やっと行くことができました。
先に、公式図録と解説を読んでおりましたので、どういう作品が展示されているか、分かっていたつもりでしたが、やはり実物のもつ力は違いました。
仄暗い空間に展示された諏訪さんの絵画は、ものを言わない対象であっても、雄弁に、そして静かに語りかけてきます。
存在そのものに哀しみ、変化していくこと、喪失されてしまったことへの深い追慕がありながらも、冷静なクールさも持ち合わせており、独特の世界観でした。
個々の作品について語ることは控えますが、技術的には何でも描けてしまう諏訪さんが、西洋絵画とか写実絵画とか、人物画だとか静物画だとか、そのようなものが一体何を表現しうるのかと、あるいは、何のために絵を描くのかという、そういう問いかけの集積なのかもしれないと思いました。
会場に流れていた諏訪さんの語りの中で、人物を描いたりするのは依頼されていたからたが、ある時から描けなくなった。自分の中に作家性みたいなものがあるのかどうか、みたいな自省的な言葉がありました。メモっていたわけではないので正確ではありませんけれども。
自分が本当は何を描きたかったのかという問いとともに、写実を突き詰めると、作品の制作過程そのものの解体と再構築しかなかったということなのかと。最後の汀にてを観ながら感じていました。
女性が横たわる絵にしても、仏教絵画の九相図的なテーマなのですが、肉体はそこにあっても生きていた時の焔とか精神の残り火が確かにそこに宿っています。亡き人を描いた哀しみを帯び表情の中にも、残された愛する人たちへの限りなき想いが宿っています。
一方で父母の臨終での絵については、認知症や病気というものによって切り取られた命は、そこからその人となりが切り取られているようにも思えました。
縄文や蚕や獣たちを描いた食物縁起神話をテーマとした静物画も、これもまた死と再生の連鎖を描いているとも言えるわけで、諏訪さんなりの生の再構築なのだと思いました。
改めて最後の展示室の渚にての立体作品や、それをモチーフとして描いた作品を見ていると、未完成な一見醜い物体も、命とか精神というものを宿したのかどうかと考えさせられました。
不完全な姿の「なにものか」は、不完全な身体ながらも歩み始めています。歩むその先に何が待っているのか、あるいは諏訪さんは何を見つけるのか。
「きみはうつくしい」というタイトルは、誰に向けたものかと思っていましたが、死の床にあった父母であり、亡き人たちであり、そして、再構築された未完成の何モノかに対してであり、それは命の焔に対する賛歌なのだと思いました。諏訪さんが作品の中に刷り込んだ、光とか鮮やかな青の色、一瞬の命の輝き。
最後になりますが、こういうナイーブな作品とテーマですし、ある種の痛みを伴う作品展ですので、観客層は女性が多いと思った次第、金曜日の午後のことでした。
これから、検索でもして、他の方の感想を読んでみることとします。全く違った見方に出会って、自分の未熟さとか差異を感じたら追加しておきます。

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