高村氏の小説には、女性が出てこない、いや出てきたとしても重要な役割は与えられない。同様に若者たちも出てこない、いや、こちらも出ては来るのだが、今時の茶髪にピアスの若者ではない。例えば「神の火」では、暗い目をしてハンス・カロッサとかチェーザレ・パヴェーゼなど読む言葉少なげな若者だったりする。
とどのつまり、高村氏の小説の主人公は、おおむね中年男性ということだ。この小説集の主人公は、警察を何らかの理由で辞めた者たちである。彼らが第二の人生で過ごしている姿が書かれている。中年男性とは言っても、夜の歓楽街で憂さを晴らしているような男たち、欲望を制御できないでいるようなナサケナイ大人たちを高村氏は書かない。この小説に限らないが、高村氏の小説の主人公たちは驚くほど冷静で、そしてどこか覚めており、かつ純粋で、そして不器用だ。
現実の自分をある程度客観視しながら、一方で今の自分を百パーセント充足したものとは認めることができず、それでも現実を生き続けることしか出来ない姿として書く。これを《矜持》と呼ぶのか。矜持とは誇りであると言っても良いかもしれない。「ただ自分自身の小さな思いを守るためだけに、一人で滑稽な立ち回りを演じてきた男
」(「地を這う虫」P.225) そういう男たちだ。そうした主人公たちの姿に感情移入してしまう。このような設定は、高村氏のファンをある読者層に限ってしまうのではないかとは思うのだが。
「政治と司直の両勢力が引き合っているうちが花で、一旦バランスが崩れたが最後、自分は両手をなくすことになる
」(「父が来た道」P.144)と小さなスパイ行為を行う男は考える。自分が精一杯に生きているその場さえ、相対的で危ういもの、もしかすると明日になると霧のごとく消え去る立場かもしれないという認識。これは「神の火」の島田たちの認識にも共通している。二重スパイが存在意義をもつ世界と、存在意義を全く失う世界、あるいは自分がカードになる時間と、まったく意味を失う時間。それらは、個人の努力や意思を超えたところで動いているという非情さと悲哀、そういう立場に居ながらも、何かを必至に守るために筋を通して行く姿。
ある程度の年齢を過ぎた中年の男たちにの中には、彼らの少し屈折した二重の姿に、どこか自分を重ねてしまうものもいるかもしれない。こういう男たちを極限にまで書いたら「神の火」に行き付いてしまう。しかし、ここの短編集の男たちには、まだ救いが残されているようだ。
高村氏の小説には「自分とは何者なのか」という問いが常に投げかけられている点において、重く深い。
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