以前にiioさんのCLASSICAで紹介のあったニコルソン・ベイーカー『中二階』(白水uブックス)を読んでみました。
iioさんのエントリーにもあるように、日常生活に対するミクロ的考察が主体の本になっているのですが、これが「合う」か「合わない」かで好みが分かれるかもしれません。私としては非常に面白い本であると思い、活字を追うのが全く苦痛ではなかったです。
ちなみに「ニコルソン ベイカー」でGoogleするとiioさんのエントリーがトップでしたよ、恐るべしCLASSICA!
ニコルソン・ベイカーは1957年生まれのアメリカの作家です。イーストマン音楽学校とハァヴァフォード大学で学び、1988年に処女作「中二階」(The Mezzanine)でデビューしました。発表当時アメリカでは驚きと賞賛をもって文学界に受け入れられたそうですが、読んでみますと確かに斬新にして非常に面白い小説でありました。
この小説は、29歳の主人公が会社のエスカレーターに乗ろうとしたところからはじまり、エスカレーターを降りたところで終わります。切れた靴紐を買うということがストーリーの主軸といえば主軸でしょうか。ごく日常の何気ない短時間の間に、彼が考えたこと、いままでの人生で考え続けてきたこと、自分の関心事、身の回りの些細な変化などが、おそろしいほどの執拗さとユーモアを交えて描かれています。
でも彼の考えることときたら、どれもが取るに足らない話ばかり。たとえばストローの進化とか、社会人になってからのトイレでの振舞い方とか、なぜ靴紐が切れるのかとか、トイレットペーパーなどに付けられたミシン目に対する大絶賛とか。くだらないですね、でも連綿とした瑣末的な描写(ほとんどヲタク的なミクロ思考)を追随しながら「そういうこと、あるある」などと一人ニヤニヤしている自分に気付いたりするのです。
なにしろ本文よりも注釈の方が多いという小説です。難解な作品でもないのに、なぜそんなに注釈がと訝る方も多いと思いますが、ベイカーは小説の中で脚注の事を
ページの下の方に灰色の帯となって待ち受けているのを目の端でとらえたときの、あのわくわくするような喜び
と書き、
脚注は、一冊の本が蛸の触手のようなパラグラフを伸ばし、図書館という名のより広大な宇宙とつながるための、さらに細やかな吸盤
と脚注で説明しています。挿入された脚注により、読み手は本文と、どこまでも脱線してゆく解説を交互に行き来することで、小説の持つ時間軸は限りなく引き伸ばされるのですが、それによって思考が中断されるどころか、小説を読む楽しみが自在に変化していることに気付くのです。脚注は細かければ細かいほど面白いと思えたら、あなたもきっと、ベイカーばりのヲタク活字中毒者かもしれません。
たった一日のことだけを書いた小説や、注釈がやたらと多い実験的な小説というのも世の中にはありますが(=あったと思う)この小説が衝撃をもって受け止められたのは、瑣末的な事象の限りない拡大がもたらす効果であったことには違いないと思います。
では単なるユーモア小説なんだろうかと考えると、それだけではないようにも思えます。作品に漂う透明感や爽やかさ、モラトリアム的暖かさと、あるときを境にオトナになるということの意味する誇らしさと一抹の哀しさ、そしてそれらを包んでいる孤独感が気になります。
そう思うのも、主人公をはじめとして途上人物のナマな体温や感情が感じられないせいでしょうか。人生の大半が「いかに生きるか」というような哲学的なテーマで占められているわけではなく、日々の出来事に対し反応と反芻を繰り返すだけであると認識してしまうことは、旧来の文学的のテーマとしての何かを否定しています。それゆえに気付かないところで淡々とした虚無を抱え込んでいるようにさえ思えるというのは深読みでしょうか(>です)。
作品で描かれる執着は、つまらない人生を楽天的かつ肯定的に仕向けるようにできているのですが、一方で人間的な対立や葛藤を全く排したところに立脚しているこの小説は、現代における新たな風景を垣間見せています。ユーモアとは別の次元でこの作品が提示している世界のありようには、感慨深いものがあります。
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