重松氏の作品を読むのは二度目。軽い気持ちで休日に読む本と思って買ったのですが、久しぶりに一気読みしてしまいました。重松氏のストーリーテラーとしての上手さが際立ちます。
本作は三代にわたる父子の物語です。後悔と絶望と、そして希望の物語。読みながら自分に重ね合わせ、息子を、そして今は亡き父を思い出しながら読みました。更には親しい友人の家庭のことまで思い、今ならやり直せることと、もう取り返しのつかないことについて、そっと考えました。まあ、そんな本です。本書については、あちこちで散々絶賛されていますから、今更私が付け加えることなどなさそうです。
が、しかし、少しだけ感じた傍流的なことを書いておきましょう。
「流星」なんていうメルヘンチックな題名とは裏腹に、最初は残酷な物語が続きます。しかし、読み終えてみれば、やはりこれは男にとっての「メルヘン」だったんだなと。主人公が途中で甘い考えを抱き、少年にたしなめられるシーンがあります。作者も敢えて明確なハッピーエンドは用意しなかった。それでも、これは甘いメルヘンになっています。もっとも、小説にさえ「甘さ」や「メルヘン」や「希望」がなかったとしたら! 哀れで弱い世の男どもは憤死してしまうかもしれません。
父子の物語は、「子供の挫折とイジメ」「家庭の崩壊」という重松的なテーマも内包し、人生の意味とか希望ということにつて敷衍しています。
物語の中での女性が語られていないことは文庫本解説でも指摘されています。今回は父子にテーマを絞ったからなのでしょう。しかし、逆に考えると本作の主人公を含め、本書に感動する人は、女性の、いや、家庭における母であり妻のことを、結局は理解していないということを露呈してしまっているようにも思えます。都合の良いように女性像を崩し、そしてすがっている。
一方で主たるテーマが父子の関係性であったとしても、父は子に、子は父に何を求め、何をしたかったのか。数限りない後悔を覚えたとしても、それは「父性」という曖昧な中での関係性でしかない。女性の「母性」とは異質であることを、父親は自らの存在の内実から理解しています。男達は父と子であることの限界を知っているというのでしょうか。だからこそ、本作に男性は共感してしまうのか。父親とは虚構の世界でしか心底には分かり合えないのかと。
重松氏が書くテーマに「希望」というものがあります。以下は主人公が「死んじゃおうかな」と思ったときの気持ち。
絶望しているわけじゃないんです。でも、この先に、希望がないっていうか、なんのためにこれから何十年も生きていくのかわからなくなったっていうか。(P.43)
似たような文章は以下にも見られます。
信じることや夢見ることは、未来を持っているひとだけの特権だった。信じていたものに裏切られたり、夢が破れたりすることすら、未来を断ち切られたひとから見れば、それは間違いなく幸福なのだ。(P.381)
いま、ここにこうして、明日も生きられるということ。それが、まさに「希望」であり「幸福」なのかもしれない、とは彼の小説を読むまでもなく、このごろ強く思う次第です。あとで「後悔」しないように、今を生きているでしょうか。落ち込んだり嘆いたりすることさえ「幸せだった」と思わないように。
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