カントロフ父子によるアルバムです。ピアノをアレクサンドロ・カントロフ(1997-)、オーケストラは父のジャン=ジャック・カントロフが指揮するタピオラ・シンフォニエッタです。
第1番が2018年、第2番、第3番が2016年の録音、カントロフが19から21歳のときの演奏ということになりますか。いやはや凄まじい完成度です、恐るべきといいますか。最近の若者は10代や20代前半で、このようにオーケストラとの演奏をものにできるものなんでしょうか。
時代は大きな転換期、自分もとうに還暦を過ぎた。何に関心があり、どう考えていたか、記憶と思考の断片をつなぐ作業。将来の何に「投資」するか、自分を断捨離したときに最後に残すものは何か。私的なLife Log、ネット上の備忘録。
ジョン・クーリッジ・アダムズ John Coolidge Adams(1947-)作曲によるピアノ協奏曲を聴いてみました。アダムスの初期はミニマル音楽を、その後は新ロマン主義、ポスト・ミニマル的な音楽家と評されているようです。
アンドラーシュ・シフ(Andras Schiff)がピリオド楽器を使い、自ら弾き振りをしてのブラームス ピアノ協奏曲の録音。オケはエイジ・オブ・インライトゥメント管弦楽団。
https://music.apple.com/jp/album/brahms-piano-concertos/1561178466
グリモーは、アルバムごとに新しい断面やストーリーで曲の魅力や世界観を伝えてくれる演奏家のひとりです。
今回のアルバムも、モーツァルトの曲とウクライナ生まれの現代作曲家ヴァレンティン・シルヴェストロフの曲を組み合わせたもので、非常に魅力的なアルバムでした。私はこのアルバムでシルヴェストロフという作曲家を初めて知りました。

https://music.apple.com/jp/album/the-messenger/1526145158
コンセプトアルバムではりネタバレ的になってしまいますので、まずは聴いてから解説などを読んだ方が良いと思います。
アンスネスの弾き振りでマーラー・チェンバー・オーケストラによるモーツァルトです。Apple Musicの解説が厚く熱いです。オケの響の安定感もさることながら、アンスネス のピアノが絶品です、聴くべきモーツァルトの演奏といえます。

https://music.apple.com/jp/album/mozart-momentum-1785/1560605515
Apple Musicに勧められるままに聴いてみましたが、思いの外良いアルバムでした。
https://music.apple.com/jp/album/hummel-weber-mendelssohn/1559285251
チャイコフスキーコンクール2019
通して聴いた。モーツァルトから涙止まらず、圧倒の熱演!!! https://t.co/nLW2gC9JVL
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) June 20, 2019
#コパチンスカヤ のベートーベン。もう10年以上も前の録音などですね。噂どおりにカデンツァの凄まじさ!火花が散るかのような! https://t.co/8LFWOUVJw3
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) March 16, 2019
路地からパッと抜けて見える地中海の青い空と突き抜けた空。アインザッツの鮮やかさと乾いたキレ。窓辺を飾るブーゲンビリアと聴こえるカンツォーネ。
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) October 23, 2015
トッパンホールでのカルミニョーラ。ヴィヴァルディ節全開。3回くらいブラボー叫んでしまいました。
— yukimaru | Clala-Flala (@yukimaru_o) October 23, 2015
ブラームスのピアノ協奏曲といえば、ラトルとツィマーマンがCD棚にありました。2005年発売で、以前感想を書いていたと思ったのに何も記していなかったようです。改めて簡単なインプレッションなどを。
ツィマーマンにとっては1984年のバーンスタインとの演奏以来実に20年ぶりの演奏です。ライナーによりますと前回は万全の録音とは言えなかったようです。楽器は運送の事故で、とてもブラームスに適したとはいえない楽器となり、しかもビデオ録音のため各種機材の溢れかえったホールは、音響的にも悪影響であったのですとか。
"For the recording of the First Piano Concerto I was unable to get the instrument I wanted, as the van that was supposed to bring the piano from Italy was involved in an accident. The instrument that was finally placed at my diposal may well have been good for Mozart, but not for Brahms."
ツィマーマンの侮恨が伺えるコメントです。今回のレコーディングについて何を考えるかとの問いに対しては、
"Every recording documents a single moment."
と言い切る彼ですが、相当の思い入れで本録音に取り組んだことは確かなようです。当然自ら調整した"his own piano"を持ち込んでの演奏です。80以上の異なる演奏を聴き比べ、テンポ設定の研究も行ったのですとか。
"By this I dont't mean a metronomic tempo;rather,it's something subjective,something that I might call the psychological perception of a tempo."
"Everything must cerate the impression of a uniform flow."
そういう点から、非常に気合の入った演奏が聴かれます。アマゾンとかHMVのレビュでもカスタマーズ・レビュ絶賛されているようです。バックのベルリン・フィルはオケの精度も良く、確かに現在望みうる最高の演奏だと言えるかもしれません。
ラトルは相変わらずティンパニを際立たせた、ハリのある演奏に仕上げています。ホールの響きも良くバランスも良いです。ピアノは激しいところでも決して濁らずに際立ち、それでいて凄まじく、弱音部の音色も鮮やかにして美しい。ラトルの指揮下というせいもあるのか、演奏は洗練されており、ガッチリとした骨格を示し、タフであり、ベタさはありません。第二楽章冒頭のオーケストレーションなどは映画音楽!のように美しい。反してツィマーマンのピアノは、少々くぐもり内省的な響きを聴かせます。ブラームスの憂愁というより、もっと現代的なリリカルさを感じる部分です。終楽章の炸裂も鮮やかの一言。
さて、それでは、この演奏の感想が最上かと言えば、何度この演奏を聴いても心情に訴えてこないというか、ある線より上には響かない。いや、とても、とても素晴らしい演奏です、生で聴いたら、おそらくぶっ飛ぶと思いますよ。しかし、何でしょうね、このモノ足りなさは、私が古い人間なんでしょうか。
目白バ・ロック音楽祭が昨日から始まりました。聖母病院チャペルのチェンバロ・リサイタル*1)にも食指が動いたのですが、やっぱりオケが聴きたいなあという気になって、東京芸術劇場で東京バッハ・モーツァルト・オーケストラ(TBMO)の演奏会に行ってきました。
TBMOは、1989年に結成された日本初のピリオド楽器によるオーケストラ。10年間の休止期間を経て昨年6月、モーツァルトのフルートと管弦楽のための作品を演奏するために再結成され、その演奏会が絶賛されたことは、知る人なら知っているでしょう*2)。
さて、そんな期待に満ちたオケによるオール・モーツァルト・プログラムの最初は「魔笛」序曲。冒頭の和音からして、ビンと張り詰めた響き。これを聴いただけで、オケのアンサンブル精度と技巧を感じ取ることができました。
演奏に余計な贅肉はなく、かといって厳格すぎるわけではなく、エキセントリックとか過度のシャープさとも離れたところにある。それでいて研ぎ澄まされた技巧は冴えており、響きはクリアで透明、あたかも吟醸酒のような趣。
この演奏スタイルは有田氏の音楽に対する真摯なアプローチの賜物なのでしょうか、聞いていて素直に心地よいです。それが逆に欠点といいましょうか、モーツァルトの心の底から沸き起こるような愉悦を感じることは少ない。
クラリネット協奏曲を演奏するホープリッチは、ブリュッヘン率いる18世紀オーケストラの首席奏者にして知る人ぞ知るクラリネット・ヲタク*3)。今日も彼自らが復元したらしいバセット・クラリネットを用いての演奏。芸術劇場の広い空間ではソロ・クラリネットの音色は2階席まで朗々と響き渡るといったものではない。特にオケとの合奏になる技巧的な中音域のパッセージは聴き取りづらい。しかし、それであっても、彼のまろやかにして独特の音色は極めて印象的。「クラリネット臭さ」がない、と書いても分からないか。非常にキモチの良くなる演奏で、これはブラボー。
最後の交響曲第39番は、再び「魔笛」と同じような印象。オケはテンポラリーな団体だとはいえ、ウマいです。しかし、私の好きなウキウキするようなメヌエット、そして終楽章のアレグレットは、なかなかドライブしてこず、有田氏はしっかりと着実に演奏します。誠実ではありながらも、はやりモーツァルトの何かが失われてはいまいかと、演奏終了後に考えてしまいました*4)。
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随分前に買って*1)iPodにも入れて何度も聴いていた曲なんですが、まだ感想を書いていませんでしたので、ちょっとだけ記して*2)おきましょう。
モーツァルトのピアノ・ソナタであれほど個性的な演奏をしたサイですから、ピアノ協奏曲となると一体どうなってしまうのだろう、彼の個性は発揮され得るのだろうかと若干の不安を持って聴きはじめた盤ではありましたが、まさにここには紛れもないサイの演奏が、そしてサイの美学がぎっちり詰まっていました。やっぱりサイのモーツァルトは素晴らしい。
例えば冒頭のK.414が始まったと同時に、低くかすかな唸り声が入ります。これが耳障りという人も居るでしょう。しかし、その繊細な舞うがごとき演奏からは、サイがすぐにモーツァルトの音楽世界に没入していることを知らせてくれます。協奏曲でも、サイの弱音のピアノのタッチ、鳴らし方、唄い方は絶妙であります。緩徐楽章のAndanteの美しさときたら、ここを聴くためにだけでも何度も本盤を取り出したくなります。
K.414の軽いジャブの後は、あまりに聴き慣れた名曲のK.467です。グリフィス率いるチューリヒ室内管弦楽団も小気味良い軽さでオケを鳴らしているようです。さりげなく滑らかに入るサイのピアノの明確さ、少し暗転するモーツァルトの翳と陽の妙。モーツァルトを聴く至福がこの最初の数分間に凝縮されています。サイのピアノとオケによる波状攻撃は、この曲を初めて聴くかのような興奮と哀しみと悦びを与えてくれます。
そしてサイ・オリジナルのカデンツァのドキドキする展開、茶目っ気とユーモアと美しさ、・・・言葉は余りにも無力か。Andanteの夢見るような旋律は、安穏とした午睡ではなく、モーツァルト特有の喪失の予感が巧みにオブラートされているかのよう。これまた眩暈がするほどにメランコリック。水晶を通して乱反射する硬質な陽光。終楽章ラスト近くのピアニッシモは冗談ではなく息が止まるかと思うほど。
最後のK.488も、これまた長調の明るくメランコリックなモーツァルトが炸裂しています。川田朔也氏は「CDジャーナル」に、
ショッキングなほど音を切る23番第1楽章のカデンツァが如実に示しているように、サイが目指すのはスタッカートを軸にした軽い音作り。同じ23番第2楽章のスタッカートを、譜面通りに、しかもやや強調して弾き、嬰ヘ短調の憂愁に異分子を混入させたかのような奇異さで耳を引きつける
と書き(→amazon)、宇野功芳氏は日本版のライナーで
シンプルな「K.488」の第2楽章は、あの長い主題を最弱音だけで進めてしまうが、それでいてだれず、小手先に終わらず、その独白がなんともいえない。
と絶賛しています。この余りにも有名な嬰ヘ短調のAdagio。確かにモーツァルトのペーソスではある。くぐもったペダルワークによる旋律、強調されたスタッカートによる上昇。霧の中、着地点も目標も見えない彷徨。聴きようによっては、ここにない、どこか他の場所に通じる場所に向って歩むかのような趣さえ感じます。それだけに終楽章が始まったときには、こちら側の世界にグッと引き戻された思いさえしてホッとします。モーツァルトって、やっぱりコワイ。そして、演奏からこんな「夢」を見させてくれるサイに改めて感服。
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紀尾井ホールでを紀尾井シンフォニエッタ東京の定期演奏会を聴いてきました。
紀尾井ホールは職場から歩いて行ける音楽ホールのひとつであるにも関わらず、今まで行った事がありませんでしたし、紀尾井シンフォニエッタ東京(KST)も名前は知っていたものの聴くのは今日が初めて。「ぴあ」で公演を知り、当日券狙いで聴いてきたのですが、いやはや、KSTというのは本格的な実力派オケであったのですね。金曜日の夕方というのにほぼ満席です。
��曲目はアフラートゥス・クインテットの3名の木管楽器奏者に「バボちゃん」が加わっての協奏交響曲。演奏は素晴らしいのですが、何かこの曲にはイマひとつの感を覚えてしまいました。
休憩をはさんでのブラームスは、KSTの実力を充分に発揮した演奏といえましょうか。いかにもドイツ的な曲の雰囲気に、重厚にしてふくよかな弦の響きには非常にマッチしている。ティンパニの使い方などハイドン的な香りを残しながらも、全体はしっかりブラームスで、もう秋だしやっぱりブラームスもいいなあとしみじみ。
現在ヨーロッパで最も注目されている若手指揮者でありミュンヘン室内管弦楽団(MKO)の首席指揮者兼芸術監督。痩身の颯爽としたキビキビした指揮姿から、キレの良い音楽を聴かせてくれました。ブラボー。
ついでですが演奏が始まる前に、KSTの誇る玉井菜採さん(vn)と中村智香子さん(va)によるロビー・コンサートが開催、曲はモーツァルトのヴァイオリンとヴィオラのためのデュオ ト長調 K.423 より1楽章でした。モーツァルト友人のミヒャエル・ハイドンが病気だからって急遽彼のために2曲ほどチャッチャと描いてあげたという曲。やっぱりモーツァルトって天才。
高木さんの演奏の感想については、拙HPやブログでも何度も書いていながらにして、実演に接するのはこれが初めてです。
過大なる期待を持って演奏会に望んだのですが、聴き終わった後での感想といえば、完全に惚れ直したというのが正直なところ(ビジュアルぢゃなくて)。
まずステージに上がってきたところから既にオーラを発しています。モノが違うというのは、こういうことなのでしょう。淡いリラかラベンダーを思わせる色のドレスを颯爽と身に纏い、ステージ中央にスクと立った姿からは貫禄さえ感じます。
今年のモーツァルト・イヤーを含めて一体彼女は何回のモーツァルトを演奏しているのでしょう。ソロ活動中のパユがそうであったように、内心少々はウンザリ気味なのか、あるいは毎回気持ちを新たにできるものなのか、演奏者の表層的な内面は聴衆には分かる筈もありません。
オーケストラの前奏が始まると顔つきが一段と怜悧になり、伴奏を軽く口ずさみさえして音楽に没入していきます。その姿はスタート前のアスリートを思わせます。そして音楽に対する集中を一気に高めた後でのフルートの第一声。
��。何という音の掴みでしょう。そのビビッドさときたら、最初の出だしで一撃です。何度も聴きなれたフレーズがクイッとばかりに立ち上がる。生き生きとして快活で敏捷なモーツァルト。
彼女の演奏からは、野性とか高度な運動性能を感じることがあります。例えば、昨年発表したCDの武満徹の《海へ》。ここでも、動物的なカンとさえ思えるような印象の演奏が展開されます。他の武満像とは
少し(いや、かなり?)違う。今回のモーツァルトも学究的モーツァルト解釈の点からどうなのかは、私には全く分かりませんが、これほどにドキドキしながら聴いたモーツァルトも他にはないということも確か。
まるで黒豹を思わせるしなやかさを展開させながら、モーツァルトの世界をゆうゆうと突き抜けてゆく自在さ。1楽章最後のカデンツァは、もう息を呑むばかり。あまりに唖然。壮観、爽快、感歎。駆け抜ける音楽の至福。これがK.313なのか、いやこれこそがK313なのか。彼女の音色と残響だけが奏楽堂空間を満たしたときの音しか存在しない緊張と充実。この演奏を聴くだけでここに来た価値は充分にありました。
横で見守る金教授や藝大の関係者の方々は、どのような思いで彼女の演奏を聴いたのでしょう。カデンツァの最中に金教授がビオラの女性と目配せしているのが印象的でした。
高木さんのブログを読むと久しぶりに興奮した演奏
、若かりし頃の演奏に近くて、やりすぎたかなぁ~?
と書かれていました。私のような聴衆(^^;;には受けは良かった
と思いますよ(笑)。
(諸事情があって行きそびれました・・・激残念)
ということで、予想以上の高木ショックのため、次なる高木綾子は8月27日、白寿ホールでの武満徹《ヴォイス》《海へ》に決定です。
藝大の奏楽堂で、金昌国さんのレクチャーと幾つかの協奏曲を聴いてきました。
私の目当ては(当然ですが)フルーティストの高木綾子さんであります。高木さんの感想はエントリを改めることとしまして、それ以外の感想を簡単に書いておきましょう。
金教授のレクチャーの持ち時間は2時間。先生もおっしゃっていましたが、語り足りないくらいのようでしたね。フルートとモーツァルトが好きで好きでたまらなくて、「モーツァルトとフルートの関係を裂くような発言には猛然と反発したくなり、膨大な時間を費やして反論のための研究をしてきた」と言う金教授の熱意には脱帽するばかりです。最近手術をなさったとかで、まだ唇などが荒れたままで笛が吹けないのだそうです。そういえば(写真などと比べると)随分痩せたのでしょうか・・・。指揮の途中で指揮棒を落としておられましたが、今後も元気で活躍されることを祈るばかりです。
演奏会の最初は、2005年の日本音コン ホルン部門第1位、まさに日本を代表するホルン奏者 大野氏によるホルン協奏曲。丁寧で柔らかなホルンの音色から奏でられる音楽は、至福の時間を提供してくれました。ホルン奏者がこんなに格好いいものだとは、今の今まで知りませんでした。
オーボエ協奏曲は新日フィルの主席オーボエ奏者でもあった小畑氏による演奏。音楽演奏というものは人柄がにじみ出るものである、とつくづく感じました。表情が少し硬い印象を受けましたが、演奏は非常に温かみのあるもので、とても幸せな気持ちにさせてくれるものでした。カデンツァもさすがに百選練磨のプロですね、聴きごたえのある演奏でした。
最後の《管楽器のための協奏交響曲》は、モーツァルトの真作かどうかアヤシイとされている作品です。モーツァルトを愛する金教授は「モーツァルトの作品と信じて演奏します」とレクチャー最後で述べたように、素人的にはモーツァルトの作品でないと言われても真偽の程は分からない。それでも曲を聴いていますと、他の3曲の生き生きとした音楽に比べて、どこか平板な印象が拭えない印象も受けるのは先入観のなせるわざでしょうか。
��人の管楽器奏者の中では、音色の点においてもオーボエの真田さん(左写真)が群を抜く表現力でしたね。小畑さんのオーボエよりも更に明瞭で明るい音色には惚れ惚れしてしまいました。今でも演奏する姿が脳裏に浮かびます、決してビジュアル面だけでの評価ではありません。
ということで、次は高木綾子さんの演奏の感想に続きます。
東京芸術劇場で読売日響のマチネシリーズを聴いてきました。
以下のレビュはネガティブなものになってしまいましたが、考えてみれば、贅沢にして傲慢な感想です。ハイレベルな音楽をいつでも聴ける環境に居ることに、改めて気付き感謝すべきかもしれません。
1曲目のモーツァルトK.537。ピアノは日本でもたびたび演奏しているコルネリア・ヘルマンさん。彼女は写真で見る限り非常に美しい方で追っかけも多いのだそうです。母親が日本人であることもあってか、親しみやすい顔立ちです。
今日もドレスは、彼女のトレードマークなのか深い赤です。金氏のモーツァルトは、オケの人数も多くオーソドックスなモーツァルト演奏のように感じました。鮮烈なことはしない。それは彼女のピアノも同様です。
モーツァルトの突き抜けた長調の明るいこの曲に対し、彼女のピアノは少しくぐもった柔らかな音色に聴こえる。ガンガン攻めるピアノではない決してない。指先からの変化は、ときにはっとするほどの微妙な色彩を聴かせてくれます。でも、それが金氏やオケと、いやこの曲の雰囲気と合っていたか。
というのも、彼女はモーツァルトを得意としているとのことですが、今日のピアニズムからは、むしろシューマン的な香りを感じ取りました。彼女の演奏は、天真爛漫でいながら計算づくのモーツァルトの天才による至福とは違った、もっと端正なモーツァルトでした。
続く《英雄の生涯》ですが、この空疎とも云える曲を金氏がどのように料理するかにも、大きな興味がありました。しかしこの曲に期待する浪漫という点からは、今ひとつであったなあ、というのが正直な感想。「戦場の英雄」あたりの音量は凄まじいものがありましたが、粗さも否定できない。圧倒的な暴力の氾濫という雰囲気は出ていましたが。コンマスのノーランさんの奏でるテーマも、あまり心に入ってこなかった・・・。
《英雄の生涯》というのはR・シュトラウスが音楽で描いたわざとらしい戯曲だと思っています。金さんの指揮からは統率力と抜群の制御能力の高さを感じます、どちらかというと理知的といえましょうか。これを演奏するならば、阿呆くさいくらい成り切って演奏しなくては中途半端なものとなってしまうような気もします。生意気で勝手な感想で恐縮です。もっとも私の聴き方が、過去の名演奏家のイメージにひきずられ過ぎているという気がしないでもありません。
読売日響の音は良いですね。ドイツもの、特にマーラーやワーグナーなどをこのオケで聴くと格別だと思います。
ヘルマンさんのピアノは、できれば小さなホールのソロで、シューマンとかブラームス、あるいはモーツァルトのソナタなどで聴いてみたいものです。おそらくはコンチェルトとは違った魅力を聴けると確信します。今回は金聖響さんのブログを読んで、是非とも聴いてみたいという気になって駆けつけました。金聖響さんの演奏は、やっぱりベートーベンあたりを聴いてみたいですね。