2003年6月16日月曜日

恐るべきアファナシエフの展覧会の絵


ムソルグスキー:
 組曲《展覧会の絵》
 ピアノ小品
     間奏曲、情熱的な即興曲、お針子、瞑想、夢
 
ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ
1991年6月3-6日 フランクフルト、ドイツ銀行ホール
DENON COCO-70530 CREST1000(国内版)

アファナシエフの演奏は「遅い」ことで有名である。CD解説にも『「現代」という時代に鋭い一撃を加える狂気の一枚』『徹底的に遅いテンポで作品に潜む狂気に光を当てた快演』とある。簡単に"狂気"などという言葉を使うものではないとは思うのだが、一聴してみて、いったい私は何を聴かされたのだろうかと呆然となってしまったことも否定できない。

《展覧会の絵》といえばオーケストラバージョンにしても、ピアノバージョンにしても、それほど深刻にならず、美術館を軽く散歩しながらワクワクし、ドキドキし、最後は心地くも壮大なるカタルシスを得ることを期待していたはずだ。

しかし、何かが違う。

《プロムナード》からして驚きだ、彫りの深い響きでのっけから圧倒する。《グノームス》も恐ろしく異様だ、いや異形と言って良い。反響が消えるまで引き伸ばされた、一瞬間違えたのではないかと思うほどの長い間、その後に重なる和音の鈍い色彩。まさにグロテスクを絵に描いたような小人の姿がそこにある。


異形なのは《グノームス》だけではない。《古城》はもはや枯淡の境地に逝ってしまっているし、明るいはずの《チュイルリー》は憂鬱を引きずり、ヒナたちは殻をつけたまま転げまわることはしない。音響の濃淡やダイナミックさは極端なまでに大きく、そこから何かがふつふつと湧き上がってくる。いや何かが姿を現してくる。

特に最後の《キエフの大門》に至っては、大門の建設に掛けた情熱とその虚構と幻影が、もはや現代音楽を聴いてるのではなかろうかというほどの歪な音塊とともに暴露されてゆく。こんな、痛々しいまでの《キエフの大門》は始めて聴いた、こんな《展覧会の絵》は一度も聴いたことがなかった。おそるべしアファナシエフ!

アファナシエフ自身、文学や演劇にも造詣が深く、もはや音楽家とは言えないほどの幅広い活動を展開していると聞く。写真は《展覧会の絵》のためにアファナシエフ自身が書いた台本をもとに上演された人形劇らしい。(全ての写真CDジャケットより)

演奏が遅ければ良いわけでも、「精神性」が深まるわけでもない。アファナシエフは中沢新一や浅田彰などの思想界のオピニオンリーダー達に絶賛されているという。彼らの思想を全く理解できない私には、彼らが絶賛する理由を一生理解することはないだろう。しかし、ほとんど異形というべき演奏が付き付けるものは、鉛のように重たくそれでいて確かに鋭いと思わざるを得ない。