の重厚さ、映像の華麗さ、演技の深みなど、全てにおいて圧倒されてしまいます。映画の1/3を占める舞踏会のシーンも圧巻なのですが、シチリアの乾いた風土や、脇役たちの悲喜こもごもの表情などにも人柄がにじみ出ており、どこを取っても完璧な出来です。

配役では没落する貴族サリーナ公爵を演ずるバート・ランカスターが圧巻ですが、甥のタンクレディを演ずるアラン・ドロンの野心を帯びた若さもさすがで、彼の鋭い光があるが故にサリーナ公爵の翳が一層際立っています。タンクレディの婚約者アンジェリカを演ずるクラウディア・カルディナーレは個性の強い顔立ちで、私はあまり好みではないのですが、映画では抜群の存在感です。彼女の存在なくしてこの映画はあり得ないとも思え、好き嫌いのレベルを超えています。あの品のない笑いには、思わずこちらも失笑、いやあ素敵です。

舞踏会のシーンは、もうおなかいっぱい、ウンザリ、というくらいな映像なんですが、貴族たちというのは礼儀正しくも放蕩で、しかも体力があったのですね。ウェストを絞ったドレスを纏った淑女たちと正装や軍服姿の紳士たちが、汗だくになって夜通し踊り続けるのですから。ヴィスコンティにしてみれば、華麗な世界の再現とともに、サリーナ公爵がつぶやく「無意味な会話」というような壮大なる浪費までも表現しつくしたということでしょうか、何ともシニカルです。

「山猫」を観ていると「椿姫」を思い出しましたが、それは華やかな舞踏会のシーンだけのせいではなく、第2幕第2場「あたしたちははるばると訪れた(ジプシーの女たち)」などの旋律を、シチリアの下手な楽隊に演奏させたり、ヴィオレッタのアリアを避暑地の聖堂のオルガニスとに演奏させたりと、映画の中でさりげなくヴェルディしていたからなんですね。フランスのクルティザンの愛の音楽を聖堂にですか。これもヴィスコンティの演出でしょうか、それともヴェルディがそれほどまでにイタリアに溶け込んでいるという査証?

サリーナ公爵がカラヴァッジョかグレゴ風の絵に見入っているシーンも印象的です。自らの死を見つめながらも、それに抗うことなく実を任せる姿。サリーナ公爵の晩年の在り方は、新旧の交代という意味からマーロン・ブランド演ずるゴッド・ファーザーのラストと微妙にダブりました。

映像美ということでは、有名な舞踏会のシーンは蝋燭のシャンデリアなのに妙に明るかったり、影がシャンデリアの光源からはありえない方向からのものであったり、ヲタク的に観るとおかしい気もするのですが、キューブリックが「バリー・リンドン」で使ったようなカメラを、ビスコンティが持っていたら、どうなっていたんでしょうね。

2004年11月6日土曜日

ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲

ショスタコーヴィチの「ジャズ組曲」を聴いてみました。ショスタコがジャズをどうアレンジしているのか、ということに興味があり購入したのですが、あれれ、これはジャズというよりも「軽音楽」ですね。

明るく軽快な、そしてちょっとノスタルジックでダルな音楽の寄せ集めといったところ。実際にバレエ、映画、劇音楽を集めたもののようです。「ジャズ」ということを期待して聴くと、裏切られますが、軽音楽を愛したショスタコの一面を聴く意味では興味深い曲でしょうか。

ジャズ組曲 第2番は、《舞台管弦楽(Stage Orchestra)のための組曲》とあり、オーケストラに、サックスやアコーディオン、ピアノなどが加わっています。《マーチ》は、間違いなく秋晴れの晴天下での運動会オープニングに最適です。続く《リリック・ワルツ》は、フルオーケストラをバックにしたサックスのテーマがノスタルジックな気分を誘います。ダンス 第1番は後に映画音楽「馬あぶ(Gadfly)」作品97で《祭日》として知られるようになった、これまた脳天気に明るい曲。しかし「馬あぶ」という映画とは・・・!

映画音楽といえばワルツ 第2番は、スタンリー・キューブリックの遺作で、トム・クルーズ、ニコール・キッドマン主演の「Eyes Wide Shut」で使われた音楽。再びサクスフォーンの音色に導かれて曲は始まります。NAXOS解説ではsinuous saxophone melodyとあります、意味深な表現ですね。映画は観たことがないのですが、甘美にして複雑な感情を秘めた秀逸な音楽です。

ところでこのジャズ組曲 第2番ですが、2000年にピアノ譜が発見され、G.McBurneyによって2000年のプロムス・ラスト・ナイト・コンサートで3楽章形式のジャズ組曲が演奏されたとのこと。ショスタコの「ジャズ組曲」は二つあるってことなのでしょうか?

ジャズ組曲 第1番は、3曲構成の小品。先ほどのワルツ 第2番のサクスフォーンのテーマをトランペットが奏でている曲から始まります。こちらはこちらで、放浪する旅芸人がまとう哀愁のようなものを感じます。

この盤にはジャズの名曲である「二人でお茶を」の管弦楽編曲編が最後に納められていますが、なかなか洒落ています。お馴染みの名曲をショスタコが編曲しているとは、とちょっと驚きます。

ショスタコーヴィチ:ジャズ組曲 第1番、第2番他
指揮:ドミトリ・ヤブロンスキー ロシア国立交響楽団
NAXOS 8.555949

2004年11月4日木曜日

映画:2046

ウォン・カーウァイ監督の<2046>を観てきました。木村拓哉が出演しているとか、アンドロイドに恋をするなどの近未来的な映像の宣伝にすっかり騙されてしまいましたが、この映画にSF的なものを求めるのならば、それは100%裏切られます。言ってみれば色男の女性遍歴と、彼が彼自身を求めて内面へと降りてゆく、非常に息苦しい映画なんですから。

何と言っても、カメラワークが異様ですね。2時間以上のこの作品、ほとんどが部屋の中で、それも人物がアップで描かれています。それも、手前や横に大きく部屋の一部が写りこむ形で写されていますので、観客はどこかから部屋を覗き見しているような感覚になります。

色男を演じるトニー・レオンですが、実際彼も映画の中で自分自身の過去を覗き込んでいるという設定ですから、こういう演出もありかなとは思いますが。(彼の役柄も、口髭も私の趣味ではないので、そこらあたりでも感情移入がしにくく、ちょっとつらかったりします)

映画にはアンドロイドなんてほとんど出てきません。もう少し伏線として列車の中でのシーンを重視して欲しいという気はしましたが、メインテーマではないので仕方のないところでしょうか。しかしアンドロイドが、その瞬間では気持ちが分からない異性へのアナロジーなのではないかと気付かせてくれます。

「俺と一緒に行かないか」と木村拓哉やトニー・レオンは繰り返します。しかし、それに相手の女性は無言で答えるだけ、彼らには自分がこんなにも愛しているのに、彼女らの拒絶の理由が分かりません。別れた数時間後に、彼女たちが悲痛の涙を流していたとしても、彼にはそれがわからないという意味で感覚が麻痺していて、其の瞬間には喜怒哀楽を表現できなくなったアンドロイド(数時間後に笑ったり泣いたりする)と相似であるということなのでしょうか。

過去に、思いを寄せた女性から拒絶された経験を持つ主人公トニー・レオンが、その後、次々と女性遍歴を繰り返すのも、宿泊先で知り合った日本人男性に自分の昔の姿を重ねるてしまうのも、自然な成り行きであるのかもしれません。

だからと言って、トニー・レオンのチャン・ツィイーに対する酷薄な態度は、感情的に許せなかったりするのですが、まああのくらいの態度を取れなくては「女遊び」などできず「色男」になどなれないのでしょう。それでも彼の心に忍び寄るのは、いつまでも離れない昔の想いであり「失われた愛」をもう一度みつけるために<2046>に旅立たなくてはならないのだとするのならば、彼の人生もそれほど華麗というわけではなさそうです。

彼らが、あるいは彼女らが何を打ち明けたかったのか、映画の中で何度か繰り返される「秘密の打ち明け方」。すなわち森の中の大きな樹の下に穴を掘って、秘密を埋めてしまうということ。そうまでして、自らの気持ちを押し隠し、そして解放せずにはいられないという狂おしいまでの欲求。彼らが求めた<2046>は主人公の書く小説の題名でもあり、書くという行為が彼の心を解放するのではありますが、しかし彼には遂に「ハッピーエンド」を書くことができないのです。娯楽小説ならば死んだ人間を再登場させることもした彼が、100時間も原稿用紙に向かってもハッピーエンドを思い描けないということは、救われない結末です。

映画はかように、派手さはなく内面的な故に、贅沢なまでにアジアのスターを結集させてはいるものの、ウケない人には全くダメなようです。同監督の<花様年華><欲望の翼>などを観ている方(私は観てない)には、更に評価は低いようです。個人的には充分楽しめましたし、チャン・ツィイーの魅力や、コン・リーの圧倒的な存在感など、アジアの女優の演技を鑑賞する意味でも価値はあったかなと思います。

あと、音楽も良いです。フルートの奏でる旋律は、楽譜が欲しいくらいです。

もひとつ、いくら宣伝とは言っても、この映画の予告編はムチャクチャです、これほど予告編と内容が乖離している映画も珍しいんではないでしょうか>え?映画を知らない人間の勝手な思い込みだって?

追記
俺の右手にいた、映画観ながらいで始終ケータイメールしていた女、映画館ではマナー守れよな。そうそう、木村拓哉出演のせいか、女性一人客が目立つ映画でした。彼女らの期待は果たして満たされたか?

2004年11月2日火曜日

[ニュースメモ]イラクの香田氏殺害事件


イラクの香田氏事件について。


  • 今回は仕方ないという風潮、自己責任と自業自得
  • 24歳の世界認識の甘さ=日本の認識の甘さ、少しは情勢を知る者ならばイスラエルからイラクには入らない
  • 海外のメディアの反応、日本人の態度の「冷たさ」
  • 小泉首相は「人質を殺すな」ではなく、「テロと戦う」というメッセージをいの一番に出したことの意味
  • 世間の酷薄さと日本人の酷薄さ
  • 自衛隊をイラク派遣していなければ起こらなかった~という論理に欠けているもの
  • 彼を殺した犯人は連続殺人鬼と称される重要犯罪人ザルカイとされるが、香田氏のような無知を生み出したのも日本である



2004年10月28日木曜日

iPod Photo とか ネットラジオとか


iPodがついにカラーLCDを搭載したモデルを発表したとのこと。

iPodは魅力的ですが、ディスプレイのカラー化や画像を持ち歩くという欲求は私にはない。ビデオ再生機能などもっての他なのですが、AppleのCEOであるSteve Jobsが、『
「iPodに入れるビデオコンテンツなど誰も持っていないし、たとえ持っていたとしても、スクリーンが小さすぎてよく見えない」とJobsは述べ、iPodはビデオには「相応しくない場所」だと付け加えた。
』というのには納得。

そういう記事を読んでいたら、オペラキャスト10月26日のエントリで「SONY VS i-pod  勝ち目なし?。。」というエントリーが目に付く。業界の思惑や新しい情報に疎い私は、mp3やATRACなどのフォーマットの違いによって機種が限定されるのは、コンシューマーにとっては不便なだけであり、あまりにも売り手市場の論理でないかと反発を覚えています。




mp3をATRACに変換するのは、それほど面倒ではないとか、そういうモンダイではなく、どうして業界として統一フォーマットができないのか、あるいは、なぜ異なるフォーマットでも再生できるようにしないのか、ということこそモンダイなのではないかと思うわけです。(覇権争いという点では、企業戦略としてはあると思いますよ)。


昨今のDVDをめぐる二つの陣営も、利用者無視のまま進んでいますし、ひいては日本プロ野球の低レベルなゴタゴタだって、あまりにも業界の論理が前面に出すぎてはいないかと・・・。

iPodは持っていないのですが、iTunesをPCにインストールして、PCの中の音楽ファイルを管理することは可能。インストールして分かったのですが、SONYの提供するSonicStageよりはるかに使いやすそう。それにネットラジオをサポートしているのも便利。


ということでやっと本題で、最近はプライベートでPCを使っているときは、radioioClassicaをかけながらということが多くなりました。他と比較していないので何とも言えませんが、メシアンやコープランドなど現代モノも多く流されていて楽しめます。つーか、こんなに素敵な曲も知らないのか、と改めて無知ぶりに恥じ入っていおり、まったくもって、音楽の感想を書くレベルに到底達していないなと・・・思うわけです。


にしても、これから寒くなる季節、iPodにもセーターが必要ですね。札幌では今日、初雪があったらしいです。いよいよ冬到来ですな。(酔って書いたら支離滅裂>酔ってなくても意味不明ぢゃん!)


2004年10月27日水曜日

アンネローゼ・シュミット/ブラームス:作品119

ブラームス:
4つのピアノ小品 作品119
4つのピアノ小品 Op.119
アンネローゼ・シュミット(p)
1979年11月18日/19日、日本コロンビア第一スタジオ
DENON COCO-70536

CD棚をごそごそやっていたら、アンネローゼ・シュミットさんの弾くブラームスの4つの小品 作品119がみつかりましたので、ケンプの盤と比べてみました。いやあ、全然印象が違うので、びっくりしてしまいましたよ。

アンネローゼ・シュミットの弾く作品119

ああ、なんてことでしょう。あんなにも穏やかだったケンプの弾く作品119とは全く違った世界がここにはあります。ひとことでいえば、生きがよく弾けるような生命感に満ち溢れた、力強い音楽に仕上がっています。迷うような寂しさよりは、強靭な精神の中に秘められた孤独を感じるような演奏で、ある種の凄みさえ感じます。枯淡の中に迷ったり、昔を思い返すような音楽ではないですね。(ここらへん、かなり主観独断的)

アンネローゼ・シュミットは1936年生まれで旧東ドイツを中心に活躍したピアニスト。この演奏は1979年のものですから43歳頃の時の演奏になります。何度か日本にも来ているようで、美貌のピアニストとして有名であったとか。

それにしても、シュミットのピアノは強烈、というか、こうして比べてみるとケンプがやっぱり「甘い」のか、それを「味」と感じた指のもたつきも、リズムの乱れも「ダル」に聴こえる、表現は聴始終「泣いて」いるようでさえある。

それに比してシュミットは硬質な響きが印象的で、スピーディーに進みます(第3曲:ケンプ1:42、シュミット1:16、第4曲:ケンプ5:10、シュミット4:26)。余計な誇張やわざとらしさはあまり感じない。ストレートな表現、あるいは「虚飾」がないと言っても良いかもしれません。2楽章最後の、ほのかな花が咲いたかのような柔らかな表現を聴くと、バリバリ弾いているところよりも凄いと思います。3楽章から4楽章にかけては打鍵も強く圧巻です。鄙びた味わいなどどこにもありません。

ちなみにこの盤のメインは、ケーゲル&ドレスデン・フィルによるブラームスのピアノ協奏曲第2番、DENON CREST1000で今は求めることができます。

2004年10月24日日曜日

展覧会:「興福寺国宝展」

東京藝術大学 大学美術館で開催されている「興福寺国宝展」を観てきました。

阿修羅像で有名な興福寺は古都の奈良県を代表するお寺で、創建依頼、平安末期の戦火や落雷により幾たびも灰燼に帰してきました。鎌倉時代から復興がはじまり、堂宇の再建や造像がなされており、この復興の中で運慶をはじめとする「慶派」の優れた仏師が造像を担当しました。興福寺は平成22年(2010)に創建1300年を迎えるに当たって様々な事業が計画されており、今回の展覧会もその一環とのこと。
まあ、そういう面倒なことはさておき、パンフレットにある金剛力士像や無著菩薩像にお目にかかれるというので、楽しみにしておった次第です。

展示は大きく二つに分かれているのですが、何と言っても圧巻は3階の諸仏たちに尽きます。入って迎えてくれるのが、上に示している運慶の手になる国宝 無著菩薩立像(右)と世親菩提立像(左)です。


無著は五世紀頃に北インドで活躍した僧で世親とは兄弟。穏やかななかにすくとした威厳と敬虔さ、そして静寂さ、それでいて信仰心に裏付けられたゆるぎなさと力強さ。どこにも隙の見当たらない立像を目にしますと、思わず溜息がもれてしまいます。顔の表情といい、法衣の流れといい、全く持って木彫技術の素晴らしさには目をみはります。

完成当時はおそらく彩色がされており、現在私達が目にする像とは全く違ったものであったとは思うのですが、時代を超えて伝わる力には改めて感服いたします。

これ以外にも康慶作とされる円陣を組むように拝されて展示されている四天王立像にも、その迫力に圧倒されます。踏み潰された邪鬼たちの表情はノートルダムの悪魔を彷彿とさせます。こちらも当時は極彩色であったろうことが伺われ、当時の姿を思い浮かべながら憤怒の表情に魅入ってしまいます。

運慶の三男である康弁作の国宝 龍燈鬼立像(左)は、これまた珍しい像。四天王に踏み潰されてた邪鬼が立ちあがり、灯明を頭に支えているというもの。首の周りには蛇をまとっています。情けなさの中に愛嬌のある表情で、諸仏の中でもひときわ観覧者に人気を博しているようでした。筋骨隆々の小柄な体にフンドシ姿が何ともユーモラス、踏みつけられた邪鬼の矜持を感じます

パンフレットに示されている国宝 金剛力士像 阿形も圧巻の一言。正面から、側面から、背面から、さまざまな角度から眺めましたが、まるでロダンかミケランジェロかと思うような筋骨隆々の造形美。腰にまとった布に描かれた装飾も見事。

という具合に、仏像が好きな方には、けっこうたまらない企画ではないかと思います。そのほか地味ではありますが、紺地に金文字で書かれた経典(名前は失念)や春日版板木など、経典ファンも充分満足できる品揃えです。あまりに有名な阿修羅像が展示されていないのは残念でしたが「鎌倉復興期のみほとけ」というテーマですから、いたし方ありませんか。

それにしても、こんな展覧会でも結構込んでいました。NHKが宣伝したというせいもあるのでしょうが、老いも若きも仏像好きな方というのは多いのですね。

2004年10月23日土曜日

予感・・・

あまり好きな言葉ではないですが「勝ち組」「負け組」とか「二極化」という言葉を少し前から目にするようになりました。おそらく小泉政権発足と機を同じくして登場した言葉かと思われますが、彼の推し進めた政策の結実でもあります。あるいは「東京一極集中」「地方切捨て」という構図であると指摘する人もいます。


確かに東京は、バブルの頃の東京を知る者にも目を見張らせるほどの変わり方をしています。そこに現出した風景を見ると、いやがうえにも「二極化」の傾向は進んでいることを思い知らされます。




例えば都心のマンションも地価と建設費の下落により、バブル時点よりは買い求めやすいものになりましたが、嗜好性はより高級化しています。オフィス街に近い高層マンションや巨大再開発、あるいは百貨店のリニューアルオープンのあり方、銀座、青山を中心とした海外ブランド店の進出などを眺めていますと、華やかさに幻惑されつつも、いったいに、これほどの需要を誰が消費し尽くせるのだろうか、と一瞬溜息が出ます。


その一方で、依然として安売りに近い世界も存在するわけです。ただ世の中は、雰囲気として高級にシフトを始めたとように思えるのですが、その果実を全ての人が享受できるほどには甘くないようです。


木村剛氏はブログでも宣伝しているように「ファイナンシャル・ジャパン」というビジネス誌を刊行しました。


本物志向のビジネスパーソンをターゲットとした雑誌はいくつもあります。しかし、実際にビジネスパーソンが必要としている企業経営情報や、資産運用のための実践的な情報が提供できている雑誌はあったでしょうか。この疑問点から、「フィナンシャル ジャパン」はスタートしました。

読者は「一流とは何か」を希求する、知的レベルの高いビジネスパーソンやアクティブな投資家の方々です。みなさんがほしくてもなかなか手にすることができなかった奥の深い情報を、私の情報ネットワークを駆使してお届けします。ステイタスの高いエスタブリッシュな経済情報誌の新創刊にご期待ください。

KFi代表 木村剛



というウリです。(一流の=勝組の)ビジネスパーソンと、投資を出来るほどに裕福な投資家のための雑誌と明言してるわけです。明確なセグメンテーションです。立ち読みをしてみましたが『月間!木村剛』という、それより以前に創刊した実験誌とは全く趣の異なる、本格的なビジネス誌です。ここまで質実に構成するとは、と驚きました。


ハナシは変わりますが、Harvard Business Review 11月号(日本版)という雑誌で興味を引いたのが、「新富裕層のマーケティング」という記事でした。雑誌ではアメリカにおける世帯所得分布の変化を示し、新たな消費者層=新富裕層が登場したことを説いています。日本の所得分布は、アメリカと異なっているのではと予想するのですが、しかし、日本においても新たな消費者層と消費イメージが形成されつつあることは、何となく感じます。


それは、逃げ切ることのできた団塊の世代だけではなく、ディンクス的な生き方をする世代、あるいはライブ・ドアや楽天の成功ストーリーを追う者達の出現に繋がるかもしれず、なにやらひたひたと、しかし急激に、気付いたら腰まで水につかっていたというような時代の変化を予感するのでした。


新たに商売を始めるなら、この新しい消費者層をターゲットにすることが、一つの鍵なのではないだろうか、とは誰もが考え始めていることかもしれません。最近の雑誌創刊ラッシュもこの流れと無縁ではありますまい。


しかし、翻ってわが業界・・・うーーーん。古い、遅い、重い、高い、疑わしい。>聞くな!触れるな!

2004年10月21日木曜日

クラシック ポータルサイト2

さきほど、Google Newsのようなブログ検索型クラシック・ポータルサイトについて書いたばかりですが、CNET JAPANの[梅田望夫・英語で読むITトレンド]インターネットが埋もれた名作を掘り起こす2004年10月18日というエントリーを読み、なるほどと思いました。

梅田氏は、埋もれた名著がブログで口コミ的に拡がりることによる復刊の可能性を指摘しています。「レコード芸術2004年10月号」では、タワー・レコード&山野楽器&新星堂が新レーベルを作ったことが掲載されていました(「チェント・クラシックス」という名前)。埋もれた音源、メジャーなところではおそらく発売しないようなニッチな、それでいてファンにはこたえられない音源を出すという企画だそうです。

このような企画発案は、個人サイトで「廃盤を復活させよう」などとしてゲリラ的に散見はされます。要は隠れたニーズの把握と新たなビジネスチャンスというハナシなのでしょう。amazonのよううなメジャーなサイトが主導するのもひとつの手ですが、もう少し「中立性」を持ったサイトがニーズを掘り起こすということが今後あるのかもしれません。

Googleのサイトの凄いところは、その「中立性」(純粋にではないが)をイメージさせつづけているところでしょうね。あくまでもユーザー重視という顔をしている。

クラシック ポータルサイト

クラシック関連の参加型なポータルサイトができないか期待しています。

例えば世にCDレビュを書いている方はたくさんいるのですが、これだけ膨大なサイトの中から適切なレビュに巡り合うということは難しい。私の場合、時間もないし面倒なので、定期的に巡回している有名なサイトのレビュを参考にすることが多のが現実です。

amazonなどでは、カスタマーズ・レビュを書くことができるのですが、短評しか掲示されておらず、頻繁に訪れているのでなくては、どういう嗜好の方のレビュなのかがわかりにくい。そこで網羅的なポータルの登場です。

ポータルサイトは人為的なものでは主観が入ったり、手作業としての限界がありますから、目指すはGoogle Newsのような自動検索です。

CDレビュのポータル化に賛同するウェブマスターなり書き手は、XMLソースか何かにレビュをするCDに付与されたユニークなIDと、ポータルに参加することの意思表示であるタグを埋め込んでおく。ポータルサイトは、自動検索ロボットが定期的にネットの海を底引き網漁船のように探りまわり、タグの埋め込まれてあるレビュを所定のCDにリンクつけてリスト表示するという具合です。

相互に約束を設けることで、参加不参加の意思表示もできるようにしておくわけです。レビュには読み手の評価を反映できるようにしておき、参考になったレビュは上位に、複数のレビュで人気のある書き手も上位にランキングするようにプログラムしておきます。Google Newsと同様に、あくまでもポータルサイトはリスティングのみ、詳しくはそれぞれのウェブマスターのサイトを訪れるようにします。

amazonのカスタマーズ・レビュをトラックバック可とするだけでも随分と変わるような気もしますが、ゆくゆく読みたいのはCDレビュだけでなく包括的なクラシックの「話題」だったりしますので、やはりブログをジャンル別に自動検索するのが良いかなと。

こういうことを考えていたら「ネットは新聞を殺すのかblog」でも10月18日に「グーグルがブログ専用の検索サービス開発中」というエントリがあり、考えるヒトは考えているのだなと感心。

2004年10月18日月曜日

ケンプ/ブラームス:後期ピアノ作品集


ブラームス:後期ピアノ作品集
ケンプ名盤1000 ピアノ名演第2集
3つの間奏曲 Op.117
6つの小品 Op.118
4つの小品 Op.119
ヴィルヘルム・ケンプ(p)
DG POCG-90117(457 855-2)

今日は休日にして久しぶりの快晴、気持ちの良いくらいの秋晴れです。休養をたっぷり取っているので朝6時過ぎには目が覚めてしまいます。富士山がくっきりきれいでした。

さて、ヴィルヘルム・ケンプが昨日エントリーしたビレットのメンターであったということで、思い出したように引っ張り出して聴いてみたのがブラームスの後期作品集が納められた本盤。

一般にブラームスの後期ピアノ作品というと116番~119番を指すことが多く、これらの曲は派手さはないものの甘美さと寂寥感がないまぜになった曲で、秋深まる季節に聴くにはもってこいです。

この曲たちには枯淡とか訥々としたというような表現を冠したくなりがちですが、よく聴くとブラームスの複雑な心境を吐露しているようにも思えます。

さまざまな思いがよぎり、昔を思い出すかのような雰囲気が漂っているかと思えば、何かから解放されたかのような自由さを感じさせたりもします。それが得も言われぬ歌となって奏でられるのを聴いていると、心をじかに撫でられているような気にさえなります。これはケンプのピアノのなせる技なのでしょうか。ブラームスが何から解放され何を悟ったのか、それは分かりませんが聴いていて飽きることがありません。

それにしてもブラームスが晩年に至って、この曲を書くような境地に至ったことは興味深いものがあります。特に作品119は弟や姉に先立たれ、知己も少なくなってきた孤独感が投影されているといいます。119-1でのまるで水滴の響きのような旋律は、ブラームスがクララに宛てて「非常にゆっくりと、ためらうように弾いて下さい」と注文を付けたと言いますが、まさに時間が過ぎるのを惜しむほどの音楽です。119-4の力強さと抒情性の振幅の美しさには涙をさそいます。これらの曲は、ベートーベンが音楽の極北にまで達したのとは対照的といえるかもしれません。

録音は1963年の演奏ですから、ケンプが70歳近くでの演奏です。ケンプのピアノは下手だとか、ブラームスの後期作品のような曲はケンプではダメだという意見もあるのですが、どうなんでしょう。他と比較しているわけでないのでよく分かりません。でも作品117など適度なテンポ感といい、どこか甘いアンニュイな雰囲気とか非常に良いと思います。

2004年10月17日日曜日

ICHIRO

風邪のせいで体もダルく昨日は12時間も寝てしまう。今日もイマいちヤル気が起きず、部屋の掃除したり散髪に行ったりで、ブラブラと時間を過ごす。

21時のNHKでイチローが記録達成に向けて自らの心境を語る番組を見る、相変わらずクール。淡々と語る中に自信と闘争心が透けて見るが、それらが彼の野球に対する真摯な姿勢に依拠しているせいか彼を好意的に映し出す。


記録達成時点の映像も改めて見たが、観客総立ち、ベンチからも祝福して駆け寄るシーンはメジャーに感心のない私でも素直に感動させられる。記録を破られたシスラーの家族も「イチローによって祖父が蘇り、改めて偉大さを認識している」と語っているのは印象的だ。


些細なことだが、NHKは何故に今でも「大リーグ」と称しているのか? 今時小学生でも「メジャー」と言っているのではないだろうか。
(イラストは番組を見ながら描いたのだが、熊五郎みたいだよ、とっつあん)



2004年10月16日土曜日

リゲティ:ピアノ練習曲集 第1番&第2番

風邪で鼻水はとまらず喉も痛く頭が朦朧とするなか、今週は夜のお付き合いが何度もあったりで、すっかり体調はガタガタ。本日の会議もほとんど睡魔と闘うという情けなさです。

頭を少しはすっきりさせようとHMVで何気に手に取ったのがこの盤。『脳味噌がパニック!複雑リズムの極地!!』と記されているリゲティのピアノ練習曲集 第1番と第2番ですが、果たして聴いてみれば、まさに脳天を棍棒で撃ち下ろされたような衝撃。

嗚呼、私はリゲティも聴かずに今まで生きてきて、やれラウタヴァーラだのカプースチンを述べようとしていたのか。初めて聴いた偉大な作曲家を評せるはずもなく、ただただ悪魔的な鍵盤の技から生み出される強烈なリズムと複雑な音色に陶酔するのみ。

彼にしては「現代音楽的」ではなく、聴きやすいという評であるらしいものの私にはきわめて「現代的」響き。作品集の中で独立して演奏されることも多い「無秩序」「ファンファーレ」「ワルシャワの秋」「魔法使いの弟子」「悪魔の階段」あたりを繰り返し聴く。変化に富んだ音が様々に色彩を変えながら流れるのをぼおっと聴いていると、クラシックの曲を聴いているような気にならないワクワク感があります。「あ、やられた、ここでそう来たか」「うひゃア、なにそれ」とか、まるでビックリ箱です。

ピアニストはビレット(Idil Biret)というアンカラ生まれの女性。コルトーとケンプ(ケンプは彼女のメンター)の弟子であるとのこと。もはやピアニストに対し「女性にしては」などという形容詞を付けることの無意味さを感じます。他と比較したわけではないものの、力強さと独特の叙情性が伝わってくる演奏。驚きながらも今の季節、内省的な気持ちにもしてくれます。ただあまりに有名らしい「悪魔の階段」はイマひとつ衝撃的ではなかったのですが。

リゲティ
ピアノ練習曲集 第1巻&第2巻
  • (p)Idil Biret
  • 2001 NAXOS 8.555777

2004年10月15日金曜日

凋落

10月14日の日経新聞一面は象徴的な見出しが躍っていました。ひとつは『ダイエー機構に支援要請』であり、もうひとつは『堤義明氏 全役職を辞任』です。かつての日本を代表していた企業の凋落を見るのは、複雑な気持ちがあります。この2社を親会社とする野球チームが、どう考えても納得のいかないパ・リーグのプレイ・オフを戦ったということも、ある意味で象徴的であったのかと、あとで振り返ったときには思い出されるかもしれません。




10月15日の日経新聞の春秋では


ある種の伝説化した尊大さを、経営者のカリスマ性の源泉にする時代はとっくに終わっている。法律は守る。借金は返す。情報は公開していねいに説明する。こんな当たり前のことが、問われている。


と書いています。カリスマ経営者の時代が本当に終わったのかは分かりません。ただ、ひとつの時代がどうやら世代交代という形で動きつつあることだけは実感できます。世間をにぎわせている楽天とライブドアは、その表れであるかもしれません。


同日の日経スポーツ欄には、ライブドアと楽天のプロ野球新規参入に対する第二回目のヒアリング結果が報じられています。西武もダイエーも(かつての日ハムを含めても)企業として破綻しているというのに、既得権益側については言及せず、新規参入企業を評価する理不尽さ。あるいは、迷走するダイエーに対する再建計画を、(大口融資をしているとはいえ)UFJ銀行が指導するという不可解さ。


ねじれまくった産業界の構図の中に、外資の足音だけがひたひたと聞こえ、このごろやたらと市民権を得始めた「富裕層」という言葉が、うつろに響いてくるのは考えすぎでしょうか。

2004年10月14日木曜日

米大統領選の行方と防衛構想

アメリカでは来月の大統領選挙に向けてブッシュとケリー候補がTV討論などで熱弁をふるっています。海外のWeb Newsを見出しだけでも見るとはなしに見ていても、毎日彼らの話題で持ちきりなことが分ります。

今回の選挙は「戦争最中の選挙」であることから、「イラク戦争」を含め今後の防衛についてどう考えているのか、今後4年間で何を実現させるのかを占う点でも、日本にとっても無関係の話題ではありません。

しかしどうなんでしょう、防衛に関して言えば、日本はアメリカ追随の姿勢から、武器輸出三原則の見直し、憲法改正、独自の防衛力構想をも含め、何か議論がかみ合っていないような気がしています。「テロとの戦い」というのを最大限許容したとしても、ハード面でもソフト面でも冷戦時代をひきづっていないかと。その最たるものがMD(Missile Defence)だったりします。

これについて、10月9日付けのJMMは「アメリカの選択、日本の選択」と題しこの問題は日本の産業競争力を損なう危険があり、計画に参加すべきではないし、また武器輸出三原則の緩和も日本経済を繁栄させるという観点から見て、下策だと書いており、納得させられました。

「産業競争力を損なう」という主張は、防衛産業という国家機密に類する産業は国際競争力が働かないためであるとし、以下のように書いています。

戦車や軍用機、そしてハイテクの塊のようなMDなどに至っては、「軍事機密」という隠れ蓑の向こう側で、一体何が妥当な価格なのか、社会的なチェックは不可能です。こうした環境は日本経済の不得手とするところです。MDプロジェクトにおいて、アメリカから強く誘われるまでになった日本の技術力は、民需の過酷な価格と性能の競争によって養われたことを思うと、政治と軍事の影に隠れた世界では、コストと性能という板挟みの中で戦う緊張感を維持することはできないと思います。

MDによる均衡の崩れとか、MDの実質的な効果とか、対テロにMDが必要かとか、果てしない軍拡競争というかつての冷戦時代にもあった技術的問題も被さってきます。北朝鮮の脅威を最大限に考えたとしても、得策かどうかは分りません。

10月12日Washington PostのOP-EDでもDavid Brooks氏は、大統領選挙における候補者の主張「赤字の削減」と「軍事費の拡大」の矛盾を鋭く突いており、MDについても以下のように述べています。

A starting point for defense budget skeptics is national missile defense. The Bush administration plans to spend $10.7 billion this year in a rush to deploy a system that even some of its own experts say isn't ready. That spending could be cut in half, to allow the testing for a system that would eventually work against potential adversaries such as North Korea or Iran.

David Brooks氏はMDのほかにも冷戦時代を踏襲したような無駄な軍備について指摘していますが、日本がアメリカの軍事費までをも肩代わりをするようなことに、みすみすなってしまうことは避けてもらいたいものです。

2004年10月9日土曜日

「サマワの日本・イラク友好記念碑に爆弾」asahi.com

asahi.comを斜め読みしていたら、こんな記事が。

自衛隊が被弾しなくて、よかったですねと思う以前に、自衛隊って、サマワでこんなモン作ってるのかよっ!

オズボーン/カプースチン:ピアノ作品集

今週の東京は地震に台風ですか、休日はひどい天気になりそうでウンザリです。今年最後の三連休ですのにね。(これが終われば、そろそろ「忘年会」の声さえし始めるような気配です)


ということで、今日はオズボーンの演奏です。
ピアノ・ソナタ 第1番(ソナタ・ファンタジア)op.39
ジャズ・スタイルによる24の前奏曲集op.53より
ピアノ・ソナタ 第2番op.54
スティーヴン・オズボーン(p)
hyperion MCDA67159

オズボーンは1971年生まれのイギリスのピアニスト、アムランに先立って1999年9月に録音したのがこの盤です。二つのソナタ(No.1、No.2)とジャズ・スタイルによる24の前奏曲集から5曲をチョイスした構成。

オズボーンのピアノを聴くのは初めてです。アムランほどの自在さは彼のピアノからは感じられませんが、アムランに馴染んでからオズボーンを聴きますと、アムランの演奏が鮮やかすぎるせいでしょうか、こちらの演奏は大人しく堅実に聴こえます。もっとも聴き手の体調によってはオズボーン盤の方がしっくりくるときもあるかもしれません。アムランとオズボーンを比較するのも愚なようですが、アムランが「ドライブ」しているとすれば、オズボーンは「ライド」と言ったところでしょうか。

オズボーンがソナタ第1番、2番をhyperionに録音してしまったので、アムランの演奏が録音されないと嘆く方もいるようですが、私は結構楽しく聴くことができました。オズボーンの演奏がどうこうというよりも、カプースチンの曲が良いです。

ピアノ・ソナタ第1番は1981年の作品、カプースチンはこの曲を作るまでに幾つもの曲(コンチェルトを含む)を作曲していますから、ソナタへの着手は彼のキャリアを考えるとかなり遅いようです。そこらあたりの事情をオズボーンはCould it be that, intimidated by his predecessors, he shied away from the sonata, as did Brahms from shmphony?と推測しています。(ピアノ・ソナタは現在では13番 Op.110まで作曲されています)

ピアノソナタ第2番は、特に第一楽章がオズボーンの演奏では指定ピッチよりも遅すぎて、精彩を欠いているという評も目にしますが、他者の演奏比べているわけでもないので、彼のテンポと曲作りが私には刷り込まれてしまいました。

二つのピアノソナタはかなり秀逸な作品だと思います。ジャズのエッセンスをクラシックに当てはめたとかいう表層的なものではなく、クラシックの曲としての構成美と美しさが、ジャズの自在さを獲得して羽ばたいているかのようです(うーん、どう書いてもうまく伝わらない、聴きなさい)。「ジャズとクラシックの融合」と書いたときに感じる「胡散臭さ」は微塵もない厳格なる曲です。アムランやカプースチン、その他の演奏者がどう弾くかは興味深いです。

2004年10月7日木曜日

ネットとマスコミ なんちゃらかんちゃら


マスコミとネットに関して考える機会を持たせてくれるエントリーがいくつかありましたので、忘れないうちに書いておきます。

(以下個人的メモ)




��月にGoogle News(日本)が始まり、通勤途上では日経を、デスクに着いたらとりあえずGoogle Newsを立ち上げるようになりました。


そんなおり「擬藤岡屋日記」でgoogle日本版の記事の収集・検索に疑問を感じているとのエントリーがありました(Unconvincing algorithm [2004/10/2 18:40] )。それを受け「ネットは新聞を殺すのかblog」において、Googleニュース(日本)のリンク先リストを公開しているブログが紹介され(Ceekz Logs)それを閲覧したところ、大手新聞社は朝日と日経だけがGoogleのリンクを承諾しているのみ、これではニュースソースが偏るわけだと納得した次第です。海外発信の記事はGoogle News(海外)や、それこそロイターやAPを当たった方が早いですが、英語が苦手な私には、Google News(日本)は、そこそこ便利なサイトであります。


ネットに常時接続している人の中には新聞を購読しなくなる人もいるかもしれませんし、マスコミ各社も新たな収益モデル構築に頭を悩ます必要に迫られているのかもしれません。先週末の朝日新聞(紙面)では、イギリスの新聞各誌が「タブロイド」版にサイズを変えることで売上を確保(伸ば)しているという記事が目につきました。通勤などで読みやすいサイズということで購読者にはウケているそうです。エスタブリッシュな新聞社は、今まで蔑視していた「タブロイド」版に踏み切ることは大きな改革であったと書いていました。日本のみならず、各国とも苦労しているようです。


tsuruaki_yukawaさんのブログタイトルの通り「ネットは新聞を殺すのかと」いう議論がありますが、ウェブニュースあるいはブログの隆盛によっても新聞がなくなることはないだろうことは、tsuruaki_yukawaさんの「新聞が本当になくなってもいいの?」というエントリーによくまとめられています。Google NewsもYahoo Newsもブロガーも自らが取材して記事を書いているわけではない以上、情報の監視者ではあっても発信源ではないようです。


そのニュースにもしかすると裏があるのではないかということを多くの人が気付き始めています。「サンデープロジェクト」などのニュース解説番組に人気のあるのも、奥様方のものであった「芸能ニュース番組」が政治を取り上げ始めたのも、タテマエだけ公正公平なことになっているマスコミ情報に対する疑問と、より深い情報に対する要求から支持されているのだと思います。その延長線上で、良質なブロガーによる独自の視点が、ニュース理解の助けになってきています。


こうして俯瞰しますに、ネット対既存マスコミという観点ではなく相互がコラボレーションすることが今後重要であると思うわけで、そんな中「週刊!木村剛」の動きは若干の疑問があるものの、見事に時流に合った取組みだと感心します。今後の動きには更に注目したいところです。


ただ彼が、10月4日のエントリー(ネット有名人vsリアル有名人:テレビは見ないがネットは使う [2004/10/4 9:00])で、『40代以上の私の世代では、おそらく「テレビは見ないが、ネットは使う」という人はほとんどいないように思います』と書いているのは、どうなんでしょう。TVの作り手は明らかに40代をターゲットにしていませんから、スポーツを別とすると(これさえ酷い放映の仕方ですが)観るに耐える番組は極めて少なく、TVでニュースを見るくらいならウェブ・ニュースという選択は、よくあることです。ダブルスクリーンという言葉も目新しいことではありません。まあ、TV番組のことはさておくとしても、今後ネットから情報を得る比率が高まることには異論がないでしょう。


重要なのはニュースソースの質にあるわけで、器が重要なわけではありません。私が新聞に期待するのは、新聞記者の徹底した取材と自のソース源に基づく信憑性のある記事、そして新聞社としての独自の視点からの解説となります(政治的プロパガンダは困りますが、判断は難しい)。だから社説には注目していますし、blog::TIAOにあったような(新聞社Webサイトの「社説」がどんどん隅の方へ ・・・サッカー・アジア杯「反日」批判の情報コレクトとして[2004/08/05日 11:16])社説なんて読まない、という読者とは少しだけスタンスを異にしています。


新聞は週刊誌と違って家庭に浸透しており良識が求められる故、「新聞が書けない」内容を週刊誌が補間しています。また政治的主張(死後としてのイデオロギー的なもの)はオピニオン誌がその役割を担っています。しかしネットがこれだけ普及してしまうと、そんな垣根やタブーはタテマエ論になりつつあります。ニュースを起点として、質の高い多角的な紙面作りができていれば、有料サイトでも登録しますし、紙面であっても購読すると思います。今のままでは金を払ってまで定期的に読みたい媒体が、あまりないということでしょうか。

堀江貴文:「稼ぐが勝ち」 (立ち読み)

近鉄を買収する前に広告的な意義は充分に果たした感さえあり、いまやすっかり有名人になってしまったライブドア社長 堀江貴文氏の「稼ぐが勝ち」を立ち読みしました。

何とも実も蓋もない本です、彼のポリシーはタイトルの通り「稼ぐ」ことで、それが「勝つ」ことに他ならず、それ以上でもそれ以下でもないからです。これは私のような「旧態依然のオヤジ世代」にはなかなか馴染めない感覚かもしれません。なにせ「中流意識の欺瞞と幻想」を当然視し、「金を稼ぐ」ことに多少の罪悪感を覚え、「社業」とは何らかの形で「社会に貢献」することであると教えられてきたのですから。

堀江氏の考えはごくシンプルで「金が全て」「金になることは何でもやる」です。ポリシーもこだわりもありません。旧世代の人間達が、モノを作ることで結果的に金を稼いできたような考え方ではなく、金を稼ぐことありきなのです。いえいえ、今までだって資本主義の企業ですから、「モノ作りが原点」とか「社会のため」とか言っても、それが欺瞞でありタテマエ論であることは百も承知です。しかし、会社人にはそのタテマエ論が必要とされていたわけです。

彼のオソロシさは、そんなもの一切無用と言い切っていることです。堀江氏個人に対する印象とか感情論的なものもありますが、つまりは旧世代の人間とは立っている土台が異なっているということです。

考えてみれば日本はやっと資本主義的な企業風土になりつつあるのかもしれません。私らが学生の頃はマネーロンダリングなんて知りもしませんでしたし(今でも知らん)、MBAで経営を学ぶなんて発想もなかったです。時代は変わったつーか・・・

1時間もかからずに立ち読みできます、わざわざ買って印税稼がせるほどの本ではないですが、堀江氏に興味のある方はどうぞ、若い人にはインパクトを与える本であるかもしれません。

2004年10月4日月曜日

Google Newsの衝撃2

9月にグーグル・ニュースが始まり、私の朝一番はここをざっと閲覧することから始まるようになりました。しかし、大手新聞社がグーグルのサービス参加を拒否していること、海外のニュースはロイターやAPからの二次配信であることなどから、海外ニュースの速報性という点では、速報性という点ではイロイロな壁があるのではと思っていました。「擬藤岡屋日記」でもグーグル日本版の記事の収集・検索に疑問を感じているエントリーがありました
ネットは新聞を殺すのかblog」で、日本の610のリンク(検索先)のリストを公開しているブログを紹介していました(Ceekz Logs)。大手新聞では朝日と日経しか入っていないことは薄々感じていましたが、これではニュースソースが偏るわけです。


確かにネット常時接続していますと新聞はなかなか購読しなくなる人もいるかもしれませんし、マスコミ各社が新たなビジネスモデル構築に頭を悩ます必要もあることも認めます。そんなおり、昨日の朝日新聞では、イギリスの新聞が「タブロイド」版にサイズを変えて売上を確保(伸ばす)という記事が目につきました。通勤などで読みやすいサイズということで、今まで蔑視していた「タブロイド」版に踏み切ることは大きな改革なのだそうです。



2004年10月1日金曜日

アムラン/カプースチン:ピアノ作品集

台風一過で今日の東京は31度ですか、9月末で真夏日というのはいい加減止めてもらいたいものです。宮城ではITしゃちょうが、海の向こうでは、ハリケーンとイチローが暴れています。イチローには敬遠などせずに、真っ向勝負で挑んでもらいたいですね。

ということで、今日はアムランの演奏です。

変奏曲Op.41
8つの演奏会用エチュードOp.40
バガテルOp.59-9
古い形式による組曲(スィート・イン・オールド・スタイル)Op.28
ピアノ・ソナタ第6番Op.62
ソナティナ Op.100
異なるインターヴァルによる5つのエチュード
マルク・アンドレ・アムラン(p)
アムランが2000年の来日公演でも取り上げて話題になったカプースチンのピアノ作品をHyperionに行ったのが2003年6月、アムランは相当にカプースチンに入れ込んでいたとのこと。アムランが好きか嫌いかはさておき、超絶技巧ピアニストの演奏は1曲目から驚くほどのノリの良さです。

最初のVariations Op.41は6分ほどの曲ですが、短い導入に続いていかにもジャズ風なテーマが流れてき洒落た曲だなと思ううちにピアノが物凄いことになり、中間部では非常に美しいバラードを聴かせ、最後はPrestoで火花を発するがごとくに締めくくる、というまさにカプースチンを堪能できる曲になっています。

ここらあたりをボーっと聴いていますと、アムランのピアノの巧みさからホテルのラウンジやバーなでど流れる「洒落た軽いジャズ」のようにも聴こえる瞬間がないわけでもないのですが、極めて技巧的な音楽であります。

技巧的といえば、ラストに配置されたFive Etudes in Different Intervals, Op.68という練習曲も「気の狂ったような」としか書けないような曲です。No.1 Allegro (Etude in minor seconds)では鍵盤上をラリっているのではないかと思うような速さと華麗さで駆け巡り、バカみたいな高音の右手と複雑なリズムを刻む左手の応酬が聴き所になっています。No.1の短調のテーマがNo.4 Vivace (Etude in major seconds) で長調になって再現されるのも面白いです。

No.3 Animato (Etude in thirds and sixths) を聴いていて感じたのですが、カプースチンの曲はジャズのバスパート(例えばブギ・ウギ風のリズムだったりするのですが)を左手に受け持たせています。これをしっかり打鍵するかどうかで雰囲気がかなり変わると思うのですが、アムランはバスをやり過ぎない程度に弾いているようで、それゆえどこか「洒落た」とか「上品」に聴こえるのかもしれません。Bagatelles Op.59という短い曲においても左手のパートは控えめでさり気ない感じです、これは趣味の問題かもしれませし、単なる勘違いかもしれませんし、私が全然わかってないのかもしれませんが。

全ての曲について書くことはできませんが、Concert Etudes Op.40は「楽譜の風景」というサイトに楽譜のさわりが掲載されています。これを拝見しながらCDを聴いたら更にビビってしまいました。

いずれにしてもカプースチンの曲は相当な難曲であるらしいのですが、難しさなど全く感じさせずに弾ききっているアムランの演奏には、ピアノを弾けない私でも舌を巻き「開いた口がふさがらない状態」です。いったい技巧だけのアムランのどこがいいのだという評もネット上ではよく目にしますが、私は悪くないと思います。

もっとも、アムランの演奏とカプースチンの音楽性については今の段階では確たるものを書けないのですが(だったら書くなという説もある)、こういうアムランの演奏を通じてカプースチンが受容されたとしても(かくいう私もそう)作曲家にとって不幸なことではないと思われます。旧来のピアノ曲に飽いていたり深刻なソナタを敬遠する人や、ジャズにあまり親しみのない方には「これ好きっ!」と思わせるには十分な演奏であると思いますし。

ただ何度か聴いていますと技巧的には申し分ないものの、何とも説明のできぬ違和感を感じることも確かです。あまりにスピード感があり、余裕綽々の演奏なので(猛絶な演奏でもあるのですが)、何かがすり抜けているような感じがしないわけでもないのですが、それが何なのかは分かりません。完璧な新体操が面白くないとか、そういう感覚・・・とも違うか。

2004年9月30日木曜日

カプースチンのピアノ2

以前ちょっと触れましたがカプースチンのピアノを聴いています。ということで、少し感想を加えました。時間をかけて少しずつ聴いてゆこうかなと思っています。

カプースチンという名前を最近あちこちで散見するようになりましたた。彼はロシア生まれ(b.1937)のジャズピアニスト兼作曲家です。モスクワ音楽院でピアニストとしてロシア伝統の卓越した技術を身につけるかたわらジャズ音楽も学び、ジャズの要素をふんだんに取り入れたピアニスティックな作品を数多く生み出しています。

彼の曲はジャズのスタイルにおいてはエロール・ガーナーやオスカー・ピーターソンの影響を色濃く受けているようであり、一方でクラシックにおいてはシューマンやブラームスよりはバッハやベートーベンを好んでいるそうで、曲を聴いた感じはラフマニノフやスクリャービンを彷彿とさせる部分もあったりします。

生粋の(?)ジャズファンは「ロクにジャズも聴いたことのないクラシックな奴が持てはやしている」という感想も少なくはないようです。ジャズにベートーベンにスクリャービンですから、聴いたことのない方にはメチャメチャな印象を受けるかもしれませんが、そんなことは全くありません。ピアノが好きな方には、きっとワクワクするようなゴキゲンな要素がたくさんに詰まっている曲なのではないかと思います。

ちなみに私は最近はジャズは聴きませんが、オスカー・ピーターソンもセロアス・モンクも好きでしたし、バド・パウエルは私のイチオシのジャズ・ピアニストでした、かれこれン十年前ですが。そういう記憶を引き出しても、カプースチンが「つまらない」ということは全くないと思っています。鋭利なリズムとスイング感、バラードの美しさ、即興的なフレーズの持つ興奮、激しく技巧的なパッセージ、ハマるひとにはハマる作曲家であると思います。

現在(2004年9月現在)、容易に入手可能なカプスーチンの録音から 1.アムラン 2.オズボーン 3.カプースチン(自作自演) の三つのアルバムを聴いて感じたことを、思いつくままに書いてみることとしました。どれから聴き始めるかは悩みましたが、やはり買った順に始めるのが良いかと思いアムラン版から始めることとします。(まだ書いてない、聴き込んでない、そのうち書く)

2004年9月27日月曜日

ポカリスウェットのワナ

エクササイズを数日続けている。ストレッチ、ゴルフの軽い素振りを数十回、シットアップベンチを用いた角度付き腹筋背筋、四十肩防止用に5kgの鉄亜鈴を用いたコッドマン体操、ダンベルカール・ダンベルローイングなどを行った後に、自転車漕ぎというメニュー。


自転車漕ぎをして分かったが、100kcal消費するというのは大変な努力が必要である。スポーツドリンクの表示を見ると100mlあたり27kcal、運動でカロリーを消費してもポカリを380mlも飲めば元の木阿弥、注意せねばならない。


体重の方は、昨日500g、本日1,000g落とすことができ、理想的なアベレージに近づいてきた。ふう・・・ということでブルボン アルフォートでも食べるかア

ラトル/メシアン:彼方の閃光


今日は暑さもようやく一段落し、細かな雨がひそやかに中に舞っているような天候でした。ということで、今日は落ち着いて音楽などを聴くことができました。普段はほとんど手に取ることのないメシアンです。ラトル+ベルリンの話題作ということで買ってみたのですが、果たして・・・

サイモン・ラトルが率い、そのカラーを再び変え始めたベルリン・フィルがメシアンの最晩年の作品「彼方の閃光」を録音しました。ラトルの新作ということで話題になっている盤です。メシアンは私にとってほとんど馴染みがない作曲家ですが、ラトル+ベルリン+話題ということでミーハー的に聴いてみたところ成る程凄い曲であると得心。

「彼方の閃光」のテーマはヨハネの黙示録を題材としており、キリストの出現からサタンとの最終戦争を経た後、キリストを信じたものに祝福を与えるという内容です。「閃光」とは復活した者たちの光となるキリストのことであります。

キリスト教的テーマは、黙示録どころか聖書に馴染みのない私のようなものには手ごわく思えるのですが、通して聴いてみますと宗教的テーマ性を土台としながらも、カレイドスコープのような音響の大伽藍や研ぎすまされた美しいフレーズを聴くことができ、細かいことは抜きにして楽しめる音楽でした。それでも一聴しただけではピンと来ないところもあるため、全体の音楽像を掴むには数度聴いてみる必要がありましたが。(例えば黙示録の展開だけを追って1、4、6、7、11楽章だけ聴くとか、鳥のテーマの3、9楽章だけ繰り返すとか)

それにしても起伏の激しい曲です。第5楽章の《愛にとどまる》の弦楽器による繊細な緩徐楽章にウトウトとしていたと思ったら、凄まじい打楽器の強打で始まる第六楽章《7つのトランペットと7人の天使》に肝を潰します。打楽器の音圧は貧弱なスピーカーやヘッドフォンを通しても充分に迫力があります。また圧倒的なホルン軍団の演奏にも驚くしかありません。

鳥の声を模した第9楽章《生命の樹にやどる鳥たちの喜び》のフルート・クラリネット族の超絶演奏にも唖然、一体どんな楽譜でどんな指揮をしているのやら。メチャクチャな音楽なようでいて美しい。

第11楽章の《キリスト,楽園の光》でのかすかに聴こえるトライアングルの音色もまた特筆もの。この楽章は、ある意味で彼岸の彼方のような曲ですが、あまりウェットな感情表現ではなく、ひたすらに美しい演奏になっているようです。

オーケストラの編成は128人にまで増強されており、フルートやクラリネットはそれぞれ10人も居るというのですから驚きです、打楽器の種類も多彩。オーケストラの性能をフルに活用したスーパーカーのような編成ですから、適うなら実演で接したいと思わせます。私の貧相なオーディオ装置では、実のところこの曲の魅力は半減以下です。

他の演奏と比べたわけではありませんが、ラトルの演奏はメリハリを効かせたキレの良い演奏に仕上がっているようです。「閃光」という題名に象徴されるような煌びやかさも感じます。また木管をはじめとして個人技も凄まじく、有無を言わせぬ圧倒的な音塊感でぶちのめすというより、そこかしこの表現に驚かされる演奏になっているように思えました。全体的にポジティブな明るさを演奏からは感じるのですが、それが本来の曲のイメージなのか、テーマから考えると少し疑問なのですが、いかがでしょう。

2004年9月26日日曜日

展覧会:「琳派 RINPA展」

東京国立近代美術館で開催されている「琳派 RINPA」展を観てきました。今度の「琳派」展は、ちょっと違います。とうたっているように、会場に入って真っ先に目に飛び込むのが尾形光琳の《松島図屏風》とともに、クリムトの《裸の真実》であるということが、この展覧会の主旨を雄弁に語っているようです。

そもそも「琳派」とは何なのか。美術展で得た知識によると『狩野派のように家系や師弟関係を重視する流派概念ではなく、世代を越えて私淑によってゆるやかに繋がれた系譜』であり『主題性から解放され装飾性の優位と造形本位の伝統』であるとされています。

俵屋宗達にはじまり尾形光琳にて元禄時代に完成された、平面的にして適度に装飾的な画風は、自然の美意識を何の不安もなく描出した平和な世界と言えるかもしれません。


ですから、例えば江戸後期の画家、鈴木其一の《朝顔図屏風》(上)を観たときは、朝顔の青紫の色の鮮やかさに驚きはしたものの、綺麗なだけの絵ではないかと思ったものです。しかし、閉館間際まで粘って、来館者がまばらになった広い館内で改めて接すると、なんと表現してよいのか分からない至福が、まさに美の饗宴とも言うべき贅沢な時間が流れるのを感じることが出来たのです。綺麗なだけと思った鈴木の絵も、静的な装飾的技法と朝顔の蔓の動きに表された生命力が絶妙のハーモニーを奏でています。これは画面の近くで観ていては分からない。多くの人がメトロポリタン美術館所蔵のこの絵を絶賛するのもむべなるかなと。


上の酒井抱一の《月に秋草図屏風》も素晴らしい。金箔の落ち着いた地に秋の月と草花が絶妙な静けさと華やかさで描かれています。何度も絵の前に立ち、近くに寄って感嘆し、離れて観て溜息す。この絵の人気の高さもうなづけます。図録と実物を繰り返し比べてみましたが、図録ではこの絵の放つ芳香の何分の一さえ伝え切れていない。一足早い中秋の名月を堪能。


尾形光琳の《風神雷神図屏風》の裏面に描かれていたという、酒井抱一の《夏秋草図屏風》(上)も有名。銀箔(なのか?)の上に雨に打たれる夏草(雷神の裏)と、野分に吹きすさぶ秋草(風神の裏)が、様式美の中に定着されています。絵の上の間の豊穣さよ。


もう一つ強烈に印象的であったのは、川端龍子の《草炎》(上:部分 1930年)。この作品は「これを観たいために」展覧会に足を運ぶ人も居るくらいに人気です。初めて観る人も、異様な迫力に言葉を失っているようです。かく言う私もその一人。この絵を「琳派」と十把一絡げにして良いものか。川端は『夏の草いきれ』を描いたそうですが、ここには他の「琳派」の画風からは感じ取れぬ、熱い情念が流れてきます。凄まじいエネルギーと、それを鎮めている技法の高さ。夏草を黒い画面の上に金色の濃淡でのみ闊達と言える筆致で描き分けた異色作。これも人気のいない館内でゆったり感傷できることの愉快さときたらありません。


ここに至って「琳派」とは高度の装飾技法により、自らの情念と自然の動的エネルギーを様式美の中に固定させていることがその最大の特徴なのではないかと思いつきました。例えば光琳得意の波を表現するうねりにしても(上《松島図屏風》)、《槇楓図屏風》の樹木の枝の作る曲線運動からもそのような印象を受けます。

「琳派」と称される系譜に属する作品は、小さな画集のようなもので観るのでは、おそらくつまらないのではないかと思います。屏風図ということも影響しているのでしょうか。考えてみたら、こんなにたくさんの屏風図を観たのははじめてです。


上の菱田春草による《落葉》(1909)もそうです。ベージュ系の色合いが綺麗ですが、最初に観たときは、余りにもきれいなだけなんで、うんざりしたものです。しかし、心を落ち着けてゆっくり鑑賞しますに、幽玄さを感じさせる画面の奥行き感とともに、上から落ちてくる数枚の落ち葉が、静止しているかのような時間が穏やかに動いていることを感じさせてくれます。そう思ったら、流れる大気さえ頬に感じるような面持ちです。これも屏風図の実物に接しなくては感じることのできない印象でしょう。

最後になりますが、「琳派展」は宣伝のせいか、あるいは幸せな画風のせいか、凄く混んでいます。私は14半過ぎに館内に入りましたが、満員電車のような混雑で絵どころのさわぎではありませんでした。閉館間際までねばることで、やっと本来の「琳派」のもつ静けさと芳香を味わうことが出来たと思います。


マティスとか梅原龍三郎、加山又造の絵(《千羽鶴》上)もありましたが、こちらは終わりのほうで食傷気味なせいか、おいしくいただけませんでした。(加山又造、あれでは「やり過ぎ」です=これも人気の絵なんですがね)

2004年9月25日土曜日

太った・・・

自分のベストとする体重に対し、±3.5%以内の変動におさまるよう注意していたのだが、このごろ仕事がダルなせいか太り始めた。体調を慮って酒も飲まないようにしているのだが、ついつい甘いものを食ってしまうのがマズかったか。


このままでは取り返しの付かない体重になることを懸念し軽いエクササイズをしているが、いったん付いた体重はおいそれと落ちない。カロリー制限とカロリー消費を増やそうかと思っていた矢先に上司に誘われて、寿司を食うハメになった。


東京の寿司は高いので、今日まで寿司屋に足は運ばないようにしていたのだが、たまに食う上手い寿司はとてつもなく旨い。ということで、とんでもなく食べてしまった・・・店の大将も、私が北海道出身ということで、北の味覚をまじえて実に見事に揃えてくださったのだが、これがまた良いネタで感涙もの。これでは、明日は野菜と果物だけか、あるいは来週二日くらい貫徹でもするしかないか?

2004年9月18日土曜日

カプースチンのピアノ

ニコライ・カプースチン(b.1937)という作曲家をご存知でしょうか。今年6月にHyperionからアムラン(P)によるカプースチン演奏が発売され、アムランということで全く予備知識なしに聴いたのですが、これがなかなかゴキゲンな曲なのです。

カプースチンは1937年生まれのロシアの作曲家、モスクワ音楽院を卒業しクラシカルな作品を作成するかたわら、ジャズ・ピアニストとしても名を成し、ここに納められているようなクラシックとジャズが融合したような曲を描いています。

ジャズとクラシックの融合だなんて、生粋のクラシックファンの方や、根っからのジャズファンの方はアヤシイと眉をひそめるかもしれません。流して聴いているだけだとホテルのラウンジから流れる自動ピアノのような雰囲気の曲もあるのですが、なかなかどうして、親しむうちに軽妙な曲調とともに音楽的な多彩さと驚くべき技巧に気付かされ、たただた唖然とするばかりです。アムランの盤なども一曲目からジャズCDとしか思えないような出来です。








ピアノ作品集

(p)マルク・アンドレ・アムラン

hyperion CDA67433



ピアノ作品集

(p)スティーヴン・オズボーン

hyperion CDA67159



24の前奏曲とフーガ作品82

(p)ニコライ・カプースチン

TRITON OVCT-00010


『24の前奏曲とフーガ』は、カプースチン自演によるもので、最近の密かなカプースチン・ブームに押されてTRITONからの再発売されたもの。アムランも良いですが、オズボーン盤も曲がいいので捨てがたく、どれも聴き逃せない曲ばかり。暇なときは、このごろこればかり聴いています。カプースチン自演盤はまだ聴きこんでおらず。

もうちょっと立ち入った感想は、機会があったら書きましょう。

2004年9月17日金曜日

ニコルソン・ベイカー:「中二階」


以前にiioさんのCLASSICAで紹介のあったニコルソン・ベイーカー『中二階』(白水uブックス)を読んでみました。

iioさんのエントリーにもあるように、日常生活に対するミクロ的考察が主体の本になっているのですが、これが「合う」か「合わない」かで好みが分かれるかもしれません。私としては非常に面白い本であると思い、活字を追うのが全く苦痛ではなかったです。

ちなみに「ニコルソン ベイカー」でGoogleするとiioさんのエントリーがトップでしたよ、恐るべしCLASSICA!

ニコルソン・ベイカーは1957年生まれのアメリカの作家です。イーストマン音楽学校とハァヴァフォード大学で学び、1988年に処女作「中二階」(The Mezzanine)でデビューしました。発表当時アメリカでは驚きと賞賛をもって文学界に受け入れられたそうですが、読んでみますと確かに斬新にして非常に面白い小説でありました。


この小説は、29歳の主人公が会社のエスカレーターに乗ろうとしたところからはじまり、エスカレーターを降りたところで終わります。切れた靴紐を買うということがストーリーの主軸といえば主軸でしょうか。ごく日常の何気ない短時間の間に、彼が考えたこと、いままでの人生で考え続けてきたこと、自分の関心事、身の回りの些細な変化などが、おそろしいほどの執拗さとユーモアを交えて描かれています。


でも彼の考えることときたら、どれもが取るに足らない話ばかり。たとえばストローの進化とか、社会人になってからのトイレでの振舞い方とか、なぜ靴紐が切れるのかとか、トイレットペーパーなどに付けられたミシン目に対する大絶賛とか。くだらないですね、でも連綿とした瑣末的な描写(ほとんどヲタク的なミクロ思考)を追随しながら「そういうこと、あるある」などと一人ニヤニヤしている自分に気付いたりするのです。

なにしろ本文よりも注釈の方が多いという小説です。難解な作品でもないのに、なぜそんなに注釈がと訝る方も多いと思いますが、ベイカーは小説の中で脚注の事を


ページの下の方に灰色の帯となって待ち受けているのを目の端でとらえたときの、あのわくわくするような喜び

と書き、


脚注は、一冊の本が蛸の触手のようなパラグラフを伸ばし、図書館という名のより広大な宇宙とつながるための、さらに細やかな吸盤


脚注で説明しています。挿入された脚注により、読み手は本文と、どこまでも脱線してゆく解説を交互に行き来することで、小説の持つ時間軸は限りなく引き伸ばされるのですが、それによって思考が中断されるどころか、小説を読む楽しみが自在に変化していることに気付くのです。脚注は細かければ細かいほど面白いと思えたら、あなたもきっと、ベイカーばりのヲタク活字中毒者かもしれません。


たった一日のことだけを書いた小説や、注釈がやたらと多い実験的な小説というのも世の中にはありますが(=あったと思う)この小説が衝撃をもって受け止められたのは、瑣末的な事象の限りない拡大がもたらす効果であったことには違いないと思います。


では単なるユーモア小説なんだろうかと考えると、それだけではないようにも思えます。作品に漂う透明感や爽やかさ、モラトリアム的暖かさと、あるときを境にオトナになるということの意味する誇らしさと一抹の哀しさ、そしてそれらを包んでいる孤独感が気になります。

そう思うのも、主人公をはじめとして途上人物のナマな体温や感情が感じられないせいでしょうか。人生の大半が「いかに生きるか」というような哲学的なテーマで占められているわけではなく、日々の出来事に対し反応と反芻を繰り返すだけであると認識してしまうことは、旧来の文学的のテーマとしての何かを否定しています。それゆえに気付かないところで淡々とした虚無を抱え込んでいるようにさえ思えるというのは深読みでしょうか(>です)。


作品で描かれる執着は、つまらない人生を楽天的かつ肯定的に仕向けるようにできているのですが、一方で人間的な対立や葛藤を全く排したところに立脚しているこの小説は、現代における新たな風景を垣間見せています。ユーモアとは別の次元でこの作品が提示している世界のありようには、感慨深いものがあります。

2004年9月15日水曜日

NOKIA 9300

 


NOKIA 9300が海の向こうでは発売になっているようです。重さ167g、携帯をパカっとあけるとフルキーボードに640×200ピクセルの液晶画面。なんとまあ、シグマリオンやCLIE PEG-UX50よりも軽く小さいではないですか!これは欲しいぃ・・っ!

日本はどうしてこうしたニーズに対応せずに、女子供のためのケータイを作りつづけるんだ?>小一時間ほど問いつめたい! >それは女子供たちが通信費を貢いでくれるからだよ

三浦展:「ファスト風土化する日本」


いつも楽しませてもらっている「k-tanakaの映画的箱庭」で紹介のあった『ファスト風土化する日本~郊外化とその病理』(三浦展:洋泉社新書)を読んでみました。「ファスト風土」とは「ファストフード」にかけた造語だそうです。言っていることの大筋に間違いはなく、いちいち同感できるのですが、新たな知見と驚きは得られませんでした。

三浦展氏はパルコ情報誌「アクロス」の編集長や三菱総研の主任研究員などを経て「カルチャースタディーズ研究所」というシンクタンクを設立されている方。共著の『「東京」の侵略』(パルコ出版)などは、80年代後半のパルコなどに象徴される消費文化や都市動向について言及したものであったと記憶しています。筋金入りのサブカルチャーおよび都市・消費文明の専門家という認識。

当時「パルコ」は衝撃的な店舗でした。渋谷における西武の開発手法は、地方のお手本のようにもてはやされた時期が懐かしいです。三浦氏も指摘するように、西武は渋谷公園通り周辺に「街づくり」的手法を持ち込み、街路空間を若者に魅力あるものとすることに成功しました。そこにおいては品物以上に、街を訪れる人と都市空間相互の関係性が重視されていたように思えます。雑誌「アクロス」はそういう都市風景から生まれていたはずです。

ですから、周りを圧倒して存在する巨大戦艦のごときジャスコを率いるイオングループが『街をつくるという気持ちがないのではないだろうか』(第三章 ジャスコ文明と流動化する地域社会 P.96)と三浦氏が指摘するのも分からないでもありません。しかし、地方にはジャスコが、スターバックスが必要なのだということは、多くの情報発信源でかつ地方の情報さえ消費しつくす巨大都市に住んでいる人には分からない感覚かもしれません。

大型ショッピングで思い出すのはアメリカの巨大施設です(行ったことはない)。ジョン・ジャーディー(Jon Jerde)という商業施設デザイナーが手がけているものも、ほとんどは巨大モールです。日本の商業施設も、かつてのマイカルをはじめ最近話題の施設開発者である電通や森ビルさえ、莫迦のひとつ覚えのようにジョン・ジャーディーに商業施設をまかせています。イオンはそんな無駄使いをしないだけ利口なんでしょうか(笑)。

発想は東京も地方も同じ、地方は東京への渇望からイオングループに活路を見出さざるを得ない、苦渋の選択があるだけです。永遠の二流意識からくる劣等感と歪んだ自意識ですね。その東京おいてさえ、という感じなんですが。

データを随所に掲示し理論武装し田園都市論や日本の郊外化の弊害などを述べているのですが性急で牽強付会の感があります。結論は「均質化した日本の郊外化が消費文明を増長し、さらにはコミュニティーや歴史性の崩壊によりもたらされる様々な病理」を指摘し、社会を「コミュニケーション」と「コミットメント」で再生しようというものなのですが、先から書いているように問題の根は地方にはないのではというのが私の感想です。

だから、最近の凶悪犯罪のあるところが郊外であり『犯行現場の近くにはなぜかジャスコがある』(P.66)というのも刺激的なコピーだと思いますが、ジャスコに象徴される変化と犯罪の因果関係は「ニワトリと卵」のようなもののであって、大事な前提条件が抜けていないかと思うのです。

また、彼は地方において『目標も意欲もなく、適当に働き、テレビを見て、漫画を読んで、ゲームをして、買い物をしてるだけの、たいへん視野の狭い消費人間』(P.183)を生み出しているのだという主張も、なんだかなという感じです。

田園で働くわけでもなく、工場で働くわけでもない。都会のビジネスマンのように、オフィスでハードワークするわけでもない。公共事業に依存し、公共事業がなくなれば失業保険で暮らす。でも、家も自動車も何でもあり、ついでに無職のパラサイトの息子の一人は二人を抱えている。彼らはもう働く意欲がない。楽をして、適当に暮らすことしか考えない。(第六章 階層化の波と地方の衰退 P.178)

最後に彼がひとつの理想としてあげる「吉祥寺」や「高円寺」「下北沢」なのですから、やれやれです。いえ、言っていることは納得しますよ。でもねえ・・・