指揮:サー・コリン・デイヴィス
演奏:ボストン交響楽団
録音:1975
PHILIPS 446 157-2 (輸入版)
コリン・デイヴィス&ボストン響のシベリウスといえば、それなりの名盤なのではないかと思う。名曲名盤300選とかでも上位に挙げられる演奏であろう。今回の特集を行うに当たり、当初はデイヴィス盤をベースにしようとも思っていたのだが、やはり「正統派」のベルグルンドとの比較がなくてはと思い、まずは、彼の旧盤を聴きそして、デイヴィスを聴いてみたのだが、何たる違いか!と驚いてしまった。同じ曲を演奏しているとは到底思えないほどの差異があるのだ。
デイヴィス盤とて、先に書いたように名盤である。しかし聴く前に先入観や偏見が入ってしまうのだろうか? ベルグルンドから聴こえた涼しげにして冷ややかな空気は、デイヴィス盤からは感じないのだ。また、ベルグルンド&ボーンマス響盤よりも、ロマンティシズムに傾いていた演奏のように感じられる。
例えば、アッチェレランドの掛け方や、逆に旋律を劇的に盛り上げるためのリタルダンドのかけかた、はたまた強弱の付け方も大きく、それ故オーケストラは壮大にして華麗になっている。美しい旋律はあくまでも美しく、甘い旋律はひたすら甘い。ソロの部分は協奏曲のように処理されているように感じるし、オーケストラの個々の音も非常に明確である。そういう意味からは、非常に説得力をもった演奏と言えるのかもしれない。
しかしなのだ、全体を通してシベリウス的な匂いがないのだ。ベルグルンドが表現していたフィンランドの息吹、息遣いが聴こえない。例えば第1楽章にしても、ベルグルンドではものの数分も経たぬうちに、これがシベリウスの記念碑的な第一交響曲であることを否がおうにも感じさせてくれた。あまりにもシベリウス的な匂いと賛歌に充満しているのだが、デイヴィスはそのように処理していない。あれほどの感動を与えた第一楽章が、核を失ってバラバラな音楽に聴こえてしまう。
あるいは、第2楽章の弦のテーマの裏にフルートが繊細な伴奏をつけている部分。ベルグルンドが表現した風のような、そして思わずゾクリとするような感触が、この演奏からは聴こえないどころか、非常に野暮ったい処理にさえ感じる。
第4楽章の中間部のメロディなどは、ゆっくりと悠々とオケを歌わせているのだが、ふと気付くと「映画音楽のよう」に聴こえてしまうではないか! これは一体どうしたことなのか。
デイヴィスはロンドン響を従えた演奏をサントリーで聴いたことがある。そのときは、ヴァイオリン協奏曲と交響曲第2番であった。非常に満足を覚えてホールを後にしたことを覚えているが、この盤の演奏からはシベリウスのエキスが抜けてしまっているように思えてならない。特集を続けてゆくことで、二人のシベリウスへのアプローチの違いが如実に見えてくるのだろうか?ベルグルンドにあって、デイヴィスにないものは、もしかしたら「情念」なのかもしれない。
最後に、付け加えておくが、決してこの演奏が「ダメ」とか言っているのではない。何を表現しようとしているかの違いなのではないか、と思うのだ。デイヴィスの「何か」は、今はまだ見えない。
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