歌舞伎座で芸術祭十月大歌舞伎 夜の部を見てきました。演目は「仮名手本忠臣蔵 五段目、六段目」と「梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう) 髪結新三」の二幕です。どちらも歌舞伎としては定番とも言える有名な演目、上演機会も多いのですがトーシローの私は当然ですが観るのははじめて。
まずは仁左衛門の「仮名手本忠臣蔵」。お馴染みの勘平&お軽の悲劇物語です。男女の悲劇は勇壮な物語よりも古今東西人気を博するものです。「仮名手本忠臣蔵」に長さにおいて匹敵するワーグナーの「指環」にしても「ワルキューレ」が一番人気ありますからね。
それにしても、五段目と六段目を観終わった後に残る印象といえば「五段目で運のいいのは猪ばかり」という川柳と、海老蔵が演じた斧定九郎であるというのは、自分の中で十分に忠臣蔵を咀嚼する素養がなかったということでしょうか。
悪役の斧定九郎が出るのはほんの数分、台詞は盗み取った金を数える「五十両」だけ。それでも、登場の仕方から死に際における歌舞伎デカダンの表現まで、短いながら結構強烈な印象を残します。ネット上では海老蔵の「オーラ」を感じたとの感想が多い。確かに印象的ではありますが、私はそれが海老蔵のなせる業なのかまでは判断できない(舞台から遠いし)。しかし、水も滴るほどのぞっとする悪人であり、底の暗さが仄見える人物であることは分かります。なんたって立っているだけで、あるいは、ゆるりと着物の袂を絞るしぐさだけで陶然とする美しさなんですから。(>あれ?これが海老蔵の「オーラ」?)
この第五幕の二つ玉は、ほとんど無言で劇が進みます。海老蔵だけではなく、仁左衛門の出来心にしても、心理の変化と緊迫した凝縮力が表現されていたと思います。
その仁左衛門の勘平。渡辺保さんは10月の劇評で仁左衛門の芝居を褒めています。ご指摘のとおり、ずいぶんと柔らかな「優男」と言ってもいい雰囲気を出しています。所作のひとつひとつが、はんなりした感じなんですね。重要な場面の時に逢引していたという軟弱さが彼の全てをあらわしています。ですから次第に追い詰められていく様は何とも哀れ。自分の犯した罪に耐え切れず、もはやおかやに丁髷つかまれてどつきまわされてもなされるがまま。
本当に救いようのない運の悪い男ですから、最後に疑い晴れて血判状を押しても、後味はピーカンの秋空ほどにはスカっとしません。こんな悲劇の後に、お軽が遊郭でどう変わっていくのかは興味が尽きません。
とまあ、それなりに楽しめはしましたが、やっぱり歌舞伎はトーシローほど近くで見ないと魅力が半減しまね。
【歌舞伎座HPより】
一、 仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)
五段目 山崎街道鉄砲渡しの場、同 二つ玉の場
六段目 与市兵衛内勘平腹切の場
『五段目』 早野勘平(仁左衛門)、斧定九郎(海老蔵)、千崎弥五郎(権十郎)
『六段目』 早野勘平(仁左衛門)、斧定九郎(海老蔵)、千崎弥五郎(権十郎)、不破数右衛門(弥十郎)、おかや(家橘)、一文字屋お才(魁春)主人塩冶判官の一大事に駆けつけられず、自責の念に苛まれる早野勘平(仁左衛門)は、女房お軽(菊之助)の実家へ身を寄せ、狩人をしています。山崎街道でかつての同志千崎弥五郎(権十郎)に出会った勘平は、名誉挽回のために仇討資金を調達することを約束。一方お軽の父の与市兵衛は、お軽を祗園に売ることでその資金をつくろうとし、手付け金五十両を得ますが、塩冶の家老の息子で今は山賊の斧定九郎(海老蔵)に襲われ、金も命も奪われます。大金を手にほくそ笑んだのもつかの間、定九郎は猪と間違われて勘平に銃殺され、五十両は勘平の手に渡ります《五段目》。お軽を引き取りに来た祗園の一文字屋お才(魁春)の話から、勘平は自分が与市兵衛を撃ち殺したものと勘違い。姑に疑われ、同志の千崎、不破数右衛門(弥十郎)に突き放されると切腹して詫びますが、その直後に疑いが晴れ、敵討の連判状への血判を許されます《六段目》。悪の凄味と色気を印象付ける定九郎の登場など、錯誤の発端の一部始終をほとんど無言で表現する五段目と、追いつめられて行く勘平の心の機微を、緻密に描く六段目。練り上げられた型の数々によって、鮮烈な勘平の悲劇が描かれます。
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