ラベル 高村薫 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 高村薫 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年3月7日土曜日

高村薫 冷血(下)を読んで

時間をかけてやっと読了。
読みずらい作品ではなかったが、かと言って解決が得られたかと言えば否
作者か主人公の合田か、煩悶だけが残される形となった。
それでも、続編はないのだとすると、今の段階での一定の回答であろうか。

徹底的に言葉を信じ、言葉によって表現を試みてきた筆者が、曖昧で実態のない、犯罪の動機に踏み込んでみる。そこには闇なのかなんなのか、何も見当たらない荒野があるだけ
それでも執拗に言語化し、わからないものがどうであったのかを描こうとする。

まるで太陽を曳く馬に出てくる抽象画のような、白々とした風景が広がる。

実態のないわからない存在であった、犯人の井上が、かなり高度な手紙を書き始めるのには、若干の違和感を覚えなくもない。これではかなりの知性の持ち主ではないか。
何も考えないヤンキーのそれではない。

あるいは死刑囚となった者は、みながこのような、なんらかの形で考えさせられる
文章を認めることができるようになるということなのか。

まだ、色々考えなくてはならない。
現代を言葉に表しているということなのか。
この混沌と無関心と感情あるいは刺激だけが前面に出てきている幼稚化した日本というものを。
分裂症でも精神錯乱でもない、そういうところに落とし込まないで、わからない世界をどこまで理解できたか。

合田はもはや刑事の領域を超えており、どこに向かうか。

2015年1月14日水曜日

高村薫 冷血(上)を読んで



気分だけで犯罪を犯してしまうような現代的な若者
そこに従来型の意味はなく、言葉もない。

それに対し警察組織は言葉を繰り返して意味を問い続ける。

この不毛にして平行線のままの対話に帰着するところはあるのか。
対話や言葉の重さを問うた、新リア王を思い出す、父と子による延々と続く対話を。


2013年8月16日金曜日

高村薫:太陽を曳く馬を読了はしたものの

読了とはいうものの、内容のほとんどは意味不明、理解不能
ひたすらに問い続ける小説。高村氏自信が問い続けること、その答えを求めるためには膨大な言葉を連ねるしかないということ。

仏教もしかり、オウムもしかり。その中での仏教論、認識論などなど
現代でそのような形而上的な問題を問う意味があるのか、ということに真っ向から反抗し立ち向かう。


2013年2月27日水曜日

高村薫:作家的時評集2000~2007

amazonのレビュウで「高村薫氏の評論だが字数が少なく、意味がない」みたいな評価があった。

最初読み進むうちは、否定的な意見だと思ったものの、後半に至り、確かに薄い文章の連続では、問題意識の提起で終わっており、これではいかがなものかと思ったことも確か。
しかし、「新リア王」を書いたのが、団塊の世代として次の世代に、その知識その他を継承できなかったこと、後の世代から、日本語というか考えるための言葉とか文章というものが失われてしまい、せめて作家の役目として、あるいは矜持として、多少難解な文章をしたためる必要があった、との意識は理解できる。

まさに私が「新リア王」の書評を、どう書いてよいかわからずながらも、彼女の文章の蓄積でしか表せない事柄があると考えたことは、的外れではなかった。
複雑なものを複雑なままに提示するとかいうこと。そのための文章。複雑な思考は複雑な文章でなくては表現できないということ。

世の中は、ともするとシンプルに分かりやすくと言われている。難しいことをやさしく解説することが、評価されもてはやされる。それは、一面で鮮やかであり、目の前のモヤモヤも晴らしてはくれるのだけど、それによって失われたものも多いということ。
こうかいて、いわゆる、これがアナログとデジタル世代の差なのかと思い至った。1と2の割り切りというほどに単純ではないが、いわゆるCDのサンプリングレート技術にしても、ある音域をカットすることによって失われた「何か」。とか。

彼女が極めて「政治」に傾倒していった様子もよく分かる文章であり、また当時の状況と現在の第二次安倍内閣の勢いを見るにつけ、あの当時と今で一体何が変わっているのか、安倍氏は本当に信頼するに足りる人材に変わったのか、考えざるを得ない。彼女が問題視していた憲法、原発問題にしてもだ。

日本の状況は相変わらず好転はしていないし、その根本原因は経済よりも政治にあり、その政治の原因を作っているのは、ほかならぬ国民なのではないか、との思いも強くする。
彼女が、小泉内閣の郵政解散の後の選挙結果を見て「自分が少数派であることを知った」との認識は、共感するとかいう以上に、彼女を支持する者として複雑な思いである。
-------------
政治とは複雑なものであるのに、それを単純なワンフレーズ政治、簡単なキャッチ、劇場型にしたのは小泉首相であったかもしれないが、それを望んでいたのは国民であったともいえる。テレビがどんどん低俗化していき、視聴者の反応までを先取りするかのようなテロップが流れる番組が増えたのも、それを見る視聴者のレベルが下がっているからか。あるいは、どちらも国民や視聴者を蔑視したりレベルが低いとしている目線から生まれたのか。どちらであったにせよ、それが受容されている事実からは、国民の知的レベルが低下していることは否定できない。高村氏が、あと数年すると、いまの文章さえ読めない若者が増えるのではないかという懸念は、おそらく正しい。ネットやTwitter、Facebookでのコミュニケーションは、そのような風潮を助長する方向にある。

このようなことを考える派が少数派であること。
たまに営業のマネごとをして、夜の街に繰り出してみれば、得意先も社員も、どうしてしまったのだろうという呆け方、享楽の仕方。歯止めが失われ、品性も品格の欠片さえも見いだせない。こんな世界で、この先生きていくのかということまでをも考えざるを得ない。





2009年9月2日水曜日

高村薫:新リア王

感想というよりは、この長大なる小説を理解せんとして、読みながら書いた備忘録のようなもの。まとまった文章にはなっていませんので、ご容赦ください。最後は(自分で言うのもなんですが)支離滅裂になっています。

『新リア王』を読み始める。

晴子と彰之の母子の物語であった「晴子情歌」続き、榮と彰之の父子物語となっている。叙事詩と言っていいほどに、語りが深く長い。政治家の一日にしても、曹洞宗の作法や教えについて、あるいは出家時代の話にしても、ここまで克明に語りつくすことが本当に必要なのか、何のために書いているのかという気になる。辛抱のない読者は最初の数十ページで投げ出してしまうかもしれない。小説の長さや改行のない文章について不平や苦痛を表明する人は多いようだ。瑣末的な事象、特に曹洞宗などに関する哲学問答に関する批判も多い。

しかし、本当にこの小説は「長すぎる」のか?  私は否と考える。それが高村氏の小説作法なのだろうと。瑣末な事柄を積み重ねることでしか見えてこないものがある。それは彼女の小説で一貫しているし、研ぎ澄まされることはあったとしても、緩むことはない。

彰之がこれ程の修行を通しても仏教的境地には達することができなかったという挫折感を書くためには、あえて冗長なる文章を連ねる必要があったか。あるいは、榮の永田町での一日も同様。政治家の一日とはどういうものか、政治家とは何を考え、どういう人種であるのかということを彫琢しようとするならば、克明な一人称的記述が適切との作家としての回答であったのだろう。

最初の数章の「くどさ」は皮膚感覚として強烈な印象的を残す。あえて瑣末という批判を覚悟で描ききった高村氏の筆力に私は脱帽する。何だか分からない力に押されて、とにかく読む進めるというのが、本書に対する読書作法か。高村氏は小説にミステリーどころか、ストーリーも求めてはいない。それを求めると裏切られることは『晴子情歌』で経験済みである。

政治とは、宗教とは

本書は1980年の衆参同時選挙の頃を舞台としている。保守崩壊を予測したと帯にあるが、奇しくも2009年8月30日の衆議院総選挙では、保守逆転、初めて自民党が政権野党に転落するか否かが焦点となっている。

本小説では、政治とは政治家とはいかなるものか、ということが書かれているように思われる。政治とは我々の生活そのものであるという前提であれば、我々の代表としての政治という段階で、政治はある団体の利益代表であることを意味する。政党をpartyすなわちpartということからも、政治は誰かの代表であり、誰かの代表ではない。

高村氏が青森を舞台に政治を書くことを当初から意図して『晴子情歌』を書いたわけではないことは本人のインタビューにより明らかにされている。それでも戦後政治を書くにあたって、辺境の地と書くと地元の方には失礼を承知だが、まさに適切であったといわざるを得ない。

上巻読了

高村氏はクリスチャンであるのに、なぜ宗教の中で仏教をテーマとしたか。初期の作品から私は「解放と救済」のテーマを読み取った。ドン底からの救済であったとしても、最後に他律的な解放であったとしたら、余りに小説的ロマンでしかなく、現実味がない、あるいは最終的な救済に安易さを感じたことも確か。

それがキリスト教的な救済であるということではないにしても、解放の果実を得るにはもっと厳しい道程があるのではないかと。そういう観点から、修行を通じて悟りにいたるという仏教がテーマとなったか?

クリスチャンといえば高村氏もクリスチャン。それなのに曹洞宗の教義について、あそこまで深く掘り下げて挑んだということに興味が尽きない。禅宗的形而上世界での悟りと埴谷雄高の認識論的なものと対峙させようなどというテーマは、私にはちょっと壮大に過ぎ、これまた手に負えないという感じ。日経新聞で評判が悪かったのもむべなるかな、朝の通勤途中に読むには重過ぎる。(もっとも、渡辺淳一の小説も、朝から読む小説とは思えなかったが、こちらは人気を博したことは記憶に留めておいてよい)

小説の主人公になっている団塊の世代と私らの世代では思想的背景において新人類は大きな隔たりがある。たとえば丸山にしても吉本にしても、あるいは埴谷にしても、学生時代の読むべきときに読まなかったことを深く後悔するばかり。ドストエフスキーとかシェークスピアだって読んだと言えるか、だ。

父と子の微に入り、細にわたる応答は、政治と宗教の現実、理想化されていない意味において、身体的ともいえる実態を語ってはいる。その可能性と限界。

例えば政治は人間の生活そのものだとして、政治家は理念と理想を語るが、地元民、選挙民は具体的な見返り「銭コ」を求める。目先の地域振興と経済だ。かつての保守政治は、地元利益還元の代表として機能した。一方で宗教は、人の精神活動の一端といえるか。しかし菩提発心して悟りを求める修行を行っていたとて、禅的悟りにはいたることのできない中途半端な彰之がいる。あるいは酒呑みのナマクラ坊主としての内和田和尚だ。聖というには余りにも俗。それでも俗人の先頭に立つためには、聖であらねばならぬ。

いやいや、政治と宗教の対立は上巻には見られない。榮は雲水としての彰之の考え方こそ追求するが、それはわが妾腹の息子が何者であるのかを確かめたいがため。異物か自分の後継者かと。一方の彰之は「縁薄い」関係のため「生き直す」として送行し、冷静かつ無垢なる目で政治の現実を語る。

この両者が交わるところはあるのか。改めて両者を考える。全く父子という関係も感情も持たなかった二人が、一方は権力と地位を極めた自民党保守の代議士として、一方は仏家(雲水)として対峙する。

上巻に描かれるのは1987年の永田町、そして1980年福澤が絶頂期。しかし、その絶頂期のときに足元に忍び寄る影を、互いに二人は確認している。榮は衆参同時選挙の大勝利により、一時的にその影を短くしたとしても、息子優から感じる世代の違い、違和感と不信を拭うことはできない。

一方で彰之の心情も全く不明なまま。なぜ東大卒業の後、北転船に乗り込むというような進路を、そして上陸のたびには寺に通い、ついには出家してしまうのかという経緯については語られることはない。しかも初江との間にもうけた秋道の存在がどう展開するのか。一方で、榮がなぜ国会から脱走してきて青森にまで来たのか。さらに、滞在を秘書にさえ伝えず、彰之との対話が完結しないため滞在をずるずると延期するという異常さ。その理由も上巻では語られることはない。しかし、互いに失意と挫折の中で、互いの心情を次第に吐露し始めているということだ。

上巻を読んだ段階で、いくつかの読者評を拾い読みしてみる。どれも隔靴掻痒、咀嚼もできず感想にさえなっていない。しかしその中でひとつの指標もないわけではない。

彰之が仏門に入った理由。仏門の目指すところは菩提心、すなわち自分を超え一切の因縁から解脱し仏教的悟りの境地に至ることであるとする。彰之が捨てたかった因縁とは、すなわち福澤家という血統、血縁、まさに血族、自らの出生であったか。その自分を自分として成り立たせているものから解脱=解放を試みるということ。

一方で、福澤家の因縁全てを背負った父榮は、その縁を最大限に利用して成功し、またその縁により裏切られる。個人の生き方の両極端を象徴する父子が、政治と宗教という枠組みの二重構造の中で対峙する。やはりそこに和解と理解はあるのか、あるいは対立のみか。彰之は現世の縁を生き直すことで再度それを捨てるという解放を得ることができたのか。

「政治家と僧侶。二人の対照的な父子が交わす対話から、戦後日本の転換点が見えてくる。」
そう、戦後政治の転換点ではない。戦後日本の転換点。秋道に対してこれが日本政治の結論かと嘆く榮。戦後日本が生み出したものが何であったかを問うているか。考えてみれば、団塊の世代の哲学論についても同様か。神なき後の理性による世界の認識とその敗北。確かに高村は「政治」というものを書いたが、政治の先にあるものは何か、それは日本のありようであり、すなわち日本人の生活と生き方そのものではないか。何を重視し、何を求めてきたかということ、それは極めて政治的な帰結であるといえる。簡単に「政治」というが、政治とは何かだ。

現代日本のありよう、精神的、政治的混沌と低迷は政治と宗教に因を求めるのか否か。

こうして上巻を読み終えて考えてみると、何も始まっていないし、何もまだ語られてはいない。そういう意味では、後半に「動」があるとするならば、まだその前哨でしかないのかもしれない。父子が一体どういう境遇にあって、いま二人は対峙するに至ったのかという。

進みが遅いといわれるかもしれないが、非常にスリリングな展開であるともいえる。上巻では二人の人物像が幾重にも語られてきた。今後、二人の言葉の中から、何が剥ぎ取られ、何が見えてくるのか。あるのは対立か理解か、あるいは絶対的な孤独か。

仏教、政治、対話ということ

高村氏は何ゆえに仏教をテーマとしたか。阪神淡路震災のあと漠然と次は仏教だとは思っていましたが、とくに宗派は考えていませんでしたと本人は語っています。キリスト教にではなく仏教をテーマを求めたことの真意は私には分かりません。彰之が我執からの解脱=悟りを目指したということは、我執、すなわち自らの福澤的なるものからの解放ということになりましょうか。

一方で、その福澤的なるものの代表であり、更には日本の戦後保守政治を代表として登場する榮。その榮が対峙するものは我執を捨てんとする彰之と、自らの政治人生を否定するかのごとき優という二人の異母兄弟であるという、75歳にして到達したこの絶対的な孤独。榮は彰之が理解できずお前は一体何者なのだと問い続ける。ああ、いったいに高村氏は何を下巻に書こうとしたか。

高村氏いわく。

私の世代は、何かを語ることは~書くことも同じですが~、自分が人間として生きている証なのです。彰之もそういう世代です。だから、あれだけの言葉が出る。

 言い換えれば、『新リア王』は80年代半ばだから成立する話です。2005年だったら成立しないですよ。父も語らないし、息子も語らないでしょう。


仏教の哲学

  • 実存主義は自我の上に成立した思想であるに比べ、仏教は無我の上に成立
  • 実存的に仏教を考えるとき、ニーチェやサルトルなど、いわゆる無神論的実存主義者たちの言う「仏教は現実からの逃避である」とか、「釈迦は人のことを心から思いやる情愛のない人であった」とかいう考え方
  • キリスト教的実存主義は神へ向けての主体性を唱うのですが、無神論的実存主義は存在の本質を問うのではなく、存在の虚無・不条理を乗り越える主体的な生き方を問う。実存主義者は量子論の現れる前の、唯物論や霊物二元論時代における認識「頭脳で認識する現象の、対象である物自体の世界は実体として存在する」という世界観から立ち上げられている
  • 「世界は主観的観念に過ぎない」という仏教思想と正反対に「世界は客観的に存在する」
  • 実存主義は自我の上に成立した思想であるに比べ、仏教は無我の上に成立
  • 埴谷雄高の「不同律の不快」とは。「不同律」とは論理学的な「同一律」すなわち、「A=Aである」ということだが、埴谷はそういう意味合いで使ったのではなく、「私が私ではないこと、すでに生まれたときから本質的なものが決定されていて、変れないこと」に対して「不快」であった。

下巻読了

仏教論争の印象が強かった上巻だが、後半は保田英夫の死に向かって物語りは収束していきます。最後の終結の場面は、あたかも探偵小説の謎解きの場面を彷彿とさせます。しかしながら、小説形式が最後まで「対話」に終始することは変らず。ひたすらに「語る」ということが意味を持っていた世代や時代の物語を書ききったということなのでしょうか。

榮は息子優の造反を裏切りととり、小説最後で自ら福澤王国を解体してみせます。その後に残ったのは、もはや孤独でしかなく。そのときに初めてか、彰之の仏道に入りきれない緒縁と彼の孤独を理解し、もしかするとこの4日間において、一番理解しあったのはこの二人であったのかもしれません。

政治的風景は、単なる世代交代ではなく。戦後政治の代表たる榮、リベラリズムを目指す優、微妙に立場を変える官僚のなど、80年代から日本が徐々に舵を取ってきたありようが、彼らの対話の中に凝縮されています。民主党政権が圧倒的な勝利を収めた今回(2009年8月)の衆議院選挙を待つまでもなく、高村は保守の崩壊を予測しました。現実世界では、ニューリベラリズムの崩壊としてではあるが。

知識不足から論理が破綻したので稿を改めよう。

リア王の悲劇として考えた場合、彼の生きた時代を考える必要がある。語られるのは1967年から1988年頃までの日本、中央政治と地方のそれ。1980年代前半の福澤王国の映画は、日本の政治もリバタリアニズム、改革の方向へと舵取りを始めた時期だ。

榮は利益再配分の戦後政治、田中型政治を体現してきた人物として描かれますが、2人の息子はその政治のあり方に造反する。3人が政治的対話を行っているシーンは、まるでドストエフスキーの小説のよう。微妙に立場の違う二人の息子を榮はついに理解できず。深い溝が残る。

戦いの結果は息子に軍配が上がるが、本当に勝利したのかはについては描かれない。息子の勝利により福澤王国どころか地方的な血族までもが崩壊するのは象徴的。日本の政治的風土が変革し、日本の戦後のいくつかあの神話が崩壊して行くのは本作品よりも後になる。

1980年代に宗教は明らかに死んでいたい。しかし別な形で宗教がまたは心の問題が取り上げられる時代を準備していたという点において、新リア王はまたしても次なる作品の序章でしかないことに気づかされる。新リア王は結論も解決も提示しない。一つの時代の崩壊を描ききったという点で、その小説の持つ内的世界は凄まじく大きく昏い。

全体として作品を眺めれば日本人としての方向性、それも戦後地方の貧しさから出発し、国民が同じ夢を見た時代から個人主義、ニヒリズム、ポストモダンと近代を否定し混迷の時代に突入するそのまさに転換期。 政治が変ったということは人間の心のありようも変ったということだ。

政治が人民を救済しえなくなったように、宗教も衆人どころか個人さえも救いはしない。 理念とか理想とかの共通認識が崩壊していいく。 本来的には共同や個をまとめるのが政治と宗教の役割であったとしたら、その双方が変質してしまった。

次なる時代に日本は阪神淡路のカタストロフを経験し、さらにオウムへとつながる。高村の関心は当然にそこに向かわざるを得ないだろう。

新リア~関連サイト

感想をまとめるに当たり参考にしたサイトを順不同で列記しておく。

2007年4月17日火曜日

[読書メモ]高村薫:晴子情歌


以下は、高村薫の「晴子情歌」(→感想はこちら)に興味のある人にしか面白くないと思います。


本小説は晴子という女性に軸を置いた「情歌」であるということを忘れてはならない。彼女の何と言うこともない、時代の中ではありふれた人生を、晴子の書く手紙という形で作者は丹念に救い上げている。その「書く」「掬い取る」という作業そのものに本小説の意味がある。掬い取る人生に対する慈しみといとおしみ。そして取るに足らない人生の何たる重さか。そして、そこに生きるということの本質がある。多様な読み取りと、汲んでも尽きぬ深みがある。

「書く」ということによって晴子は、自分の人生を刻み続ける。三十年以上に渡る夫婦の帰着が、夫に描かせた油絵、「青い庭」の中のたった3センチの自身の姿であったとしても。それは彼女自身の譲れない矜持であり、自己発見、自己確認、自己定着という痛ましいほどに些細ではあるが確かな作業であった。彼女は絵の中で福澤家に住み続け永遠の位置を得る。それが彼女の勝ち取ったもの。

彼女が手紙を通して刻み続けたのは「情歌」。すなわち、彼女の堰き止められた思い、彼女の「情」の歌、あるいは彼女の恋心でもある。彼女の抱いたささやかで実現されなかった、そして自分でさえ意識していたのかさえ知れない多くの思い。それらを彼女は息子に書き送った。「情」という火とともに。その息子こそ、この世で彼女の唯一の分身ではなかったか。

その息子は、これまた福澤家の男の特徴である「放浪する半身」を有した男、自分自身を特定、固定できない。女と平気で酷薄に別れ、そしてそれをまた客観視する半身。何をも信じられず、それでいて何かを信じたく、いつも皮膚をチリチリさせている。彼の苛立ち、所在の無さの原因は何か。彼の背負っているもの全てに対する苛立ちか、あるいは怨み? 高村小説共通の主人公キャラだ。

彼は母の手紙を読みなが母を捜し、自分を確認する。大学を出ながらにして漁業の道に進み、自分自身を捨てながら、実は母なる海に身を委ねて放浪している。彼が大学で専攻した烏賊の生態、生物学的特質を思い出そう。では彼は何者であったのか。

彼の最終的な結論がラストの数ページに凝縮される。確かに母の思いは生の歓喜と孤独の中で確かに伝わったか。

俺はひとりだ。母もひとりだ。------お母さん。

この膨大なる小説の中で、ただ一行。他の全ての箇所から、温度差を持って浮き上がる、このラストの一行。そこから彰之の第二章が始まるのか。

2007年4月16日月曜日

高村薫:晴子情歌


高村薫の「晴子情歌」をやっと読了、とてもではないが、安易な感想など私には歯が立たない。従って、以前書いた読書メモ(こことここ)の続きになりましょうか。

そもそも何と言う小説でありましょうかと読みながら呆然とし、決して面白い内容の本ではないものの、それでも読むことを断念はできない、そういった類のもの。しばらく中断して再び読み始めると、ああそうであったなと、漁船の中で母晴子からの手紙を読む彰之になる。そして晴子の実像を探そうとする自分。

ストーリを書いても仕方がありません。ここには昭和という大きな「時代」と、そこを生きた人間が確かに描かれています。しかし、それでいながら、晴子や彰之の、淳三や康夫の、人間に対する、どうしようもない興味のなさ。あるいは自分の人生に対する諦念や無関心は何なのかと。これは昭和人的な感覚ではないのではないかと思う点も否定できず。

筒木坂、土場、野辺地や魚場の船上での圧倒的な、そして高村的しつこさを備えたリアリズムに反して、主人公たちの所在のなさ。彼らは何を求めているのか。高村小説に共通の「ここでないどこか」を茫とあるいは無意識に希求し、自分さえも客観視し突き放しながら放浪する半身*1)に委ねるという有り様。あるいは爆発する水*2)か。ニヒリズムでもシニシズムでもない。晴子の天性の呑気さと、彰之の自分が何者であるのか分からないとでも言うような、皮膚がチリチリするような焦燥。そうだ、彰之は合田なんだと。

この小説の描いた世界は、あまりにも壮大で、私の拙い筆致ではその片鱗さえ掴むことができません。青森という片田舎で晴子の目を通した半生を描きながら、その周辺を轟音を上げて動いている政治と世界。それの息吹を語らせることはあっても、それはまだ「晴子情歌」のテーマにはならない。すなわち本作品は「新・リア王」に至る、壮大なる序章であるのだと。市井の人間や生活と、時代を動かした政治との対比。関係と無関係。夫婦、家族、そして人間模様。時代は動いても、野辺地の土間の空気がしんとして動かないように、変わらない世界がある。それが昭和という時代であったのか。

それを書きたいがために、そして彰之という男が何を求め掴むのかを書きたいがために、高村氏は筆を取り続けるのか。

しかしそれは、「晴子情歌」後のテーマです。この小説はその題名にもあるとおり、「晴子」の「情歌」です。晴子が何ゆえに息子にこんなに膨大な手紙を送り続けたのか、という点に対しての言及こそ、おそらくは成されなければならないでしょう。この点も今は保留です(→少し書いた)。

この壮大な小説は、系図を見ながら読むのに限ります。私は読み終わって、下のサイトに詳細な系図があるのを知りました。また過去拙レビュ参照用に高村薫インデックスを作っておきました。

◇

  1. 伊藤静雄の「晴れた日に」の一節。(「From 2005.04 Roomazi dokusyo nikki」→http://kens-bar.blogzine.jp/200504/2007/01/post_b297.html 参照)
  2. 谷川雁の詩の一節。どちらも、作品テーマに関わる重要なタームであると思うが、今は語る言葉なし。

2007年1月23日火曜日

[読書メモ]高村薫:晴子情歌(上)


それにしても「晴子情歌」は読みにくく。大体において、左様に文才のある女性=母親というものが存在するということが虚構か。母と息子の希薄さと濃密さ、二人の関係はどこに向かうのか、互いに何を求めているのか。高村の作為を感じるが、それでも読むことを止めることはできない。

だらだらと綴られる手紙は、世間の動きと隔絶されたかのような青森や北海道を舞台とすることで、対極的に隠された世界を炙り出す。生活と政治ということ。それは生きる意味ということでさえないかも知れない。

2007年1月16日火曜日

[読書メモ]高村薫:晴子情歌(上)


小説から漂ってくる時代の雰囲気や空気というもの。晴子の手紙や富子の写真を通して見えるもの。時代の動きや政治と思想、若者たちの言動。晴子の手紙から一歩離れたところに存在する「世界」

市政の庶民でしかない主人公の、歴史の動きの中では何と言うことはない人生と、実は彼女たちのフレームを規定している政治的なもの。パラレルな世界で交わらない。高村が次作として「新リア王」を書くことになる動機、あるいは前奏曲。

「純文学」と「エンタテイメント」。エンタテの要素を剥ぎ取ることにより漂うものの、古典文学の持ちえた壮大な物語の復原。?

2004年1月4日日曜日

高村薫:照柿


「照柿」。"てりがき"と読むのだそうだ。高村氏の小説の中では、一般的にあまり人気がないようだ。内容が暗く、そして重いとのこと。高村氏の小説を読み難いという人は多いが、この小説はその最たるものらしい。

しかし、私の中では、この小説の持つ意味は大きい。ベストセラーとなった「レディ・ジョーカー」も凄まじい小説であったとは思うが、もしかするとこちらの小説のほうが、純度と内容が濃いのではと思わせるものがある。現代の「罪と罰」と帯にはある。成る程、そういう見方もあるのかと。付け加えるならば、間違ってもこの小説は「ミステリー」ではない。


舞台は東京と大阪。8月の狂いそうになる暑さの夏。合田雄一郎(「マーククスの山」や「レディ・ジョーカー」でお馴染みの)は、たまたま乗り合わせた電車の人身事故(飛び込み自殺)に遭遇する。そして、そこで一瞬出会った美保子に一目惚れしてしまうところから話は始まる。

高村氏が女性を、しかも「男女の愛情」を書くというのも珍しいが、彼女が書くとこういう小説になってしまうのかと、私は愕然としてしまった。18年振りに会った旧友の達夫が、なぜ殺人を犯すこととなるのかというもうひとつ大きな軸もあるのだが、私にはこの小説は「解体」の物語と読めてならない。

何の解体か、言わずもがな「合田雄一郎」の解体だ。その意味から、小説の中の二つの轢死事件は、肉体の解体と死滅が、合田自身の精神的解体の物語の暗喩となっているように思える。熱心な高村小説あるいは合田ファンには、本小説で合田が「崩れていく」様を見るのがつら言うが、それは当たらない。むしろ辛いのは、そこまでに至る意志の厳しさだ。

「解体」とは、すべての内実を曝け出し、脱ぎ捨て、そして解体の後には、別の何ものかになることを示唆している。解体されたのは、合田だけではなく達夫もしかり、二人の間での激しい愛憎がスパークし、何者かに変わった(あるいは戻って何かを取り戻した)のかもしれない。自分をギリギリまで見据え、それでも自己を解放しさる軽々しさと重々しさ。高村氏の小説に一貫して共通するテーマ。

高村氏は、この小説の中で、ダンテの「神曲」のくだりを引き合いに出す。

「痛恨は悔悛の秘跡の始まりだから、喜べばいいんだ。突然魂を襲う意志こそ浄化の唯一の証拠だ……と言ったのはダンテの……」(加納)
「スタティウスが、ダンテとヴェルギリウスに言うんだ。煉獄の何番目かの岩廊で」(雄一郎)
「意志だよ、意志。すべては。」
「意志のお化けだもんな、あんたは」
(P.254)

��冷静に考えると、義兄弟でこんな会話をする二人こそ「お化け」に見えなくもないが)合田と達夫は「地獄」「煉獄」を経て「天国」を見ることができたのだろうか。ラスト491頁から最後までは、涙なくして読めない。そうくるだろうなと分かっていてもだ。

2003年10月17日金曜日

高村薫:レディ・ジョーカー



読み終わった後に静かに、そして深く震撼してしまった。この小説は高村作品の中でも、また日本の現代小説の中でも最高傑作のひとつなのではないかと思った。彼女は自分の作品について、ミステリーを書いているつもりはないと言っている。読んでみれば確かに小説の中で書かれるビール会社を相手にした企業テロは、江崎グリコ事件を題材にしてはいるが、ミステリーはひとつの素材でしかない。

最初に読み始めたときは、初期作品に認められた高村らしさが薄く、大衆性を得て変化したかと感じさせたものだ。ふと横井秀夫氏や貫井徳朗氏の小説のような雰囲気さえ感じた。

しかし読み進むにつれ、個人というものを阻害してできている組織社会、日本社会に縦横に張り巡らされた裏社会、どうにも変え様のない現実をしょった個々の人生などが、どこに焦点を当てるというわけでもなく、全てに無影燈のように等価に光を当て、しつこいほどの描写で綴られてゆくことに引き込まれてしまった。

何がテーマかということを考えるのをためらうほどに、込められた思いは複雑だ。ただひとつ言えるのは、この物語は、すべて日本と組織で働く、あるいは日本と組織から阻害された男たちの、自己清算あるいは自己解放の物語であるといえる。(女性はほとんど脇役以下なのも相変わらず高村小説である)

合田刑事が、半田との最終決着をつける前の場面、

合田はもう何年も味わうことのなかった深い解放感に満たされた。(中略)己の人生を、こうして全て放り出そうとしている解放感といっても、実態は身の丈相応の、その程度のものだった。(下巻 421頁)

毎日ビール副社長の倉田が社長の城山に、内部告発とその後の刑事被告の件を告げた場面で城山がひとりごちる、

時分と同じサラリーマン人生を歩んでいた男が、ここまで完璧に己の三十数年を捨てて新たな世界へ飛び出していけるものなのか。(中略)城山はその場は結局、まったく自分の頭を整理することができずに終わった。(下巻 323頁)

その城山が最終的に辿りついた境地は、

志半ばの無念や失意よりも、間もなく訪れる自由への手放しの渇望の方が、自分の中で確実に大きくなっていることに、城山は驚いていた。会社と決別してまったく新しい何者かになることが、長年背負い続けてきた肩書きや懸案をすべて下ろして裸に戻ることが、これほど心を躍らせ、沸かせるとは。まさに、この自由の悦びを味わうために、長年の会社生活があったのかと思うほどだった。(下巻 411頁)

自己清算あるいは自己解放ということは、己の中で燻るもうひとつの自分の解放でもあり、あるいはそれが「悪鬼」であったりもする。東北戸村出身の老人である物井の場合、自分の兄 清二が亡くなったときに感じたことは、

<人間なんてこの程度のものだ><これが明日のお前だ>といった自分の声が聞こえ、そのざわめきがやがて形もなくなると、代わりに降りてきた放心の隣で、物井は今度は<清二さん、仇を討ってやるぞ>という別の声を聞いた。(上巻 162頁)

生きることや働くことの意味、日々の仕事の中で忙殺され、つかの間の充足感を味わいながらも、一方でさらさらと広がる巨大な虚無と空洞を鋭く抉りながら、男たちのつまらなくも重い人生を書ききっている。そして、凡百の男たちには、いくらあがいても変えようのない巨大なシステムと不公正の存在。そんな憤りと燻りの中から、生と破壊への暴発を始める男たち。自己発見をできたり何者かに変わることができた者は幸せで、結局何を起こしても身の丈程度とうそぶくか、あるいは完全に自己を破滅させてしまうか、その差は何であったか。

そうだ、書きながら気づいた。『レディ・ジョーカー』も、高村小説が一貫して追及してきた「いまのどこにもない、もうひとつの自分」への物語なのだ。その意味では集大成とも言える小説に仕上がっている。

企業テロの詳細や、表社会と裏社会と政治の結びつきなど、ここでも背景となる組立ては緻密で高村の取材力には改めて関心するのだが、この点は割愛する。

物凄い小説ではあるが、一点だけ言えることはある。細部と人物の緻密な描写によって書かれた驚くべき現実感を有した小説であるが、これは高村理想郷に住むの男たちの物語ということだ。往年の少女マンガが絶対にありえないプロットで成立していたように、高村の小説もそれに似たところがある。

というのは、彼女の小説の男たちは、あまりにナイーブで誠実で潔癖で禁欲的すぎるのだ。倉田や城山のみならず、自らの命を絶った杉原や三好の自己清算の方法もそうだが、どこの世界に盗み取った20億もの金に執着しない男たちがいるというのか。どこに、激務に近い仕事の後にヴァイオリンを弾き、寝る前は台秤で150グラムと計ったウィスキーを飲み、グレン・グールド著作集第1巻『フーガの技法』か『商行為法講義』あるいは、『日経サイエンス』を読みながら寝るクリスチャンの刑事がいるというのか。どこにシモーヌ・ヴェーユを<無人島に持っていく十冊>にしたいと考えている新聞記者がいるというのか。いや、私の廻りには皆無なだけだけで、そういう人は、きっと沢山いるんだろう・・・な・・・・チェッ

2003年7月12日土曜日

高村薫:わが手に拳銃を


これは「李歐」のもととなった小説である。「李歐」を先に読んだのだが、本作も興味深く読むことができた。登場する人物などはほとんど「李歐」と同じなのだが、やはり作品としては全く別物であった。登場人物の設定や末路が若干異なっているし、主人公の一彰やリ・オウに与えられた性格も微妙に異なっていることに気づく。こちらでの二人は、もっと直接的で外発的なように見える。

「李歐」のなかで一彰は、ひたすら李歐を焦がれて待ちつづける男として書かれていたが、ここでは、暴力団の原口にも惹かれながら、それでも心の底でリ・オウを渇望し、かつ、自分の中での狂気と戦っているかのような姿として書かれている。一方、そのリ・オウも天性の明るさと才能は十分に発揮しているが、妖しいまでの魅力にまでは昇華しておらず、どことなく汗臭くオレ様王国を夢見る若者という殻をひきずっているようにも思えた。

こんなことをいちいち比較していても、しかし意味のないことだ。作品はモロに高村ワールドであるし、文句なく面白い。

五十発の銃声がいつまでも耳から離れず、目を閉じると網膜に血の色の花が散る。それがまた、身の毛のよだつ美しさだった。
この美しさに札束の夢と蒼白の月。
このリ・オウの晴朗な狂気。男ひとり狂うのに、これ以上何が要るか、と一彰は思った。

という描写は本書のラストだが、こんなにも痛快な終わり方があるだろうか。さすればこれは、男と男が惚れ合い、惹かれ合った深い恩義と友情の話でもあるし、男と男の心からの約束の話しでもあるし、そして、男が組織や家族や国家などのしがらみを脱ぎ捨て「自由人」として翔び出す話でもある。

それ故にといおうか、あまり捩れたところや屈折したところはなく、感情も行動もストレートなため分かりやすい。「李歐」では何もかもがはっきりしなかった背景が、こちらでは詳細に解説されているので、「李歐」を先に読んだ私は、謎解きをされているような気分になったものだ。

どちらが作品としてお奨めできるかというモノでもなさそうだ。それぞれが別で、読後に感じる感慨も全く別のものだからだ。ただ、「李歐」の方が深く感動してしまったことは確かだ。作品としては実は「わが手に拳銃を」のタッチの方が私は好きなのだが。

「わが手に~」を上梓していながら高村氏が改めて「李歐」を書こうとした意図を考えると興味はつきない。やはり、彼女は李歐という存在そのものを書き尽くしたかったのだろうと思う。「李歐」が高村氏の小説にして始めて、女性による小説という雰囲気を醸し出しているわけも納得できるというものだ。

2003年7月1日火曜日

高村薫:李歐


先に断っておくが、このレビュは本書をまだ読まれていない人を想定してはいない。つまり本書を推薦するような文章ではないのでご注意願いたく。

高村薫氏の小説を読むことにそろそろ飽きてきたか?と自問するならば、まだまだ、とことん毒を食らわば皿までもという心境になってきた。

この作品は1992年の「わが手に拳銃を」を下書きに新たに描き直したものとのこと。「わが手に~」は(このレビュを書く段階では)まだ読んでいないが、高村氏はここにきて遂に"恋愛小説"に手を染めてしまったかと苦笑いを禁じ得ない。この物語は結局は李歐という男に惚れた男の話でしかないし、機械や拳銃に対する偏愛的な描写も不必要なほど克明だ。彼女が書きたいものを制約を取り払って書き尽くしたという潔ささえ感じる。

"恋愛"とは言っても、彼女が繰り返して書いてきたテーマは"男と男の深いつながり"のことだ。それは"友情"という青さを残したものではないし、男女とのつながりとも決定的に違う、抗うことの出来ない熱情を感じるつながりだ。今までの作品で、それが描かれてはいても、男同士の関係性を包み込むドラマやストーリーが壮大で、そちらの方に主眼が置かれてきた。本書では高村的国際裏舞台は完全に背景にまで後退し、変わりに臆面もなく、そして全面的に"恋愛"が登場したというわけだ。

主人公は吉田一彰。自分が何物かわからず、地につながれた風船のように希望もなく漂っていたのだが、全てにおいて圧倒的で妖しいほどの魅力をもった殺し屋の李歐に出会い、惚れてしまう。桜の季節をうまく組み合わせたところは、作品に儚くも脆い夢のような雰囲気を与えるのに成功している。李歐のもつ妖しげで危険な匂いとともに、まるで妖術に陥るかのように読むものも李歐に惹かれてしまう。

後半になって李歐が単なる殺し屋ではなく、表の金融世界で成功者となってゆく点には違和感を覚えないでもない。李歐の持つ圧倒的パワーは認めるものの、彼のキャラクターと表での成功というのがなかなか結びつかない。また、数奇な運命を辿り、成功者となった李歐が、十数年も前のひと時に出会った一彰という"行きずりの"男を焦がれる理由も判然としない。"一目惚れ"による"両想い"の"恋"なのだから、理由などいらないと言えばそれまでなのだが。一彰にしても、登場早々に勤務先の麻薬中毒の上司をスパナで殴り倒し警察に突き出すという凶暴性や自己破壊願望が、李歐と出会ってからはひたすら真面目で大人しくなってしまう様も納得しがたいところだ。

しかし、まあ良い、全ては"恋愛小説"だと思えば、常軌を逸した関係も設定のおかしさも許容できるというものだ。一彰が最後に自分を解放したように、高村氏も自分自身をこの作品で解放したような気がする。男と男の関係が理想的過に過ぎること、男同士の体臭が少し薄れていること、読んでいて気恥ずかしくなる描写なども、高村氏がただただ、李歐を書きたかったというふうに考えれば承服できるものだ。

だから「リヴィエラを撃て」や「神の火」のような重い読後感はない、人間をえぐるような深さも薄いという感想も成り立とう。それでも文庫本403頁で李歐の幽霊が現れたところからラストまで、ほとんど出来レースのようなストーリー展開だと分かってはいても、高村氏には嵌められてしまう。一気に読ませ、単純な私は深く感動してしまう。

それにしても高村氏の描く男性は、なぜに冷徹で残酷な殺し屋が、かくも美しく知的であるのか。彼女が描いたモモや良、モーガンなど、皆テロリストとしての哀しい末路を辿ったが、ここで高村氏は李歐を殺すことをためらった、李歐と一彰には連れ子まで用意して第二の人生を与えた。今まで散々スパイやテロリストを小説の上で葬ってきたことを贖うかのような、あっぱれな結末だ。やはり高村氏は李歐に"惚れた"か。それ故に生ぬるさも残るのではあるが、こういう救いのある小説も破壊と破滅と神の啓示しか残らないような暗い小説と比べて悪くはないと思いなおしたりする。

一彰が真面目に働き誠実に振舞えば振舞うほど、自分自身の本心を隠蔽し、そしてその行為自体が不実を働いているという矛盾した姿は印象的だ。これは多くの高村氏の主人公が有する捩れた二重性だ。不実であることはいつかは破綻を来すものなのか、あるいは自己破壊に向かうのか。最後まで騙しおおせないのは他者ではなく自分の内実であるということを今回も高村氏は教えてはいる。それが犯罪行為としての破壊衝動へと突き進むほどには一彰は若くも無謀でもないのだが、逆に不確かな男(李歐)との約束を信じ、妻子を捨てたという点においては、自己破壊を突き進む者よりも更にたちの悪い不実を働いたことになったような気がしないでもない。ある意味において、一彰の視点は高村氏の視点そのものであるのかもしれないと思うのであった。

2003年6月20日金曜日

高村薫とシューマンとブラームス

シューマン:
 歌曲集「リーダークライス」作品39
 歌曲集「女の愛と生涯」作品42
 
エリザベート・シュワルツコップ ソプラノ
ジョフリー・パーソンズ ピアノ
1974年4月 ベルリン
EMI TOCE-59088(国内版)


 

ブラームス:
 ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品83
 4つのピアノ小品 作品119
 
アンネローゼ・シュミット ピアノ
ヘルベルト・ケーゲル 指揮
ドレスデン・フィルハーモニー管弦楽団
1979年9月10-13日 ドレスデン、ルカ教会(作品83)
1979年11月18-19日 日本コロムビア第1スタジオ(作品119)
DENON COCO-70536(CREST1000



小説家の高村氏はブラームスとシューマンがことのほか好きらしい。彼女が二人の作曲家に抱く思いについては「半眼訥訥」というエッセイ集の中で『ブラームス的造詣』『ブラームスとヴァイオリン』『シューマンという魔物』という形でまとめられている。これらの文章の初出はウィーン・フィルハーモニー日本公演のパンフレットである(それぞれ1995、1996、1997年)。

特にブラームスのくだりは、彼女の創作活動とブラームスのそれを重ね合わせて書いている点が興味深い。たとえばこうだ。

��ブラームスは)一つの音楽的直感を表現するときに、AとBのどちらが全体の構成の中で相応しいかを厳密に考えた人だったという気がする。ブラームスの作品を聴くとき、すべての部分と部分の間に強固な関係性が感じられるのはそのせいであろう(同書 230頁)
一方シューマンについては、シューマンの歌曲が幼い頃の心をとらえたとし、その音楽について

形式はあっても感性のたえまない奔流がそれを押し流していくような、(中略)さらに、叙情的に聞こえるものが実は、ほとんど魔物のような完成の確かな結実なのであって、そうした果実が次から次へと溢れ出してくるような、そういう空間(同書 242頁)
と書いている。

高村氏はシューマンの天才に憧れてはいるが、彼女の小説からシューマン的感性を感じ取ることは少ない。彼女の文章は、どちらかと言えばブラームス的であるかもしれない。

「リヴィエラを撃て」においては、シューマンの歌曲が効果的に使われている。高村氏は主人公のテロリストにリーダクライスの「異郷にて」を歌わせるのだが、それが小説の中で何とも物悲しいトーンを奏でている。小説での描写はこういう具合だ。

詩人が異郷の森に静めた諦観は、ジャックの語る階段の夢想に、どこか似てなくもなかった。《伝書鳩》は今やっと、ジャックがこの歌を歌い続ける理由を、自分なりに納得したように思った。(同書下巻142頁)
シューマンの歌曲には疎いので、早速右のシュワルツコップの盤で聴いてみた。異郷に住む孤独が哀しくも美し切々と唄われるのは何度聴いても胸に迫る。それにしてもシューマンの歌曲を口ずさむテロリストなど、いったい想像できるだろうか。


In der Fremde (異郷にて)

稲妻の赤くきらめく彼方、
故郷の方から、雲が流れてくる。
父も母も世を去って久しく
あそこではもう私を知るひともない。

私もまたいこいに入る、その静かな時が
ああ、なんとまぢかに迫っていることだろう、
美しい、人気のない森が私の頭上で葉ずれの音をさせ
ここでも私が忘れられる時が。

一方、同じ小説に登場するピアニストが、積年追ってきた人物の前で披露するのがブラームスのピアノ協奏曲第2番だ。この曲は1番とは違って明るさと光に満ちた力強い曲である。苦悩や深刻さを感じることは少ない曲だが、ブラームスらしい響きと陰影はやはり随所に聴くことができ、控えめながら内に秘められた激情を感じ取ることができる。小説においてピアニストがどのような思いでこの曲を弾いたのかを、作品を思い出しながら聴くのも一興ではある。

小説ではウィーン・フィルの演奏であったが右の盤は旧東独のアーティストからなる演奏である。

2003年6月19日木曜日

高村薫:リヴィエラを撃て(文庫版)




先に断っておくが、このレビュは本書をまだ読まれていない人を想定してはいない。つまり本書を推薦するような文章ではなく、私の高村氏の小説に対する雑多で稚拙な考えをまとめたものである。


高村薫氏の小説を読むことは、私にとって大いなる愉悦と快楽を伴う作業になってしまった。そして「リヴィエラを撃て」という壮大なるドラマを読み終えて、私は満足感とともに焦燥感を覚えるようになってしまった。何故ならば、読むべき高村氏の小説がまたひとつ減ってしまったからなのだが。

この小説は彼女が生まれて始めて書いた小説「リヴィエラ」をベースに全く新たに書きなおされたものらしい。またしても高村氏の全面改稿を経た作品である。高見浩氏の文庫本解説によれば初期の「リヴィエラ」は『プロットの核心は本書とはちがって、アイルランド紛争そのものにあった』とある。「神の火」でもそうだったが、初めに世に問うた作品とは別物であるというわけだ。

旧作がどのような内容であったかについても興味はつきないのだが、彼女の小説の醍醐味はプロットの骨太さ、ディティ-ルへの徹底したこだわり、人物描写の的確さと深さ、それらを土台としたストーリーの荒唐無稽さと展開の面白さ、そして必ず通奏低音として一貫して流れているテーマにあると思う。

この小説に限ったことではないが、高村氏の小説には細部を語り始めればきりがないほどの要素がちりばめられていることに気づく。例えば音楽だ。高村氏は(自分の意思であるかは別として)ピアニストを目指した時期があったらしい。それゆえクラシック音楽にも造詣が深く、特にブラームスとシューマンに傾倒していることは「半眼訥訥」でも述べていたことだ。

この小説では、IRA(アイルランド共和国暫定派)のテロリストであるジャック・モーガンが歌うシューマンのリーダークライスの一曲「In der Fremde (異郷にて)」が実に効果的に用いられている。また世界的なピアニストという役回りのノーマン・シンクレアが、因縁の東京公演で演奏するのがブラームスのピアノ協奏曲第二番変ロ長調であったりする。彼がこの曲を演奏するのは、下巻231頁からだが、曲の解説と共にシンクレアがどのような演奏をしたかということが、実に4頁にも渡って描写されている。それは決して冗長なものではなく、ストーリの重み付けとしてなくてはならない描写になっている点で極めて印象的だ。

このような描写を嫌う読者もいるかもしれない。例えば「黄金を抱いて翔べ」では関西電力の変電所の様子が延々と続く部分がある。あるいは「神の火」の原子力発電所に関する描写もしかりだ。はたまたロンドンや北アイルランドの首都ベスファルトの描写なども、驚くべき筆力で語られる。これらは、おそらく多くの読者には全く馴染みのないものだろう。専門用語やローカルな地名が容赦なくちりばめられた文章は、読みにくく本筋には関係ない、偏執的なこだわりであるとする感想もあるかもしれない。しかし、このような描写に支えられて高村氏の小説の特質とリアリティが生まれていると私は感じている。

他の小説でもそうだが、高村氏の小説のストーリーを思い出してもらいたい。ひとことで言ってしまえば銀行強盗の話であったり、原発テロとスパイの末路の話しであったりと、ほとんど実生活からかけ離れた破天荒な話しの連続である。そこに質感やリアリティーを持たせているのは、作品世界を取り巻く背景の緻密な組立てであったり、徹底した細部描写であったりすると思う。

作品を取り巻く背景については後述するとして、もうひとつ彼女の小説で重要かつ魅力的なのが登場人物であることに異論はないと思う。「リヴィエラを撃て」では登場人物の全てが印象的かつ魅力的であり、かつ謎に富んでいる。もはや誰もが主人公足り得る存在となっているのだ。逆に言えば、最初から最後まで登場している主人公が不在である小説でもある。それほどにまで多くの時が流れ、多くの人物が登場しては死んでゆくからだ。(長い年月とはいってもたかだか二十数年の話しなのだが)

最初の頁から最後の頁まで登場する人物として、イギリス人とのハーフであり、東大卒のエリートである警視庁外事一課の手島修三警視がいる。彼は一連の事件において最後に非常に重要な役割を果し、また作品に通低するテーマに触れる点でも欠かすことはできないにしても、物語が重層的に折り重なる部分では端役でしかない。一番のキーパーパーソンであるIRAのテロリストのジャック・F・モーガンさえ、小説での登場は既に死体であったし、回想の形で書かれた本編においても下巻160頁以降は登場しなくなる(下巻は409頁ある)。このどちらも主人公ではなく、このどちらも主人公なのだろう。

小説全体では脇役であるにも関らず強烈な色彩を放つの人物も多い。一見か弱そうでいながら女性としての強さを持った、ジャックの恋人のリーアンは、その名前のもつ寂しげな響きと共に忘れられない存在だ。彼女を庇護したCIA職員のサラ・ウォーカーはアウディを駆ける颯爽としたイメージとともに、卓越した女性像として記憶に残る。サラの恋人で、テロリストのジャックと重要な一時期を共有したCIA職員の《伝書鳩》、クールさを捨てずに、それでも最後は決然とした決意をもって事に望んだMI5のM・G、そしてその部下であるキム・バーキン(彼のことを思い出すと目頭と胸が熱くなるほどだ)などなど。ああ、ピアニストのノーマン・シンクレアと刎頚の友であるダーラム公爵も忘れてはいけなかった。

これらの多彩な人物ではあるが、実はジャックの思いが《伝書鳩》に感染し、そしてキム・バーキンを介在してジャックの置き土産とともに最終的には手島に引き継がれたと考えることもできるかもしれない。いずれにしても、書き始めるときりがない。つまりは、どの人物もおろそかではなく、感情移入できてしまうほどに魅力的なのだ。

そうは言うが高村氏の小説を読んでいると、人物がステロタイプではないのか、と思う方もいるかもしれない。「リヴィエラを撃て」「神の火」「黄金を抱いて翔べ」を比較して類似点を探すのは、そう難しい作業ではない。特に高村氏は、男女間の愛憎よりも男同士の友情を超えた愛憎によって結ばれた不可侵の関係というものに執着する傾向がある。そう書けばすぐに思い出すだろう、幸田とモモ、島田と良、島田と江口などなど。それでも私は何度読んでも飽きることがない。

何故高村氏が、男同士の関係に固執を示すのかは分からない。アブノーマルであるが故に、隠微さと深さを持っていることは確かだ。そして最初からそれは不幸と破局を内在した関係であるように思えるのだが、ここで高村氏のもうひとつ通低た点である、「心の中の空洞」とか「虚無」とか、あるいは「個人の中の矛盾」とか「ねじれた自己」ということを炙り出しているようにも思える。

そもそも高村氏は警察とともにスパイやテロリストが好きだ。この作品の背景においても、英米中日に渡る国際的な諜報活動と国家間の謀略というテーマは、小説の題材としては非常に卓越したものであるし、サスペンスを読むという楽しみを与えてくる。このテーマだけでも緻密な取材や積み重ねで得られたのだと想定され、彼女の小説をサスペンスとして分類するの至極妥当だとは思う。しかし彼女はサスペンスを書いているという意識よりも、最初にスパイやテロリストという存在そのものがテーマとしてあるのではないかと思うことがある。つまり、彼女の小説にはサスペンスの裏の流れがあるように思えるのだ。

そうすると、そもそもスパイとは何なのかと考えてしまう。ここで私は「マークスの山」を読んだときのことを思い出す。私にとってこれは高村氏を読む始めての作品であった。私はその中で、主人公の合田警部の中の自分を見る醒めた目の存在が気になっていた。そして、もうひとつ「マークス」と名乗る殺人者が、まさに自己の中にもうひとつの自己が存在する分裂気質の人物として書かれていたことも象徴的だ。あるいは「黄金を抱いて翔べ」の主人公の幸田は「ここではないどこか、人間のいない土地」を希求する虚無さを抱えた人物として書かれていたことも。

これは現在の自己を認めつつも、あるいは違った自分が存在するという自己の中での葛藤と矛盾を表明しているということだ。そういう意味において、スパイとは組織や体制を裏切ると同時に自己をも裏切っているという矛盾を内包した存在として意味があるように思える。自己の何を裏切っているのかはスパイによって異なるのではあるが。このような個人の中での矛盾やねじれた自己、そして抱え持つ心の中の空洞というものは、高村氏の小説の中で重要な役割を果す人物には必ず備えられた資質となっている。「リヴィエラを撃て」においては、テロリストのジャックしかり、ノーマンしかり、手島しかりである。あるいはその空洞に共鳴してしまった《伝書鳩》しかりと言うべきだろうか。更に自己の二重性を駄目押しするかのように、手島にはもうひとつ象徴的にハーフという生立ちが与えらるという念の入れようだ。他の作品では島田がハーフであったことを思い出しても良い。

自己の矛盾や空洞を埋めるために、何が起こったのか、それが事件を通して露になった男たちの情念であり、執拗なまでの死闘であったという気がする。そういう情念や死闘が悲壮感や暗さを持つのは当然のこととなる。そこに更に高村氏独特のキリスト教的宗教感(キリスト教を是認したものではないようだが)が薄いオブラートのようにかかるので、泥沼のような死闘がやがては純粋さを増して行くという、これまた大いなる矛盾をはらんだ結末へと向って行く。それだけに彼女の作品は、とてつもない重みを持って読者に襲いかかり、彼女の小説に独特の匂いを与えているように思えるのだ。

自己の矛盾を解決できた者は幸せだ。小説中では死をもってさえ救われなかった者も多い。MI5のキム・バーキンが死際に別れた妻の名を読んで息絶えるシーンは忘れることはできない。彼は殺される直前まで、彼が現在心から愛しいと思っている別の女性に電話をしていたのにも関らず、元の妻の名を読んでしまう。

「黄金を抱いて翔べ」の幸田はラストで死んでしまったのか、あるいは「神の火」の島田は最後にどこに流されたのか、そして「リヴィエラを撃て」においては、最後に手島が選択した半生は幸福なものとなるのか、それは読者の想像に委ねられているように思える。

本書においては、ほとんどの人間が無残にして無念の死を遂げているが、高村氏は最後には一点の希望を灯して本書を終えている。その希望とて北アイルランドのアルスターに降る雨のように決して暖かいものではないのだが、アイルランドの歴史が沁みこんだ大地のように、深い反逆の魂と純粋さを熱くともしているような気もする。

まだまだ書きたいこともあるが、だんだん何を書いているのか分からないような支離滅裂のレビュになってきたので、ここらへんでやめておこうと思う。さあ、シューマンとブラームスでも聴くかァ(笑)

  • 高村薫さんの本ブログの他の書き込みはこちら。

2003年6月4日水曜日

高村薫:半眼訥々


高村氏の雑文集である。テーマは時代性のことや自分の作品のこと、自分自身のこと、さらには音楽のこと(ブラームスとシューマン)などまさに「雑文集」であるのだが、高村氏を知る上では興味が尽きない。

この雑文集を読んでいると、彼女の書いてきた主人公は、ひょっとすると彼女自身の分身なのではないかと思えてくる。特に『神の火』の島田とか幸田など。俗世間にあまり染まっていない姿や、何か奥に秘めたところがある姿などに、高村氏自身の影を感じるのかもしれない。

「学校は地獄。勉強は不毛。ピアノは苦痛。友だちなし。希望なし。やりたいことなし。一人深い藪の中で紫のスミレを紫に見入って、何を考えていたのかは覚えていない」(「折々の花」P.267)

と小さい頃を回想する高村氏。スミレの向こう見据えていた物は確かに、水蒸気が雲を形成するように、もくもくと、捉えどころはないが小説という形にはなったのではなかろうかと思うのだが。

また高村氏の小説に対する想いも知ることが出来る。小説を書き始めたきっかけについては、彼女は会社勤めをしている間

「自宅のパソコンを使って時間潰しの文章を書き始めたのは、喉が渇いたから水を飲むような抑えられない欲求であった」

と書き、

「いったいわたくしが没頭したのは、書くという行為なのか、それともストーリーの中身なのか。やがて姿を現したのは、真摯な随筆でも私小説でもなく、荒唐無稽な拙いスパイ小説だった」(「折々の花」P.271)

と説明している。そのときに書いた小説はおそらく「リヴィエラを撃て」だと想うが、あのような小説が「時間潰し」で出来あがったとしたら、高村氏とはいったいどういう人物なのかと、謎は深まるのではあるが。

「会社勤めのOLが得意先への道すがら、行きずりの某都市銀行本店の前を歩きながら、この銀行を襲って金を取ったらスカッとするだろうなと思い立った」(「情報化時代と小説」P.194)ことが処女作『黄金を抱いて翔べ』になったと説明するが、読めば分かるがこの小説とてそんなに単純なものではない。確かに銀行強盗を企てた北川は、「やったるぜい」という気概に溢れているが、主人公の幸田とモモの関係など、「スカッと」するような感覚というよりも、鉛のような重さと夜に迷い込んだ小路のような陰影を作品に投げかけている。

あるいは改稿について彼女が語ることは、驚きにさえ満ちている。

「拙作『神の火』の文庫本用ゲラを、わたくしは他人として読み始め、数十ページで投げ出してしまった。文章の稚拙、構成の不備、人物造形の浅はかさといった表面的な拙さは多目に見ても、この作者が何を書こうとしているのか、どうしてもピンとこなかった」(「改稿について」P.222)

それを彼女は「小説の主題と構造が根本的に合致していない」(同P.223)と自己分析し、主題を変えて構造を残すということを選択し改稿するわけである。こうなったら、おそらくは単行本版と文庫本版は異母兄弟のようなものだ。あるいは全く別物といっても良いのかもしれない。これは参った、何故ならもう単行本版は古本屋にしかないだろうし、高村ファンは、それこそ血眼になって古本屋を徘徊しているだろうからだ。

さらにだ、『マークスの山』の主人公、合田雄一郎は「大阪弁を話す男」(「小説の言葉」P.293)として小説に登場していたというではないか。文庫本版では標準語を話す男であり、何かの拍子に大阪弁が飛び出しはするが、義兄弟の加納に大阪弁を話す合田も悪くないと茶化されるくらいだ。

このように強烈な自己批判と「自意識の塊のような」(「折々の花」P.273)高村氏は、小説の快楽、小説の力、そして小説とは何かということを考えつつ、作品を生み出しているのだ。高村薫はミステリー界の女王と呼ばれているらしいが、この雑文集を読んで、彼女の存在そのものがミステリーであるという想いを深くした。(40%くらいが引用になってしまったな・・・)

2003年6月3日火曜日

サイトで書くということ あるいは呟き

高村薫氏の「半眼訥訥」という本を読んでいてはっとした。
 
自分の気分を言葉で表現することで、とりあえず意見らしい体裁が整うのだが、客観的な比較検討や分析を加えられていないその正体は、以前として気分であり、個人の呟きの披見に過ぎない。そのことを、彼らが当分意識することはないだろうと思うのは、この社会と時代が、彼らの呟きとまったく同じありようをしているからだ。 「呟きの時代」(P.115)

これは、最近の携帯メールや掲示板でのありようを指摘したものだ。
 
以前、作家の村上龍氏が、違う文脈においてマスコミや日本のサイトを「日本語というものに守られて、国際競争や批判にさらされることのない環境」と指摘していたことを、さらに思い出した。
 
私がこうして、音楽や本の感想を綴るということも、高村氏に言わせるならば「呟き」の範囲を越えるものではないと、今さらながらにして思う。感情の赴くままに、個人的な考えだからと無防備にして無邪気な文章をしたため続ける、その行為はいったい何なのかと自問するに、これは感想という体裁をとった長大なる日誌に過ぎないのだと気づく。
 
自分で自分を納得させるために書くのということか。HPをベースにして発展的な話題を求めているわけでもなく、あたかも食べたものを吐き出すかのごとく、個人にしか意味のない文章を綴り続けているだけだ。
 
私のサイトに限らないが、そういうサイトは多い。特に日記サイトは(それが日本だけのものなのかは分からないが)、信じられないほどの数だ。中には小さなコミュニティを形成している幸せなサイトもあるが、関係ないものから眺めると、原始的にして局地的な小集団にしか見えないし、多くはムーブメントをつくるまでには至らない。私もそうだが、大きな集団などは求めていないのだから余計なお世話と言えばそれまでである。
 
意見らしきものを書くサイトにおいてさえ、仲間内にしか通じない話題に特化した時点で、それは表現や意見や主張などではなく「呟き」以外の何物でもないと思い知らされる。「呟き」は個人を慰め、浄化しはするが「他人の分析や評価に耐えない、稚拙な呟き」(同書 P.116)にそれ以上の意味は、おそらくない。思うに電子空間とは畢竟、精神空間の巨大な掃き溜めのようなものか。

2003年6月2日月曜日

高村薫:地を這う虫

高村氏の小説には、女性が出てこない、いや出てきたとしても重要な役割は与えられない。同様に若者たちも出てこない、いや、こちらも出ては来るのだが、今時の茶髪にピアスの若者ではない。例えば「神の火」では、暗い目をしてハンス・カロッサとかチェーザレ・パヴェーゼなど読む言葉少なげな若者だったりする。

とどのつまり、高村氏の小説の主人公は、おおむね中年男性ということだ。この小説集の主人公は、警察を何らかの理由で辞めた者たちである。彼らが第二の人生で過ごしている姿が書かれている。中年男性とは言っても、夜の歓楽街で憂さを晴らしているような男たち、欲望を制御できないでいるようなナサケナイ大人たちを高村氏は書かない。この小説に限らないが、高村氏の小説の主人公たちは驚くほど冷静で、そしてどこか覚めており、かつ純粋で、そして不器用だ。

現実の自分をある程度客観視しながら、一方で今の自分を百パーセント充足したものとは認めることができず、それでも現実を生き続けることしか出来ない姿として書く。これを《矜持》と呼ぶのか。矜持とは誇りであると言っても良いかもしれない。「ただ自分自身の小さな思いを守るためだけに、一人で滑稽な立ち回りを演じてきた男」(「地を這う虫」P.225) そういう男たちだ。そうした主人公たちの姿に感情移入してしまう。このような設定は、高村氏のファンをある読者層に限ってしまうのではないかとは思うのだが。

「政治と司直の両勢力が引き合っているうちが花で、一旦バランスが崩れたが最後、自分は両手をなくすことになる」(「父が来た道」P.144)と小さなスパイ行為を行う男は考える。自分が精一杯に生きているその場さえ、相対的で危ういもの、もしかすると明日になると霧のごとく消え去る立場かもしれないという認識。これは「神の火」の島田たちの認識にも共通している。二重スパイが存在意義をもつ世界と、存在意義を全く失う世界、あるいは自分がカードになる時間と、まったく意味を失う時間。それらは、個人の努力や意思を超えたところで動いているという非情さと悲哀、そういう立場に居ながらも、何かを必至に守るために筋を通して行く姿。

ある程度の年齢を過ぎた中年の男たちにの中には、彼らの少し屈折した二重の姿に、どこか自分を重ねてしまうものもいるかもしれない。こういう男たちを極限にまで書いたら「神の火」に行き付いてしまう。しかし、ここの短編集の男たちには、まだ救いが残されているようだ。

高村氏の小説には「自分とは何者なのか」という問いが常に投げかけられている点において、重く深い。

2003年6月1日日曜日

高村薫:神の火(文庫版)



いったい、彼らは、ドラマの終わりまでに何本のウォッカを空けたのだろう。ウォッカという酒は、どこか他を寄せ付けない厳しさと純粋さを持っている酒だと思う。辛口であり、かつ強いスピリッツだ。冷凍庫に入れてボトルに霜がつくほどに冷やしておくと、グラスに注いだときにトロリと粘度を帯び、一くち含むだけで、芳醇なる甘さと清涼感、そして妬けつくような香りを感じることができる。当然、水で割ったりしない。

しかし、何本ウォッカを空けたところで、小説の主人公たちの空虚さは満たされることはない。ウォッカなどで満たされるわけがないほどの空虚さとは、いったい何なのか。

物語は、島田というスパイを中心にした男たちの物語だ。彼らの抱えた過去について、あるいは、なぜ彼らがスパイあるいは二重スパイにならなくてはならなかったのか、そういうところは、全く描かれていない。最初から彼らはそういう存在として登場し過去を多く語らない。高村氏の小説のこういうところを、不満に想う読者もいるようだが、私は気にならない。過去を語れば現在が見えてくるほど単純なものではなかろうと想うからだ。

スパイを演じることの悲哀は、主人公島田の姿を追っていると、痛々しいまでに重くそしてつらい。

一部分だけの裏切りというのはあり得ないんだよ。妻を愛しているスパイ、親を慈しむスパイ、親友を持っているスパイ。そんなものは言葉の正しい意味で、あり得ないのだ

とは江口が島田に語った言葉だ。島田が最後に元同僚のベティさんと対峙するシーンは痛々しさを通り越している。

また、CIA、KGB、《北》、日本の政府・・・入り乱れての駆け引きからは、日本の政治の生々しい実像や、国家と言うものの危うさ露呈させれてくる。こんな着想を、高村氏はどこから得たというのだろうか。

あるいは、これは男たちの愛の物語でもある。いかにも高村氏のテーマだ。友情なのではない。例えば島田と良(パーヴェル)、島田と島田をスパイに仕立て上げた二重スパイの江口、島田と屈折した幼なじみの日野、島田と島田をスパイとして育てたヴォリス・・・。これらの島田を中心とした男たちは、巨大な虚構と虚無を抱えながら、何かを守るために策謀し、世間からはずれたギリギリのところで己を生きている。彼らの間にあるのは、狂おしいまでの男の愛憎の感情だ。なぜに、島田が良を、そこまで想うようになったのか、そのわけは一度読みとおしただけでは、見えてこなかった。おそらくは、彼の空虚さに嵌まり込んでしまったのだろうか。

この作品も文庫本化に当たり、大幅に改稿されてしまっている。単行本作品において、彼らの関係がどのように書かれていたのか、興味はつきない。というのも、男たちの愛憎というものが、原作ではもっと生々しく書かれていたのではなかろうか、と思ってしまうからなのだが。

あるいは、これは、男たちの、止むに止まれぬ精算の物語でもある。それが自分の不実の過去なのか、男としての頑固な思いこみなのか、埋めることのできない空洞の故なのか、単純な破壊衝動なのか、または社会の脆弱性に対する反抗なのか、愛への証なのか。そのどれと特定することはできない。しかし、もはや理由も問えず、しかも止めることもできない感情の奔流は、おそるべきカタストロフとしてのクライマックスと、救いのない破滅のラストに向って行く。

こういう小説を「エンターテイメント」とか「スパイ小説」と読んで良いのだろうか。果して、この作品は、先の「黄金を抱いて翔べ」との類似点が非常に多い。ほとんど設定は同じではないかと思う部分も多い。しかし、「黄金を抱いて跳べ」の方がまだ軽く、そして救いがあった。「神の火」を読み終わった後の感想は、虚しさとそして開放感による安堵が支配する、何もない世界だった。こんな哀しさはめったにあるものではない。

彼女の小説が、熱烈なる人気があるわけが、本小説を読んで分かった気がする。細部が凄い、全体のプロットが面白い、そして人間たちが魅力的だ。ひとりひとりの顔や姿が目に浮かぶようだ。マニアックにこの小説を語り始めれば、一行一行を追いながらウォッカの瓶を傾けなくてはならないだろう。物語の意味を問い始めれば、深夜からじっくりと読み据えなくてはならない。そういう意味からは、まさにエンターテイメントの極致である。

レビュを書いたが、語ろうとしても語りたいことの十分の一も語れなかった。何かの機会に反芻したい。

2003年5月14日水曜日

高村薫:黄金を抱いて翔べ(文庫版)


こめかみのあたりがチリチリする。けだるく熱い空気があたりを漂う。汗とドブと血と火薬の匂いが充満して、今にも爆発寸前の男たち。

まいったなあ、高村薫の小説にはというのが本音。小説評には圧倒的な迫力と正確無比なディテルとあるけれどそんなことどうだっていい。ここに書かれているのは、男たちのがむしゃらさと、命を掛けてまで自分を追い込まないと生きていけない、ギリギリの人生だ。

端的に言ってしまえば、銀行泥棒の話しだ。ラストに向けてのプロット造りや迫真性は、かつてないほどの描写ではあるけれど、それはドラマ仕立て、書割の背景でしかないように思える。彼らが何故、銀行強盗を行おうとしたのか、銀行強盗を行った後にどんな人生を夢見ていたのか、そんなことは一切小説では言及していない。最初から「銀行強盗」それも福沢諭吉だったら、やる気はない。金塊だから、やるのさ(16頁)なのだ。最初に強盗ありきなのだ。

その強盗を何故行わなくてはならないのかは自明のことで、男たちは犯罪を犯すこと1点のために結束し、集中し、揺らぎながらも鉄のような意思のもとに決行してゆく。強盗に至る過程と主人公たちの自身と、心理の動きにこそドラマがあり、おそらく映画化したならば一番のクライマックスであろう派手な手に汗握るラストは、サッカーで言えば最期のシュートシーンでしかない。(サッカーのシュートシーンこそ重要だというならば話しは別だが)

何故に男たちは、自分を追い詰めたような人生を、必至に生きなくてはならないのだろう。何故にもっと気楽に生きないのか。そもそも彼らは何のために生きていたのか。

例えばモモ。…あんな男を殺してまで、生きる意味はないと思った。……それだけだ。(161頁)。何と冷めた自己認識であることか。そして幸田だ、生きるための仕事には、憎悪がなければならない(21頁)殺してやる……。《人間のいない土地》の次ぎに口癖だった言葉を、幸田はまた、腕の中でささやいた(154頁) 北川も、野田も、春樹も似たり寄ったりだ。自分の中で抑えきれない衝動願望を抑えている、爆発寸前のダイナマイトだ。

そんな男たちに世間並の幸福など訪れるわけはない。破滅に向ってひた走るというのとも違う、逆に破滅から逃れるために、今の自分を超えるために、爆薬庫の中に突っ込んで行く。

こういう小説は、たまらない。どことなくジョン・ウーの映画の世界を思わせる。こんな硬派な小説を書く作家が日本に居たのか。それも女性がこんな世界観を書ききるのか。ラストに少しの救いと甘さを残すところは「マークスの山」と同じだが、それがなかったら、本当に救いのない人生だものな。