坂東 眞砂子といえば、「死国<93>」「狗神<93>」「蛇鏡<94>」「蟲<94」などに始まる一連のホラー物で有名になった作家という印象が強いだろう。実際私も彼女の作品は「蟲」を、角川ホラー文庫で読んだのが始めてだった。彼女は日本的な習俗に根ざした、極めて土俗的な恐怖を書き出すことに特色があった。映画化された「死国」や、古代の鏡をテーマにした恐怖を書き出した「蛇鏡」など、その作品の魅力を語り出せばきりはない。「蟲」は94年
日本ホラー小説大賞の佳作作品である。
そんな彼女だったが、「山姥」にて1996年
第116回直木賞を受賞した。この作品はホラー色から踏み出し、越後を舞台とした壮絶な物語を書き出していた。内容のもつリアリティと迫力、濃密さ、ラストに至るプロットの設定など、確かに直木賞をとるだけあると思わせる小説だった。
そして、今回の「道祖土家の花嫁」である。道祖土家=さいどけ
と読む。解説帯にあるように、土佐の山奥の名家、道祖土家に嫁いできた蕗という嫁(これが顔が猿に似ていることから猿嫁とあだ名された)を通して、明治から現代にいたるまでの約100年を書ききった小説である。
「山姥」においてはまだ伝奇的要素に寄りかかった面があったが、「道祖土家の猿嫁」にはもはやホラーはかけらも見出せない。彼女の好んだホラー要素は、純粋に土俗信仰的なものに還元され、日常として存在しているのだ。そのリアリティは、日本人から失われた何かを象徴しているかのようだ。
小説の物語を考えた場合、大きなストーリーというものは存在しない。蕗という極めて従順な嫁を通して、地方の地主と小作人、明治時代の自由民権運動のころ、二つの戦争時の地方のありさま、そして終戦から復興にいたる昭和の時代、そして現代が淡々と描かれてゆく。その抑えられた筆致から、にじむようにして壮大なる日本としての物語が浮かんでくるのだ。その意味からも、女性の視点からの日本近代史という見方もできるかもしれない。
作品をどのように解釈するかは、読んだ人の捉え方によるだろう。常に「臆病者」という内的コンプレックスを抱いていた地主「道祖土一族」に焦点を当てるか、道祖土家という「家社会」にはめ込まれ、そこに違和感を感じつつも抜け出せないでいた
猿嫁の蕗を通し、をれを現代の社会の隠喩ととるか。時代に翻弄されつづけた、地方の地主と小作人たちの悲劇を読むか。はたまた、「夜這い」などに象徴されるような、極めて開放的であった日本の性習俗を俯瞰するか。土俗信仰や祭ごと、本当にいろいろなものが読み取れる。
登場してくる人物は数多いが、それぞれの周辺人物の生き様を深く掘り下げることはせずに、あえて総花的に色々なタイプの人物を登場させているように思える。時代が変わるごとに、時代の匂いや風景を書き分け、私のような若輩者にて北海道という振興地に住むものでも、心ざわめくものを感じさせるのだ。
読後の感想として、これらの書かれた内容が、驚くことについ数十年前までの日本の姿であったことに気付かされ、一瞬言葉を失ってしまう。あまりといえば、あまりな変わりようではないか。しかし、彼女の筆致には批判も否定も見られない。彼女の書いた人物と時代を土台として、現代の日本が成り立っていることにも想いを至らせざるを得ないのだが、「犠牲」とか「虐げられた」というようなテーマ性も希薄であるように感じた。その時代に生きた人間たちの、その枠の中での精一杯にもがき生きるさまが書かれているだけだ。
また、彼女はこの物語を書くことで、もう一つ、彼女が今までのホラー・伝奇小説で使ってきた、「伝承」や「語り部」を自ら再構築し、ひとつの日本人の歴史(郷土史)を作り上げてしまったとさえ思える。 ドラマがない分、面白みにも欠けるし地味である。おそらく話題性も低い作品だと思うが、彼女の試みた内容は深く心の深淵に沈みこんでゆくかのようだ。
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