高村薫の「晴子情歌」をやっと読了、とてもではないが、安易な感想など私には歯が立たない。従って、以前書いた読書メモ(こことここ)の続きになりましょうか。
そもそも何と言う小説でありましょうかと読みながら呆然とし、決して面白い内容の本ではないものの、それでも読むことを断念はできない、そういった類のもの。しばらく中断して再び読み始めると、ああそうであったなと、漁船の中で母晴子からの手紙を読む彰之になる。そして晴子の実像を探そうとする自分。
ストーリを書いても仕方がありません。ここには昭和という大きな「時代」と、そこを生きた人間が確かに描かれています。しかし、それでいながら、晴子や彰之の、淳三や康夫の、人間に対する、どうしようもない興味のなさ。あるいは自分の人生に対する諦念や無関心は何なのかと。これは昭和人的な感覚ではないのではないかと思う点も否定できず。
筒木坂、土場、野辺地や魚場の船上での圧倒的な、そして高村的しつこさを備えたリアリズムに反して、主人公たちの所在のなさ。彼らは何を求めているのか。高村小説に共通の「ここでないどこか」を茫とあるいは無意識に希求し、自分さえも客観視し突き放しながら放浪する半身*1)に委ねるという有り様。あるいは爆発する水*2)か。ニヒリズムでもシニシズムでもない。晴子の天性の呑気さと、彰之の自分が何者であるのか分からないとでも言うような、皮膚がチリチリするような焦燥。そうだ、彰之は合田なんだと。
この小説の描いた世界は、あまりにも壮大で、私の拙い筆致ではその片鱗さえ掴むことができません。青森という片田舎で晴子の目を通した半生を描きながら、その周辺を轟音を上げて動いている政治と世界。それの息吹を語らせることはあっても、それはまだ「晴子情歌」のテーマにはならない。すなわち本作品は「新・リア王」に至る、壮大なる序章であるのだと。市井の人間や生活と、時代を動かした政治との対比。関係と無関係。夫婦、家族、そして人間模様。時代は動いても、野辺地の土間の空気がしんとして動かないように、変わらない世界がある。それが昭和という時代であったのか。
それを書きたいがために、そして彰之という男が何を求め掴むのかを書きたいがために、高村氏は筆を取り続けるのか。
しかしそれは、「晴子情歌」後のテーマです。この小説はその題名にもあるとおり、「晴子」の「情歌」です。晴子が何ゆえに息子にこんなに膨大な手紙を送り続けたのか、という点に対しての言及こそ、おそらくは成されなければならないでしょう。この点も今は保留です(→少し書いた)。
この壮大な小説は、系図を見ながら読むのに限ります。私は読み終わって、下のサイトに詳細な系図があるのを知りました。また過去拙レビュ参照用に高村薫インデックスを作っておきました。
- 高村薫ファンページ:月夜堂より、「晴子情歌」-「新リア王」 家系図
- Clala::高村薫インデックス。間違いなく私は、高村氏が現代日本における最高水準の小説家であると思う。彼女は最初からミステリなど書いてはいません。書いたらたまたまミステリになってしまっていただけなのです。
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- 伊藤静雄の「晴れた日に」の一節。(「From 2005.04 Roomazi dokusyo nikki」→http://kens-bar.blogzine.jp/200504/2007/01/post_b297.html 参照)
- 谷川雁の詩の一節。どちらも、作品テーマに関わる重要なタームであると思うが、今は語る言葉なし。
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