OUTな登場人物たちが、それぞれの事情からOUTなことに携わり、人間関係としてOUTな事をされたために、OUTになってしまい、開き直って更にOUTな事に手を染めることになったばかりに、極めてOUTな奴に付け狙われ、どこまでもOUTしてゆく・・・。
『水の眠り灰の夢』を書いた後、桐野氏はスランプに陥りました。その時に死体をバラバラにした主婦対死体解体業の中国マフィアが歌舞伎町で戦う、というアイデア
を思いつき書き上げた作品なんだそうです。圧倒的なリアリティと、ストーリーの意外性、そして娯楽性により多くの読者を獲得したことは想像に難くありません。
それにしても、彼女の筆致とテーマの硬質さよ。雅子を始めとする主人公達の息の詰まるような閉塞感と孤独感とはここでも共通。それは生い立ちや家庭環境、容姿や能力、学歴や社会的地位などなど、様々ではあるものの、その差異を「階級差」あるいは「差別」と称してもよいかもしれません。個人が絶対に越えられない壁に束縛されていること。閉塞した空間にガスが圧縮されたかのように一気に濃度が高まり爆発する。しかし爆発してもそれは解放されたことなのか。解放とは何からの自由なのか。自らを解放するために、肉体を「解体」する作業に従事したというのは洒落なのでしょうか。肉体が肉体としての関係性を「解体」させられたように、彼女たちは人間的「関係性」さえも無意識のうちに「解体」してしまいますが、自らの精神は全く解放されないという悲劇。
ここでも永遠の束縛と解放の永久運動があるのかと思いきや、作者は全く別な回答を用意していました。そう、何者からも自由であるかのように振舞っていた佐竹という存在。いや彼こそが一番不自由な、過去の自分という存在に束縛されて生きていたという矛盾。隠されたもう一つの自分自身、一番OUTな奴。目覚まされたふたつのOUTな魂が出会った世界は凄絶さを極めます。
考えようによっては「佐竹」という解答があるだけに、まだ救いがあるのがこの小説の逆説的な特徴と言えましょう。読む人によっては、完全にOUTと評価されるのも頷ける作品です。
蛇足ですが、桐野氏の作品に登場する「男性」は、極めて冴えませんね、いつものことですが。彼女にかかると男性は皆、精神的に子供のようです。佐竹は「化け物」だから別物です。
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