2001年3月2日金曜日

音楽を書くということ

音楽を書くということ 

ホームページを作成して2ヶ月たった。積極的に宣伝していないが、アクセスは500を超えた。これが多いか少ないかは分からない。話題もマイナーだし・・・・
 
CD音楽の感想や演奏会の感想を中心に書き始めたが、このごろ感じることは、聴衆というのは気まぐれで、時に無分別で残酷であるということだ。音楽という一瞬で過ぎてしまうものに対して、心を動かしその感想を口にする。それが真実をついているのかを判断するには、「神の目」が必要なのではないだろうか。 

ある演奏を嫌いだったり、感動を受けなかったのならば、わざわざHPを通してへたくそな文章をばら撒く行為はしたくない。何らかの共感を得たから、書き、それに賛同してくれたり反論してくれること期待し、そこから発展的になればよいというのが、願いである。
 
音楽を聴くときの背景について 

ショスタコービッチの作品を聴くときの歴史的背景の必要性について、An die Musik の伊東さまが、「そろそろショスタコを歴史と結びつけるのはやめた方が良い」との意見を書かれていた。それに対する、私の意見を投稿した。(以下) 

ショスタコに関する歴史的背景云々の更新、興味深く拝読しました。 私個人としては、「どちらの立場をとっても、かまわない」 「やめるとかやめないの問題ではない」との認識です。 

ある曲を聴く→単純に好きになる→よく聴く→背景を知りたくなる →それに共感し、驚き、あるいは誤解していたことを知る→ 更に曲に愛着を持つ
という経路をたどります。 

ただ、最初に聞くときには出来るだけ先入観がない状態で 聴く方が 純粋に音楽性を楽しめる という点には賛同します。 言葉で語られた世界は、正しく音楽的世界を代弁しえないから です。(それなら音楽は要らない)
伊東さんもまさに、こういうことを言いたかったとレスして下さったが、皆さんはいかがお考えだろうか。
 
演奏者と聴衆 

チャイ5の感想に、1997年N響定期のログを引っ張り出してきて、掲載した。その周辺のログを読んでいて嫌なことを思い出したが、当時N響は、Niftyにおいてはボロクソだったように思う。「演奏の質」を平気で、素人の聴衆が口にし、時に揶揄さえする。 

演奏家が求めるものと、聴衆が求めるものが一致する幸せなる瞬間というのも、確かに存在する。しかし、ある演奏を「良い」「悪い」などと断罪するかのごとき感想を書くことの是非については自省せざるを得ない。

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