私的なLife Log、ネット上での備忘録、記憶と思考の断片をつなぐ作業として。自分を断捨離したときに最後に残るものは何か。|クラシック音楽|美術・アート|建築|登山|酒| 気になることをランダムに。
2001年5月14日月曜日
【シベリウスの交響曲を聴く】 コリン・デイヴィス指揮 ボストン響による交響曲第2番
指揮:サー・コリン・デイヴィス 演奏:ボストン交響楽団 録音:1976 PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
��番の感想で、デイヴィス盤を冴えない印象を受けたように書いてしまったが、2番を聴いた今となっては、全くもって撤回せねばならないと思わせる演奏だ。先入観などを極力排してこの曲と演奏に耳を澄ませると、シベリウスの表現しようとしていた音楽世界が眼前に立ち上がってくるのを感じることができるのだ。弦セクションや打楽器セクション、そして金管群のバランスも音も良く、またダイナミックレンジも広いため、十分にこの曲を楽しむことのできる演奏であると思う。
シベリウスの2番というのは彼の作品の中でも、フィンランディアやヴァイオリン協奏曲などと並んで人気のある曲だろう。実際、親しみやすくなじみやすいという印象を受けるし、終楽章で大きな感興を得ることも出来る。
この曲が「極めてシベリウス的」であるかどうかは、よく考えなくてはならない。確かに、4楽章の音楽からフィンランドの愛国的心情を感じ取ることもできるし、暗い部分(抵抗)から勝利のフィナーレというテーマでも聴くこともできる。しかし、シベリウス自身が我々が期待するような政治的標題性を否定しているがゆえに、本来は純粋に音楽的に観賞すべきなのかもしれない。デイヴィス/ボストン響の演奏で、この曲の世界に入ってみよう。
第一楽は冒頭の序奏から意味ありげなのだが、弦のユニゾンに適度の重厚感があり曲に対する期待が高まる。さわやかにして輝くような一日の朝の始まりを感じるようで、この交響曲で非常に好きな部分である。ここだけ聴いてもシベリウス的と思うのだが、それは、弦楽器と木管楽器の合わさったメロディに特徴的なせいなのだろうか。木管で奏される第一主題は鳥のさえずりのようでもあるし、雄大な第二主題は広々とした景観を前にしたときのような思いさえ受け、頬に風の匂いさえ感じるようだ。聴きようによっては第一楽章は情景描写的であり、移ろいゆく時間と風景を楽しむことができる。この部分だけ聴いていても、デイヴィス/ボストン響の演奏は明確であり、音楽が伝える世界をストレートに聴くものに伝えてくれているように感じる。
第二楽章は、一転して暗いファゴットによる第一主題で始まる。このテーマは弦のピチカートに乗って、ホルンの音色に彩られながら進行してゆくが、迫りくる不安を象徴するかのようであり性急さとともに盛り上がる。峻厳なる渓谷かなにかに突き落とされたかのような印象を受け得るが、一転した第二主題には救われる思いがする。この主題には懐の深さや、深い慈悲のようなものを感じる。続いて奏でられるトランペットとフルートの掛け合いは聴き所である。あたかも、崇高なるものとの深き対話を聞くようで、自ずと頭が下がる。しかし、感想を書いていて思うのだが、激しさとともに彼の曲には「峻厳さ」とも言うべキーワードがあるように思える。ここが彼のオーケストレーションの特徴なのだろうか。蛇足だが、この楽章を聴くと、チャイコフスキーの「マンフレッド交響曲」を思い出すのは私だけか。
第三楽章はスケルツォである。非常に早い弦の動きが、聴くものをどこかに連れ去らずには行かないようなエネルギーを感じるが、一転してオーボエの牧歌的とも言えるテーマが始まると過ぎ去った昔を思い出すかのような気にさせてくれる。幸せな時代の、干草と陽だまりの匂いがするような、そんな懐かしさだが、シベリウスはこの感傷は長引かせない。繰り返しはあるものの、冒頭のスケルツォの速い動きによりかき消され、留まることを許してはくれない。
緊張は徐々に高まり、そしてなんとも表現のしようのないような移行により感動の第四楽章へと突入する。この部分は何度聴いても素晴らしい。つれてゆかれた先の世界が何と希望と光に満ち溢れた世界であることか。弦の第一主題は平和を獲得した喜びの声のようにも聴こえるし、トランペットの勇壮なる応答は、勝利の雄たけびのようにも聴こえる。
木管による第二主題はいろいろに変形されて繰り返し奏されるが、なんとも切ないメロディである。このメロディを聴くだけで泣けてくるのだが、それは、非常に多くの感情がこの旋律に込められているからなのかもしれない。世間的なシベリウスのイメージにらぶらせるならば、圧迫への抵抗や哀しみ、そして限りなき平和を願う声などと言うことも可能だろうが、若干の抵抗を感じずにはいられない。この曲が発表されたときに、指揮者カヤヌスなどが愛国的な心情の代弁と受け止めたのもむべなるかなとは思うのだが、デイヴィスの演奏では、それが普遍的な感情にまで高められているようにも思える。惜しいかなフィナーレでは金管群が少し崩壊している部分もあるが、これだけの高まりと感動を与えてくれる演奏である、大きな問題ではない。
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