「私の嫌いな10の言葉」に書かれていたことに対し、主張の鋭さを認めるはするが不快さも禁じえないという合い半ばする感想であったため(一度は、こんなくだらない本はさっさと捨てようとさえ思った)、氏の別著を読んでみました。
「一番うるさいのはオマエ(中島氏)だ!」と、本書に向かって何度も叫びそうになりますが、しかし彼の主張と行動には応援を送りたいです。
彼は何に対し闘っているのかといえば、公共空間に撒き散らされている「公共放送」のうるささに対してです。例えばそれはバスの中に流れる放送であったり、駅ホームの放送であったり、江ノ島海岸に流れる案内であったり、防災放送であったり・・・。彼はそういう放送源に単身乗り込み、流されている放送のうるささをまくしたて、中止することを求めるのです。その奮闘ぶりは、もはや喜劇的色彩さえ帯びています。
ここで氏はイロイロな問題を提起しています。「公共放送をうるさいから止めろ」という個人のエゴは主張して良いものなのか、静かな環境である方が好ましいと思われる場での「おせっかいな放送」は、マジョリティ側からの無意識の管理と暴力ではないのか、思いやりや善意という発想が公共性を持ったときの危険性などなど。
「ホームと列車の間が離れているところがあるから足元に注意しろ」と喚起するのは、仮に事故が起きた場合に企業責任を少しでも免れるためという意味もあるでしょう。そういう放送を煩いと思っても、普通は止めてくれとは言いません(言えません)よね。
ですから氏は「日本古来の美学」である「察する」美学から「語る」美学へ移行すべきだと主張しています。日本の音漬け社会を批判しながら、実はココを一番主張したかったようです。
あまり他人に「思いやり」をもたないようにしよう。あまり他人から「優しさ」を期待しないようにしよう。何事につけ「察し」が悪くなろう。そして、その代わり言葉を尽くして語りつづけよう!その主張に心から同意できる人は、なかなか多くはないだろうとは思いますが。
蛇足ですが、音漬け社会ということに関して。駅ホームや車内放送の煩さは、都会に住む人ならもはやBGMのようなものです。駅係員の絶叫と発車ベルと列車到来の自動放送が交錯する中、もみくちゃになりながら列車に押し込まれるという毎日の風景にあって、もし仮にそれらが全て無音の中で演じられるとしたら。それこそ高度な管理社会と狂気を感じます。現在の狂騒があるから、かろうじて人間性を喪失しないでいるという逆説もあるのかなと・・・。
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