2001年5月22日火曜日

【シベリウスの交響曲を聴く】 バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルによる交響曲第2番

指揮:レナード・バーンスタイン 演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 録音:Oct 1986 DG (国内版)
この演奏を聴くと、今まで聴いてきたシベリウスと同じ音楽なのだろかと思わず耳を疑ってしまう。晩年のバーンスタインは、以前に感想を書いたチャイコフスキーの「悲愴」でもそうであったようにテンポが極端に遅い演奏があるようだ。それがあらかじめ分かっていて聴いてもなお、バーンスタインの求めた音楽の独自性にはただ驚くばかりだ。
全曲を通した印象としては、フィンランドの独立とか国家的な高揚などという一地方の問題よりも、作曲家の持つ苦悩や不安、そして、それを克服してゆきひとつの境地に達するかのような人間的なドラマを感じる。しかし、それではベートーベンやチャイコフスキーあるいはマーラーの交響曲が表現したことのシベリウス的解釈というだけなのか?という疑念が湧いこないでもない。さらに加え得るにだ、音楽は重厚、豊穣にして多弁であり、ある意味「シベリウス的」とは遠い世界だと思わせるのだ。
例えば第一楽章、遅いテンポで悠々と歌われ、弦の音色は時に優しく甘美であり、それ自体が「死」を内包しているかのような音に聴こえてしまう。
第二楽章の遅さは更に顕著であり、「死の客」との対話というよりも内面の吐露か深い懐古に聴こえてくる。光は見えず諦念の声さえ聴こえる様は、あたかも「悲愴交響曲」を思い出させる。ため息をつくようなゲネラル・パウゼには万感の思いがこもる。立ち現れる第二主題は永遠に女性的なるものの姿なのか(ちょと偏見に満ちすぎている気もするが・・)、暖かな衣に包まれるような安らぎと安堵を覚える。この楽章からは人間の矮小さを感じ壮大なる宇宙の前にひれ伏してしまうかのようだ。
第四楽章も非常に感動的な楽章で、今までのモヤモヤや悩みを乗り越え、光と歓喜に満ち溢れた世界に至り、全身で至福を受けるかの様だ。最後のコーダなど、大伽藍の中に高らかに鐘の音までが聴こえてくるような気にまでなってしまう。圧倒的とも言って良い。
「シベリウス的」とはどういうことであろうか。シベリウスという作曲家は、多弁とは逆方向を指向してゆく音楽家というイメージがある。1907年秋にシベリウスはマーラーと会う機会があり、お互いの交響曲感について話した件は有名であろう。シベリウスは「形式的な厳密さ、全ての動機の間の内的な関連を作り出す深遠な論理を好む」と言い、マーラーは「交響曲は世界(宇宙的)でなくてはならない。あらゆる要素が包摂されていなければならない」と答えたという。
このようなシベリウスの見解は第二交響曲の時点においても、彼の特質として有しているものなのではないかと思うのだ。音楽的に表現した世界が同一であったとしても、マーラーとは正反対の音楽を目指したと思われるシベリウスに対し、この演奏は逆のベクトルを持った演奏であると感じるのである。
ただなのだ、そうであっても大いなる感動を覚えるのは禁じることができない。バーンスタインが思いのたけをぶち込んだ、全力投球の演奏だと思うのである。この演奏を好むかと問われれば、私は迷わずにYESと答えるだろう。それは、とりもなおさず、晩年のバーンスタインが好きか嫌いかという試金石とも言えるほどの演奏かもしれない。この際、シベリウスの本質などは関係ないのだ、唯一あるのは、他者では得られない音楽的な感動だけである。そういう感動を得たければ、マーラーを聴けばいいじゃないかなどと無粋なことを言ってはいけない。

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