今週は新聞紙面で「子供の学力低下」について話題になっていました。もはや文部科学省も「世界トップレベルの学力ではない」と認めたそうで、それは「ゆとり教育」に起因するという論調です。
ブログ界でも熾烈なバトルを展開していらっしゃる「週刊!木村剛」では『2004.12.16 ゆとり教育でゆとりを感じているのは誰?』というエントリーがあったばかりです。個人的には、知的レベルの崩壊は子供の世界の出来事ではなく、オトナ社会での出来事なのではないかと常々思っています。
時々、鴎外やら漱石の小説を引っ張り出して再読してみますと、当時の知的エリート層の学力レベルが極めて高いことに驚かされます。あるいは、日本のトップにまでのぼりつめた政治家や経営者もしかりです。鴎外や漱石に描かれた「知的遊民」は別としても、教育にモチベーションやインセンティブがあったということでしょう。
しかし、現在では「教養」は「生きる力」に直結しませんし、社会に出て役に立ったという実経験が不足しています。学校教育の効果が実体験として語られるということもめったにありません。「詰め込み」の行き過ぎ面も指摘された時期がありましたから、勉強することをネガティブに感ずる風潮が日本にずっと醸成され続けてきているように思えます。
そういう意識が今のオトナ社会を形成しているように思えます。直接の関係はないかもしれませんが、例えばTVときたらほとんど白痴的なものも少なくなく、あれだけの高度なテクノロジーを使って膨大な浪費をしていると思うと唖然とします。ディスカバリー・チャンネルやヒストリー・チャンネルのような番組は、いったいどれだけあるでしょう(あれがいいとは言わん)。
これから発展を期待している国は、発展に希望を見出していますから、その第一歩となる「教育」を受けることに渇望しています。日本には逆に言えば、満ち足りて「希望」がなく、ひいては教育も教養も廃頽し享楽と快楽が拡大しつつあるということでしょうか。
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