指揮:パーヴォ・ベルグルンド
演奏:ヨーロッパ室内管弦楽団
録音:Oct 1997
FINLANDIA WPCS-6396/9 (国内版)
さて、ベルグルンドの3回目の全集盤からの録音を聴いてみた。まず、感じることは録音のせいだろうか非常に音がクリアで明確である。透明感さえ漂わせているといってもいいかもしれない。それに、定評のあるヨーロッパ室内管だけあって、オケが上手い。ボーンマス響で聴かれたような粗さもない。逆にトゲとか癖がとれたという感じである。
��楽章から非常に激しくオーケストラを鳴らしている。ダイナミックレンジも大きく劇的な音楽に仕上がっている。この演奏を聴くと、シベリウスの曲において改めて木管が重要な役割を担っていることに気付かされる。最後のピチカートも決然とした奏し方である。しかし、ボーンマス響で感じた「情念的」なものが少なくなってきているように思える。これは、全編を通した印象なのだろうか?
��楽章のそっとささやくようなテーマの入り方は息を呑むばかりだ。無骨さはかけらもなく繊細にして優しい。あたかも、淡い北欧の春ののどかな風景を見るかのようだ。しかしどこか儚さを併せ持つテーマだと思う。このような淡いテーマと、一楽章を引きずったかのようなテーマとの対比が、この交響曲の持つ二重の性格とか、揺れ動く不安さなどを表出しているようである。ベルグルンドの演奏は、クリアな分その対比が明確であり聴き手にストレートに伝わってくる。でも、最初のテーマが再現される部分のミステリアスさは、この盤よりもボーンマス響のものの方が優れていると思う。はっと思わせる繊細さが消えてしまっているのはどうしたことだろうか。
��楽章は弦のピチカートとティンパニの強打で始まるが、ティンパニの音が柔らかい。ボーンマス響の、ちょっと破れそうな硬い音とは違う。ここらあたりも曲から受ける印象、つまりトゲのとれたと感じさせる要因なのかもしれない。ただ、2楽章のところでも感じたが、フルートは少し雑とは言わないが、硬さを感じさせシベリウス的な雰囲気を減じているように思えてならない。ここでいう「シベリウス的雰囲気」というのを、どのようにイメージするかということは明らかにしなくてはならない問題だとは思うのだが。
この楽章を聴いて思ったが、ベルグルンドが高性能のオケを得て、十二分に曲をドライブしているさまを感じるのだが、いかがだろうか? 「乗った」演奏に聴こえる。
��楽章も劇的さは、いささかも衰える事がない。それ故に、第二主題の美しさもひときわである。目をつぶり悠久の大地とか、ゆるやかに流れる大河(そんなものがフィンランドにあるのかはさておき)を前にした時のような充実した、心の内側が満たされてゆくような感慨を覚える。この楽章でも激しく短いテーマと、ゆるやかな美しいテーマが対比して現れるのだが、この交響曲に一貫した手法であろう。聴くものは二つの両極の感情を振り子のように揺れ動くこととなる。
ボーンマス響との演奏時間を比較してみても、1楽章は30秒ほど速いが4楽章はむしろ1分ほど遅い演奏である。全体を聴いた印象としては速すぎたり遅すぎたりするわけではなく、テンポ設定としてはノーマルな演奏なのだと思う。ただ、個々のフレーズでは結構テンポをもしかしたら変えているのかもしれない。それを聴くものに意識させずに自然な表現としてしまっているようにも思える。
以上のようなことを、ここ二日間、3種類の盤を繰り返し聴きつづけ感じ取ったのだが、気になることもある。というのは、ボーンマス響で感じた「冷ややかにして激しいシベリウス像」が、ここからは余り嗅ぎ取れないのだ。むしろデイヴィスの演奏に感じたものに近い。ベルグルンドはあえて、偏見の多い「シベリウスの音楽」というものから脱却し普遍性を追及しようとしたのだろうか。それとも、ボーンマス響で私が感じ取ったものが特異、あるは勘違いだったのだろうか。いや、改めて(オレもしつこいね)ボーンマス響を聴いてみた。明らかにこの演奏には「情念」的なものを感じる。それがシベリウスの音楽に必要不可欠なものなのか、それは解釈の違いに委ねられる問題なのだろうか。
さて、ベルグルンドの3回目の全集盤からの録音を聴いてみた。まず、感じることは録音のせいだろうか非常に音がクリアで明確である。透明感さえ漂わせているといってもいいかもしれない。それに、定評のあるヨーロッパ室内管だけあって、オケが上手い。ボーンマス響で聴かれたような粗さもない。逆にトゲとか癖がとれたという感じである。
��楽章から非常に激しくオーケストラを鳴らしている。ダイナミックレンジも大きく劇的な音楽に仕上がっている。この演奏を聴くと、シベリウスの曲において改めて木管が重要な役割を担っていることに気付かされる。最後のピチカートも決然とした奏し方である。しかし、ボーンマス響で感じた「情念的」なものが少なくなってきているように思える。これは、全編を通した印象なのだろうか?
��楽章のそっとささやくようなテーマの入り方は息を呑むばかりだ。無骨さはかけらもなく繊細にして優しい。あたかも、淡い北欧の春ののどかな風景を見るかのようだ。しかしどこか儚さを併せ持つテーマだと思う。このような淡いテーマと、一楽章を引きずったかのようなテーマとの対比が、この交響曲の持つ二重の性格とか、揺れ動く不安さなどを表出しているようである。ベルグルンドの演奏は、クリアな分その対比が明確であり聴き手にストレートに伝わってくる。でも、最初のテーマが再現される部分のミステリアスさは、この盤よりもボーンマス響のものの方が優れていると思う。はっと思わせる繊細さが消えてしまっているのはどうしたことだろうか。
��楽章は弦のピチカートとティンパニの強打で始まるが、ティンパニの音が柔らかい。ボーンマス響の、ちょっと破れそうな硬い音とは違う。ここらあたりも曲から受ける印象、つまりトゲのとれたと感じさせる要因なのかもしれない。ただ、2楽章のところでも感じたが、フルートは少し雑とは言わないが、硬さを感じさせシベリウス的な雰囲気を減じているように思えてならない。ここでいう「シベリウス的雰囲気」というのを、どのようにイメージするかということは明らかにしなくてはならない問題だとは思うのだが。
この楽章を聴いて思ったが、ベルグルンドが高性能のオケを得て、十二分に曲をドライブしているさまを感じるのだが、いかがだろうか? 「乗った」演奏に聴こえる。
��楽章も劇的さは、いささかも衰える事がない。それ故に、第二主題の美しさもひときわである。目をつぶり悠久の大地とか、ゆるやかに流れる大河(そんなものがフィンランドにあるのかはさておき)を前にした時のような充実した、心の内側が満たされてゆくような感慨を覚える。この楽章でも激しく短いテーマと、ゆるやかな美しいテーマが対比して現れるのだが、この交響曲に一貫した手法であろう。聴くものは二つの両極の感情を振り子のように揺れ動くこととなる。
ボーンマス響との演奏時間を比較してみても、1楽章は30秒ほど速いが4楽章はむしろ1分ほど遅い演奏である。全体を聴いた印象としては速すぎたり遅すぎたりするわけではなく、テンポ設定としてはノーマルな演奏なのだと思う。ただ、個々のフレーズでは結構テンポをもしかしたら変えているのかもしれない。それを聴くものに意識させずに自然な表現としてしまっているようにも思える。
以上のようなことを、ここ二日間、3種類の盤を繰り返し聴きつづけ感じ取ったのだが、気になることもある。というのは、ボーンマス響で感じた「冷ややかにして激しいシベリウス像」が、ここからは余り嗅ぎ取れないのだ。むしろデイヴィスの演奏に感じたものに近い。ベルグルンドはあえて、偏見の多い「シベリウスの音楽」というものから脱却し普遍性を追及しようとしたのだろうか。それとも、ボーンマス響で私が感じ取ったものが特異、あるは勘違いだったのだろうか。いや、改めて(オレもしつこいね)ボーンマス響を聴いてみた。明らかにこの演奏には「情念」的なものを感じる。それがシベリウスの音楽に必要不可欠なものなのか、それは解釈の違いに委ねられる問題なのだろうか。
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