2001年3月8日木曜日

音楽が擦り切れるということ

昨日、バーバーのAdagio for Stringsを聴いて異常に感動してしまったが、あの後、感動が薄れるのが恐ろしくまだ一度しか聴いていない。

 ある曲を好きになり何度も聴くことで、その曲に対する理解も深まってゆくことも確かだ。チャイコフスキーの特集を音楽のページに書いているが、繰り返し聴くことで新たな発見もあり、違った感動も受けた。指揮者やオケが異なれば、聴きなれた曲であっても再び大きな感動を得ることもあった。繰り返し聴く事で曲の理解が深まったからかもしれない。

 でも、ある演奏を始めて聴いたときに受けたような衝撃や感動は、幾度も聴くことで姿を変えてゆくようにも感じる。レコードとかCDがあるせいで、一過性の通り過ぎる芸術としての音楽が再生可能となったが、繰返し聴くという態度が正しいのかと疑問を呈せざるを得ない。(もっとも、正しいとか正しくないというのは、適切ではないと思うが)

 マーラーやブルックナーの作品の一部は何度も演奏してはならないという指揮者もいると聞く。繰り返し演奏することで、音楽が深まるとか、逆に擦り切れる、または消費されいうのは、どういうことなのだろう・・・・。演奏者と聴衆ではまた次元が異なるとも思うが。

 世に通俗名曲と言われるものも存在する。そうなってしまうと、本来音楽の持っていた力が損なわれてしまっているのではなかろうか。

「そんなこと気にしないで、ガンガン好きなら聴けよ」て気もするんだけどね、個人的には。



ねこ さんという方が掲示板で、「好きな曲はいつまでも色あせない」と書いてくださった。これは、すごく重要なことを含んでいると思う。

 考えてみると、このごろ「擦り切れるほど」音楽を聴くことがあるだろうか。中学生でクラシックを聴き始めたとき、LPは非常に高価だった。グラモフォンなどは高値の花で、いつも廉価版の1300円あたりのLPをなけなしのこづかいで買ったり、FMのエアチェックを、ザーザーというノイズを我慢しながら何度も何度聴いたものだ。大学時代はクラシックから離れたが、例えば「チュニジアの夜」などは、こういう曲を弾けるピアニストになりたかったと地団駄踏みながら何度も聴いたものだ。でも、そうしても音楽は「擦り切れなかった」。

 今でもそうだ、バッハや、何を聴いても同じ曲に聴こえるというモーツアルトはもちろんだが、真摯に音楽と向き合うと新たな発見に満ち溢れている。あのチャイコフスキーだって、2ヶ月付き合っているが聴くたびに驚きに満ちている。だからこそ繰り返し聴くのだ。

 バーバーの「弦楽のためのアダージョ」を聴き、「この曲は、ひょっとして凄く有名で、もしかしたら有線のクラシック番組とか何気ないBGMとかで(俺が知らないだけで)使われまくっているのではないか?」と危惧したのであんなことを書いてしまったことも否めない。

 カラオケ用で歌われる昨今の歌にしても、よく「消費されるだけの音楽」といわれはするが、その中からやはり名曲とかスタンダードと呼ばれるものは残ることになる。逆に、スタンダードとは擦り切れない力があるのだろう。

 通俗名曲といわれる曲は、えてして聴きやすくBGMとして流されやすい。そういうとき、音楽はその語るべき物語や内容を失い漂うだけで、そういう状態を「音楽は消費されている」と感じるのだろうか? もっとも、四六時中、音楽と真摯に付き合うのは体力と気力の要ることで、できれば安らかにゆきたいとも願うのである。(このHP作り始めて、結構しんどいしね。気にせずに、バンバン気楽に聴くのが吉だな)



音楽が擦り切れるということが、果たして本当にあるのだろうかと思い始めた。

 擦り切れるとは、繰返し聴くことでその曲に対する耐性ができてしまい、音楽の本来持っていた力が失われてしまうこと、言い換えれば深く感動することができなることを指している。ちょっと考えてみれば、非常にばかげた意味のない問いを発していると思い始めた。音楽はウィルスじゃないのだ、音楽に対する慣れとか耐性なんて問題じゃあない。

 音楽が擦り切れてしまうならば演奏家たちは、一体なにを聴衆に向かって投げ掛けているのかという問いが生まれる。それこそプロの演奏家ならば、ベートーベンやブラームスなどは数え切れぬほど演奏しているはずだ。

演奏者が想いを込めた演奏だけが人を感動させるのか、いい加減な(といったら怒られるが)演奏だと人は感動しないのか、という問うてはならないような問題もあるようだが、それはさておきだ。

 私がフルートを始めるきっかけとなった理由は、フルート暦のところで書かせてもらったが、一生追求し深めてゆくことの可能な音楽が存在するという事実に驚きと感動を覚えたのだった。

 古い例えの「畳と女房」ではないが、曲に親しんでいないほうが新鮮な感動が得られるかもしれないが、繰り返すことでしか得ることの出来ない深みや感動というものもあるわけで、これは次元の違う感動なのかもしれない。

 あまりにも、くだらない問いかけであると気付いたので、このテーマは今回で終わるのであった。