2001年3月7日水曜日

【チャイコフスキーの交響曲を聴く】 カラヤン指揮 ベルリン・フィルによる交響曲第6番


交響曲第6番 ロ短調 作品76 「悲愴」 
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン 
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 
録音:1975 DG POCG-3870/1(国内版)
曲について
「悲愴」はチャイコフスキーの交響曲としての到達点であると思う。第4番交響曲から追求し始めた「運命のテーマ」が、ここでは「悲愴」という標題に象徴されるように、大いなるかなしみと諦念と陶酔的な死の陰で彩られている。彼はこの曲のわずか数週間後に命を落とす。彼の死はコレラとも、自殺とも、または同性愛であるがゆえに、当局から自殺を迫られたとの説まである。耳タコな曲だが、カラヤン・ベルリン盤でまずは曲をたどってみたい。
��楽章は憂鬱なオーボエの旋律で始まる。寄せては返すさざなみのようで、静かな夜の逝ってしまった世界(彼岸の彼方)を感じる。4分半前後から始まるバイオリンのテーマは、昔日に想いをはせ過ぎさりし幸せな日々を懐かしむような感じで胸が締め付けられる。この感情がたかまり更に心はざわめき乱れるが、全てはもう遅く万感の思いに満ちている。8分50秒くらいから始まるオーボエのテーマは、再び静かに椅子にもたれかかる老人をイメージさせる。(この手のイメージは数回書いてしまったな、ネタ切れか?)。
��分40秒に始まる突然の嵐のような激しさ、これもチャイコフスキーの交響曲によく見られる手法だ。心は千路に乱れ激しく疾走するが、解決をみないままに徐々に小さくなってゆく。しかし、不安の影は消えることはない。
��2分ごろ、再び激しく葛藤するかのような感情の渦に巻き込まれるが、ここに至っては大きな宿命の前で圧倒的屈服感と諦めの念に打ちひしがれてしまう。バイオリンのテーマが再び奏でられ慰めを求めるかのようだが、切迫感が伴い深い嘆きが聴こえる。16分ごろに先のオーボエのテーマが再び奏でられ、続くピチカートの伴奏に伴い歩むか夢見るかのような平安な旋律のもと、この楽章は締めくくられる。
��楽章はお得意のワルツである。非常に優雅な楽調ではあるものの、途中からは水をさすかのようにティンパニのリズムによる暗い影が投げ付けられる。忍び寄る運命への諦めの気持ちが支配してくる。この暗いテーマの音形がそのまま最初のワルツのテーマへと変わるさまは、幸福と避けられない宿命が表裏一体である、ということを示していると感じてしまう。もっとも、これとて、チャイコフスキーが今までの交響曲で表現してきたテーマであるのだが。解説によると、チャイコフスキー指揮者のアルトゥ-ル・ニキシュはこのワルツを、「涙を通じてのほほえみ」と称したとある。そうして聴いてみると、確かにと思わせるものがある。
��楽章はスケルツォだが、第4番、第5番の4楽章で見せたような、圧倒的な開放感と目くるめくような弦の動きにより、眩暈さえ覚えるのうな音楽となっている。打楽器の力強いリズムと弦の強振により行進曲風の堂々とした盛り上がりを見せる。運命に対する勝利感あるいは、最後の力を振り絞った抵抗と考えられなくもない。自らを鼓舞しているかのごとくであるが、この交響曲の性格を考えると異質であり、何故これほどの盛り上が必要なのか?と疑問を感じてしまう。
��楽章は、「ばか騒ぎ」とさえ思えた前章とは一転した楽章である。弦による哀しみのうたである。3楽章のでの喧騒の後だけに、一層さびしさが際立ち、一気に何歳も年を取ったかのような気を味わう。3楽章も昔日の自分の姿を表しているのだろうか、一度は宿命の力に打ち勝ったと錯覚した自分を。あるいは、この寂寥感を味わわせるために3楽章は存在しているのか。
��分30秒あたりで、ゆったりとした旋律がホルンなどをバックに流れるが、これはチャイコフスキーの到達した美の極致といっても良いかもしれない。ほとんど陶酔的と称してもよい。(カラヤン盤だからか?)
次第にクレッシェンドしてゆき、4分10秒に至って破れられる。寄せては返す哀しみの波と感情の高ぶりに、人生に対する侮恨と嘆きが聞こえる。もはや跳ね返すべき力はどこにも残されてはいない。弦楽器による半音階の上昇音形は何たる深い悲しみを表現していることか。チャイコフスキーが力なく漏らすため息や、泣き崩れている姿がだぶる。何故にここまで絶望しているのか。7分前後でティンパニーのロールのもと冒頭のテーマに戻るものの、最後は新たな悲しみを提示し、「人生は暗く厳しい」的な諦念をあらわにし、深いため息を漏らしながら、消え入るように終わる。
カラヤン盤について
この、哀しみの美学とも言うべき曲を、カラヤン・ベルリンのコンビは哀愁たっぷりに、そしてオーケストラが到達しうる最高の美しさで表現しているといっても過言ではないと思う。弦楽器を中心としたきめの細かさがすばらしく、どの断面を切り取っても深い感情が溢れ出してくる。哀愁は弦がほとんど、すすり泣いているかのごとく、明るい場面ではあくまでもきらびやかで、激しいところは怒涛を伴う鬼神のごとく、そして、ワルツはたとえ様もなく優雅である。  
ときに「耽美的」とも称されるカラヤンの演奏であるが、多くの感情や幾多のときを詰め込んだ、この偉大なる交響曲の演奏をするに当たり、逆にやり過ぎとさえ思えるほど美しく奏でられるが故に、人生のかなしみを表現するのにふさわしかったように思える。
久しぶりにこの演奏を聴いて、私は再び深く心を動かされた(だからって、毎回毎回涙はしないけどね)。感傷的過ぎる演奏という向きもあるかもしれない。しかし、曲が曲なのである。もうチャイコフスキーは諦めちゃって、どうしようもないのである。このような、特上の美しさで慰めを与えたって良いじゃないか、これはチャイコフスキーの遺書であり、また、自らに捧げる鎮魂の曲であると考えてしまうのも無理からぬことである。(しかし、こんなにストレートに悲しんでしまっていいの?て気もするんだけどね)

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