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2005年9月2日金曜日

【本棚】保坂正康:「あの戦争は何だったのか」


9月2日です。日本が東京湾上のミズリー号で降伏文書に調印した日であり、真の意味での「敗戦記念日」です。

果たして私を含め日本人の多くはは、アジアに対する戦争責任とか以前に、ポートモレスビー、ミッドウェー、ガダルカナル、ラバウル、トラック島、インパール、レイテ島などの激戦地を地図上で正しく示すことができるだろうかと改めて思いました。知らないとしたならば、それほどに日本近代の歴史について無知でありすぎるのだと。

この書には、日本が戦争をせざるを得ない状況に追い込まれた時代の雰囲気、軍部(軍部とは何かについても「第一章 旧日本軍のメカニズム」として記述をしている)の暴走から敗戦になだれ込むまでの経緯が、天皇や当時の人たちの話しをまじえながら淡々と描かれています。その意味から、「大人のための歴史教科書」という副題はあながち誇称ではないと思います。

本書は「歴史教科書」とうたわれていますが、いわゆる自虐史観云々から声高に侵略の歴史を正当化するようなものではありません(戦後の「反戦、平和主義」にも「新しい歴史教科書」派のどちらにも批判的)。ひとえに、

あの戦争にはどういう意味があったのか、何のために三一〇万人もの日本人が死んだのか、きちんと見据えなければならない(「はじめに」P.9)

というのが主旨です。私が日本近代史に疑問に思い続けていることを、そのまま文章にしてくれたような本でありました。ではなぜ私が近代日本史に疑問を持ち続けているかといえば、おそらく戦争に至った日本のありようは、今も継続しているのではないかと感じているからです。それは現代のプチ右傾化の政治風土というようなものではなく、もっと深く日本の組織風土、会社風土にまで根付いたもののように思えるときがあるからです。

はからずも著者は「あとがき」で次のように記述しています。

あの戦争のなかに、私たちの国に欠けているものの何かがそのまま凝縮されている。(中略)その何かは戦争というプロジェクトだけではなく、戦後社会にあっても見られるだけでなく、今なお現実の姿として指摘できるのではないか(「あとがき」P.240 太字は本文では傍点)

たとえばターニングポイントとなった時期の状況について、

危機に陥ったときこそもっとも必要なものは、対局を見た政略、戦略であるはずだが、それがすっぽり抜け落ちてしまっていた。大局を見ることができた人材は、すでに「ニ・ニ六事件」から三国同盟締結のプロセスで、大体が要職から外されてしまい、視野の狭いトップの下、彼らに逆らわない者だけが生き残って組織が構成されていた。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」は日露戦争を描き、広く国民に明るい近代史とナショナリズムを植え付けた意味で画期的な本でした。しかし司馬は日露戦争の日本を描きながら、暗に昭和の日本を照射していました。明らかに明治の陸軍と昭和の陸軍は別物であったという認識です。

保坂氏も陸軍や東條の無能さを指摘してはいます。しかし常識であった「陸軍の暴走」に対し、太平洋戦争開戦について、最初に責任を問われるべきなのは、本当は海軍(「第ニ章 開戦に至るまでのターニングポイント」P.92)は意外な視点でした。真珠湾はアメリカに仕組まれたものであったとの説もありますが(保坂氏はそのスタンスに立たず)、日本の石油備蓄量と続くABCD包囲網は、海軍が仕組んだ結果であったとは・・・! もっとも保坂氏は戦争の責任を陸軍や海軍にのみ転嫁せず、当時の思考麻痺に陥ったマスコミを始めとする日本の状況にも言及しています。

また、当時の天皇のスタンスについてもかなり言及されており、保坂氏の資料が正しければ天皇は最後の本土決戦回避に向け非常に重要な役割を果たしたことが伺えます。

歴史事実や歴史認識に「客観的事実」は存在しないとは思うものの、歴史を正視する努力は怠ってはならないはずです。かようにこの本は、「戦争に対する説明責任」「日本を滅ぼそうとした政策に対する責任」、さらには現在の日本人の姿までを考えさせる良書であると言えましょう。(って私が推薦したところで、どうなるものでもないが)

太平洋戦争で将棋のコマのように犬死させられた無名の日本兵士たち、その無名の兵士たちに殺されたであろうアジアやアメリカを含む多くの方々に心よりご冥福をお祈りする次第です。

2005年8月23日火曜日

靖国問題って話題なんですか・・・?


高橋哲哉氏の「靖国問題」について言及したエントリに幾つかのTBをいただいています。こんなミーハーでノンポリ(>死語)なサイトにまでTBがかかるくらいですから、巷のネット界ではイロイロな意見がかわされていることと推察いたします。


高橋氏の論点の甘さは他人に指摘されるまでもなく明白ですし、武力なき国家とか外交など稚戯に等しいとする意見も多いと思います。それはそれで正しいし、いまの近代国家を前提とする限り武力放棄など(大国の傘下にあることも含め) 幻想に過ぎぬことも自明なことなのかも知れません。


しかし、その自明な論点から先のビジョンはどうなんでしょう。現実路線を取るのか、あるいは別なパラダイムを提唱するのか。別なパラダイムを提唱するには米国との関係を根本から問い直すことを意味します。それは武力を放棄するサイドにとっても、武力を持って自立するサイドにとっても、あるいは米国依存ではなく例えばアジア協調を提唱するサイドにとっても、今までなかった決意と決断に迫られることになります。


最近読んだ「ナショナリズム―名著でたどる日本思想入門」(浅羽通明:筑摩書房 4480061738)によると、どちらもナショナリズムの発露ではあるわけでが、ここらあたりは政治家が真剣に考えて欲しいところです。

2005年8月11日木曜日

靖国問題は「問題」ではない


松尾光太郎 de 海馬之玄関BLOGから靖国問題に対するTBをいただきました。考えがまとまっているわけではありませんが、ここにメモしてきます。松尾氏は高橋氏に対立するスタンスです。




ブログにおいて松尾氏は、長谷川三千子さん(女性の保守系言論人)の批判について長谷川さんの「靖国問題は問題ではない」の一文に私は激しく同意するとして、


国家が兵士たちを「戦争に動員して死に追いやった」などという言ひ方ほど、「人間不在」の言ひ方はありますまい」 「なによりも決定的なのは、国や人は時として、戦はざるを得ないことがある、といふ洞察が完全に欠落してゐる、といふことです」(同書・124頁)


「さしあたつて、近代民主主義といふものを基盤に話をしてゐるかぎり、国家が戦争や武力行使を想定しなかつたら、などといふ空想にふけるのは止めにした方がよい。(中略)この本の価値は、ほかでもなく「靖国問題」は問題ではないと気付かせてくれるところにこそあるのです」(同書・129頁)



と長谷川さんの一文を引用されています。「靖国問題」の孕む問題が国家のありようを規定するところにまで膨らんでいることには同意します。近代民主主義を基盤にする以上は「軍隊を有しない国家」など考えようもないことも理解します、従って「靖国的なるもの」は不可欠なものであることも仕方ないことであると思います。


長谷川さんは「戦はざるを得ないことがある」と指摘しますが、本当に戦う必要があったのか。というよりも、日本は正しい判断のもとに戦争を継続し続けようとしていたかという点に私の疑義があります。大東亜戦争と日露戦争の日本のありようは例えば司馬遼太郎の名著「坂の上の雲」を思い出すまでもなく非常に違っていたようです。


ヒストリーチャンネルで放映(8月6日)された日本映画社「海軍戦記/陸軍特別攻撃隊」は涙なくして観ることができませんでした。特攻隊ですから生きて帰らぬことを前提とし「再び会うのは靖国の杜で」と誓いながら無謀な戦いに挑んでいった若者を描いています。彼らは心底から「戦はざるを得ない」と感じて命をかけたのでしょうが、その国家判断は間違っていなかったのか。政府は戦争の引き際をどう考えていたのか、大東亜戦争においては児玉源太郎は存在できなかったのか。


日本の敗戦後の戦争責任については歴史を紐解けばすでに決着済みでありますが、なぜこんなにも尾を引くかと言えば、日本国内での総括と歴史観が形成ができていないからでありましょう。現状においては高橋氏の結論の「非武装国家」は確かに妄想でしかないと思いますが、そうであったとしても愚かな指導者の間違った政策の下に死にたくはありません(>と最後は好悪などの感情論に落とすか?)。世論や政治家や評論家の言説にはまだまだ注意が怠れません。

2005年8月10日水曜日

大東亜戦争の真実

勝谷誠彦氏がご自分のサイトで、

週末何をおいても紹介しようと思っていたのは実は今号の『WiLL』だったのだ。これまたある意味では重大なスクープである「東條英機宣誓供述書」という日本人なら是非読んでおくべき記事が掲載されているからだ。戦後すぐに公刊されや否やGHQがあわてて発禁にしたというこの文章を抜きにして東條像いやもっと大きく戦前の日本政府の政策をあれこれ言ってきた連中は怠慢というほかはない。
書いているのでわざわざ買って読んでみたが何ですかありゃ。渡部昇一氏は「近現代史の超一級史料」と主張するが「参考資料」のひとつ程度ではないのか? 大東亜戦争は侵略戦争ではなく自衛の戦争であったと主張したい方々には、随喜の涙を流さんばかりの文献だろうが、私にはだから何なんだという感じ。

「満州の領土とか守ろうとしていたのに、大国が日本を経済封鎖するもんだから、やむにやまれず米国に宣戦布告しました、国際法的には合法な戦争」ということらしく、「あんなことされたら、ルクセンブルクだって宣戦する」って状況なのだったとか。北朝鮮が今、宣戦布告したら彼らも自衛戦争? 日露戦争後の日本国と悪の枢軸の北朝鮮では前提がそもそも違うということか?

私には自衛だったのか侵略だったのか、判断するほどの知識はないものの、日本を守るという旗印のもと結局は日本国民を滅ぼす道を(愚かにも)選択した指導者の国民に対する責任や、アジア諸国に対して行った戦争の惨禍と責任は決して薄まるものではないと思う。本当に「原爆」が落ちなければ日本は「一億総玉砕」へ進んだのか? 戦争になるように仕向け、更に日本の奇襲を知りながら成功させたアメリカのしたたかさには、物量以前に負けていたはずだが。

そもそも「大東亜戦争」という呼称が多くのことを含みすぎている。「アジア・太平洋戦争」と言い換えても良いが、「中華民国」を相手にした戦争と、「東南アジア」を舞台とした戦争の二つだ。東條英機の論理は、中華民国への足がかりを守るために行った東南アジアを舞台にした自衛戦争という論理だ。

満州の領土ということに関しては、満州南部の鉄道及び領地の租借権を得た日露戦争後のポーツマス条約にまで遡るらねばならない。戦争に勝てば領土を得ることは戦争の常識ではあるのだが、それは列強諸国が行ってきた帝国主義と何が違うのか私には良く分からない。ロシア(ソ連か)はけしからん国であるという点だけは間違いはないと思うが。

気が向けばそのうち表に書く。

ちなみに勝谷氏の意見には剋目して聞く点は多々あると思っているが、全面的な肯定には至っていない。





2005年8月1日月曜日

高橋 哲哉氏:「靖国問題」



サンデープロジェクトの「靖国問題」を見た余勢で、最近本屋に山積みされている高橋哲哉氏の「靖国問題」(ちくま書房)を購入して読んでみました。
非常に丁寧に「靖国問題」が何であるかについて、

 第一章 感情の問題~追悼と顕彰のあいだ
 第ニ章 歴史認識の問題~戦争責任論の向こうへ
 第三章 宗教の問題~神社非宗教の陥穽
 第四章 文化の問題~死者と生者のポリティクス

と大きく四つの面から論理的に説明しています。最終章は

 第五章 国立追悼施設の問題~問われるべきは何か

として筆者の見解をまとめています。

「靖国問題」を問うことは、A級戦犯の合祀のみならず「東京裁判史観」を問うものであることは、私も何度も書いてきましたし、問題がそこにあるからこそ政治的問題に発展する要素を孕んでいるわけです。高橋氏の態度は明白です。

東京裁判を「勝者の裁き」として拒否し、「A級戦犯」断罪を容認できないと主張するなら、戦後日本を国際的に承認させた条件そのものをひっくり返すことになってしまう。(P.69)

歴史はひとつではありませんし、国によって同じ事象が全く正反対の歴史として記述されるのも珍しくありません。また時の為政者により「造られる」のも歴史です。安倍氏のように判断を未来に委ねることも一つの手でしょうが、それではあまりにも日本的な曖昧さに満ちすぎております。政治家としての責任についても疑問を呈してしまいます。

高橋氏の態度は上記のようなものですから、現在の靖国神社のありようには否定的な見解を示すこととなります。靖国の本質については以下のように喝破します。

靖国の論理が近代日本の天皇性国家に特殊な要素-とりわけ国家神道的要素-を有している反面、そうした特殊日本的な要素をすべて削ぎ落としてしまえば、そこに残るのは、軍隊を保有し、ありうべき戦争につねに準備を備えているすべての国家に共通の論理にほかならない(P.197)

とし、

国家が「国のため」に死んだ戦死者を「追悼」しようとするとき、その国家が軍事力をもち、戦争や武力行使の可能性を予想する国家であるかぎり、そこにはつねに「尊い犠牲」、「感謝と敬意」のレトリックが作動し、「追悼」は「顕彰」になっていかざるをえない(p.205 太字本文ママ)

と説きます。従って彼の結論は、

非戦の意思と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を経つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法九条を現実化して、実質的には軍事力を廃棄する必要がある(P.220)

となります。靖国問題が過去の戦争責任と将来の国防のありようにまで結びつく故に「靖国問題」は政治的であり、また日本政府が戦争責任を明確化していない点でアジア諸国からは「外交カード」として使われ、多くのアジアの人の感情を逆なでしています。一方で日本の戦死者たちをもある意味でないがしろにしているわけです。

「将来の国防のありよう」についても議論百出でしょうし、いまだ「日米安保」さえ明確にできない日本において「靖国問題」が決着することなどありえないと本を読んで感じるのでした。

これで「靖国問題」の全てが語られているとは思えませんが、わかり易い点であることとタイムリーである点から「売れる」本かもしれません。

2005年7月31日日曜日

サンデープロジェクトの靖国問題


本日のサンデープロジェクトでは自民党・安倍晋三幹事長代理と共産党・志位和夫委員長が「靖国問題」を議論しておりました。安倍さんと志位さんですから、どこまで行っても平行線であることは最初から見えていましたが、それにしてもここまで全くかみ合わない議論を聞かされると正直ちょっと辟易します。




志位氏が安倍氏に対し「A戦犯は戦勝国の一方的な裁判による、"ぬれぎぬ"に過ぎぬと考えているのか」「過去の戦争は侵略戦争ではなかったと考えているのか」と問うても「一政治家がそのような判断をすることは影響が大きすぎる」「判断は歴史が定める」との回答から外に出ることはありませんでした。


大東亜戦争が「正戦」であったのか「侵略」であったのかは議論が分かれているところですし、「過去の判断を現在の価値観から評価することはできない」とする安倍氏のスタンスも理解はできます。「正しいか悪か」という二元論で割り切ることの危険性も確かにあるでしょう。


それであっても、いやだからこそなのでしょうか「靖国問題」は極めて政治的な問題でありますし、過去の歴史認識と現在の国家をも炙り出す問題であると思うだけに、明確な意志を表明できない日本政府代表の一人にはある種の失望を感じます。結局過去を清算も総括もできていないのだと。


安倍氏が引用していた塩野さんの「ハンニバルは罰せられなかった」ということは、先日紹介した「文芸春秋 八月号」のコラムでも書かれていたエピソード。塩野さんは戦犯という言葉からして私には馴染まない敗戦イコール戦犯と見なされるようになったのは、第二次世界大戦からの現象にすぎないとの立場。


また塩野さんは靖国問題は、たいした問題ではないことをたいした問題にしてしまった、歴史上の好例と書きますが、靖国のありようを考えるとそれを利用しようとする人たちが居る以上「捨てては置けない問題」であると私は感じるのです。特にこれを「日本文化」と結びつけて論ずることには全く同意できず、「文化論」が出てきた瞬間に、これは何かをカモフラージュするためのレトリックでしかないと思っています。

2004年9月9日木曜日

暗黒の中世・・・

何度か産経新聞の「産経抄」に違和感を表明してきましたが、北オセチア共和国の学校占拠事件に言及したも昨日のものは、薄ら寒くなる思いを強めました。




この悲惨な事故に対し産経は『二十一世紀の現代から暗黒の中世へ、時計の針が大きく後戻りしたように思えてならない』と始めながらも、短い文章は『中世的暗黒と狂信の現場で、一すじの光明を見た。十三歳のハッサン・ルバエフという少年の勇気である』とし、以下のように結んでいます。


彼はテロリストに正面切って抗議、「あなた方の要求にはだれも応じない。われわれを殺しても何の役にも立たない」と叫んだという。


 ▼テロリストは「お前はそう確信するのか」と問い返し、ルバエフが「はい」と答えると次の瞬間に銃声が響き、少年は倒れた。なんという野蛮、しかしまたなんという勇気だろう。堂々と正義を訴えて散った少年の光芒(こうぼう)の人生を、涙してたたえたい。



しばし、絶句・・・・


続く今日の「産経抄」は、『その時代の戦争は、その時代の歴史的背景を理解して評価すべきであり、いまの時代の尺度や価値観で解釈してはならない』として、日露戦争も、大東亜戦争も、みな歪曲・醜悪なものと書き始め、『れわれはヨーロッパ人の世界地図で地球のことを認識していると』という、指揮者 岩城宏之氏がいつ語ったかのかも知れぬ言葉をひき、


かかる西洋中心史観でみた典型が東京裁判だろう


として結んでいます。再び絶句・・・・


東京裁判が戦勝国によって敗戦国を裁いた偏った裁判であったことは、確かにその通りかもしれません。自国の誇りを取り戻すために、東京裁判史観を変えたいという心持も分らないではありません。しかし、この二つのコラムから言えることは、産経は日本の誇りを護るためには、彼らが涙して称えたような果敢な少年までを将来的に期待していることを新聞紙面でに主張しているということです。これはちょっと違うのではないかと・・・「日の丸」「君が代」を強制することと同じようなズレと恐ろしさを感じます。


「愛国心」の薄い私ですが、仮に日本が分割統治されており、経済的にも文化的にも貧しいままに独自の選挙も行えず誇りさえ奪われ、しかも両親や親戚が統治国に殺されている環境に育ち、その先に希望らしきものも見えないとしたら・・・そのときは、どうするかは全く分りませんし、それを考えることにも意味があるのか分りません。


blog::TIAOのコメントにあった一文と、プーチン大統領のチェチェン独立武装派と話し合うよう促す一部の西側諸国首脳の声に対する答えを引用しておきましょう。


「子供たちを亡くした父親たちは、なきがらを埋葬し、40日間喪に服したら…武器を手にとって復讐に立ち上がるだろう」 --オセチアの首都ヴラディカフカス大学学生の言葉



子供を殺した連中と話し合えなど、そんなことをわれわれに言い諭す高まいな権利が誰にあるのか


連中と交渉しろとわれわれに言うなら、(欧米諸国は)オサマ・ビンラディンをブリュッセルなりホワイトハウスなりに招待して、交渉し、要求は何か尋ねて、自分たちをそっとしてもらう代わりに要求に応じてやればいいではないか。そういう連中とのやりとりに一定の限界はあると、あなたたちは言う。だったら、なぜわれわれが、子供殺しの連中と話し合わなくてはならない? (2004.09.08 Web posted at: 12:39 JST)2 - CNN



世界の様相は、表の大義と裏の利権が複雑にからみあい、軽い嘔吐を催すほど位相は歪みまくっています。

2004年8月21日土曜日

【本棚】ベルンハルト・シュリンク:朗読者


『現代ドイツ文学の旗手による、世界中を感動させた大ベストセラー』

私はベストセラーというものに余り信を置いていないのですが、薄い本だし、夏だし、パンダも欲しいし、ということで読んでみました。内容は全く当初の予想を裏切るほどの内容でした。ドイツでは今でもこういうテーマで本が書かれるのですね。

読まれていない方でもギリギリ許容できるレビュとしました。できれば、私のレビュなど読まずに書店へ(笑)

世界中が涙したという名作ですが、主人公15歳のときの初めての体験からして、将来的な喪失感が予感されています。ふたりの関係が性愛的にして不道徳であるとか、年齢不相応であるとか、そういうことからではなく、逆に二人の関係が、それぞれ求めるものが全く違っているにも関わらず、ピュアすぎるだけに、それは長くは続かないことを予感させるのです。

前半でのハンナはあまりにも謎めいています。彼女には確たる自分と固い殻のような他人には決して明け渡さない暗い自我が感じられ、それが更に、彼女が教育をまともに受けてこられなかった境遇と合わせると、少年に何を求めていたのかが、哀しいほどに伝わってきます。

ぼくは、自分が学校をさぼっていることを彼女に話した。

「出て行きなさい」

彼女は掛け布団をはねのけた。

「わたしのベットから出てって。そして、勉強しないんだったら、もう来ないで。勉強がバカみたいだって?バカ?あんた、切符を売ったり穴をあけたりすることがどんなことかわかっているの」
(Ⅰ章 P.42)


この後から少年の「朗読」が始まるのですが、すでに彼女のひとつの秘密が分かってしまいます。そだけに、主人公の少年がそれに気付かないのが鈍く、相手の哀しさが理解できていないのが歯がゆく、相手の脆さが自分の幸福で見えなくなっているのが若すぎると思えてしまいます。そして、少年は当然の帰結として彼女と不本意な別れを経験することになります。


しかし、それだけなら単なる一風変わった苦い恋愛物語で終わってしまうのですが、作品の第二章では、女性の驚くべき過去が明らかになります。私は展開の意外さに最初ついていけませんでしたが、ここにテーマの主眼がある以上、作品は幾重にも枝分かれし、ドイツ人のみならず日本人にも、そして歴史などに興味のない人へも、様々なテーマを投げかけることになりました。それは「戦争犯罪」ということと「他者への理解と受容」ということです。


少年と年長者の恋ということに始まり、過去の罪をどう考えるか、過去に罪を犯した人を愛してしまった人はどうしたらいいのか、そもそも過去の罪を現在の基準で裁けるものなのか、戦争犯罪に対し戦争を経験していない現代の人はどうするのだろうか、あるいは、過去の恋人に対する不誠実を自分のなかでどう処理してゆくのか、さらには、個人の尊厳とは、相手を理解するとは、愛するとはどういうことなのか、などなど・・・


この本はミステリーではありませんが、やはり本書は予備知識なしにまず読まれ、そして再読されるような本なのだと思いますので、詳細には触れられませんが、彼女の以下の言葉がいつまでも残ります。

「わたしは・・・・・・わたしが言いたいのは・・・・・・あなただったら何をしましたか?」
(Ⅱ章 P.129)


主人公の女性に対する接し方につては、彼が半生に渡って彼女を理解しようと努め続けていたにも関わらず、どこかに不誠実さが残ります。彼が法律を専門としていた者でありながら、法史学者とい職業を選択したように、どこか逃避的なのです。

あなたは人生への挑戦と責任から逃げている、とゲートルートは言った。彼女の言うことはもっともだ。ぼくは逃げたのだし、逃げることができてほっとしていた。
(Ⅲ章 P.205)

彼が自分のことと彼女のことについて『ぼくはハンナを裏切ったのだろうか。ぼくはハンナに借りがあるのだろうか。ぼくは彼女を愛したことで罪ある者となったのだろうか。ぼくは彼女の思い出から離れるべきなのだろうか(Ⅲ章 P.245)』と悩んでいても、時に自己弁護的であります。しかし、もし私が「あたなだったら何をしたか」と問いかけられると、答えに窮してしまいます。だから以下の言葉も冷徹に突き刺さります。

「そしていまこの瞬間、わたしはシュミッツ(ハンナ)さんにもあなたにも腹を立てています。でも、もう行きましょう。」
(Ⅲ章 P.236)


ハンナの最後に取った行動には意見が分かれるかも知れません。しかしこれとて、当初からこの帰結しかないということころに落ち着いています。彼女の行動は、彼女自身の尊厳と、彼への純粋な愛を守るために取った行動であるのだと思います。従って、これ以上の帰結がありえようかと言う点において、作者も本件がフィクションであるならば予定調和的です。そして、それが最大の悲劇です。


それでも主人公を責めることなどは、到底できないのではあります。主人公はこれからも自分に対し問い続けるでしょうから。


通読するに「世界中を感動」というフレーズには疑問を感じます。色々な読まれ方をするでしょうが、お涙ものの感動大作ではないと思います。日本人である私には、このような作品が今もドイツで書かれることに対しては驚き以外の何物ではなく、話しは全くそれてしまいますが、サッカーアジア杯での観客による反日行動の源泉について、ふと考えてしまいました。

2004年5月25日火曜日

相変わらずクラクラする産経新聞

産経新聞の主張や産経抄は、ときどき眩暈がするような文章が掲載されていて、楽しませてくれるのですが、今日の産経抄も絶品と言えるのではないでしょうか。


来春から小学校音楽教科書に十三の唱歌や童謡が復活することを受けて、『もうひとつどうしても入れてほしかった曲がある。この時期に季節はずれかもしれないが「冬の夜」という唱歌だ。』としてその歌詞を紹介してます。



産経が是非入れて欲しかった理由を表す歌詞は、二番にあり


▼「囲炉裏の端に縄なう父は 過ぎしいくさの手柄を語る 居並ぶ子どもは ねむさ忘れて 耳を傾けこぶしを握る」。恐らく日露戦のことだろうか。父親が自らの「歴史」を語ることによって、子供たちとの絆(きずな)を確かめ合っていたことがよくわかるからだ。

だと書いています。今回の拉致被害者家族の帰国と絡めて、


親と子が囲炉裏を囲むように互いの苦難の歴史を語り合ってもらいたい。真の家族の絆をとりもどしてほしいのである。

と主張するのですが、私には違和感しか感じません。戦争体験を語り継ぐことは重要ですし、風化させてはならないものですが、日露戦争まで持ち出し『過ぎしいくさの手柄を語る』ことを奨励するのは、私などいかがかと思うのですが、自らの歴史が間違っていなかったと主張する産経にとっては、悲願のことなのでしょう。


自虐史観に反対する人の主張は、私とてその気持ちを分らないのでもないですが、どうしても裏に日本の絶対的優位さと日本の正しさ、中国、韓国、アジア諸国に対する不信と蔑視が透けて見えてしまいます。例えそれらの諸国が不正と不義だらけの嘘で塗り固められた非人道的政権であったとしても、取るべき態度は産経的主張ではないのではないかと思うのです。


国の歴史というのは、一致していれば幸せですが、得てして相対的なもののはずです。日本の観点からは仮に解放戦争であっても、世界の観点からは依然として侵略戦争として裁かれました。それを覆すことは、いくら右派の方々が歴史的根拠を持ち出しても、変わらないし、日本はそこから出発すべきではないのではないかと思うのです。


今回のイラク侵攻にしても、それ以前の米英の中東戦略であっても同様でしょうに。その前提あっての外交や対話ではないかなと、思うのですが・・・


翻って日本は世界の中で経済的に豊かな国ですが、本当に他国から見て「幸せな国」でしょうか。帰国された子供たちが心の底から帰ってきて良かったと思える世界一の国でありますように願ってやみませぬ。

2004年5月1日土曜日

「正論」の靖国論

月刊誌「正論」は産経新聞社によるオピニオン誌で、編集方針は岩波書店の「世界」とは対極にある雑誌といってよいことは皆様ご存知の通りです。

2004年5月号は『靖国・英霊「分祀」論の妄を弁ず』と題して、かの東京大学名誉教授の小堀桂一郎氏が執筆しておりました。キワメて楽しそうな話題でしたので思わず購入して読んでみました。

これまたご存知のように小堀氏は我が国を深く愛されており、中国や韓国や東南アジア諸国の内政干渉など無視して堂々と首相は終戦記念日に靖国参拝を行わなくてはならないと強く主張している方です。

小堀氏の批判は今年2月15日のテレビ朝日「サンデープロジェクト」に出演した元衆議院議員中曽根康弘氏の靖国神社の発言に対し『歴然たる無知と誤認がある』と批判することから初め、靖国神社に対する世間の誤解について力説しています。

本号では小堀氏のほかに、弁護士の稲田朋美氏、アジア経済人懇話会会長の前野徹氏も寄稿しておりますが、どれもこれも論旨は同じです、ポイントとなる点をいくつか引用しておきましょう。

(中曽根氏を初めとする「或る党派の人々」は)中共政府の走狗となつて護国の英霊を辱めることを敢へてし、結果として祖国を敵に売る行為に加担した(小堀氏)

殉難者の英霊の「分祀」を言ひ張る人は、結局は、当人が東京裁判をどう見るか、といふ踏絵を踏まされることになるのである。(小堀氏)

「A級戦犯」を、"分祀"するようなことがあれば、現在の日本人が東京裁判の正当性を認めたことになり、サンフランシスコ平和条約発効後、国民の総意で戦犯釈放等を早期に実現させた先達の努力を水泡に帰し、わが国の将来に遺恨を残す(稲田氏)

(靖国神社に象徴されているのは)祖国に対する忠誠心、すなわち命を懸けて国を守るという崇高な精神(稲田氏)

本来なら東京裁判によって断罪された日本の汚名を晴らすべき日本の首相が自虐史観に染まっている(前野氏)

日本にはA級戦犯など存在しない[...]靖国神社に祀られる英霊は戦犯などではない(前野氏)

自虐史観に対する舌鋒の鋭さは相変わらずですが、さらに中国や韓国に対する不信感もかなり凄いものがあります。

(南京虐殺記念館の入場が無料になったことに対し)でっち上げの南京虐殺事件を自国民の心に強く刻み込み、反日感情を高めようという意図が見え隠れ(前野)

(南京虐殺記念館を中国政府が「世界文化遺産」としてユネスコへの登録申請を計画したことに対し)南京事件の虚構性を暴く実証的研究の続出によつて、中国当局は形成不利と知り、焦り始めたのである。(小堀)

韓国では密かに日韓の歴史の塗り替への布石が着々と打たれている。[...]水面下では日本の神話を自国の歴史にすり替えるための研究が韓国の歴史学者たちによって進められている。[...](韓国には)日本列島全体を属国化しようとする意図すら隠されている可能性もある。(前野)

日本はアジア諸国から見下され、今や食い物にされようとしている。中韓の対日批判の高まりはその狼煙である(前野)

ふう、もうたくさんですね。でもこういう方が以下のように主張するのですよ。

共存共栄、強者は弱者をいたわるという日本の美風(前野)

その論理ですと、日本はアジアの強者ですから、大東亜共栄圏という発想から弱者であるアジア諸国を貧困と列強諸国から解放しようとしたのですし、その「日本の美風」の精神の延長線でイラクを独裁政権から解放することのお手伝いをしているということになるのでしょうか。

たとえ南京大虐殺(の規模や瑣末的なディテール)が虚構であったとしても、日本人が民間中国人を殺したという事実は残るわけですし、一人殺しても虐殺した過去は変わらないと思うのです。今アメリカがファルージャで行っていることも、フセインがクルド人に対して行ったことも虐殺であることに異論がるでしょうか。

小堀氏を始めとする東京裁判否定者は、戦勝国の一方的利害による偏向した裁判は不当であり、冤罪であるとまで主張するのですが、ある時代の歴史が下した審判を否定し去ることで日本に名誉と栄誉が回復するのでしょうか。

彼らのような主張をする人が率いる日本がどういうものなのか、中国や韓国に敬意を(全くといってよいほど)払わず、不信と蔑視と利用価値しか感じないような主張の中でどうやってアジアで共存できるのでしょう。彼らの描く日本に住みたいと思いますか?

2004年4月29日木曜日

「間違った歴史認識」

4月28日の産経新聞の主張(社説)です。


旧日本軍が中国に遺棄したとされる毒ガス兵器で死傷者が出たとして、中国人被害者らが日本政府に損害賠償を求めた訴訟の控訴審が東京高裁で始まった。

(本文すべて略)

その結果、賠償請求は棄却されても事実認定で原告側主張が認められ、史実の誤りが独り歩きするケースが少なくない。

(さらに略)

間違った歴史認識は教科書の記述を歪(ゆが)める。法務省はこれからも、法律論だけでなく、歴史事実の認定についても積極的な反論を試みてほしい。


産経新聞の持論の(飽きるほどの)積み重ねですね。私はそこまで勉強熱心ではありませんので、貴方が学んできた歴史認識が間違っていると言われましても、「はいそうですか」とはなかなか受け入れがたいのですが。


いずれにしても、産経の方々は、日本の誇りと強さを回復させることにご尽力されているわけでして、さらに国際社会の中で中国、北朝鮮に屈することなく確たる国家観を樹立させる強い意志をお持ちであることには深い敬意を覚えはいたします。

2004年3月16日火曜日

【本棚】馬立誠:日本はもう中国に謝罪しなくていい


「両国の歴史問題は解決済だ」と中国はおろか、日本でも刺激的なフレーズが帯に踊る真っ赤な本です。内容は真摯な提言に満ちた本でした。日本の歴史認識を覆したいとして躍起になっている方々、逆に昨今の有事関連法案に過敏になっている人などこそ、ぜひ読むべきではないかと思う本であります。

「日本は中国に謝罪しなくていい」というタイトルの本が、中国人によって書かれているということで、ちょっと胡散臭さもあったのですが、読んでみました。馬氏は、中国青年報評論部副主任を経て、人民日報高級評論委員になった方で、2003年より香港フェニックステレビの評論員を務めています。

内容は至極まっとうな、将来的な展望を語った書でした。馬氏は日中国交正常化から30年も過ぎているというのに両国の間では嫌悪と敵意が拡大していることを憂い、その主たる原因を、中国内と日本内で生じている一部の偏狭ナショナリズムのと無関係ではないと説明しています。

中国ナショナリズムの代表としては『ノーと言える中国』『中国パッシングの背後』『グローバリゼーションの影の下の中国の道』『衝突』『中国を脅かす隠された戦争』の5冊を例にとり、ナショナリズムの偏狭な論理を斬り捨てています。(第二章 尊大で偏狭な「中国ナショナリスト」たち)

一方で日本のナショナリズムにも厳しい眼を向けており、日本のナショナリズムの高まりも中日関係を阻害したと説明しています。代表的な人物としては石原慎太郎氏、歴史・検討委員会の委員長であった故山中貞則氏、小堀圭一郎氏、中村粲氏、総山孝雄氏、松本健一氏、西部邁氏、高橋史朗氏、大原康男氏、そして小林よしのり氏などの論説を紹介し、ナショナリストの論理の誤りと危険性を述べています。(第三章 徹底批判「石原慎太郎」から「小林よしのり」まで)

中国内では、日本が中国に対して謝罪をしていないという意見が根強いのですが、これも全くの誤解であると説明しています。彼は1972年から2001年まで合計21回もの正式な謝罪があり、すでに中日間の問題は解決済であると説明しています。感情的な対立は前進のためにはマイナスにしかならないと説きます。また東京裁判のことにも触れ、日本の侵した戦争犯罪はすでに裁かれ責任追及もすでに完了していると説明しています(第四章 日本の指導者に「土下座」を求めてはならない) 。

最終的に場氏は、これからますます重要な地位を占めるであろう中国とともに、日本、韓国も含め共存してゆく道を後の4章に渡って説明しています。まさにこれこそ馬氏の言いたかったことなのでしょう。経済、金融面のみならず安全保障の面でも協力関係を築くことのできる可能性を示唆しています。その中で、昨今の日本の有事法制のあり方については、日本が軍国主義の道を歩もうとしているわけではない、「普通の国」になろうとしているだけである、と理解を示しています。

非常に新鮮な観点から書かれた本であり、傾聴に値するものです。日本の歴史認識を覆したいとして躍起になっている方々、逆に昨今の有事関連法案に過敏になっている人などこそ、ぜひ読むべきではないかと思う本であります。

2004年3月3日水曜日

国歌、国旗についての読売新聞


本日の読売新聞社説は『[国旗・国歌]「卒業式も国際的標準を視野に」』とした上で、国旗国歌の重要性を説いていました。私を含めて、国旗、国歌に複雑な思いを抱く人は多いと思います。



読売新聞いわく


 先進諸国は共通して、学校での国旗、国歌教育を重視している。アメリカでは法律で、学校などの公的機関に国旗を掲揚することが定められている。自分たちの歴史や文化、アイデンティティー(自己同一性)を確認し、国の将来を構築していく意志を示すためだ。

 国旗、国歌を通じ子供に精神的な支柱を形成する取り組みが、グローバル化が進む今、以前にも増して重要だ。

国旗、国歌に限らず、国家とは何かという認識が重要であること、(国家なくして個人は国際社会で存在できませんから)国家によるアイデンティティの確立も重要であることは認めます。


学校においては、国旗掲揚及び国歌斉唱の実施は義務付けられていますから「国旗掲揚及び国歌斉唱の実施に当たり、教職員が本通達に基づく校長の職務命令に従わない場合は、服務上の責任を問われる」らしいです。


再度読売新聞に戻りますが、


 日本では、戦前の軍国主義体制への嫌悪感などから、国家について突き詰めて考えることを避け、国旗、国歌への態度も曖昧(あいまい)にする傾向が続いてきた。


とあります。嫌悪感とともに出されるのが贖罪意識あるいは自虐史観に基づいた歴史認識です。やはりそういう歴史を総括して清算しない限り、国歌、国旗問題、ひいては憲法9条問題も解決しないのではないでしょうか。外圧や対外的な脅威のみに依存した、安易な解決や改革しなくてはならないような雰囲気つくりに流されること、こういうことはやはり避けるべきだと思いますが、いかがでしょう。

若い歌手が「アカペラで国歌を歌いたい」と言う発言には、どう受け止めるべきでしょう。以前、忌野清四郎が国歌を歌いましたが、変にカッコよかっただけに不気味でした。


サッカーW杯などで無邪気に国旗を振る海外選手を見ると、うらやましいと思いますが、日本は何故国旗を振ることに罪悪感と抵抗感があるのでしょう。サッカーのオリンピック予選が始まりましたが、どうしてあんなに「国を挙げて」熱狂する雰囲気をマスコミは作り、それにまた皆乗ってしまうのでしょう。


アメリカは占領地に星条旗を立てて歴史を作ってきましたが、彼らには贖罪意識はありませんね。やっぱり連合国だからでしょうか・・・


右傾化や改憲派が与野党で趨勢を占めてきましたが、彼らや彼女らは徴兵制を前提(1)に議論しているのですか? 彼や彼女らは、自分たちの子供や孫を戦地へ送る覚悟ができているのですか?  戦地での彼らや彼女らに、相手が敵なら銃剣で刺し殺せと教えるのですか? 日本人が海外で銃弾に当たって死ぬことや、地雷や爆弾に当たって吹き飛ばされることを許容できているのですか?


国旗、国歌問題から飛躍しすぎかもしれませんが、こういう問題を考えると己の勉強不足と認識不足に、はっきり言ってうんざりしてしまいます。


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(1) 安直に徴兵制度と書きましたが、調べてみると現在の主流は志願兵制度ですね。現在の防衛強化の方向を、「徴兵への移行」などと考えるのは短絡すぎるようです。ドイツは徴兵制を残していますが、イギリス、フランス、スペインでは徴兵制は廃止されています。イタリアも2005年には完全志願制に移行する予定です。勿論アメリカも志願兵性ですね。日本が軍隊を持つとしても、志願制で人が集まらない状況にならない限り、徴兵制は採用されないという議論もあります。また、現代の近代化した兵器を扱うのに、期間兵では役に立たないとか、徴兵されたものを教育する体制にないなどの現実的な問題もあるようです。おっと、このエントリーは「国旗、国歌問題」でしたね。この手の問題は、まだまだ勉強不足のようです。

2004年1月29日木曜日

産経新聞の今週の主張より

いつも読んでいるわけではないのですが、産経新聞Web版の「今週の正論」は、靖国問題などに関する他国の態度は内政干渉であるという態度を一環として取り続けている東京大学名誉教授 小堀桂一郎氏でした。繰り返しますがいつも読んでいるわけではありませんので、氏がどの程度の頻度で「正論」を書いているのは私は知りません。

さて果たして読んでみますと、古色蒼然とした文体も相変わらずで、首相の靖国参拝について「大いに結構」とし、氏の持論を展開しています。

日本人の死者の霊に対する感情のあり方にせよ、靖国神社に於ける英霊合祀(ごうし)の経緯にせよ、民族に固有の宗教感情や祭祀(さいし)の伝統に関はる一切に関して、相手の理解を求めるといつた空(むな)しい宥和(ゆうわ)的努力を潔く放棄すべきである。(中略) 何よりも有効なのは、相手が抗議に疲れて黙りこんでしまふ迄、総理大臣が頻々と靖国神社に参拝を重ねることである。

とし、もし公約通りに8月15日に靖国参拝を首相が実現できた暁には、

独立主権国家としての日本国の面目を国際社会に恢復(かいふく)し得た名宰相としての名を歴史に刻むことができよう。

と述べ、次のように締めくくっています。

本年は日本が世界史の流れの大転換の原動力となつた日露戦争開戦百周年の記念年である。昭和二十七年の平和条約発効から数へても五十二年の歳月を経た。毅然(きぜん)たる内政干渉排除の決意を以て祖国再建の年としたいものである。

成る程、今年は日露戦争開戦百周年でしたか。靖国問題については昨年の1月にも「ゆきひろの意見箱」で書いていました。更にその前には、靖国神社の遊就館の完成を祝う同じく小堀桂一郎氏の「今週の主張」を紹介しました。あれからずいぶんの月日が経ちましたが、私の中での歴史観などは一向にあやふやなままで、今回の小堀氏の主張を読んでもはなはだ納得生きがたいものを感じます。小堀氏の主張の中には、靖国神社は日本古来からの守護神信仰にもとづくものであり、日本古来の文化、習俗に対して政治的な干渉を受ける筋合いはないというものです。1月26日のClalaブログで小沢さんが答えていた施設とは全く異なる概念なのですね。もう接点さえ見出せない気分です。

2001年8月14日火曜日

歴史認識の違いと他国の干渉

8月14日の産経新聞 「正論 米バンダービルト大学教授 ジェームス・アワー」~日本の教科書の検閲はやめなさい、歴史の見方は国によって違うものだ」は、なかなか面白く示唆に富む。

中国や韓国からの指摘を「内政干渉だ」などと言っているのではない。歴史認識というのは各国によって異なるのが当然であり、さまざまな見方が容認されるべきである。その上で、他国の歴史観を含めて、総合的に判断できる(あるいは相互批判)ような土壌が重要だと言っている。


戦争という歴史的事実の大きさを考えると、中国、韓国、日本の教科書がそれぞれに異なった内容をもつより、類似した内容である方がより大きな驚きではないだろうか。(引用)


という意見にもはっとさせられる。我々は隣国のことを一体どれほど理解したり、知っているのだろうか。あるいは、そのような教育をされてきただろうか。

中国や韓国の人たちが、何故にこれほどまでに半日感情を持つのかを、学校で教えてくれただろうか。何かがゆがんではいまいか。


小泉首相の靖国神社 電撃参拝

小泉首相が靖国神社に13日、繰り上げ参拝を行った。

新聞各紙の賛否は大きく分かれている。朝日新聞は、当然のごとく首相の参拝自体を批判している。日経新聞も同じ口調だ。一方、読売新聞は中立的で「政治的判断」として評価している。しかし「一国の指導者が戦没者を追悼するためにいつ参拝するか、参拝方法はどうするかといった問題は、本来、その国の伝統や慣習に基づく国内問題である。他国からとやかく言われる筋合いはない。(引用)」という姿勢は崩さない。産経新聞は、公式参拝を15日に実施できなかったことを「きわめて遺憾」であり「信を失う」「国民のほとんどが15日に参拝すると思っていた」と書く。

新聞各紙でさえ、このように意見が分かれている。

私は基本的なことが分からない。靖国神社とはそもそも何なのか。あそこに戦没者が合祀されている遺族にとって、靖国とは何なのかだ。そもそも靖国とは、「天皇陛下の為に命をかけ、戦死したら祭る」という掛け声で、戦地に動員することに利用された、徴兵システムではなかったのか。

宗教か否かは問わない。しかし、そのようなシステムであったことを反省もせず、また、近隣諸国の感情的な反発までを無視し、(歴代の)首相が参拝にこだわる理由が、私にはわからない。遺族会からの圧力なのかとさえ思ってしまう。

��級戦犯でさえ、当時の国の方針に従って任務を遂行したまでで責められるべきではない、という意見を吐く人もいる。ばかを言ってはいけないと思う。企業を破綻に追いやった重役たちに、その責任がないと言って、のうのうとしていられるリストラ社員がいると思うのか。政治的判断をするのに当たって、その責任がないなどということは間違っている。

首相の談話は、http://www.kantei.go.jp/new/0813danwa.html から読める。

私の態度としては、靖国という場に参拝した首相については、どういう言い訳をしようとも支持はできない。それは、他国からの圧力とは別の問題である。自国の中でさえ「靖国」問題は浮遊していると思うだけにだ。