2006年4月16日日曜日

町田康:きれぎれ、人生の聖

彼のエッセイだけ読んで評するのも何なので、2000年度の芥川賞受賞作ほかを納めた本書を読んでみました。何故この作品が芥川賞なのか私には理解できませんが、バブル崩壊後の時代の雰囲気を感じた評者が推したのでしょうか。反逆児でパンクロッカーであった町田氏が純文学において最高の名誉とされる賞を受賞してしまったことを、どのように感じているのかは興味深いところです。

芥川賞の意味はさておくにしても、作品としては極めて面白い。本作品もくんくんと一気に読んでしまいました。

作品の内容を細かく書くのは、本当に野暮なことですから、それはやめるにしても、「きれぎれ」の主人公が資産家の息子でありながら、いい年になっても定職もつかずに、ブラブラと親の金を使って遊んでいるという様は、彼のほかの作品である「へらへらぼっちゃん」(読んでない)という人物スタイルと通底するものがあるのだろうなと。

そうなんですね、町田氏自らが資産家の息子であったのかは分かりませんが、作品からは資産家故のボンボンとした感じ、切羽つまったころのなさを感じます。それが物語から悲惨さを剥ぎ取り純度を高めながら全く違った方向へ進ませます。世間から一歩立ち位置を離れたところで、社会も人間も自分さえも客観視するという態度、その他者性こそが町田文学の諧謔性のルーツかなと。ここらあたりは、さすがに関西のノリです。

しかも町田氏独特の世間とのズレ(不適応)はここでも健在で、その態度は根が反逆者あるいは没落者ゆえなのか。現実と折り合いをつけられないことを、徹底した諧謔と自虐に紛らわせ、どこまでも堕ちてゆく。だけども最後は何だか透明な存在となって救われるみたいな。笑いに包まれているけれど人間洞察は鋭い。

ストーリーは不条理(>よく分からないって)の連続。「ママンが死んだ」なんて書いている当たりカミュの「異邦人」かよって思ったり、そういえば脳内に甲虫だものなと(>毒虫はカフカだって)。あるいは、太宰治や坂口安吾を彷彿とすると思う人もいるみたいですが、私にはどちらかというと筒井康隆的諧謔を感じたり、なかったり。(こうして羅列すると「新潮社の100冊」みたいだな)

そういうわけで「読後感として何も残らない」という感想は当たらず。この不快感と爽快さの絶妙なるバランス。人生と社会における不条理性と諦念と自虐と救い(か?)、悪夢と現実。やけっぱちなテロル。ちっぽけな悪意に満ちた快感。読書をすることの愉悦とひきつり。