ピアノ協奏曲 第9番 変ホ長調 K.271 《ジュノム》
ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491田部京子 ピアノ
ヘスス・ロペス=コボス指揮
ローザンヌ室内管弦楽団
1995年6月10,11日 スイス、ラ・ショード・フォン、ムジカ・テアトル
DENON COCO-70537
天真爛漫な明るさ、日がふと翳るがごとき暗さと憂い、気まぐれな不機嫌。あるいは思わせぶりな仕草やさや当て。自分では演じているつもりだったのに、本当に哀しくなってしまうのは、やりすぎさ。いやいや、いまのは冗談、ほらほら、明るくやろうよ、こんなに美しく楽しいじゃない。ほんとうに君は何て愛らしいのかしら。そんなところでじっとしてないで、踊ろうよ。踊ればさっきの気まぐれな気分なんて、吹き飛ぶじゃない? ほらじっとぼくの目を見てみて、ハハ、何か見えたかい! ウ○コタレちゃん!(>超キメ-!)
てことを、モーツアルトを聴くと感じるんだよな(-_-;;; 映画「アマデウス」の影響はでかい。
だから、モーツアルトのスケールやアルペジオは深刻になってはだめなので、あくまでもそのまま天上へ駆け上るかのような加速とスピードが欲しい。精神性なんていらない、そんなもの用意しなくても、モーツアルトの音楽には後から幾らでもついてくる。この単純極まりない恐るべき音形の中に、既に神や悪魔が潜んでいるのだから。そういう意味からは、K.271の田部氏とオケは少しだけ重いと感ずる部分がなきにしもあらず。(>そう思うのは私だけだと思うが)
でも、K.491番は良い。何たってモーツアルトの短調だ(モーツアルトは31曲のピアノ協奏曲を書いていながら、短調はこのK.491とK.466だけだ)。冒頭からして良い、晩年のモーツアルトの重く暗い深刻さが出ている。K.271から続けて聴くと、音楽が深化しているのが如実に分かる。いやモーツアルトという人間が深化したのか。ここまで来ると、彼の音楽からは悪ふざけは姿を消し、どこか深いところを覗いてしまったかのような神秘性が宿る(ように私は感じる)。1楽章再現部の後のカデンツァは田部氏のオリジナルのもの(モーツアルトはカデンツァを遺さなかった)。ここは、ずいぶん力を入れて弾いている、どちらかというとベートーベンを志向する音楽に仕上げているように聴こえる。
��楽章のピアノの響きには、少し怜悧にして硬い響きが欲しいと感じた。孤高の孤独さを表現するような雑味の少ない響きを。もっとも私はモーツアルトにそんなに親しんでいるわけでも、誰かの演奏を思い浮かべているわけでもない、あくまで曲から感じるイメージである。勿論のことモーツアルトの作品背景などを知ってのものでもない、所詮私には音楽をその時のイメージでしか語ることはできない。
軽い気持ちで、久しぶりにモーツアルトでも聴いて癒されようと思ったのに、意に反して真面目に聴いてしまった・・・トホホ